ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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レスポンス
2018/09/26

道場では、コミュニケーションスキルとしてレスポンスの練習を行います。

カウンセラーになるつもりはないのに?と思われるかもしれませんが、このスキルがどれだけ人間関係を円滑にし、自分を成長させ、自他を大切にできるか。これはなかなかのスキルです。

ところが、ほとんどの方がこれが苦手、嫌い、です。私も教わっていた頃は嫌いでした。あまりにできなくて。

何が嫌いなのかというと、とにかくわからないんです。何をどう言ったらいいのか。考えてもできない(先生からは考えるなと言われるし)。復習してのぞんでもそのとおりにはいかない(相手は生きてる人だから当然)。自分のパターンにひっかかり、ついつい説教したくなる(だから自分への観察とケアと選択が必要)。何か相手に気づきを与えたり、元気になること、解決へつながることを言わなくてはと思うとますますわからなくなる(それ自体が間違っていた)。わかったつもりになっていても全くわかっていないことをつきつけられる(自分の未熟さを知る)と、レスポンスはとにかくわけがわからない&ハード。

それはずっと今まで行ってきたコミュニケーションが普通になってしまっているので、それではないコミュニケーションというものが想像できないんです。しかし、できなくても、とにかく練習していくうちに、いつのころからか、レスポンスってこういうことかとわかっていきました。それからは、おもしろく、好きになりました。

相手の話を聴いて、そこに沿って言葉を返し、それに対してまた相手が話をして、また、それに沿って言葉を返す。この繰り返しですが、そうしていくうちに、自分の哲学を持ちつつも、自分のことはおいといて、相手の話を優先していくことのほうが、自分にとって気分よくいられることが感じられます。

話を聴くということは、自分を殺して言いたいことを我慢しているのでは?と思われがちですが、自分が自分が(というパターン)とか自分が正しい(というパターン)とか悩みや問題はよくないもの(というパターン)を使わなくてもよくなればもっと純粋に相手の話を聴き、相手と一緒に、相手の世界にいることができます。

レスポンスはハウツーを超えたものです。新なスキルとしてぜひ身につけられるといいです。それは自他を自由にするだけではなく、永遠なるものに通じているということを感じています。それはなぜかと言うと、愛を土台にしかできないものだからです。ここが、何よりもレスポンスが好きな理由です。

よかった
2018/09/25

9日前、お気に入りのダウンが紛失していることに気づき、ショックを受け、落ち込み、パターンへの語りかけをしました。

そして白として考えたのが「起きていることをそのまま受け取る。そして(ダウンへ)今までありがとう」というものでした。この白を使って白黒ワークをし、白の部屋から感じられる力強さから「私」が白を選びました。そして、新しいものを買おう、という気持ちにもなりました。

そして、先日、6月に北海道に行ったときに泊まったホテルに再度問い合わせてみようと思いました。一度問い合わせをしたときに「もう処分されているかもしれない、あるかどうか調べて電話をします」ということになっていましたが、連絡がなかったので、やはりないんだろうなあと思っていました・・・が・・・もう一度電話をしてみようと思いました。

ホテルスタッフの方に「暫くお待ちください」と言われたあとに「以前もお問い合わせいただいた、伊藤様ですね。どちらにお送りしましょうか?」と言われました。「え?・・・・送るって?もしかして、あったんですか?」と聞くと「はい、あります」とふつーーーーうに言われました。

こうして・・・・・きのう・・・・・ダウン、帰ってきました。

…≪≪おかえり≫≫…

ちょっとくたびれた状態でしたが。再度しつこく電話をしてよかった。こういうこともあるんだと思いました。

人類皆兄弟
2018/09/24

きのうはお墓参りに行ってきました。

行きの電車の中でのこと。東海道線の横並びの座席はほとんどうまっていました。私は座れて、次の駅から人がまたたくさん乗ってきました。

皆、座りたい、というのはあると思うのですが、この座席の配列の暗黙のルールとして、立っている前の座席に座っている人が降りるために席を立ったときに、その真正面に立っている人が座るというものがあります。皆、なんとなくそのルールは知っています。

私の前には50代であろう女性が立ちました。しかし、真正面ではなくて微妙に左隣の席にも少しかかって(この場合、座れる確率は上がる)立っています。そして、その立っている女性の左隣には2人連れの同年代であろう女性が2人立っていました。この3人、微妙に真正面立ちではなく、立っています。

次の駅で、私の左隣に座っていた2人が降りるために席を立ちました。そのとき、2人連れの女性達は、自分たちの目の前の2人分の席があいたので、2人で並んで座るつもりで腰をおろそうとしました。すると、私の前にいた女性が「すみません、そこは私が座りますので」と言って、私の左横に座ってしまいました。2人連れの1人は座れたのですが、もう一人の人は座ることができず、なんとも不満そうな顔をしながらも「私はいいから」と連れの女性に言っていました。

その後、なんとも不穏な空気が流れます。2人連れにしてみたら私達が前に立っていたのに割り込んできてと思っているでしょうし、私の左横の女性は自分に座る権利があるのに図々しいと思っていたと思われます。もし、言い合いになったら自分の席を譲って、私は違う車両にいけばいいや・・と思っていました。

秋分の日、そして、秋晴れでお寺はお参りの人が多かったです。知らないどうしでも、会釈をしたり、こんにちはと挨拶したり、お互いに譲り合ったりと、気持ちのよい時間でした。

さきほどの電車の中との違いは?お寺は同じお寺の檀家どうしという共通点があるからこうできるのでしょうか。電車の中のことは共通点のない他人だからだったのでしょうか。でも、同年代で、同じように座りたいという共通点はあるのに、とも思える。日本人は接点のある人には親切だけどそうではない人には冷たいということを聞いたことがあります。でもね、自分の祖先はもしかしたら今いる人の祖先とどこかでつながっているかも。どこかで接点があるかも。そして前世で一緒だったかも。そう考えると人類皆兄弟と言えると思います。

自分を大切に
2018/09/22

近頃、年をとるということの良さをきちんと感じられるようになりました。

50代に入ってから年々劣化する自分を悲しく思ったり、とんでもないミスをする自分を情けなく思ったり、物覚えが悪い、物忘れもする、体力が落ちる、体調もあまりよくない、などなどでした・・・・が・・・・60代に入っていろんなことが整ってきました。

「体調は60代に入ると良くなるよ」と先輩方に言われていましたが、本当にそうでした。身体はその年齢仕様に変わっていくのだろう。今の年齢の身体として元気に動いてくれています。

そして、もう、完全にしようとしなくていいんだ、もう、思い通りにしなくていいんだ、やっとここから離れていいんだ、と思えたこと、そして、いいあんばいに生きるためにどうしたらいいのか(宇宙のルールに沿って生きる)ということを信じられるようになり、それにゆだねられるようになったことがとても大きいです。

ここへ来れたのは、やはりワークのおかげです。手前みそですが、本当にこれをやってきてよかったでした。

これに並行して、今までの間に溜め込んだ情報や知識も物忘れとともに消えていき(笑)今はこの個体にとって大事なものだけをもって生きている気がします。以前は完全に情報過多だったこと、それにより自分自身を縛り付けていたことも今はわかります。私らしく生きるということに必要最低限のものがあれば、いいんだとこの年になりわかり、こうして、創ってきた自分専用の取説で自分を生かしてあげられる、これが年をとることの良さなんだろうと思います。

心身の持ち物を少なく、物理的な持ち物も少なく、ちんまりと、でも、豊な魂でいる。日々オープンマインドでいられることの爽快さや活力のようなものを感じられることを幸せだと思えます。

40代、50代の方々、どうしても若かった頃の自分に自分を引き戻そうとしたり、身体が変わるときをむかえて、体調が悪かったり、しているかもしれません。そんなときは焦るし、不安にもなると思います。そういうときこそワークをしてください。自分にあたたかい視線をむけてあげてください。それが蓄積されて、自分らしい60代に入っていかれると思います。

そして、60代の方も同じです。そうして素敵な70代に入っていってください。自分を大切に。

自分と他人の分離を超えて
2018/09/21

きのうは茅ヶ崎クラスのグループの日でした。

今回は岩手クラスよりゲストの方が参加してくださり、いいグループセミナーが行われたと思います。

どなたが参加されてもやることはひとつ。それぞれの課題(パターン)にむきあい、それを自分の力(「私」)でおさめていかれるように修練していくということです。それは自分もそうだし、隣のこの人もそうだし、そのまた隣のこの人もそうだし・・・。と、皆が共通の課題をもっていることに気づくことで、他人を理解する、他人を信じる、自分を待つように他人を待つということができるようになります。

同胞であるがゆえに理解できる他人の苦労や、痛みを自分と同じものをもっている人として受け入れられたとき、もしかしたら、あらゆる問題は消えていくかもしれません。たぶん、他人との関係、これが最も難しいことかもしれません。それだけ私たちは自分と他人を分離した存在だと思ってしまっているということです。自分と他人という分離、を超えていくこと。そのためにも自分に向き合うことを継続して、とにかく「私」という王を育てていくことです。王には本当の優しさがあります。それを発揮できるようになりたいものです。

夜ご飯はココへ行きました→http://www.kumazawa.jp/mokichi/foodsgarden/ 何を食べてもおいしい。おまけに建物自体がすてきです。茅ヶ崎へお越しの際にはぜひ! 

イメ-ジ
2018/09/20

何年も受けていなかった市の健康診断を受けに、父が生前おせわになっていた近所のクリニックへ行きました。トミーもインフルエンザのたびにおせわになり、町中で会うといつもにこにこと手を振ってどういうわけか「ご主人どう?」と声をかけてくれる50代の元気なクリニックの先生。

で、きのう結果を聞きにいったのですが、異常なし、ということでよかった。

そのときに先生が「僕ね、こう見えて身体あちこち悪かったりするんですよ。救急車ではこばれたこともあるし、大きな病気もしたりして」と話してくれました。「えーーーっ、先生そうなんですか?先生は完璧に健康だと思っていた」と言うと「そうでしょう?医者だとそう見えるっていうのがあるよね」と言われました。

そうですね、お医者さんって、100%健康だと勝手に思います。これ、なんですかね。で、カウンセラーもそう。カウンセラーって、悩みがない、問題がない、ネガティブな感情もない、くらいに思われています。

特に「魂の道場」の道場主の私に黒パターンはもうすでにないだろうと思われる方もいらっしゃるようで「それ、私の黒パターンだから」と話しをすると「え?・・・・」と驚かれます。そしてちょっとがっかりするような・・・(笑)これもカウンセラーという職業のイメージですね。

もしかしたら、いろんな病気を体験したり、身体が弱かったりする人がお医者さんにむいているのかも。悩みや問題がいっぱいあって、死んでしまいたいという体験をしてきた人がカウンセラーにむいているのかも。バレエもダンサーとして成功した人よりも、そうなれなかった人が先生に向いているし、スイミングの先生もそうだと以前聞いたことがありました。

できてしまう人より、強い人より、全て順調にいっている人より、そうではない人が人と向き合うことにむいているように感じます。ですから(特に)自分は完全ではないからカウンセラーにはむいていないと自分を決めつけてしまうことはありません。その部分があるからこそ、むいているということがあります。その自分をいかせるところがあって、決してイメージではないとうことです。

思い出した話
2018/09/19

先日書いた、ダウン紛失で思い出した話がありました。

それは、ある女性から聞いた話です。その方には大学生のお子さん(男性)がいます。そのお子さんが小学校3年生のときの話です。

ある日、お母さんとその男の子は2人で橋の上を歩いていたそうです。そのときに強風が吹き、その男の子がかぶっていた帽子が風でとばされ、橋の下を流れる川に落ちたのだそうです。橋から川までは高さがあり、その帽子をとりにいくことはできなかったそうです。

するとその男の子が流れていく帽子をじっと見ていたので「また、帽子は買うから大丈夫だからね」とお母さんが言ったところその子は「お母さん、違うよ、帽子が可哀そうだよ。ひとりでしらないところへ流れて行ってしまって、可哀そうだよ」と言って泣いたそうです。

「今は憎らしいことばかり言うのに、当時はそんなかわいいところがあったんですよ」と話してくれました。この話を聞いて、その男の子の言っていることがすごくわかると思いました。川に流されていく帽子にきっと「ごめんね、ごめんね」と彼は言ったのではないかと思います。楽しいときも、悲しいときもいつも自分と一緒にいた帽子とこんな形で別れてしまうことは彼にとっては大きな悲しみだったと思います。

「男のくせに女々しくて」とお母さんは言っていましたが、それは私への社交辞令のようなもので、本当はそんな優しさがうれしかったのだと思います。そして、彼は今でもその気持ちをもっているんじゃないかとも思いました。その話を思い出したきのう。

覚悟
2018/09/18

先日、ある方が「問題を引き受けたこと、それがよかった」と言う話をされました。

よかったというのは、引き受けたことで、問題が解決されてよかったというのではなくて、その問題になっていることを引き受けようと決めたことで、自分の中に覚悟にともなう強さが出てその問題に向き合い、それをおさめるという体験ができたことがよかったということです。

引き受けることの本来の使い方を体験したのだと思います。

これは真理です。引き受けるからそれから自由になる。解放されるということ。

起きていること、問題を、自分で引き受けないからもんもんと継続して苦しいのです。どうしたら逃げられるか、どうしたら怖い思いも、傷つくこともなく自分がいられるか、自分を守るよい方法があるんじゃないか、このようにその問題を引き受けずにいることで苦しみは増します。そして、逃げてもまた問題はついてきます。

これは「私」のセッティングなので、逃げても逃げても同じ問題が起きるときには、もう、「私」が引き受けたいと言っていることなんだと理解するといいです。

確かに、引き受けるには勇気もいるし、強さもいります。引き受けることで自分が対処できないんじゃないか、こわれてしまうのではないか、他人に何か言われるのではないか、と色々とパターンは考えます。それでも、引き受ける、ということを選ぶと、どういうわけか自分の中に覚悟が生まれます。その覚悟というものが、自分の中にあること、それを使える自分であることが問題をうわまわることになり自分自身に喜びを感じられる解決に向かいます。

覚悟というものはとても大事です。この普遍的能力を育てることは大きな味方になってくれます。

可哀そうなダウン
2018/09/17

きのうは、ショックなことがありました。

それは、大好きな薄手ダウンをいつのまにか紛失していたということに気が付いたことでした。たかが、ダウン1枚。しかし私にとっては重宝で、とても気に入っていて、大事にしていたものでした。

もしかしたら、あそこにあるかも、と思われるところに聞いてみましたがありませんでした。大事にしていたものなのに、記憶にないというところが悔やまれます。

そんなできのうは落ち込みました。落ち込みながらも、これもパターンなんだよなあと思いました。

語りかけをしようと、パターンの言い分を聴いてみると、2つありました。1つはまた同じように気に入ったものを探す(このこだわりが私はちょっとパターン的なところでもあるんですが)ことの労力を考えると面倒くさいということ。そしてもう1つはダウンに「可哀そうなことをしてしまった」ということでした。自分の意思でそれを処分したのであればいいのですが、自分でも気づかない状態で紛失してしまい、それは、ダウンにとっては可哀そうなことだったと思います。

この感じは私はよくあって、置き忘れた傘とか食事に入った店内に置き忘れてしまったスカーフとか、すぐに気付いて取りにいったときに置き忘れたままの状態でそこにあるそれらを見たときに、それらは、置いていかれたことでとても心細そうにしているように私には見えます。ですからそれを見つけ、ああよかったと思うし、それらも、ああよかった、、迎にきてくれた、と思っているように思えます。あのダウンもどこかで心細くいたら、と思うと、可哀そうで・・・というのがあります。

この感覚は黒パターンなのか?というところはよくわかっていません。でも、ショックを受けた、落ち込んだというところから出てきてのこれらなのでそれを入れて語りかけをしました。

おかげで今朝は落ち着きました。でも、今日1日は語りかけを続け、その後に白を考えるつもりです。

新な目をもてるように
2018/09/15

「誰にも負けたくない」「自分のほうがいつも上」「いつも中心でいたい」「認められたい」「すごい人だと思われたい」などなどなど。そういうパターンを満たすために次から次へと自分が安心できるものごと、他人に称賛されるものごと、誰がみても高く評価されるものごとを得ようとします。

これはほとんどの人がそうです(もちろんかつて私も)私も当時は、それが生きることであって、人としてやるべきことだと少しも疑うことなく信じていました。

負けている自分がだめで、上にいられない自分には努力が足りない、中心でいられない自分は魅力がなくて、認められていない自分は認められるようにもっと頑張らなくてはいけなくて、すごい人と思われていない自分を嫌い、責めていました。そこをクリアすることでやっと自分のことを自分でも認められる気がしていました。だからそこまで頑張る。どんなに疲れていても、やっていることに違和感があっても。それしか知らなかったんです。

ところが今は、全くこれらがない。他人から称賛されるとかされないとか、上とか下とか、中心とか端っことか、認められるとか認められないとか、すごい人とかちっともすごくない人とか、久しくそこにいなくなり、今は、全くないと実感しています。これは、それらが満たされたからではもちろんなくて、新な目を持ったことによるものです。新な目は新な哲学や柔軟な思考を教えてくれて、新な領域があることを体験し、そこにある現実になじんだせいです。

それと同時に今まで自分が信じていたものに魅力を感じなくなり(以前のそれは間違いだったではなくて。それはそれでそのときは必要だったこともわかるから)新に知ったものが、そこへの執着から自分を解放してくれました。

そして、その新なものへ誘うものはどこか遠くにあるものではなくて、特別なものではなくて、自分の中にあります。最初はそれを感じられない、みつけられないと思うと思います。しかし存在するものは感じられる、見つけられるものだというのも、ひとつのパターン。

自分がそこへ向き合うことで、練習をすることで感じられたり、見つけられていく(厳密には創造していく)というものです。ですからあきらめないで(自分には無理と思わないで)自分の中に向き合っていくことをやり続けてください。

新たな目を持てるように。そして、そこから今までの執着(他人というもの)から自由になるように。

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