ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ほっとの連続で生きる
2018/02/22

白黒ワークをしたときに、又はカウンセリングでの対話の中で、ほっとするという感覚を味わうということがあると思います。

それは今までは正しいと思っていたことと反対のことであったり、今までは思いもよらないことであったり、色々ですが、そのほっとするという感覚は、それを選んでいけばいい、という指針になってくれるものです。

自分のほっとするという体験を、気のせいとか、たまたまとか、自分への信頼がないからそのほっとは信じられないとかたずけてしまわずに、そのほっとするに沿って軌道修正していくといいです。

このときに、もちろん、黒パターンがほっとしていることを選んではいけません。そのあたりがよくわからない、という方もいるかもしれませんが、「私」に基づいてのほっと、と、黒パターンのほっとはあきらかに質が違うので、よく自分で観察をするとわかってくると思います。

黒パターンのほっとは、どこか浮足立っている、テンションが高い、ほっとと言いながらも、ネガティブな感情がまざっている、ほっとと言いながらも、ほっとさせない動きをする、などです。

「私」に基づいてのほっとは、肩の荷が下りる、解放感がある、深く呼吸ができる、軽やかになる、光を感じるなどです。そのほっとするを感じられたら、その道を歩むといいです。

そして、そういうほっとの連続で生きていっていいんです。

ほっとがどんな感じだったかを確認したい方は以前、自分が体験した白黒ワークの白の部屋に入り、そこで味わうほっと感を体中に満たしてください。1度でも体験していれば、それはわかると思います。

まず、自分に向かうべき
2018/02/21

マスターのようになりたいと思う方は多いです。

どうしてかというと、マスターはネガティブがないように存在しているから。ネガティブがないということは苦しみも悲しみも不安も恐怖も何もないということだから、だからあんなふうに楽に自由に生きていられるのだろうなあ・・・と思うと思います。だからそうなりたい、と思います。

という事は、今自分はネガティブに飲み込まれ、押しつぶされそうになり、翻弄され、それで毎日を過ごしている状態であるということになります。だからマスターのようになりたいと思います。

で、マスターは、ネガティブをもうネガティブと捉えなくいられる、ただ、あるものとして捉えているから、楽に自由に見えているということなんです。マスターも人間ですから、自分の中にネガティブな感情は湧きます(もう、私にはネガティブはない、と言っているのは自称マスターなので注意です。)しかし、それをそのまま受け取り、迎い入れることができているから、そこに摩擦が起きてこなくて、それは見る人が楽さや自由さや安定や平安をそこから見て取るんです。

しかし、これは見る側のことであって、マスターはそれを特別視しているのではなく、ただ、普通に生きているだけの感覚です。ネガティブという壁も超えていることが普通になっています。

マスターは特別な人なのではなくて、最高に自分を許した人です。ですから、私たちも最高に自分を許した人になればいいんです。他人を助けるとか誰かのために生きるとか、他人に向かう前にまず私たちがやらなくてはならないことは、このことです。自分を許した人になる。まず、自分に向かうべきです。それができれば自然と他人に向かいます。

手放す、あきらめる
2018/02/20

何かを手放すから(あきらめるから)新なものがやってきます。

今のまま、何も手放すことなく、でも、新ないいものも欲しいというのは違います。

きのう、羽生結弦さんもインタビューで言ってました。「スケートに全てをかけるために、あきらめたことはたくさんありました・・」と。そうだよなあ・・と思いました。みんなと同じように遊んで、好きなものを好きなだけ食べて、恋愛もして、スケートをやりたいときだけ頑張って、それでオリンピックに出て、金メダルをとって、なんてありえないです。

自分の思い通りに意のままに全てをやっていく(それが天職とか、自分を生きるとか、宇宙と共に生きているということではありません)そして、よくなっていきたいということは何ごとも手放さない、あきらめない、ということなので、そこでは何も入ってくることはありません。

自分がこうなりたい、こんな人生を送りたい、こう在りたい、と思うのなら、手放さなくてはいけないこと(あきらめなくてはいけないこと)が何なのかを考えなくてはいけません。それはそれぞれ違うと思いますが、例えば、好きなだけ食べることをあきらめなくてはいけないのかもしれないし、他人によって自分を満たすことをあきらめなくてはいけないのかもしれないし、自分を怠慢にさせておくことをあきらめなくてはいけないのかもしれないし、まあ、いいや、できるときやれば・・をあきらめなくてはいけないのかもしれないし、自分の頑固な考え方をあきらめなくてはいけないのかもしれません。

そういう今まで手放すことのなかったことを手放して(あきらめて)初めてその人の中のエネルギーは動きだし、そこに新なエネルギーを迎い入れる空間を創ることができます。そこに、その人が努力をしたことでつくられたエネルギーが流れこんできます。それにより、その人は新しい自分として存在することになります。

豊かに生きている人はこの空間を持っています。そのためには不要なものは手放す、あきらめる、ということです。

安定感と安心感を持って生きる
2018/02/19

安定感と安心感を持って生きるためには、シンプルにあるということ、ただこれだけなんです・・が・・シンプルだからこそ難しいと思うかもしれません。

でも、それは難しいと決めてしまうと、ずっと同じ所に留まることになります。しかし、それでも、その留まっている所で楽しみを見つけ、ストレス解消をし、それなりにいかれるのであればそれはそれでいいと私は思います。それはレベルが低いとか、だめだということではありません。

でも、そうではない人(私のような心底からの安定感と安心感を持って生きることを普通にしたい)は、留まっている所から動いて、新な所を少しずつ体験し、そこの住人になっていくことを選んでいくこともできます。

自分が何を選ぶのか、それだけです。それ自体もシンプル。そこは自由意志を与えられているので自分が何を選んでもいいんです。そうしてそれぞれが自分の人生を創っていっています。

で、シンプルにあるということですが。これは一言で言ってしまうと、『それはパターンなのかどうかを見極めて、本当の自分「私」は何を選びたいのかをいつも実践すること』です。ただ、これだけ。

何かがあって自分の中にわきでるネガティブな感情、そしてそれを生み出しているパターンが色々と思考させてますますネガティブ感に包まれていく中にあって、感情ということはこれは「私」ではない、何のパターン?と「私」が観察し、「私」がそれへ語りかけをする。そして何を選ぶのか?それだけなんです。それをどれだけ自分のものにできるかというところです。感情にのまれているということは、それができていないということです。これもすごくシンプルに受け取ってください。だったら、やろう!でいいわけです。

この方向転換も「私」であればシンプルにできるはずです。こうして安定感と安心感を持って生きる自分を創っていきます。

よい人
2018/02/18

「よい人だと思われたい」というパターンを持っている方はとても多いです。

自分の周りにいる人たちみんなにそう思ってもらえるようでありたいと思っているそのパターンで言動すると、かなり、常に周りの人達に気を使っていくことになります。

相手を怒らせないように、嫌な思いをさせないように、傷つけないように・・・それは何故かというと、そうできる自分であればよい人と思われるからです。一般的には、そういう人は気配りのできる人とか、他人を優先できて優しい人とか、人としての器が大きい人などと言われ、よい人と言われます。ほとんどの人たちは、このことを信じていて、そういう自分になろうと努力をします。

そもそも、どうしてよい人だと思われたいのでしょう?よい人であれば、人が離れていくことはない、人が集まってくる、頼りにしてもらえる、称賛もあるかもしれない、大事にされる、自分という人間を認めてもらえる、自信がもてる、もう、自分はだめだと思わなくてすむ・・などなどなど、だからです。

要は、自分に自信がないとか自分はだめとかの黒パターンを満たすための黒パターンが考え出した行為がよい人になるということなんです。

おまけによい人というのは誰から見ても、間違っていないと思われているので、よい人であることがどうなの?という疑問さえ持つことがありません。

しかし、これを行っていくことは大変なことです。とにかく自分以外の人たちに気を使い、様子をうかがい、緊張と心もとない状態がいつも自分にある状態となります。そこには、安らぎや安定はなく、それでも、よい人とはそういう人なんだと思って頑張ります。

ですから目覚めることが私たちには必要なんです。今まで自分が信じてきたことから目覚めること。そうやって人はひとつひとつ自分を自由にしていくのだと思います。

琉球ドライビング
2018/02/17

前回の沖縄からの帰り。那覇空港でおみやげやさんをみていたとき、あるお店で、とても気になる曲が流れていました。

「なんだこれ?もっと聞いていたい」と思い、店内を買うものもないのにぐるぐると回って、聞いていました。

曲は「Choo Choo Train」だけど、沖縄の旋律にアレンジされています。それを歌っている人も沖縄の方で、歌い方はこぶし付きのそれ。それが次から次へとノンストップで続くんです「Choo Choo Train」の次は「サボテンの花」「強く儚い者たち」「シーズン・イン・ザ・サン」と、原曲が沖縄チックになっていて、もう、一度聞いたら忘れられない、いや、忘れたくないというくらいのものでした。

間々で、「島唄」や「島人ぬ宝」など、沖縄の唄も入ります。

お店のお姉さんに「あのーーーー、この曲なんですか?」と聞くと「これは、琉球ドライビングというCDなんですけど、何種類かあってうちでも売ってます」という返答。「ください」と即言いました。お姉さんはわざわざ使用中のCDをデッキから出して見せてくれて「同じものをもってきましょーねー」と持ってきてくれました。

で、それ以来、我が家では朝からトミーがそれを聞いています。朝から沖縄ムード満載です。ただ、元気のないときには聞くことができません。元気がないときには曲に負けてしまうのか、疲れてしまいます。これが心地よく聞ける日は元気、そうではない日はお疲れ、と琉球ドライビングは健康のバロメーター。

そのままいる
2018/02/16

語りかけをして、そこにはやはり安堵感がありました。そうだよね・・・という「私」の言葉は理屈抜きで「ポロン〜〜〜寂しいよ〜〜〜」と声を上げているパターンの癒しになります。

それは最もそのパターンのことをわかっている「私」だからです。パターンはわかってもらえたことで安堵することがよくわかります。

で、白に何をもってくるか、です。いつも通りの「決めつけなくていいかも」・・・あたりを考えたのですが、どうも、違う感じがして。そして、ふと湧いた言葉は「もう、ポロンを自由にしてあげよう」でした。この言葉を心に響かせたときに、ポロンも私も自由になると思いました。

父が亡くなり、我が家でポロンをひきとったといういきさつがありますが、結局、自分のためにポロンを存在させていたんだと思います。種を超えた関係性を持つことが出来た相手としてのポロン、部屋を満たしてくれていたポロン、と、自分のためだったんだと思いました。ポロンにはポロンの言い分もあったでしょう。でも、力関係として私のほうが強かったから。本当に好きだったけれども、在り方としてどうなんだろう?とここは熟考しました。ペットとして存在していたわけなので、いいようにしていたのはきっとあっただろうと(でも、罪悪感や後悔はないです)と、ここまで整理されました。

では白パターンの実践は?と思ったときに、これも湧き出たことでしたが、ワークを一切やらずに、寂しいという気持ちのままいようと思いました。時間とともに薄れていくそれをそのまま味わい続けてみたいと思いました。エネルギーが薄くなった部屋にいて、楽しかった相手のいない寂しさを感じ、すごく寂しかったら泣けばいいし、オカメインコが懐かしかったら、ペットショップに見に行けばいいし。

そんなふうに私があることで、ポロンは自由になれるんじゃないかと思いました。もしかしたら、初めてポロンサイドに私は立ったのかもしれません。

こうして、暮らしていく中で、また、何かのご縁で鳥と一緒に生活するときがあったとしたら、きっとまた違う目と心で自分とその相手を見ていきたいと思います。今回のことで色々と試したり、整理したり、熟考する機会を与えてくれたポロンに感謝です。

色々試してみる
2018/02/15

また、ポロン話で申し訳ありませんが・・・。

ひたすら寂しいです。

でも、ポロンが与えてくれたいい機会なので、色々試してみようと思いました。

まず、なぜ寂しいのかを観察。我が家には生きものとして私とトミーがいます。そのほかには植物たち。そして今まではそこにポロンもいたわけです。その生きものが1ついなくなったことでのエネルギーの変化により、部屋の中のエネルギーが薄まってしまったことが寂しいのだろうと思いました。それは、言葉にすると、静まり返っている、がらんとしている、ぽかんとそこだけあいている、など。あんな小さな存在でしたが、彼のエネルギーはそれなりに部屋の中に満ちていたのだと思います。

それと、種を超えての関係性がなくなってしまったのが寂しいです。植物がいるのだから、彼らとの関係性を作るというのもありなんですが。うーーーーーん。もう少しミームを上げないと今の私には無理。それも、鳥類という、人とかけ離れた生きものとの関係性。ポロンとは目を合わせて意思の疎通らしきことができていたり、食べ物をシェアしたり、ポロンが遊びたいときは一緒に遊べたりと、種を超えたものとのそれがなくなってしまった寂しさです。

ここまでわかったところで、続いて、この寂しさを治めるべく、思考で対処してみました。例えば「寂しく思わなくていい。ポロンの魂は今もいるんだから」とか「寂しいと言っても、楽しかった思い出がいっぱいあるじゃない」とか。次から次へと考えてみました・・が・・胃が痛くなったのでやめました。やはり思考は思考なんだと思いました(かと言ってこれが間違っているのではありません。必要なときもあります)

では次は?「そうだよね」の語りかけをやってみようと思い、語ってみました。上の自分の観察を入れて、ポロンがいなくなって寂しいというパターンへ語りかけをしました。これは、いつもやっていることなのでしっくりはしました・・が・・続く

「生」というパワー
2018/02/14

魂は死なないと言われています。

これが正しいのか、そうではないのか、いろんな意見がありますが、そういうものはひとつの哲学であると思います。

私は、母の最期のとき、父の最期のとき、ポロンの最期のときに立ち合って、魂は死なないということが腑に落ちたと感じられました。

最期のときをむかえ、息が弱く、細くなっていき、心肺停止となり、臨終になりますが、臨終前はあきらかにその体は、弱く細い息であっても、そこには「生」があります。しかし、臨終後は、その「生」は姿を消し、体は体でしかないように姿を変えます。これがある時点で起こっているように見えます。まさにその人自身である「生」が抜け出たという感じです。

ではその抜け出た「生」はどこへいくのだろう。その人をその人として表現し、生かしていたその人の「生」は。臨終と同時にそれは消えてしまうということはないだろうと思います。その人をその人として現し、動かすほどパワーのあるものなのですから。

それは、どこか「生」が集うところへ、もともと「生」が生まれ出たところへ、いくのかもしれません。または、その人が生きていたときに描いていた世界へ、創造していた世界へ、かもしれません。

それは今からお楽しみにしておくとして、魂は死なない、だからこそ、今をちゃんと生きようと思います。自分に内在しているそのパワーがずっとこれからも生き続け、いろんな人生を生きる、だからこそ、今世の私もその流れを止めてしまうことなくちゃんと生きようと思います。

ポロンからのギフト
2018/02/13

きのう、ポロンが死にました。

20年半の鳥生でした。

カウンセリングにいらっしゃるたびにポロンに声をかけてくださった方々に感謝いたします。ありがとうございました。ポロンもうれしかったと思います。

一昨日までは、よろよろしながらも、ご飯をたくさん食べ、カウンセリングにいらした方が帰るときには「ピーピー」と挨拶をしていました。しかし、きのうは朝からエサも食べず、水も飲まず、止まり木にとまる体力もなくなり、下に落ちて暫くじっとしていましたが、カゴの角に体を預けたまま、静かに、死んでいきました。

おせわになった小鳥の先生から、このガンだと、もしかしたら、苦しむかもしれないと言われていたので、苦しむことなく死んだことが何よりでした。

父が生前、ポロン用にお棺を作っておいてくれたので、それに納棺し、大好きだったチンゲンサイとお花を入れました。今日、火葬します。

きのうは、なんだか頭がぼーーっとしてしまい、寂しさがあるものの、まだ、自分の気持ちがよくわからない状態でした。そして、今朝は、部屋の中がガランとしてしまっていて、その様子を見たら、なんだか体の力が抜けてしまい、思いのほか、ポロンの存在は大きかったことがわかりました。

これから、自分の中にどんな感情や感覚が湧いてくるのか。これもポロンが私に与えてくれたギフトです。自分の中の全てを見て、知って、この体験をムダにしないでいきたいです。

さようなら、ポロン。たくさんありがとう、ポロン。

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