ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

「私」は無限
2018/04/26

成長・進化とは、今自分が決めてしまっているものごとの見方、捉え方、意味をどんどん広げていくことです。ですから成長・進化はどこか限定されたところに行きつくことではありません。それはその人によってぐんぐんと広げることができます。

見方、捉え方、意味をどんどん広げるためには、今自分が決めてしまっているものごとに疑問を持ったり、あえて違う意味を探したりすることでそれは広げることができます。それは特に自分に対して行えるといいです。

自分とは・・・・・大した人間じゃない、面倒くさがり屋、三日坊主、他人から好かれない、傷つきやすい、短気・・・などなど自分で自分に決めてしまったことが誰でもあると思います。でも、本当に自分はそうなんだろうか?そして、そう決めてしまっていることで、どんなことが起きているのか?その決めてしまっていることに執着しているのは何故?その執着を手放すことは本当に怖いことなのだろうか?手放したら何が起こる?などを熟考してみます。

自分に決めてしまっているものごとが自分の自由を奪い、自分の可能性を留まらせていることがとても多いです。それはもったいないです。

新な自分への意味づけとして「「私」は無限」というのはどうですか?そんな、自分なんておこがましいと思わずに。かたぐるしさや窮屈さや息がつまりそうになったら、胸に手をあてて「「私」は無限」と言います。これは本当のことだから。これを繰り返すことで、今まで決めてきたことが、何か違うと思えたり、新な気付きがあったり、もう動きたいと思えるようにもなります。やってみて損はない。

チキンライス
2018/04/25

きのうは、十数年ぶりに、東京、人形町へ行きました。昔からの知り合いに会いに。

人形町には、おいしいお店がたくさん。どこでお昼を食べるか、2人で色々と物色しましたが、2人が選んだのは、昔からある喫茶店での「チキンライス」。これがものすごく美味しかったです。

厨房には2人のおじいさん、フロアもおじいさん、たぶんずっとここで作り続けてきた「チキンライス」なんだと思います。それは懐かしい味であって、ずっと覚えていた味。

料理下手な私なので「チキンライス」を食べたくて作ってみてもおいしくなくて、おいしいそれを食べたいと常々思っていました。しかし、探すとありそうでない。時々見つけて食べてみてもなんかあの懐かしい味ではなくて。

私にとって「チキンライス」は特別な存在です。きのうのそれはイメージ通りの味で満足しました。

その後、隅田川を見ながら散歩をし、久しぶりの東京を楽しみました。東京は美味しいものがたくさんあるし、文化もあるし、地下鉄もバスもあり、本当に便利です。時々、こうして来るのは楽しいですが、それでも、茅ケ崎に帰ってくると、どこかほっとします。もう、完全に茅ケ崎の人になってしまったのだと思う。でも、また「チキンライス」を食べに行きたいと思います。それまで、あのお店があるといいです。

人生にムダなし
2018/04/24

私のカウンセリングの先生がよくおっしゃっていたこと。「どんなにそれがムダなことであろうと、どんなに時間がかかることであろうと、その人にやりたいだけやらせてあげなさい」

これを初めて聞いたときは、そんなふうに相手にさせてしまっていいんだろうか、と思いました。相手の選んでいることがどうみてもムダなことで、おまけにそこに長い時間をかけてしまうことは、それこそ、労力と時間がもったいない。それが人生のほとんどを占めてしまったらなおさら。だったら、それは違う、やめたほうがいい、と言ってあげたほうがいいだろう、優しさだろうと思っていたんです。

でも、自分の今までの人生をふりかえると、ムダ(だと思われること)なことも、そのムダに時間とお金とエネルギーをかけたことも全て「やりきる」ために必要なことだったと思います。

この「やりきる」というところまでいくと、人は、もう、それはいいと思うようです。そうなると逆に誰が何を言おうと、もう、そこを選ぶことなく次に動いていきます。

自分を責めること、自分に厳しいこと、自分を否定すること、逃げること、さぼること、課すこと、言い訳すること、人の悪口を言うこと、人と比べること、勝敗にこだわること、モノを大事にしないこと、やたら買ってしまうこと、うそをつくこと、無気力であること、自分ではないもので生きること・・・すべて「やりきれ」ばいいと思います。そうすれば、もう、それはいい、となります。

そう考えるとなんでもありで、どれもがその人にとって今は必要なものなのかもしれません。その途中、途中で、その種に対しての結果を受け取ることにはなりますが、それは「やりきる」を早めるためのものです。

やりきってしまったあとの解放感は、それはそれはいいものです。ああ、これはもうここで終わりだ、十分だ、と感じられることはひとつ自分が成し得たという感があります。

人生にムダなし。

危険を冒しても・・・・・
2018/04/23

黒パターンで生きていると苦しい。次から次へといわゆる問題や悩みがでてきます。

でも、人間、そんなもの、誰でもそうだし、で、それはすますこともできます。しかしそのままですましてしまえば、新たな楽さ、自由さは知らないままとなります(知らないんだから別にいいんじゃないの?もあるけど)

新なもの(自分がまだみていない世界)を会得するためには、一般的な「そんなもの、誰でもそう」を乗り越えて先に自分から歩んでいくしかありません。まさに「アウト・オン・ア・リム」シャーリー・マクレーン著。

『木の上の果実(真理)を得るためには、危険を冒して枝の先までいかなければならない』です。危険を冒しては、怖いから嫌と思う方もいるかもしれませんが。

私はこの危険って「そんなもの、誰でもそう」というところから離れることなんじゃないかと思うんです。多数の人達のやり方、在り方、価値観、ルール、ゲームから自分が抜けるということは、孤立する可能性もあるだろうし、理解されないこともあるだろうし、皆と一緒という安心から離れていくことになります。そこに伴うショックや孤立感や戸惑いや葛藤、猜疑心、など、これらは今までの自分(パターン)からしたら危険ということになります。

そんな危険を冒しても、枝の先までいくか、果実を求めて、ということです。

本来人はそのようにできています。だから転生している。ただ、毎日、ご飯を食べて、仕事して、趣味を持ち、家族を養い、それなりに楽しく、ストレス解消しながら生きるということだけをしていれば自分を機能させているというものではありません。何かそこに真理に付随しているものを、普遍的なものを欲していくのが人間です。その欲望は、誰の中にもあるものです。

カッチーーンときた
2018/04/20

この時期、駅ビルに買い物に行くと、いろんな売り場に胸に「研修中」というプレートをつけた若い方たちがいます。新社会人です。まだあどけなさが残る彼らをみていて、これからいろんなことがあると思うけれども、頑張ってもらいたいと思います。

新社会人も大変だけど、彼らを受け入れる側の人たちも大変です。

知り合いから聞いた話です。ある新入社員の男性にその知り合いが仕事のことで注意をしたら「僕、褒められて育つタイプなので、注意するときは、そこのところよろしくお願いします」と言われ、びっくりしてしまったということでした。

それを聞いて私も思い出したことがありました。かつて、勤めていたころ、ミスが続く新入社員に「落ち着いてやってね」と注意したところ、その場では「はい」と言っていたのが、次の日顔を合わせると「きのうの注意のことなんですけど、家に帰ってお母さんにその話をしたら、お母さんが、あなたはお母さんのおなかの中に、落ち着きを置き忘れてでてきてしまったから仕方ないのよ、できることをやればいいのよ、と言ってました」と言われ、カッチーーンときたのを思い出しました。

それも屈託なく、明るく、悪びれることなく話すので、そのカッチーーンもどこかに吹き飛んでしまうような感じ。

しかし、それから、数年たち、その彼女にも自分の下に新入社員が入ってきて、彼らに仕事を教えていく立場になり、そのときに「伊藤さん、きっと大変だったんだろうなあ、と思いました」と言われた、ということがありました。こうしてめぐっていくものなのでしょうか。

彼女、きっと今はお母さんになっていると思います。その子供が大きくなり新入社員になり「今日、上司から注意されちゃってさあ…」と話したときに彼女は何を言うのだろうか、と思います。

漆黒の宇宙で・・・
2018/04/19

昨日いらした方が宇宙飛行士の話をしてくださり、その後、2つの映画のことを思い出しました。

ひとつは「ゼロ・グラビティ」そしてもうひとつは「パッセンジャー」両方とも漆黒の宇宙が舞台です。

「ゼロ・グラビティ」はスペースシャトルが大破してしまい、極限の中で主人公の女性が自分の全てを屈指して生還に向かうというものです。しかし、いよいよもう、生還する術も力もなくなったときに、ふと、彼女は死を選ぼうとします。それによって今ある恐怖や苦しみから逃れられると思うんです。しかし、あることをきっかけに「傷つかないように生きることを選ばない」ということを選びます。それが彼女を動かします。

そして「パッセンジャー」は5000人もの人を乗せた移住用の巨大宇宙船の中での話です。5000人も人が乗っていながらも登場人物は1人の男性と1人の女性。限られた宇宙船の中でこの2人の間に起こる、心の動きが、この映画の主軸にあるというものでした。この映画では「自分の望みや夢とは違うけれど、今、自分のいるところで生きる」ということがメッセージとしてありました。

この2つの映画のことを思うと、人は、どんな状況にあろうとも、人として生きることを選ぶんだということを思います。宇宙という、遠くかけ離れたところにおいても、人は人らしく生きることを選ぶんです。厳しい現状であればあるほど、人として能力が発揮されていく、そこに人の崇高さを感じます。

これは宇宙飛行士に限った話ではもちろんなく、誰もがそうであるということです。どこにあっても、今どういう状況であっても、その中でもがき苦しんでも、さいごは、人は人として選ぶものを持っていて、自分がそれを選ぶというようにできているんだと思います。だから、逆に、悩み、苦しみ、もんもんとしてもいいということになります。さいごは、自分の力に気づき、それを選ぶことができるからです。いよいよになるときに発揮される力を皆が内蔵されています。

たくさんの師にかこまれて・・・
2018/04/18

自分の興味のある話しか聞きたくないという人が一般的には多いように思います。

確かに興味のない話を長々と聞かされるのは苦痛かもしれません。しかし、人は成長とともに、興味のない話からも今の自分に大切なこと、必要なことを学ぶことができます。

この話には価値がない(自分にとって)というところで人は話を聞かないということをしますが、それは自分の中でこういう話なら聞きたいという枠を決めてしまっていることになります(これもパターンなんですが)それだけを選んでいけばおのずとそのパターンが決めた狭い自分の世界で生きることになります。

自分とは違った条件の中で育ってきた人、きっと自分とは相いれないだろうという人、自分のパターンがバカにしている人、下に見ている人、小さな子供・・・・そういう人達の話を聞くことで予想外の気付きが起こることがあります。その時、その人はまさに自分の師となります。

そこの気付きは、自然と、自然界にも向けられ、自然界にいる彼らが実はいろんなことを聞かせてくれていることにも気付いていくと思います。彼らから学ぶものは大きいです。

たくさんの師に囲まれて生きている私たち。だから生徒である私たちはいつも柔らかな心をもって誰かと向き合わなくてはいけないんです。

八重桜の「毒」
2018/04/17

ソメイヨシノが散り、少したつと、八重桜の季節になります。

私は今まで見た花の中でこの八重桜が最も好きです。

濃いピンク色といい、ぼんぼりのような、ぽってりとした花の形といい、その可憐さと美しさと存在感は類を見ないと思っています。

写真は数年前に菩提寺で撮ったものですが、写真を見るだけで、そのときの花の様子が思い出されます。

八重桜の何が好きなのかというと、その可憐さの中に「毒」をあわせもっていると感じられるところが、です。他の花でそう感じるものは私にはないのですが、八重桜には「毒」がある。その「毒」は少々粘着質なしっとり感であり、自己主張が強く、したたかさもある、その可憐さで人を招き、そばによるととりこまれてしまう「毒」です。女性っぽい。

でも、それはとても魅力的で、他にはない個性だと感じます。この「毒」にやられるともうとりこになってしまい、毎年毎年合いにいくようになってしまうんです(私のように)

八重桜を見ていると、清濁あわせもつ、白と黒をあわせもつ、陰陽をあわせもつ、という言葉が浮かびます。そんな本来の在り方をいつも示してくれて、確認させてくれる花でもあります。

私はもう二度と・・・・
2018/04/16

この頃、気付いたことがあります。

それは、傷つくということについてです。

傷つくと聞くと、誰かに酷いことを言われて傷ついた、とか、思いもしなかった相手の言動に傷ついたとか、他人によってというのが一般的だと思います。

これも、もちろん自分のパターンがあの人に傷つけられたととらえているのですが、それはおいといて、自分自身で自分を傷つけていることのほうが多いのではないか、と思いました。

他人から受けたもののほうが目につきやすいし、わかりやすいのだと思いますが、本当はどれだけ自分自身で自分に傷をつけているか、と思います。自分を否定する言葉、自分をけなす言葉、自分の言動を厳しく監視して自分を裁く言葉、人と比較してできない自分をいじめる言葉・・・そういう自分自身で自分に向けている言葉や思いのほうがその傷は深く、深刻だと思います。その言葉は細胞レベルでストレートに入っていきます。

他人にはそこまで言わないだろうということも自分には言っているかもしれません。他人から与えられたもので自分のパターンがひっかかる/ひっかからない、よりも常日頃自分で自分に何を与えているのかを観察することのほうが大事なのかもしれません。

で、こんな言葉をぜひ「私はもう二度と自分を傷つけない」これを心に響かせてみてください。

息がつまりそう
2018/04/15

朝ドラのセリフ。

「私って嫌な女ねえ(・・・と自分の言動を悔やんでいる)」それに対してその人の夫がこんな感じのことを言います。「いいんじゃないの、嫌な女のときもあって。いつでも明るくて、元気で、正しいなんて息がつまりそうだ」ああ、本当、本当に息がつまりそう・・・こういう人は・・・と私も思いました。

どうしてかというと、不一致がそこにあるからです。人は嫌な自分のときも、ダメな自分のときも、悩む自分のときも、悪口を言う自分のときも、自暴自棄になる自分のときもあります。それが人間です。そんな人間の持つ姿のひとつを否定して、明るく、元気に、いつも正しくあろうとするところに不一致が生じます。不一致というのは息がつまる感があるんですね。

嫌な女だと感じているそのものを受け入れ、理解することが、自分の今の姿を受け入れることになります。嫌な態度をとってしまったのには、ワケがある、それを理解し、許します。そして、では、どうするのか、どうありたいのかを「私」が考え、行動すればいいんです。

そこには何ひとつ否定がなく一致性があります。だからそこには息がつまることはないのだと思います。

精神性を育てる、成長、進化とはこういうことです。嫌な女だ、と感じているパターンを感じることができる自分になることです。そして、それを招き入れ、愛し、新に何を選ぶのかを決められる自分になることです。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -