ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ポジティブも・・・
2017/05/25

きのう、フラットについて書きました。今日もそれについて。

フラットな心とは、ネガティブなものがない心ではなく、ネガティブなものたちとも一緒にいられる心だと書きました。

で、これは、ポジティブに対しても同じなんです。

「ポジティブだったら大歓迎。うれしい、楽しい、わくわくする、癒される、おだやか、やすらか、こういうものだったら毎日何度でも味わいたい」と思うかもしれません。しかし、心を整えていくことでできあがるフラットにはポジティブも、自分に影響を与えるほどのものではなくなっていきます。以前だったら、それだけ欲しいと思っていたものなのに、そこが変わっていくんです。

確かにポジティブな感情を感じるんですが(これもパターンが)それに飲み込まれない、それの影響を受けない、それはそれとしてネガティブのときと同じように包み込んでしまいます。そこについてはネガティブもポジティブも差がだんだんなくなっていく。感情としてのくくりで、ただ、それはあるだけになっていきます。

美しいものを見て感動する、そして涙する、何かが起きて心が傷つく、腹がたつ、これらみんなが同じ土俵にあるように感じられていきます。だから、ポジティブに対してもフラットになっていきます。なんかそれって悲しいと思いますか?しかし、この状態であると、ポジティブにもネガティブにも大きく動かされることがないので、より自分が自由になる気がすると思います。ポジティブ、ネガティブに大きく傾くことなく、いいあんばいのところでそれらを捉えていきます。これが感情を超えたところの体験になります。

これも、一気にはできませんが、結果はおまかせとして、ただ、たんたんと自己観察とワークと選択と実践を続けてください。

感情を超えたところにあるフラット。

フラットであるということ
2017/05/24

人が自分の心を整えていくと、フラットになっていくことがわかると思います。

マスターたちが持つ個性のひとつとして、フラットさは共通していますね。その心の在り方が、あの、落ち着いた、自然な様子にあらわれているんです。

で、このフラットですが。心がフラットというと「いいなあ、ネガティブな感情がわかないんだろうなあ、だから心が波立つことなく、ネガティブな感情に飲み込まれることもないんだろうなあ」と思うかもしれません。

心を整えていくことによるフラットとはそういうことではありません。では、どういうことなのかというと、ネガティブなものと一緒にいても大丈夫、それによって以前のように、心が波立ことなく、ネガティブな感情に飲み込まれることもなくなる、従って心がフラットということなんです。マスターであってもネガティブが消えるのではありません。ただ、それを包み込める力が心にあるということです。

感情よりも「私」のほうが大きく強い存在として在るので感情を包み込めるんですね。

そうか、ネガティブな感情がわかなければフラット、と思うということは、「私」は感情よりも小さくて弱いからこそ、そのように思っていることなんだということですね。

フラットな心を望むのなら「私」を育てることです。ネガティブなものたちと一緒にいてもそれらにのみこまれないくらい「私」を大きくするということです。私も含め、それは少しずつ、得ていくものです。一気にはいきません。大きく感情に飲み込まれてもいいんです。でも、そのあとに、起きたことをよく洞察してみます。それを繰り返していくことで「私」が育ちます。そして少しずつフラットの体験をしていきます。

生きながら同時に死を思う
2017/05/23

昔、ある霊能者の方から「自己探求や、スピリチュアルなことを学ぶことで最もその力を発揮するのはあなたが死ぬときです」と言われたことがありました。

人が最も恐れるものは「死」であって、その「死」を恐れや不安なく迎えられるように、元気なうちに自己探求や、スピリチュアルな知識を学ぶことで「死」の間際に、パニックになることはないということでした。

確かにそうだと思います。死は終わりではなく、その続きがあることを知るだけでも、死への恐怖は変わると思います。そして、魂が目的をもって転生していることを知れば「死」を迎える前の「生」も大事にしようと思います。

私にとってはこの哲学は大きく自分の生き方を変えたと思います。具体的には「死」をとても身近に思うようになりました。生きながら同時に死を思う、という感じでしょうか。

ですから私の中では「死」は忌み嫌うものではなく「生」と同じくらいの分量であります。今はそれが普通になっているため、多分、私は死を迎えるときに、抵抗なく移行できそうな気がしています(お迎えもたくさん来てくれるらしいし)

理想としては、自分が生きた証が残らないように、いつのまにか、フェイドアウトしていなくなるのがいいなあと思っています。盛大な葬儀もいらないし、戒名も、お墓もいらないです。できれば樹木葬がいい。

父の死があってから、また特に死を身近に思っています。そして、もう、肉体のない父ですが、時々、そばにいる気配を感じています。そうであると、ますます「死」は身近なものであると思えます。

必ず誰でも死にます。元気なうちに自分の死への哲学を持っているとそのときにきっと役立つと思います。

まかせる U
2017/05/22

以前、日記に「まかせる」ということを書きました。

海や山や森など、又、神社仏閣に身をおいたとき、何かを感じよう、としたり、これで〇〇を得ることができる、どうだろう?なんか変化したかな?何か見えるだろうか?メッセージはあるか?ひらめきはあるか?などなどを思考することなく、ただ、いる。ただ、そこに在る。そのときに何が起こるのか、怒らないのかはそのときの相手にまかせるということでした。

その人にとって必要なことは、その相手が与えてくれます。これが最も、的確で、善いエネルギーといえます。

深呼吸もをするときにも、ぜひ、これで行うといいです。深呼吸をすると体にいいとか、リラックスするとか思考せずに、または、きらきら光る光をいっぱい吸いこんでいる、とか、神のエネルギーを受け取っているとか、細胞のひとつひとつを柔らかくしていく、固さがとけていく、とか、そういうイメージもしないで、ただ、深呼吸をします。あとは相手にまかせるということです。

深呼吸ひとつでもそのときそのときで、自分の心身への効果は違います。ただ、深呼吸をすることでそのときに必要なそれを相手が与えてくれます。大事なのはそういう相手が与えやすいような状態を自分がつくっておくということです。そのためには、ただ、やる。ということです。

これが、なかなか難しいんですね。あらゆることが〇〇のためにやることばかりでずっときているので、どうしても脳はそのように動きます。しかし、〇〇のためではなく、行ってみることも試みていただくといいと思います。まかせることの楽さや、自分ひとりで頑張らなくていいことや、自分が実はどれだけ大事にされているか、などを感じられると思います。

だから清々しい
2017/05/21

「物より思い出」・・・って何かのCMだったような。

そうねえ、物より思い出よ。思い出は心の中にずっと残る。でも、物はいつかなくなる。だから思い出のほうが大事。物を集めるよりも思い出をたくさん作ろう、ということを言いたいんだろうと思います。

私は「物より思い出より今」だと思っている。思い出は美しいです(いやなものもあるかもしれないけれど)でも、どこか自分に都合よくなっていきやすいもののような気がします。都合よく、というのはパターンが使うもので、パターンにとっての都合よさです。(「私」は都合よくは働かない)パターンがその思い出に意味づけていくような。それは良いことも悪いことも、思い出として作ってしまう気がするんです。

で、確実にリアルに感じられるのは「今」今というこの一瞬だけだと思うようになりました。今、どうなのか私、と思う。忙しくて頭がぐるぐるしているときに、そんな自分に気付き、本来の自分に戻る。それは、この一瞬にしかできないことです。でも、だからこそ確実です。

思い出にひたっていると自然と癒されておだやかになる、というのって、誰がそれをやっているんだろうと思います。なんせ過去のことなんでどうにでもなる。逆に嫌な思い出にひたって自己憐憫を感じ、うまくいかないのはそれがあったから、と意味づけることもできます。これも都合よく使っていることになります。

そういうことのできない「今」ただ「今」。いつもそこを感じ、本来のところにいることを繰り返すことのできる「今」。今にあることを勧めているのはそういうわけがあるからだろうと思います。

「今」はとても現実的。だから清々しい。

忘れられない言葉
2017/05/20

「邪気も愛してあげれば無邪気になる」と、誰だったのか、全く覚えていないのですが、言っていたのを覚えています。

ものすごく昔聞いたのですが、なぜだか、ずっと覚えていて。当時はわかったような、わからないようなでしたが、今はよくわかります。この言葉は、今自分がやっていることをあらわしています。

こういうことって誰でもあるのではないでしょうか。そのときにはわからなかったのに、どういうわけだかずっと覚えている言葉。それが長い年月を経て、理解できるようになった体験。それは、そのときの自分を後押ししてくれたり、深めてくれるものなのかもしれません。

そのときを迎えるべく、わからないのに、忘れられないものとして頭に(心に)残っている。そして、いつか理解できる。そして自分を助ける。そんな言葉。その言葉の他にもいろんな言葉をたくさん聞いてきたはずなのに、なぜだかその言葉だけが残っている。そういうものが1つ2つ3つあると思います。

こう考えてみるとやはり偶然はなくて、何かの力で、何かの意思で、人生に起こることは計画されているんじゃないかと思います。自分に素直であれば、それはいかされる。しかし、自由意志があるので、それに抵抗もできる。

自分を探求することは、本当の自分を知る、そして、そこでいること、そこで在ることを学ぶということですが、そのほかにも、今まで知らなかったことがわかったり、この世のルールというか、カラクリというか、そういうものがわかったりするということが起こります。

その中のひとつにこれがあり、自分ひとりの力で生きているのではなく、魂レベルでの計画があり、それをサポートするものの力がそこには入り込んでくると思います。しかし、それは特別なことではなく、自分の心の世界に入り込んでいくうちに自然に起こることです。この言葉を用意したものは、私がどうなっていくのかも知っていたのでしょう。

で…「邪気も愛してあげれば無邪気になる」この言葉をもって今日もちゃんと生きていこうと思います。

つつみこむ「愛」
2017/05/19

「愛が最も気高く最も神聖な行為であるのは愛がその中に常に愛ではないものまでつつみこんでいるから」これも、昨日書いた「なまけ者のさとりり方」タデウス・ゴラス著の言葉です。

これは「愛」というものの在り方をあらわしています。

「愛」と聞くと、ただ美しいもの、影がなく、光だけのもの、というイメージがあると思いますが、そうではないんです。

「愛」はその中に常に愛ではないものまでつつみこんでいる、とあります。愛ではないものまで、ということは愛であるものもつつみこんでいるということになります。そして、つつみこんでいる、ということは、つつみこむものと、つつみこまれるものとがあるということです。

「愛」はつつみこむという積極的で意図的な存在です。

では、なぜ、つつみこめる力が気高く、神聖な行為なのか…そこには差別がないから…です。存在するものを全て差別せずにつつみこめる行為というのは…全てを生かす(活かす)行為…になるからです。

これと同じものが私達の中にあります。「私」とパターンたちです。パターンには黒と白があります。それは愛ではないもの(黒)と愛の要素をふくんでいるもの(白)です。それらのバランスをとり、ひとつの大きな黒と白をつつみこんでいるのが「私」です。「私」は愛ではないものにまで理解を示し、その存在を許しています。

ですから「私」は「愛」なんです。それが本当の自分の姿なんです。自分の中の全てのものを差別なく、つつみこみ、それらを生かし(活かし)ていくのが「私」の使命です。だから、使命のない人なんてひとりもいないといえます。

そんな存在であることに目をむけてください。ダメな私、何ていう人はひとりもいません。つつみこめる力「愛」を育て「愛」の人として存在していくことは誰でもができることです。

まず、自分
2017/05/18

「自分が汚れていると信じて、自分を一生懸命に浄化しようと努力したりすると、かえってあなたの霊的な成長は阻害されてしまいます。自分の汚れている部分を受け入れ、愛することを、まず、学ばなければいけません」(なまけ者のさとり方 タデウス・ゴラス著より)

この「なまけ者のさとり方」は私がこの世界に触れ始めたころに読んだ本です。当時は全く何が書いてあるのかわかりませんでした。当時は頭で読んで、頭で理解しようとしていたからです。この著者に共感できる体験が私にはなかった、だから理解できなかったんです。

しかし、今、この本への理解は深まり、ここでの体験に共感できます。

まず、私達がやらねばならいことは、自分を愛するということだと言っています(これは多くのマスターたちも同じですね)自分の汚れている部分を愛すること、これをまず、学ばなくてはいけない、と言っています。

ここでの自分の汚れている部分とは、黒パターンのことです。それを「私」がそのまま受け入れ、愛するということがまず行うべきことなんです。実はこれはすごく簡単なことなんです。シンプル。しかし、それゆえに、ここがとても難しい、苦しいと思う方が多いです。

それは、心はすごく複雑で難解なものであるというパターンが広くはびこっているし、それゆえ、自分ではどうしようもできない、ともパターンは言います。

だったらそのパターンも受け入れ、愛する。それに対して、そんなパターン、受け入れてはいけないというパターンもいるかもしれません。そうしたら、そのパターンも受け入れ、愛する。「ああ、めんどくさい、こんなことやりたくもない」というパターンがあればそれも受け入れ、愛する。

ただただこれだけなんです。やることは。そうやって自分の全てを受け入れ、愛するという行為が自分を愛するということになります。

これは学びです。学ぶためには知識だけではだめです。実践。日々。そのうちにそういうあり方が自然になります。そんなときある日気付くんです。自分を含め、何か周りが違ってみえていることに。

まず、自分。

センサー
2017/05/16

自分のセンサーを信じること・・・誰の中にもそれはあって、いつも働こうとしています。

ただ、頭がそれを邪魔することが多いです。そんな頭を動かしているのも黒パターンです。

例えば、誰かに会う、会った瞬間に、なんか変な感じがする、違和感がある。しかし会った相手が優しく、知識も情報も豊富で、なおかつ皆から称賛されている人だったりすると、自分の気のせいか、と思考して自分の感じたそれを無視してしまいます。もしくは、そんなすごい人をすごいと感じられない自分はだめだと思ったりもします。

しかし、時間をかけてだんだんと、その人は全くすごい人ではなかった、いや、それよりもひどい人だったことに気付きました、という話はよく聞きます。本当ははじめにわかっていたのにね。

私達は、こうした自分のセンサーを信じられないと言います。自分のセンサーよりも、権威とか、学歴とか、知能とか、肩書とか、お金持ちであるとか、見た目とか、みんなの評価とか、そういうことのほうが信じられると思っています(黒パターンが)

ここでごっちゃになりやすいことが、センサーと黒パターンの違いです。誰かに会って、嫌いと思ったり、苦手、怖いと感じたり、など、感情にまつわるものは黒パターンです。そこにはそれを生み出しているパターンがあります。「偉そうな奴は苦手」とか「この人より私のほうが上」とか。そのときには、自分を見る必要があります。

センサーはこれとは違います。ここまで感情にかかわってはいなくて、根拠がないのに、なんか変なかんじ、違和感がある、というものです。このパターンとセンサーの違いは、自分の中の観察を続けていくうちに、わかってきます。

今の自分にとって、何が大事なのか、何がいらないものなのか、何を得て、何を捨てていくのか、心身にとってのそれをセンサーは教えてくれていると思います。

まかせる
2017/05/15

肩の力を抜いて「語りかけ」をしてください(これは白黒ワークもね)

肩の力を抜くというのは、物理的に緊張した心身ではなくということでもありますが、ただ、集中して行うだけ、ということです。

ただ、集中してだけ、だから、ああかな、こうかな、これでいいのかな、これやればきっと楽になる、こんなことしてもどうなの?など思考が入りこむことはありません。

又、集中というと肩に力が入ると思う方もいるかもしれませんが、肩の力を抜くからこそ集中ってできるんです。肩に力が入っていると集中すべきところには届かないです。

又、肩の力を抜くというのは、ぼーっとする、何もしない、無気力で、適当に、ということではありません。

…きれいな集中…を試みてください。

そして「そうだよね…」と語ります。そして、語った後も、結果は出ているんだろうか?語りかけしたからあの人が変わったかもしれない、さっきより楽だろうか?何かが変わったかな?と(黒パターン的な)結果を探そうともしないでください。

…語りかけのあともきれいなたたずまい…でいてください。

そうあると、まかせることができるんです。自分の変化というのは決して自分ひとりの力で起きているんじゃないんです。何かが、その人にちょうどいいあんばいで変化を起こすことを手伝います。そこが動くから変化が起きます。

で、肩に力が入ってしまっていたり、集中できなかったり、思考してしまったり、結果を探そうとしてしまうと、そこが動けなくなるんです。それと自分が途切れてしまうとも言えます。

ですから、肩の力を抜いて、ということです。

これは、例えば、何かを感じようとするのも肩に力が入っている状態です。例えば、神社、仏閣で何かを感じようとしたり、海や森など自然の中に入ったときに、何か感じているか?何かを得ようと思考したり、黒パターンでいないということです。瞑想も祈りもそうです。

ただ、純粋に参拝する、ただ、純粋に自然の中にいる、ただ、純粋に瞑想し、祈るということです。そうあることで、その相手とつながり、相手はそれを受けとりいいあんばいで動いてくれます。

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