ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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お二人の先生の言葉
2017/07/27

きのうの日記の中に登場した幼児心理学の先生お二人。このお二人の言葉は今の私の心にひびきました。

母は、私に太平洋の海のように広い心をもち、優しい子になってほしいという思いで「洋子」と名付けたようなので、私が他の子に意地悪をする、泣かすということは一大事だったと思います。自分が思い描く子供と大きくかけはなれているということは不安や心配でいっぱいだったと思います。

そんなところに現れた2人の先生。「心配はない」「意地悪もできないような子供では仕方ない」「あまり叱らないように」という言葉は、驚きと戸惑いとともに、母の中に入ってきた新たな言葉(哲学)であったと思います。その道のプロが言う事だから…ということもありますが、新な言葉(哲学)というものは自分が決めてしまっている世界から自分を解き放つことをしばしばしてくれるものです。

しかし、今、こんなふうに言う先生っているのだろうか?と思います。「それはお母さんがもっと愛してあげないからでは?」「何か家庭に問題があるのでは?」「トラウマのせいでは?」「知能的に問題は?」という事が多いのではないかと思われます。原因の究明。これも必要な場合もあるし、それだけではない場合もある。この、それだけではないということを知っているということは、人間全体を包括して見る目をもっているということなんじゃないかと思いました。

人が成長していくためには、いろんなことが必要になります。体験して成長、体験して成長の繰り返しです。そして体験の中には、良い出来事も悪い出来事も含まれます。原因の探求(だけ)には、良い出来事の体験だけをよしとするという考え方がベースにあるような気がします。悪い出来事はできるだけよせつけないようにしてしまいがちです。それは一般的に正しいことにもなっていますし、そこへの恐怖と不安にあまりに過敏に反応しすぎています。それは何か行動を起こすときの動機にもなっています。

3歳の私にはあの体験が必要だった(相手の男の子はかわいそうだったけど)それについての認識も、気付きももちろん、子供の私にはなかったですが、それは自然とおさまっていきました。そこには自分の意思だけではないものが確実に働いています。

こういうことは大人になっても起きています。悪い出来事が今あるかもしれません。でも、それは今必要で起きていて、ずっとそれが続くのではなく、これからの自分の心身、魂のために起きていて、やりきったときにはそれはおさまる、という新な考えをもってみるのもいいと思います。

悪い出来事(と決めているのはパターン)をすぐにどうにかしようとするのではなく、それと一緒にいてみるということは自分を信じていくことにもなります。

お世話になりました
2017/07/26

父宅の片づけは、その後もちょこちょことやっています。

先日、またまたアルバムで手が止まってしまいました(アルバムは最後に片付けるんだそうですよ・・・と教わっていたのに)

それは、私が生まれたとき〜小学校入学前までの母の日記にもなっていたものでした。私は長女として生まれたので、初めての子育てに、色々と心配したり、迷ったりした母の様子がそこには記されていました。

3歳頃の私は、近所の仲良しの男の子に意地悪をして、1日1回は泣かしていたらしいんです。だんだんとひどくなる意地悪に母は心配して、幼児心理学の先生に会いに行ったと書いてありました。その、先生、とてもおもしろい先生だったと母は書いています。先生は「何も心配することはない。意地悪もできないような子供では仕方ない(今、こんな風に言える先生っているでしょうか?)よその子と自分の知恵のテンポがあわなくて意地悪をしてしまうのだから、あまり叱らないように」とおっしゃったのだそうです。

しかし、その後も私の意地悪は益々ひどくなったようで、母はまた他の先生を尋ねて行きました。そこでも、また「心配いりません。長くても今年一杯くらいでしょうから、あまり叱らずに。近所のおうちにはお母さんが頭を下げておけばいいでしょう」と言われたのだそうです。

母にしてみれば、優しい子に育ってほしいという願いがあっただけに心配だったことでしょう。

その後、先生が言うように、半年くらいで、意地悪もおさまってきたと書いてありました。

これを読んで(そのほかの記事も読んで)子供を育てるって本当に大変なことなんだなぁと思いました。病気になったり、ケガをしたり、私のように意地悪をしたり、されたり、他の子より遅れていることを悩んだり、それを毎日のように向き合っていくわけですから、お母さんってすごいです。私は子供がいないので、そう思っている以上にきっと大変なんだと思う。愛がなければできないことです。

そうやって皆が大きくなってきていたんですね。今さらながら、母と父に育ててもらったことへの感謝の気持ちが湧きました。一人では大きくなれなかったわけだから。お世話になったとつくづく思いました。

緑の中で
2017/07/25

北海道(苫小牧市)はとても寒かった。

少しの間ストーブをつけたくらいでした。

しかし、普段、接することのない深い緑の中に入ることができて、よかったでした。毎年行く「イコロの森」へ今年も行きました。そこへ向かう5キロくらいの道は所々樹々のトンネルになっていて、まるで、ジブリの世界のようです。この緑のトンネルを抜けると、全く違う世界にまいこんでしまうのではないかと思うくらい、美しい緑です。そして、毎回そこを通るだけで感動があります。

これだけ私は緑に(樹々のエネルギーに)飢えていたとも言えますね。樹のエネルギーは自分の心身に今足りないものなんだと思います。そんなときは、ぐんぐん足りないそれを吸収していくような気がします。まさに生き返るという感じでした。

今足りないエネルギーというのは、それを取り入れることで自分本来のバランスをとることができるエネルギーです。それはその時その時によって違います。いつも樹々の中にいればいいということではありません。

自分の不足のエネルギーを与えてくれるものは色々とあります。太陽、月、星、山、海、川、滝、大地、植物や動物・・・食べ物からももらえるし、音楽や絵画、色、彫刻、建物、本、香りや、触感などからも与えてもらえます。そして、誰かが発してくれた言葉から、それが与えられることもあります。

そう考えると私達は常にそういうものに囲まれて生きていると言えます。それをちょっとずついただいているからバランスを保っていられると言えます。本来の姿で生きていれば誰でもがそういう状態を保っています。ただ、あまりに忙しすぎる、思考が強すぎる、黒パターンで全てを決め行動している、などということで、その機能を自らブロックしてしまい、バランスを崩すということが多いです。

バランスをとっていくことは、ひいては、自分という個を飛び出して、大きな自然の中で、自分も、誰かの足りないエネルギーを与える存在なんだということを知ることにもなります。

高潔さを感じる白
2017/07/17

・・・・・「私はもう自分を疑っていない」(バシャール)・・・・・

この言葉は、白黒ワークをするときの白に使えると、思いました。

これがぴったりとはまる方は使ってみるといいと思います。この言葉を反芻してみると、この言葉を言った瞬間に「私」という存在がその姿を現すのを感じられます。それは「やっと気づいたか」と言っているようです。

自分は感情でも、思考でも、記憶でも、性格でも、肉体でも、パターンでもないことについて私はもう自分(が「私」であることを)を疑っていない、自分が何者なのかをもう疑わない、自分の力をもう疑わない、という高潔さを感じる白です。どんな黒に対してもこれを使えるようになると、黒は黒としてありながらひたすら上を目指していくという心意気が感じられますね。

でも、大事なのは今の自分にぴったりの白を選ぶということなので、無理してこれを使おうとしなくていいです。いつの日かきっとこの白を選びたくなると思います。そのときまで大事にもっていればいいですね。

先日、これは白としていい!と浮かんだ言葉があったのですが、忘れてしまいました。また思い出したら、それもお伝えします。

さて、今日からトミーと北海道に行きます。なかなか行かれないので、トミーの両親に親孝行したいと思います。皆さまもどうぞ暑さに気をつけてお過ごしください。

固定させない
2017/07/16

私がカウンセリングを習っていた頃、先生から教えてもらったことのひとつに「人の記憶はあてにならない」というのがありました。

これはどういうことかというと、人はそもそもネガティブに物事を捉える傾向が強い、従って、過去に起きた出来事もその出来事のネガティブなところをクローズアップしてとらえ、なおかつ、それが全てとして記憶するというものです。

だ・か・ら・・・自分のネガティブな記憶や、人が話すそれも、もしかしたら自分自身で作ってきてしまった記憶なのかもしれないということです。

だからと言ってクライアントさんが話すネガティブな過去の記憶を疑えとか、信じるなという事を言っているのではありません。それがたとえ本人が作ってしまったものだとしても、今、それを真実だと思っている人が目の前にいるのだから、それはそのまま受け取る、でも、人というものは誰でもがポジティブよりもネガティブのほうが親しみやすいということを知っておく、そして、いつかそういうこともクライアントさんと話せるような信頼関係を築くということでした。

ネガティブなほうが親しみやすいというのは、わかる気がします。そして、そこからふくらんでしまって記憶を作ってしまっているのかもしれません。それだけネガティブは力があるんだろうと思う。

しかし、このことを知っていれば、自分のネガティブな記憶に苦しんでいるときに、もしかしたら、自分でふくらませてはいないだろうかという視点を持つこともできるのかもしれません。そうやってネガティブな記憶を固定させないということもいいのかもしれません。

あらゆることは固定させてしまうことでの苦しみになります。そこが、もしかしたら、こうだったのかも、もしかしたら、こうなのかも、というゆるみがあることで固定からはまぬがれます。固定させて自分を苦しませなくてもいい。

「私」は探すものではなくて育てるもの
2017/07/14

自分を観察・・と言われても観察者の「私」が感じられないと思われる方もいると思います。

そーーなんです。「私」は最初のうちは感じられないんです。感じてわかるというものではなくて「私」とは観察者であり、察知するものであり、パターンをみつけるものであり、そのパターンに語ることができるもの、その後、白パターンも選べるもの、そして、それを現実にするもの、ということを新に知って、そのつもりでワークをすることで、「私」がそのように育つから感じられるようになるんです。

ですから、胸のあたりに手をあてて、目を閉じて、意識を変容させて、時にはマントラをとなえたりして、感じよう、感じよう、としていてもそれは育ちません。

それよりも感じようとすることで必ず思考が動きます。「あれ?今、何かを感じた?これだったらどうだろう?感じられるか?」と。こうなると全く違うところへ行きます。もし、このときに何かを感じたと思えることが起きれば、必ずそれを追っていくことになります。皆、そうやって得ていくことに慣れているので、目に見えない世界もそうだと思っています。

しかし、新なことというのは今まで体験のないものですから、今までと同じやり方ではないということがほとんどです。

ですから、感じられなくていいの。育てればいいの。そのうち、感じようとしなくても、その存在が感じられるくらい育ち、それはそっと、その姿をあらわしてきます。それは目に見えるとか、目をつぶれば現れてくるとかということではなく、それの持つ、状態が感じられます。静寂、やすらぎ、広がり、安心、豊かさ、純粋さ、強さ、など。まさに「私」を構成している資質が感じられます。

こうして感じられたらしめたもの。今度はそこへ意識を向ける(というより「私」が自分を意識する)だけで、そこにそれがあることがわかります。マスター級になればそれが物質化するそうなので、そうなればすごい。・・・・ということで、今日もワークをやっていきましょう。

観察はクールに
2017/07/13

いつでも自分を観察すること(観察しているのが「私」)をお会いしている方々に、また、日記にも、くどくどと書いています。

これだけと言ってもいいくらいです。

で、自分を観察するとはどういうことかということなんですが。観察をする、をもっと細かく書いてみます。

例えば、誰かを見ていてイラっとしたとしますね。そのとき「私」が「ああ、今、イラっが(卵の部屋から)あがってきた」と感情を察知します。「ああ、今、イラっがあがってきた」と言う位、ゆっくりで、どこか他人事です。もうひとつ深く感じられることは、このスタンスにはどんな感情であっても、ああ、あがってきた、というようにジャッジがないということです。この在り方があるから観察になるんですね。「私」とパターンとの分離感が感じられないという方は、このフレーズを感情が上がってきたときに言うといいです。

自分の中に起きていることなんだけど、イラっは「私」ではなくパターンが生み出した感情です。ですから「私」はあたかも他人事のようにそれを察知しているんです。「私」がイラっとしているんじゃないですよ。「私」は観察者であるだけです。

そして、カウンセリングでよく言われるように、そのイラっをよーーーーーく感じてみましょう、浸ってみましょう、味わってみましょう、感じ切ってみましょう、ではない、というところがポイントです。ここは間違えないようにしてください。感情を大切にするというのは感情と一緒になるということではありません。

イラっに一緒に浸ってしまっては観察をしている人がいないでしょう?イラっの他に観察者(人じゃないけど)がいるから観察ができるんです。観察=感情的になる、その感情に振り回される、浸る、何度もその感情を思い出す、そこから嫌な出来事も思い出して、またその感情を味わうことではありません。

観察はクールに、距離感をもって、ただ、淡々と、シンプルに、他人ごとのように、はい、はい、察知してます、というように。その感じが体得できると、偉大なマスターたちがよく言う「あなたの中の誰がそう言っているのですか?そして、それを観察しているものは誰ですか?」ってこのことか!と理解&体験します。

そして、その体験をともなっているそれは消えることがないんです。これが観察するということです。観察のエキスパートになってください。それ自体の静寂さと、ゆるぎない在り方を感じてください。

観察するのがつらいというときには、パターンと一緒になってしまっていたり、感情を重視しすぎているのかもしれません。ヒントになれば・・・と思います。

非日常・夏バージョン
2017/07/12

茅ケ崎も、いよいよ観光のシーズンとなりました。

これから9月頃までは茅ヶ崎が最も活気づくときです。

私は、この、非日常感が多分にただようこの時期が好きです。日々の生活をしながら、リゾート気分を所々で感じられるのがいいです。

日常はやっぱり日常。変わり映えのしない毎日かも。でも、そんな日常に非日常があると、日常もちょっと活性化するような気がします。で、そんな非日常を感じられるものごとって自分の周りに色々とあります。

この時期のこの街でのそれは、例えば、銀行に貼られている夏用ポスター、前を歩く若い女性の日焼けした肌と風になびく長い髪、素足で部屋の中をぺたぺたと歩くこと、いつも行くスーパーに流れるハワイアンミュージック、そこに並べられているスイカ。どこからともなく香ってくるガラムの香り、オープンテラスで陽気にビールをのんでいる人たち、Tシャツに短パン、ビーサンをたくさん見かけること、青い海、青い空、大きな白い雲、夜の月の明かりに照らされて見える海、この時期の夜のにおい。そんな小さな事々ですが、この時期ならではの、この街の非日常です。

それを、センサーがキャッチして、自分の毎日に入れ込んでいく。すると、日常は非日常を帯びてきて、今までとは違う日常になっていきます。

これからこのように秋バージョン、冬バージョン、春バージョンとやっていけば、あら?1年中非日常?リゾート?どこか特別なところに行かないとそれはないのではなくて、自分の心を開いていれば、それらがまわりにあることを感じられると思います。

そんな心自体が非日常かも。

他人を使わないこと
2017/07/11

昨日書いた日記の最後に「他人を使わないこと」と書きました。

「他人を使うこと」は無意識であちこちで行われています。

誰かに自分の寂しさを満たしてもらおう、認めてもらおう、大切にしてもらおう、愛してもらおう、褒めてもらおう。このあたりは自分が自分を観察していればわかると思います。わかれば止めることもできます。ただ、簡単にはいかないとも思います。ずっとそれを追い求めて生きてきているので。それはパターンなので、一連の作業が必要になります。もう、止めようと頭で考えて止められたら、本当に楽。そうなったら「魂の道場」はお役目御免。

もっとわかりずらいものとして「あなたのためを思って言うんだけど」というものがあります。「あなたのためを思って言うんだけどね、もっと人に優しくなったほうがいいよ。そうじゃないと嫌われるよ」「あなたのためを思って言うんだけどね、もっと勉強しないと将来苦労するよ」など。一見優しそうな「あなたのためを思って」ですが、現実に起きていることに目をやれば、あなたのためではなくて、自分のため。自分のためにもっと優しい人になれ、自分のためにもっと勉強しろ(苦労する姿を見たくなくて)と言っていることになります。ここへ気付くことにはちょっと深い洞察力が必要になります。これも自己観察を続けていけば必ずついてくる力です。洞察力はどんどん深まります。

これが大きくなると「世界の平和のために」「地球を守るために」「地球のアセンションのために」などなど広がっていきます。これらは美しい言葉なので、そちらへひっぱられることになりやすいですが、それを推奨している人がどんな動機(パターンなのか「私」なのか)で行っていることなのかを観察することが大事です。いずれにしてもまずは自分の心の平和をつくることが先決です。

特に「地球のアセンション」は、人間がどうこうすることではないです。地球自体が宇宙のルールにのっとって自発的に行うことなので人間が心配しなくて大丈夫。私達は心を軽くして、ともに生きようとすることのほうが大事です。話はちょっとずれますが、雲を消したり、風を止めたり、地震が起こらないように、特別な力を見せる人たちがいますが、これは絶対にやってはいけないことです。天のことに関われるほど人間にはその力は与えられていません。私達に与えられている力はそれらを受け入れながらもどう生きていくかという明確な意思を持つというものです。

もう、他人を使わない、自分を大事にするように本当の意味で他人を大事にしよう。

一定数はいる
2017/07/10

お会いした方から、インスタへのアップのためにわざわざ海外へ行ったり、おしゃピク(おしゃれなピクニックのことなんだそう・・・)を行うことが流行っている(特に女性に)ということを聞き、驚き。

インスタにアップすることで、他人から、いいなあ、すごーい、素敵、こんなふうになりたい、などのコメントをもらい、それがとてもうれしい、自分の価値を感じられるとか、自分、こんなに幸せです、という表明なんだろうか。そこで、優越感とか自分の特別感を感じられるのだろうか。

おしゃピクはやろうと思えばできるだろうけれど、海外旅行となると、そんなに頻繁には行かれないので、よくアップしている人のことは、うらやましいとも思うと思います。

この人たちがだめということではありません。全て、その人の意識の領域のことなので。私だって若い頃は人一倍こうだったと思うし(インスタはもちろんなかったけど)でも、気付く人はいつか気付きます(そういう人が一定数はいるんだそうです)

そういう自分をなんだかむなしいということに。人に評価してもらえないことが続くことで、とても焦っている自分がいることに。他人から承認してもらうことで自分が保たれていることに。そして、それ自体が自分から自由を奪っていることに。気付く。

他人からの承認は、結局、自分を縛っていることになります。承認されればされるほどその縛りから抜け出せなくなる。他人が作り出した自分のイメージを崩してしまうことは承認されなくなるということなので、とにかくそれを守ろうとします。これはきついです。

他人にどうみられるかを抜け出していくと、一気に自由になります。本当に自由になるためには他人を使わないこと。

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