ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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選んだところでやる
2018/06/20

AかBかはたまたCか、どれを選んだらいいのか?と迷う事は誰でもあります。

ここでのどれを選んだらいいのか?というのは、どれが最もリスクがなく、失敗がなく、なおかつその先に得になること、得られるものごとがあるか、というところで考えるものなのだと思います。

特に失敗がない=選んだことは間違っていなかった=後悔しなくてすむ、というところは大きいです。自分の選んだことを後悔したくないというパターンはたぶん、ほとんどの人が持っていると思います(これは、どうして?・・・とパターンに聞いてみてください。これはけっこう大事なパターン)ですから迷ったときの選択はとても慎重になると思います。

しかし、AにもBにもCにも、メリットとデメリットはあるんです。そういう意味では何を選んでも同じ。何を選んでも、そこには後悔はありうるということです(そのパターンで選んだら)で、その後悔にぶちあたると、こんなはずじゃなかったのに、だったら他を選んでおけばよかったと思いますが、他のものを選んでいたとしても同じです。

大切なことは選んだところでやるということです。自分が選んだところでです。

スピ系によくある、潜在意識にインプットしてそれを現実化させれば全ては思いのまま、よきことだけを引き寄せる、ということはないんです。これもまた違った領域で見れば、起きたことを魂で捉え、意味づけ、よきことに創りかえていくということをしていくと考えれば、それはよきことだけを引き寄せるとも言えるかも。

いずれにしても、まずは今選んだところでどうにかやってみるということになります。ただ、選んだそこが自分の心身を破壊し、魂(「私」)が望んでいる物事ではない場合は、方向転換をすることを選択するというそこでのやるべきこともあります。

手をさしのべずにいられなかった
2018/06/19

先日の、東海道新幹線のぞみの車内で殺害された方のご遺族が弁護士を通してコメントを発表したという記事をみました(時事通信社記事)

「私にとって世界一優しい夫」「たくさんの優しさと愛をありがとう」「悲しい事件が二度と起こらない社会になることを強く願う」という奥様のコメントと「目の前の危機に手をさしのべずにいられなかった息子の勇気に、わが子ながら心を激しく揺さぶられている」というご両親のコメントでした。

大事な方をああいう形で亡くされたご遺族の気持ちを思うと、やるせない気持ちでいっぱいになります。特に「目の前の危機に手をさしのべずにいられなかった息子」という言葉には、ご遺族の苦しい葛藤を感じます。そして、亡くなられた方の魂(「私」)を感じます。

遮断機のおりた踏切の中で動けなくなっているお年寄りを助けようとして亡くなられた方、線路に落ちてしまった方を助けようとして亡くなられた方、津波にのみ込まれている方を助けようとして亡くなられた方、などなど今までにもそういう話を多々見聞きしたことはあります。

以前、知り合いの方が、職場が火事になり、消防車到着前に、人がまだ中にいるかもしれない、と聞いたときに、何も考えずに飛び込んでいったという方がいらっしゃいました。無事にその方は戻りましたが、その後、もし、自分がそれで死んでいたら、奥さんと小さな子供たち3人を悲しませ、苦労させることになっていたと考えたと話していらっしゃいました。しかし、そのときにはそんなことは全く頭になかったということでした。

それは正しいことだったのか、無謀なことだったのか。家族のことを思えば、そうすべきではないのではないか?といろんな意見があると思います。しかし、ここで起きていることはそういうことではないところの行動なんだと思います。

手をさしのべられずにいられない。困っている人を、助けを求めている人を、苦しんでいる人を、ただ助けたい、という「私」の衝動です。そういうところではたらく「私」でもあります。しかし、それは、他人のために自分を犠牲にしなくてはいけないということではもちろんありません。その方の心底ではたらく「私」の力です。

このようにして亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

深刻にならなくていい
2018/06/18

「深刻にならなくていい」という言葉。

この言葉は、きっと多くの方をほっとさせてくれるのではないかと思います。いろんなことを考えすぎて苦しくなってしまったら、又は、どっちを選んだらいいのか考えすぎてわからなくなってしまったら、自他のふがいなさに悩んでしまったら、この言葉を言ってみよう。

・・・・・・・「深刻にならなくていい」・・・・・・・

この言葉を意識的に、心の中に響かせてみると、ああ、そうだな、と思えると思います。もちろん深刻にしたがるのはパターンなので、それへのケアや選び変えは必要ですが、それとは別に、この言葉を自分にかけてあげることもいいと思います。

そして、とっても変な言い方ですが、皆、生まれた次の日から死に向かって歩んでいます。この歩みを誰も止めることができず、この歩みからはずれることもできません。1日、1日、と死に向かっています。その決められていることがあるのだから、もう、深刻にならなくていい、と私は思うときがあります。決められたこと(死)がないと、これからのことを思うと不安だし、不安であれば全てを深刻にしていきます。

こんなふうに自分の人生を大きな目でみたときの「深刻にならなくていい」は、あまりに今の自分とかけはなれていてぴんとこないと思われるかもしれません。しかし、あまりに自分のことだけに目が向いてしまい、八方ふさがりになってしまったときには、このように、大きな目で自分の人生を見てみると、いう、知識を使うことで今までの深刻さが抜けていくときがあります

今日も自分に言ってあげよう「深刻にならなくていい」

未熟だから
2018/06/17

過去の自分がやってしまったこと、いわゆる、失敗、汚点、ネガティブなことなど、後悔する出来事をずっと責め続けているという方は多いです。そういうことは恥の部分なので他人に話すことはありません。

しかし、その人の心の中ではずっとそのことを責め続けています。そのときの自分を許さず、そんなことをしてしまった自分を否定したまま生きていきます。そして、時にはそんな自分に厳しい罰を与えて、その苦しみを大きくすることで少し自分が許されると思ってしまうこともあります。

しかし、それは違います。

まず、誰にでもそういう部分はあるということです。決して自分だけではないんです。ただ、先ほども言ったように誰にも話さないことなので、皆がそんな風にだめなのは自分だけだと思っています。

何故、誰でもがそうだと言えるのかと言うと、皆、機能不全からのスタートだからです。これは誰でもです。仏陀やイエスクラス(特別な魂)の人ならば、子供のときから私たちとは違う生き方をするのかもしれませんが、ほとんどの人は、皆、機能不全の状態ではじまります。しかしこれは出来が悪いのではなくて、機能不全だから、大人になっていく時点で機能する自分に自分でなっていく(覚醒する)ことができます。そして、それをやりにきています。

機能不全ということは平たく言ってしまうと未熟だということです。未熟な自分がそのときに選んだ言動、それは仕方がないことでした。だって未熟だったから。でも、そう開き直っていては先に進めません。

未熟な自分だったら、熟した(機能する)自分になっていこうと決めることです。それが反省ということになります。反省には自責は含まれていません。反省は何が違っていたのか、何を変えたらいいのか、そして、これからのことを考えて新な選択をしていくことです。そうしていくことで未熟な自分を熟した自分にしていきます。

熟した自分は過去の未熟な自分を許します。未熟な自分を理解できるからです。そのときの苦しみも、後悔もちゃんとわかっています。ですから、今までの自分を責めたり、嫌って否定したり(・・・・という、これも、もちろんパターンです)しない自分を選んでいっていただきたいと思います。

自分の全てを愛することができますように。

レモスコ、ユズスコ
2018/06/16

盛岡は予想以上に寒かった。風が強く、冷たかった。しかし、数日前には30度の日もあったらしく、この寒暖の差は全国的なものなのかもしれません。茅ヶ崎も寒いです。

毎回、盛岡に行くと、帰りに何かしら野菜を買ってしまいます。これは沖縄でも時々ある。新鮮な野菜を見ると、明日のスムージーに使うといいかも…と思い、買ってしまうんです。今回は岩手産ロメインレタスを買いました。

で、そんな気持ちで買っているのに、新幹線や飛行機に乗ると、悲しくなるんです。「なんで、出張に行ってまで野菜を買ってくるんだろう、なんでこういうときまで主婦なんだろう」と。だったら買わなきゃいいじゃない、と思うのに、見るとまた買ってしまう。そして悲しくなる。

これが野菜ではなくて、フルーツとかお菓子とか調味料とか漬物ならいいんです。なんかそれらはお土産という感じがあって、それを食べるのが楽しみという気持ちがあるんですが、野菜はどうもそうなれず。しかし、目につくのは野菜。やはり新鮮さにひかれるのだと思います。

数か月前に盛岡で「LEMOSCO」(レモスコ)を買いました。瀬戸内産広島レモン+藻塩+青唐辛子のすっぱ辛い調味料ソース。これは岩手のものではなくて広島のものですが、これが我が家では大人気で、今回、盛岡で再び買うことにしました。

そして、それとは別に「YUZUSCO」(ユズスコ)というのもあり、こちらはゆず皮+醸造酢+唐辛子+塩、というものでユズの香りがしつつ辛い調味料ソースです。こちらは福岡のもので今回初めて買ってみました。

で、帰ってきてから試してみたら、こちらもかなりおいしいです。お肉にも魚にも、サラダにも、ぎょうざ、野菜炒め、味噌汁、なっとうにもいけました。

この2本を茅ケ崎で見ることはないので(通販で買えるとは思いますが)これからも盛岡で買うことになると思います。こういうお土産はうれしいんだけど。

いつか、野菜を買っても悲しくなくなるときはくるのか。

漠然とした不安
2018/06/12

先日、トミーと話したこと。

トミーが「若い頃は、漠然とした不安があった」と話しました。「それ、わかる、私もそうだった」と答えました。それから2人で話していくと、その漠然さは同じような気がしました。

なんだかわからないけれども、漠然とした不安。それは未来に対しての不安なのか、自分についての不安なのか、生きること自体が不安なのか。あの頃のそれは、漠然と、であり、もやもやしたものでした。

そしてトミーが「でも、今は不安の原因がわかるから、若いときのような漠然とした不安はなくなった」と言っていてこれも共感できました。今は不安を感じるとその原因(パターン)がピンポイントでわかるので、ああ、これだなということで、ケアして、おさめられます。今は漠然とした不安はありません。

こうしてみてみると、漠然とした不安というのは、小さな不安をそのままにしてきてしまってそれがこんがらがって、たまってしまって、生まれるものなんだと思います。

昔からためてしまったそれを今さらどうにもできないのではないか?と思うかもしれませんが、それは大丈夫です。人は自分の中に向かいはじめると、自然と今までのそういうものが感じられたり、気付いたり、理解したりします。そのときにしっかりとそれと向かいあい、それをケアしていけば、たまってきてしまったものも少しずつほどけていきます。

ですから、感情に飲み込まれたままにしないで(又は、過去のことなのでもう終わっている、たいしたことじゃないから大丈夫と思考でおさえこまないで)その原因(パターン)をみつけていくことは自分の心を常に整理していくことになり、そうすれば、漠然とした不安という現れ方はしなくなるということになります。

そのためには感情・感覚が生まれたら、ひと手間かけるということです。そのときにひと手間かけるということは面倒かもしれませんが、後々の大変を考えたら先に延ばさないでやったほうが絶対にいいです。そうやって風通しのよい心にしておけば、漠然とした不安は消えていきます。

漠然とした不安をもちながら生きるのと、すっきりとした気持ちで生きるのと、どちらがよいかということです。

今日はこれから盛岡に行ってきます。今回も盛岡に行かれることに感謝して、善いクラスを行ってきます。

小さな島に上陸
2018/06/11

昨日書いたチュークの話で、もうひとつ忘れられない思い出があります。

たぶんホテルのツアーのようなものだったと思いますが、数人でボートピクニックに行ったときのこと、海上にボートを止めて、それぞれがシュノーケリングを楽しんでいました。私はちょっと疲れたので、目の前に見えた小さな島まで泳いで行って、上陸し、休んでいました。

すると後ろでガサガサと音がしたので振り返ってみると、そこに上半身裸のおじいさんが立って私を見ていました。無人島だと勝手に思っていたので、すごくびっくりしました。おまけにおじいさん、ナタを片手に持っていました。これは切られるんじゃないかと身構えると「日本人の方ですか?」と流暢な日本語で話かけられました。「はい」と答えると「こんにちは。私の日本語はおかしくないですか?」と聞かれました。「おかしくないです」と答えると「昔、日本の方から教わりました。今でも忘れていないです。日本の方はみなさんとても優しい方たちでした」と話していました。日本の植民地時代があったのでそのときのことだと思いました。

「ここに住んでいるんですか?」と聞くと、ここで魚をとって本島にもっていって売っているということでした。その後、奥さんにもお会いしました。日本の話も少ししたりして、いい時間でした。

「では、そろそろ帰ります」と言うと「どうぞお元気で。ありがとうございました」と言ってくださいました。私は「さようなら」と言ってシュノーケリング用のマスクをつけ、フィンをつけて海の中へ帰っていきました。そのときの様子を思い浮かべるとかなり笑えます。海の中へ帰っていくなんて・・・・まるで亀のよう・・・・

ボートに戻るまで海の中を泳いでいたときに、今会っていた人は幻だったんじゃないかと思いました。あのひとときがあまりに自分の生活とかけはなれたもので、そこに現れた人との会話も、今の生活の中で聞くことがないくらいに綺麗な日本語だったからだと思います。

チュークにはいろんな思いでがあります。

原始的な島
2018/06/10

梅雨入りしたというのに、暑い日が何日間か続きました。陽射しの強さがもう夏のそれでした。そんな陽射しをあびていたら、30代の頃の夏を思い出しました。

当時、シュノーケリングが大好きでミクロネシア連邦のチュークという島に毎年行っていました。何もない島なので、朝から1日中海で遊び、疲れたら寝るという繰り返しでしたが、原始的なその島が大好きでした。

シュノーケリングだけでも十分海の中を探検できて、生まれて初めて海の中に私たちの生活をしているところとは違う別の世界があることを実感しました。その海は怖いぐらいに美しかったのを覚えています。水着を着て海岸に行くと島民の女性たちがやってきて、そっと水着を触わります。水着の質感が珍しいのと、体にはりつくようなものを着ているのもまだ珍しかったのだと思います。彼女たちが海に入るときは服のまま入るので、水着は異質なものに見えたのでしょう。

ある日、近所の雑貨やに行ったときに、6、7歳の男の子がお母さんと買いものに来ていました。ビーサンを買ってもらうようでした。いくつか試し、買ってもらったビーサンは彼の足よりだいぶ大きなものでした。きっとしばらく履けるようにと大きめのものをお母さんは買ったのだと思います。

彼はよほどうれしかったらしく、買ったビーサンをはいてとびきりの笑顔で喜んでいました。それを見て、今の日本に大きめのビーサンを買てもらってこんなに喜ぶ子はいないだろうなあと思いました。ここでは、何かを買ってもらうということがほとんどないのだろうと思います。

今から30年も前の話なので、現在は開発も進み、流通も安定し、物はあふれていると思います。そうであるならば、大きめのビーサンにここまで喜ぶ子も、もう、いなくなっていると思います。私が行っていた頃のチュークは原始的な島のぎりぎり最後の頃だったんだろうと思います。

そんなことを思い出した暑かったきのう。今日はきのうより約10度くらい気温が低いようです。

自分が好き
2018/06/09

きのうお会いした方と「自己肯定」について話をしました。

これはもっと平たく言うと「自分が好き」と言えると思います。

この状態は自分を構築していくときのひとつのゴールといえます。これを体験したとき、その人は自分の人生をより自分らしく生きるということができると思います。もちろん、そこでも、嫌なことも、困ったことは起きます。しかし、そういうことが起きている自分を批判したり嫌いになったりせずに、そのことが起きている自分をひっくるめて自分を好きだと思えるように変わっていくということです。

ここでの自己肯定は他人に比べてこれができる、とか、得意なことがある、とか、全て思うようにいっているから、自己肯定できるというものではないです。他人が出てこないところのものであり、思考して納得するものでもありません。それは、自分の全てを許すということにもつながっています。そのままを受け入れていく力とも言えます。そういうところにある自己肯定です。

こう、書くととても崇高な気がするかもしれませんが、私はそうではなく、より本能的なものを感じます。本能的といっても黒パターンで本能のままにいるということではありません。純化された本能という感じでしょうか。昇華されていく個性。生きていることへの尊厳。

精神性の成長・進化とは純粋化した本能のところに行く気がします。生きている間に「自分が好き」と湧き出るような体験をひとつのゴールにできるといいですね。

おみやげ
2018/06/08

「私」は厳しい。でも、それは幸せに生きたいからです。

私たちは神から「いろんな体験をして、それを通して何かを学び、その学びによって幸せに生きておいで。そしてここに帰ってくるときには、その学びのおみやげを持ってきてね」と言われて送り出されています。いろんな体験を通して何かを学ぶための道具も「私」を構成する普遍的能力(神の資質)として私たちは持たされて送り出してもらっています。

ただ、そういう神の意思も、そういう道具を持っていることも生まれたときに忘れてしまうので、このことは自分で思い出していかなくてはなりません。それを思い出すために、パターンが手伝ってくれているとも言えます。

まず、誰でも、本当の自分ではない生き方(パターンで生きること)をすることで(それによって悩み、苦しむことで)自分に向き合い、自分の中を調べ、だんだんとこの道具がある「私」というものにいきついていきます。

そして、それが本当の自分だとわかったときに、生きることのからくりがみえてきます。なんのために生きているのか、なんのためにここに生まれたのか、そして、本当はどう生きたいのか。そして、私たちが神から送り出されてきていることも。

この地上でどれだけ偉くなったか、とか、金持ちになったか、とか、有名になったか、とか、他人をどれだけ優先したか、とか、どれだけ自分に厳しく生きたか、が神の喜ぶおみやげではありません。忘れていた「私」を思い出し、それとして生きようと努力したこと(それがうまくいくときもいかないときもあっても)そのこと自体がおみやげになります。

あちらに帰ったときに「いろんなことがあったけれども、自分で乗り越え、それができて、それによって自分の人生を生きて私は幸せでした」というおみやげを神は受け取りたいのだと思います。それがまた神を豊にしていきます。

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