ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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今日も生きている
2025/10/27

今朝の夫婦の会話。

今日は久しぶりに天気がよいので、洗濯物をたくさんベランダに干しました。すると、後でトミーがまた洗濯機を回しています。もう1枚だけズボンを洗いたいのだそう。

「でも、もういっぱいだよ。干すところがないよ」というと「そこは洗う前に干せる所はすでに調べてある」と言いました。「へーーー、そうなの?すごいね」と言うと「ようこはそうしないの?」と聞かれ「私は干せるかどうか調べる前に洗っちゃうから」と言うと、はあ‥‥と気が抜けるように答えていました。

そして「本当に、よく、それで69歳までやってこられたね。もう、ようこはそれでいけばいいよ」と諦めをしみ込ませるようにトミーは言っていましたが。

このトミーの言葉がうれしかった(ここでそれを責められているととるのか、良し!ととるのかと分かれるところかも)その言葉から、そうだよ、私、よく生きてきたな(キランと光る)と思いました。昨日は神経質さゆえに緻密に仕事をしてきた、なんて書いておきながら、このようにものすごく大雑把な面も持ち、親や周りの大人からは、よく考えなさい、段取りよく、と言われてもきた。でも、そうできずに、今もそうして、それでも生きているじゃないですか。

そうやっても生きてこれた。今日もこうして生きている。それでいい。それを後押ししてくれたように(トミーはそんなつもりなく言ったのかもしれないけれど)あくまでも自分に都合よく、トミーの言葉を受け取った朝でした。

誰にとっても「自分は今日も生きている」それが何よりのことだと思う。生きているということが最も大切なことだと思います。だから、今日も生きている自分を尊く思おう。「偉いぞ自分」と言ってあげよう。誰もが大変な思いを生き抜いてきて迎えた今日なのだから。

…とここまで書いたら、曇っていた空に光が射し、一気に明るくなりました。「そーーーですよね、神さまーー」とまたまた自分に都合よく捉えました。洗濯物、よく乾きそうです。

こだわりと神経質
2025/10/26

先日の量子先生との会話のひとつ。

帰りがけに先生が「伊藤さんのおうちはいつもきれいですね」と言われました。「物が圧倒的に少ないだけなんです」と言う私。

「それって素晴らしいことじゃないですか。皆、物への執着があって、それで物が増えてしまうんですから。伊藤さんは執着がないということですよ」とおっしゃいました。

しかし…私はそうは思っていなくて。「物へのこだわりが強すぎるので結果、物が少ないんです」と話しました。「そうなんですか、そういうこともあるんですね」という話をしました。

そうなんです。私はこだわりが強すぎるから、本当に「いい」と思うものしか持たないから物が少ないだけなんです。一般的に言う執着とはちょっと違っていても、こだわるという執着です。それは、身に着けるものから小物、雑貨、全て。「いい」と思うものなら高くても購入したい。しかし「いい」と心が動くものがとても少ないんです。

ここは自分のものすごくアンバランスなところだと思っていてここはもう少し緩めたいところです。両先生ともに「伊藤さんは神経質」とおっしゃっていたのは、自分でもよくわかります。神経質だからこだわるのでしょう。

で、自分のこれをマイナスととらえたときに、マイナスのところに(も)能力があるということを以前もう一人のCS先生から教えてもらったことにあてはめれば、このこだわりと、神経質ゆえ、過敏に反応してしまう心身なのですが、そうであることで、カウンセリングはやってこられたと思います。こだわりと神経質さがあって、緻密にやってきたと思います。まさに陰と陽。

これもまた新な視点です。誰でもが個性、性格の中に一般的に言うとマイナスに捉えられる部分にも、その人を生かすものが隠れていて、それがその人生を支えてくれることもあるのだということです。ですから自分のここはダメな部分(‥とパターンが思っているだけで、ただ個性、性格だけなんですが)にも目を向けてみるといいと思います。

質を上げた人
2025/10/25

朝、掃除機をかけているときに「大谷翔平さんは野球(界)の質を上げた人」と気付きました。いや、厳密に言えば、教えられました。誰から?…はわからない。昔はその発信元を色々と探りましたが、今は、それはやめました。今の自分にはわからないことだから。

で「大谷翔平さんは野球(界)の質を上げた人」それってどういうこと?と考えることなく、本当にそうだと思いました。「そうですねーー」と言う。

こう言っては野球に失礼かもしれませんが、ただのスポーツであった野球に品位を持たせたのが大谷選手だと思いました。

彼の昔からのプレイ中、プレイ後の行為は皆見たことがあると思います。ゴミを拾ったり、片づけたり、選手がしなくていいこと(…と今までは皆が思っていた)を自ら行う。以前ではありえない二刀流の実現、前向きな言葉、野球に対する真摯な姿、奥ゆかしさと、柔らかな強さ、綺麗なカリスマ性、明るさ、楽しさ、などなど。あらゆる場面での大谷選手の在り方がチームの人々に影響を与え、それは、きっと他チームにも、野球ファンにも善き影響を与えていると思います。

それは、大谷選手の在り方が、野球というものの質を上げたから。それは、もう、ただのスポーツではないです。スポーツという枠を超えてきていると思います。野球の進化、そして、進化は本質に向かう。

このように、今まで「こういうもの」と一般的に決められ、自分でもそう決めていた物事も全て、その質を上げることでそれはより洗練され、そのものの力を発揮し、その後ろにあるものが多くの人へ善き影響を与えていきます。そして、そのずっとずっと先には、全てはひとつのルールのもとに用意されていたものだったと気づくのだと思います。全ての物事を通して、そこへたどり着くためには質を上げていくということになります。

2025年「ワールド・シリーズ」開幕だそう。ちらちらと見ていきたいです。

たくさんひっかかってください
2025/10/23

パターンにひっかかりたくない、ひっかかってはいけないというパターン。又はひっかかるパターンを嫌うパターン、許さないパターンを変えることなく、彼らはそのままにしておく、ということは、ずーーーとネガティブな感情を感じながら、すっきりすることなく、もやもやと悩み問題をもちながら生きなくちゃいけないのか?と思うかもしれません。そういうことから解放されることはないのだろうか?と思うかもしれません。

しかし、その感情を感じているのは誰?といえばそれはパターンです。「私」はそうは感じていない…思っていない…と言っています。だから「何故、パターンにひっかかってはいけないの?ひっかかって、感情が湧き出ているだけなのに。ただ、それが起きているだけなのに」と「私」は言います。

ということは、湧き出る感情に飲み込まれ、それを疎ましく思い、それについて考え続けているのは「私」よりもパターンが上回っているからです。これが今の自分に起きていることなのか、と、客観的に自分を見て、しっかりと受け入れます。そして、この「私」というものをより理解していくこと、その本来の力を育てることが必要になります。

で、それぞれのワークは「私」を使うので「私」を育てることにとても役立っているだけではなく「私」の理解を深めていくことにもなります。「私」は使って育つものなので筋肉と一緒。だから語りかけは、絶対、パターンに語りかけをさせない。「私」が行うことを意識する。丁寧に集中する(でもカラっと)ことを意識してください。

こうして、全てのパターンの存在、彼らの個性を「私」が認め共に生きていくにつれ、並行して心は楽になっていきます。それは安心を伴う楽であり、初めて感じる楽だと思います。今までの楽は、嫌なことや悩みが消えることや思い通りになるときに感じるパターンの楽でした。しかし、それは一時的なものなので、また同じことは繰り返されます。

それを変えていきたいのであれば、根底のところからの変容が必要であり、この変容は一度それを体験してしまうと元に戻ることがありません。元にもどらないこと、それが進化なんです。

そして、とても驚くのは、そのころには何故だか自然に「パターンにひっかかる」ということがなくなっていきます。「ひっかかっていいよ」と言っているのに、ひっかからなくなるのです。ひっかかるパターンがあたかもいなくなってしまったように、ひっかからなくなる。もうそれが楽ということではないこともわかっているし、いつひっかかってもいいとも思っているのに、心は静寂さを土台にして安定しています。

何度も言いますが、ひっかからないことが成長ではありません。ひっかからないことがミームが高い、精神性が高いのではありません。ひっかからないことを目指しているのではありません。ひっかかることにOKを出せるようになっていきたいのです。だから、乱暴な言い方をすれば、毎日、たくさんひっかかってください。ここをスキップして本来のひっかからなくなる心はありません。今の自分の力量もしっかり認め、それにOKを出してください。先を急ごうとはせず(急ぐと必ず転びます)今の自分、今日の自分をどうぞ大事にしてください。パターン共々。…終。

ただ、それが起きているだけなのに。
2025/10/22

昨日までの日記で、パターンに引っかかりたくない、ひっかかってはいけない、だからひっかかるパターンが嫌い、許せない、という黒パターンに従ってしまっていては、(かなり)まずいんだ…と気付かれたのではないかと思います。

このパターンの信じていることは知らず知らずのうちに自分の成長の指針、証になってしまっているということが起こりやすい(一見、いいことだから)

ですから、今一度自分を見てみてください。このパターンに主導権を握らせていないか?そうしてしまうと、そこに留まり続けることになります。ひっかからなくなるまで頑張ろうとするので、どうしてもそこに居続けることになります。そうなれば停滞感やいつまでもそうなれていない自分を責める気持ちを感じると思います。

そして時には、そのパターンを後押しするかのようにプライドのパターンもそこに加勢したりします。そうなってくると、例えば、最初は「自分はダメだ」というパターンだけだったのに「またひっかかっている、まだひっかかっている」というこのパターンがそこに入りこみ、1つだったパターンは2つに増える。そこへまたプライドのパターンも加勢して(自分ならひっかからない人になれる、自分は意識レベルが高いのだから、わかっている人間だから、というようなことを言う)パターンが3つに増える。その後も「自分には無理」などのパターンもそこに入ってくればそれは4つに増える。こうして、からみあってしまい、それによりわけがわからなくなるということにもなるのです。

最初の「自分はダメだ」をみつけたのならそれだけに向かってそれのために語りかけをする。そこに2つ目パターンを入れない(後から語りかけ)おまけに3つ目パターンも出さない(後から謁見の間で個別に面談)4つ目パターンにも同じように接して、ずるずるにしないということです。

この体験から知ることは、パターンに主導権を握らせてしまうと他のパターンもそこに加わるということです。パターンにはそれを遮る力がないので。又、パターンとの関わりにおいて思考し続けるということもパターンが行っていることなんです。とてもざっくり言ってしまうと「私」はそれについて考えない。そう、考えないんです。これはまたいつか話せたらいいなあと思う。

語りかけに「私」の思惑はありません。ただただ、救済したいのです。困っているパターンを。そうすれば・・・ひっかからなくなる、嫌な感情に悩まされない、楽になるだろう、成長するだろう・・・というものがないのです。「私」は思っています「何故、パターンにひっかかってはいけないの?ひっかかって、感情が湧き出ているだけなのに。ただ、それが起きているだけなのに」と。「私」とはそういう存在です。でね、それが本当の自分。続く。

ありのままの人間の姿
2025/10/21

そもそも、人の心の中には、陰と陽があります。黒パターンと白パターンがある。愛に属するものと、無知に属するものとがあります。

それが自然なことであり、現実であり、それがありのままの人間の姿なんです(これはマスターも同じです。人間だから)ここのバランスをとって、必要な時に必要なものを選び、陰も陽もそれぞれの特徴を持ってそのまま生きられるようにと願い、その仕事に、日夜、従事していきたいのが「私」です。それが本当の自分。

そして「私」は天の子です。天の子なので、天のルールを知っています。どうすれば天の川、帯に乗れるかという事もすでに知っています(ただ、パターンがそれを覆い隠しています…というよりも「私」がパターンに従っています)そういう「私」とパターンの状態を自分の内に創る(思い出す)という事をここではやっているわけです(だから、当然大変なの)

皆、誰でも、楽になりたい、ストレスを感じないで生きたいと思います。私ももちろんそうです。そういう場合、楽になれていない原因、ストレスの原因をつきとめ、それを排除しようとします。このやり方は今までもずっと使ってきたもので慣れている分、すぐにそこに自然といきます。もちろん、このやり方が必要な時もあります。現実的に必要なこととしてあります。その時にはこのやり方が役に立ちます。

そして、他のパターンを嫌い、許さないパターン(黒の名前としては、パターンにひっかかりたくない、とか、ひっかかってはいけない、などなど・・考えてみてください)もこれを使おうとします。とにかくパターンにひっかかることが、いけないことと思っているので、他のパターンがそれぞれにひっかかり、感情を生み出し、それについて思考することが嫌でしかたないんです。まだ、自分はそんなところにいるのか、また、同じところでひっかかっているじゃないか、ちっとも成長していないじゃないか…と思うことがつらいのです。

だから、どのパターンについても、ひっかからないでいられるようにしよう、そうなろう、それが成長した姿なんだ、正しいことなんだ、と思います。そして、抑制していったり、ひっかからないためのものごとをみつけようとします。こうして心の内をそのパターンの理想にしていこうとします。そうすれば、ストレスがない、ネガティブな感情に惑わされない、何より、自分は正しくあれている、ミームも高い、と満足できるから。

しかし、昨日書いたようにそれは無理です。なぜならその理想は幻だからです。無理をやっていると、人間、疲れます。そして、健全な心を創れるのは「私」だけなんです。続く…

パターンを嫌うパターン
2025/10/20

パターンを嫌うパターン、パターンを許さないパターンを多分、ほとんどの方は持っていると思います。そのパターンがあるのであれば、そのパターンに目を向けて、それの生み出す感情を拾って、語りかけは最優先で丁寧にやってください。

このパターンがそのままだと、どうしても他のパターンが何かにひっかかることを抑えつけようとしてしまいます。「また、ひっかかっている。まだ、ひっかかっている」というように、ひっかかることに過敏に反応します。

「また、ひっかかっている。まだ、ひっかかっている」という言葉や気持ちが湧いたら、それはそのパターンなので、そちらへひっぱられないようにしてください。そのためにもそのパターンへの日ごろからのワークが必要になります(ひっかかった時だけやろうはだめです)

そのパターンが思い描いている姿は、とにかく、ひっかからなくなることです。そうであれば楽だし、ストレスにならないと思っているし、そういう自分になることが成長だ、ミームを上げることだ、領域が変わった証だ、と思っています。そういう自分であれば自分で自分のことを認められるし、他人にも認められるとも思っています。自分の心は光で満ちている、自分の心に邪はない、という事が愛の心だとも思っているのでそれはいいことだと思っています。そしてそういう愛の人だから今より全てが良くなると思っています(小学生にしてはなかなか)

このようにパターンの視点で見た時のひっかからないって一見よいことのように思えるので「私」が弱いと「私」よりも威力を持ちやすいです。そうなると、ひっかからない自分になる、という誤った目標を知らず知らずのうちに持ってしまいます。

これは、違うよーーーーー。これは違うからねーーーーー。ここを目指してしまうと疲労感に見舞われます。それは幻を追っていることだからです。…と教えてくれているんだね。

「私」はどんなパターンがどんなふうに騒いだとしてもそのままでいいよ、と言います。そのままでいいよ、ですからね、どのパターンも、何も変わらなくていいということです。だから好きなようにひっかかり、そのたびにネガティブな感情が湧き出す、そのままでいいということです。

闘うな、抵抗するな、ほっておく、何もするな…とマスターが言うのはそういうことです。なぜならば、そうであっても「私」が巻き込まれることは本来ないからです。続く…

素敵なワンダーランド
2025/10/19

今日の日記は、あくまでも私が考えたことなので、ファンタジーだと思ってお読みください。

昨日の蜘蛛の話を量子先生と話しました。先生は、数分で蜘蛛も巣も消えたというところに視点を向けていらっしゃいました。私は、このタイミングでの蜘蛛出現、というところに視点を向けていました。

それについて、瞬間的に思ったことがありました。それは蜘蛛も巣も消えたのではなくて、まず、私が蜘蛛も巣もないところから、蜘蛛と巣のあるところへ動き、再び蜘蛛も巣もないところへ動いたのではないだろうか、というものでした。数分で消えたというのは、蜘蛛も巣もないところへ移ったから。パラレルワールド…そこを行き来していたのかも、と思いました。

蜘蛛を見る前に私がいた所には、蜘蛛も巣もなかった。ところが何かの「揺らぎ」で、〇月〇日の朝〇時〇分に同時にあるパラレルワールドのひとつの「蜘蛛のいるところ」へ行ったのではないだろうか、と思ったんです。そして、また蜘蛛も巣もない所へ動いたから、蜘蛛も巣も数分で消えたと思った。

これは、以前、日記に書いた夕方の散歩(特に夏の夕方)をしていたときに思い浮んだことです。散歩の道はいつも見慣れている場所だし、昨日と同じである、と思っているのですが、何か違和感があったり、どこかスクリーン越しに見ているようなとろっとした感じがある時があります。昨日と同じ道を歩いていると自分では思っているけれど、なんとなく感じるそれらはもしかしたら、一見同じだけど違うところにいるのかもしれません。絶対にそうだとは言えないけれど、絶対そうではないとも言えない。

そして、今回の蜘蛛との遭遇も、それじゃないかと。では、自分が動くきっかけは?考えられるのは、前日皆と蜘蛛の話をしたことなのかも。その場でその話は終わっているし、強烈に残る話でもありません。しかし、きっかけとなったのはそれなのかも。蜘蛛という、自分でもちょっと親しみがあり、でも、ちょっとインパクトのあるもの。それがいる所へ行く。私の意識がそこがこの一瞬には必要だからか。それもいいタイミングでです。蜘蛛はわざわざテレビを見ている目の前にいた。それが私の背後であれば気づかないです。そこのタイミングのよさは何なんだと思います。

ただ、蜘蛛の持つ意味合いとか、蜘蛛からのメッセージというのではないというのはすぐに思いました。何か、システムのようなもの?そして、タイミングよく私を動かすのは何故?

パラレルワールドについては以前バシャールが今の自分がいる地球とは、ちょっとどこかが違う自分のいる地球がたくさんあって、その時の自分の意識であちこちの地球に行っているという事を聞いたことがありました。1日に何度もそれが行われているのだそう。これについては、あり得るかもと思いました。

そして、今まで自分に起こった理解しがたいことも、この、パラレルワールドとして考えると私としては整理されます。霊的な何か、又は、先生から教えていただいた未来の自分、又はそれに付随する何者かからの関与というものもあるとは思います。でも、今の私に、パラレルワールドというのは、新な切り口となってくれる気がしました。パラレルワールドはまだはっきりとした科学的根拠はないのですが。

そんなことを考えながら施術を受けていたら、先生が「伊藤さん、蜘蛛、出てきましたよ。今、テレビの所にいます」とおっしゃいました(先生の施術は自宅で行われています)私はテレビに頭を向けているので実際蜘蛛を見れませんでしたが、このタイミングで…とまた思いました。なんか、わからないけれど、なにか、あるんだろうと思う。人間が知らないことだらけなんだろう。この世界は本当に素敵なワンダーランド。

蜘蛛
2025/10/18

先日、盛岡クラスの後の食事会で、今うちにいる蜘蛛の話をしました。5月頃に初めて見たと思うのですが、そのときよりはちょっと大きくなっていて2センチくらい。黒くてぴょんぴょんはねます。色々な場所で見かけますがここのところ見ていないです。

部屋にいて食べるものはあるのだろうか…と思い、外に出してもまた部屋にいるので今はそのままにしています。なんだか可愛いので、出てくると声をかけています。

ただ、いらした方が床においたバッグの中に入ろうとしたことがあったので注意なんだぁ…と言う話をしました。

で、次の日の朝、ホテルの部屋でTVを見ていたら、画面の前に大きなほこりのようなものが落ちてきたのでよく見てみたら、3センチくらいの蜘蛛が糸をつたって降りてきていました。天井からTV台まで、蜘蛛にしては長い距離だと思いますが、つーーーーっと降りてきました。うちにいる蜘蛛とは種類が違い、前足が高く、細身で、薄いグレーでスタイリッシュな感じです。

TV台に着地してしばらくそこにいて、再び、糸を登り、天井へ戻っていきました。その姿を目で追ってみると、天井のコーナーにはすでに蜘蛛の巣がはられていて、それが揺れて見えます。もうすでに巣を張っていたのか‥。ホテルの部屋で蜘蛛の巣って、嫌いな人にとってはとても嫌かもしれません。

これは、クリーニングに入った人に見つかって取られてしまうか、もしかしたらこの高さなので見つからないか、だろうと思い、再びTVに目をやり数分後、また天井をみたら蜘蛛も巣もありませんでした。蜘蛛って巣ごと撤退するのだろうか?と思いましたが、なんか…。そうではないような…続く。

意思は持たない
2025/10/17

整体の量子先生との話です。「意識はしても意思は持たない」

これは、整体は受けるだけではなくセルフケアが大事というところから、そのやり方を教わったときに、私が「頑張ろう」と言ったことに対しての先生からの返答でした。

「身体のここは意識するけれど、こうなるために頑張ろう、という意思をそこに持たせないで。頑張らないで」と。「意識はする。そして動く。だけどあとは身体に任せる、委ねるでいいんです。そこにそうなるように頑張ろうとすると、力みが出てしまいますし、小手先でやってしまいます」ということでした。

そうかぁーーーーー、ワークもしっかり意識をして行うけれど、そこに楽になるためにという意思はのせてはいないかぁーーーー、と思いました。意思を持つ、持ち続けることは自分の変容には必須なんですが、どんな意思を持つのかというところです。ここは身体も同じということか。

そして、身体には恒常性があるのだけれど、長年にわたって身体につけてしまったクセや記憶されてしまった身体の使い方などが誰でもあるという話にもなりました。それを整体やセルフケアを行うことで、クセのついた身体でいるよりも「こっちのほうが楽だ、こっちのほうがいい」と身体自身が気付くとそちらへいこうと身体はするのだそうです。

これも同じです。黒パターンでの言動、思考は長年にわたってつけてきてしまった心のクセです。しかし、それがこれからの自分に必要なのかと感じてみると、そうではない事にも気づきます(又は自己探求をしていくうちに、これってパターンだったんだと気づく)

そこで新なものを選ぶわけですが、その選んだ時の感覚がよいとき、人の心はそちらへいきたがります。それが本来の自分であり、それが楽であることがわかるからです。心も身体も快に向かいたいんです。

このように、人はそれが快なのかどうか、というところでちゃんと感じられているし、それを具現化しています。なかなかのものです。その具現化しているものが今の自分にふさわしくないのなら変えていくということです。

そして最後に先生がいつもおっしゃるのは「全て、量子ですから。身体を構成している細胞も、全て量子です」。…ということは…自分の意識の在り方があらゆるところに影響を与えていきますよ、ということです。だから、どうありたいのか「私」という意識は。やはりここに戻ってくる。ここからの出発なんだと思う。

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