ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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静寂
2025/07/05

昨日は、妹お勧め「ギターと静寂」五十嵐 紅さん(男性)のコンサートに行きました。

ギター1本だけのコンサート。以前から妹が「しーーーーんとしているんだよ」と言っていました。コンサートでしーーーーんとしているって?…と思っていました。

小さなホール内には五十嵐さんの奏でる音色が響き渡り、最後の一音が、時にはきえゆくように、時にはその音を飛ばしながら曲が終わります。まさにその瞬間の音の余韻がまるでしーーーーんとしているようでした。

五十嵐さんのプログラムにこのような言葉がありました。

「遠鳴りするギター。暗闇に目が慣れていくように、静けさの中で旋律を捉える。余白を聞く。1時間の演奏会。音量の向上を目指し進化してきたクラシック楽器。ギターの小さな音はしばしば不利な点とされます。しかし、僕はそんな繊細さにこそ美しさを感じます。ギターの多彩な音色が空間に溶けていく瞬間、その響きから生まれる想像。どうか耳を傾けて、音楽のひとときを過ごしていただけたら幸いです。」

余白を聞く。とある。これは文章もそう。絵画も、バレエも、ピアノも。多分、茶道や、華道や、書道もきっと。その余白には静寂があり、その静寂こそが私たちの魂が安泰できるところだと思っています。あるべき姿だと思います。だからワークにもスペースをもたせてください。余白に人智を超えた何かが宿っています。

コンサート終了後、ロビーにはご本人、五十嵐 紅さんが立って皆さんをありがとうございましたの言葉とともにお見送りしてくれました。

でーーーあまりの小柄さにびっくり。舞台上の彼は大柄の人ではないというのはわかっていましたが、あんなに小柄な人だったんだ…と(私に言われたくないと思いますが)ということはきっと手も小さいはず。後からプログラムをよく読んでみたら、彼独自のギターを作成して使っているということでした。なるほど。

今迄の一般的なギターに自分を合わせるのではなく、自分に合ったものを使う。そして自分に合った曲を演奏する。それらも五十嵐さんの音楽に対する哲学なんだろうと思いました。

「静寂」を聞いた1時間でした。

推進させていく
2025/07/04

物事は起こるときには起こる。自分のことも。自分の家族にも。周りにも。これは、これで仕方がないことです。

そういうもんだ・・・とまずは受け入れる。だって、現実、起きているのだから。それについて、何がダメだったのか?と原因を探すということを自動的に誰でもやります。あのときのあれがまずかったのかな、このやり方が違っていたのかな。ここはこの物質世界においては必要なことでもあるので、とりあえずそれはやる。

しかし、ずーーーーっとそこに居続けていてはいけないんです。その原因探しにより確実に未来に健全にはたらくような原因をみつけられたらいいんですが、そうか、と思ってみつけたものも、天から見たら「違うよ」もあります(塞翁が馬の場合が多いので。そして、人にはそこはわからないことなので)

そして、その原因探しを続けていくうちにパターンが動き出し、自分自身を攻撃したり、後悔したり、いらいらしたり、もやもやしたり、これからへの不安を持ったり、起きていることへの不満を持ったり、と、心の中までそれでいっぱいにしてしまいます。

現実に起きていることを、そんなものか、と受け入れたら(原因探しも軽くやったら)推進させます。語りかけが必要なら語りかけをする。白黒ワークが必要ならワークをする。白のマントラが必要ならそれを言い続ける。意味づけワークもやってみる。これらをやったことで得られたものを自分の知恵として使い、自分を自分で推進させていくことをしなくてはいけないんです。

ワークやっているうちに自然とそれらが軽くなり、自分が変わりました…はありません。何故ならばパターンは変化することなくずっと同じことを言い続けるものなので「私」の推進させる意思と力がないと変わりません。

推進させる力って?深く気づいていること(←これ、大事。そして気付きの質が上がっていきます)それを現実にどのように反映させたらいいのかを具体的に考えること、そして、それを日々、実践する継続力。

こうして人は前へ(違うところへ)進むことができます。今、起きていることを推進させていくために自分はどうあるべきなのか、を考えてみます。

何事も陽と陰を持ち…
2025/07/03

昨日書いた「瞑想」+「再プログラム」やってみようと思う方はやられるといいと思います。

私は実は瞑想がずっと苦手でした。以前、勧められて、やってみたものの、なんか合わない感じがしてやらずに来ていたのですが、今年に入り不調続きだった私に整体の先生が「瞑想どうですか?」と勧めてくださいました。自分でできるものは、とりあえず、なんでもやってみようと思っていた時だったので、やりはじめました。

先生曰く「呼吸にだけ意識を向けてやってください。マインドフルネス瞑想で、5分〜10分位でいいです。呼吸に意識を向ける瞑想と、意識を変えていく瞑想とありますが、今の伊藤さんでは意識を変えていくものは「間」に入り込まれることもあるから、呼吸瞑想でシンプルに」ということでした。

で、続けています。昔、瞑想が続かなかった時とは違い、今はいい感じでやっています。ということは、瞑想は私にとっては今だったんだと思う。

先生と話をしているときに「迷走神経」の話が出て「迷走神経」って?…と思い、後から調べました。ケビン・トレーシーさんという方が迷走神経について書かれたものを見つけ、その中に「瞑想」についてもありました。ケビンさん自身も瞑想を続けているそうで「瞑想により、目の前のことに集中できるようになり、自分ではどうにもできないことに対して過剰に反応しなくなった」とありました。なんか、わかる気がする。

私が今感じている瞑想から得たものは、忙しかったり、やることが目白押しであわあわになりそうなときに、瞑想でしている呼吸をそのときに数回行うだけで、冷静になっていくというものです。即効性がある。

こういう体験をすると、そこどまりではなく、その先に、奥に、また違う瞑想のエッセンスがあることも体験上わかっているので、それがどんなものなのか体験したくなります。(こういうことが好きなんだ)

もう7月になり、今年の前半は、不調であったがゆえに、知らなかったことを知る機会がありました。初めてのものごとを自分で調べたり、試したりしたことが今までにはないほどありました。不調は嫌だし、つらいですが、それがあったからこそのいろんなことを知っていく、やっていく、という体験をした(継続中)「何事も陽と陰を持ち…」という言葉が先生から何度も出て、それもヒントになりました(何度も聞く言葉は、自分にとって大切なことなのでそれには敏感であるといいです)そしてそれを活かすも活かさないも自分次第であることもよくわかりました。

後半は、自発的に動いていくことを続けながら、結果は天におまかせして、流れに乗っていきたいと思います。

朝の瞑想
2025/07/02

「今朝起きて、意識的に自分の未来を作り出した人はいますか?」とジョー・ディスペンザ博士が聴衆に問います。そこに集まっている聴衆の人々は、自分の意識が現実に成るということを知っている。だから、博士はこう聞いたのです。それを知っているのなら、それが真実だと信じているのなら、1日も欠かすことなく、毎朝、自分の望む未来を創ることをやるでしょう?という話です。それをやらないということは、それを信じていないからです、と博士は話します。

中村天風さんは「朝目覚めた直後の心の状態は、潜在意識に最も近い状態にある。その時にどんな言葉やイメージを浮かべるかがその日1日を変えていく。それは1日だけのことではなく、それが続けば、未来も変わっていく。ですから「今日も最高の1日を過ごす。宇宙の力が私の中に満ちている。」という善き言葉とイメージを持つことを勧めています。

ボブ・プロクター氏は「もし、朝、3時〜5時前に目覚めてしまうのであれば、それをチャンスにしよう」と言います。「早朝は瞑想にとても良い。今日1日、自分はどんな気持ちで過ごしたいのか、それを言葉にし、イメージし、リアルに身体でその感じを味わう。」と勧めています。

「朝」というところはどうも鍵らしいです。

瞑想のシンプルなやり方をルイーズ・ヘイさんは教えています。「呼吸に意識をむけた瞑想を行う。それに慣れてきたら、そこへ自分が望む自像をイメージする。ありありと、そのときの感情・感覚を味わう。これは、エネルギーの周波数を望むものを引き寄せる体験に合わせて調整しているということ(再プログラム)。そしてその次のステップはその現実を創るにはどんな自分である必要があるのか?どんな考え方をし、どんな感情を持ち、どんな行動をすればいいのか?こうして新しい自分を毎日生きる。そこからの意思決定は未来の自分が行う。」と教えています。

ここでは(ここでも)継続が必要になります。継続するためには、人って信じていることしかできないんじゃないかと思います。意志力ではなく。何を自分が信じているのか。これは信じる物事の内容のこともしかりですが、それだけではなく、信じるということがパワーを持っていることが自分の今までの体験を通して知っている、感じられているということが大きいんじゃないかと思います。

道場のワークも同じです。とりあえずやっておく、やらなくちゃいけないではなく、信じていてやっているか、この差は大きいと思います。ワークを続けてきて自分が獲得したもの、感じ得たもの、それは信じることを確かにしてくれると思います。

体験があってこそ
2025/06/30

暑い…毎日、暑い。気が付くと、ソックスのかかと部分だけを脱いで、涼んでいました。暑いのならソックスそのものを脱げばいいのですが、足の前半分は脱ぎたくなくて、かかとのみ脱ぎたい。このスタイルが自然に出るということは私には、もう、夏だということです。

そして、暑い夏に体が欲するポン(タ)ジュース。今年も早速飲んでいます。ちょっと、熱中症っぽい?気持ち悪い、というときに飲むと、すっきりします。

今年は梅雨明けも早いらしく、これから数か月は猛暑が続きそうです。自分なりの、猛暑を乗り越えるものをいくつか持って、過ごしていこう。皆様もぜひ。

そして、暑い夏も、寒い冬も、変わりなく在るのは今の自分の心です。今の自分の心とは、今まで自分で創ってきたものです。自分の内側に向き合うことを続け、自分の内にいるパターンと接し、理解し、それを持ちながら、本当の自分がどうありたいかを考え、選び、そこへの挑戦をし続けることで、少しずつ心を整えていったと思います。

こうして自分が体験を通して整えた心は、元に戻るということはありません。元に戻ることがないことを「進化」というのだと思います。

この、体験を通してというところが大事なんです。例えば、知識だけで話すことって、スピ界にも、カウンセリングにおいてもよくあります。「本当に大切なものは目に見えないものなんだよ」とか「私たちはひとつです。ワンネス」とか「私たちは皆愛されているのです」とかとか。そういう言葉は正しく使われて正しく受け取れれば、その人を進ませることができますが、逆に黒パターンを増長させることにもなります。「え?そうなの?」というところが多くの人の本心だと思います。

で、だから体験なんです。これらを長い時間かけて体験した人が言うからそれは生きたものとなり、それは誰かの魂に自然と届く。ですから、いろんな体験をしてきた自分として存在していればいいし、その人が発する言葉が自他にとってよいです。どれだけの情報や知識を持っていても、話が上手い、話し方を知っている、としてもそこに体験がなければ、机上の学びです。それでは自分にも他人にも役に立っていません。だから体験することです。

思い通りにいかないことも体験、もどかしいことも体験、心が折れることも体験、気付くことも体験、挑戦し続けることも体験、与えられていることを実感するのも体験。全てが必要で、それがあるから、又必要な体験がやってきます。そうしながら私たちは進化していくのだと思います。

何を選ぶのか?
2025/06/28

先日の「あなたは老人なんですよ」という先生の言葉。

それに対して、物質領域に存在していて、そこでの価値を信じているからこそ反発するパターンへの語りかけをしました。

そして「もしかしたら…もう、私は老人ではないと決めつけなくてもいいのかもしれない‥‥‥」も言っています。この言葉を言ったときに、パターンは老人という言葉に反応しているのがわかるし「私」はそうではないものを知っている、というギャップを感じます。どっちでもいいよ、というのが「私」でもある。領域が変われば、何もないので.。

真逆の白パターンは、私は老人である、です。この言葉が存在している位置の清々しさも感じます。さすが白パターンだなとも思った。

で、これらを行ったり、考えたりして、「何を選ぶのか?」というたくさんの選択肢のあるところからの選択という、もしくは新に創るというわくわくするようなところを熟考しました。

まず、現実を歪みなく見よう(年々体力気力は落ちているということ)その自分に合った選択をする(全てをコンパクトにする、本当に必要なものだけを持つ)そして、そうやって削ったことで得た空間や時間は、自分の在りたい自分に向かうことや、そのほかのこの個性が楽しいと思うことに使う。というものでした。

これが「何を選ぶか?」というわくわくするような質問の答えだと納得できました。

‥‥と考えると、鼻の頭に老人性イボができて、受診して、先生の言葉があり、焼き切るをびびりながら初体験し、そこでの自分の弱さを実感し、ということがあったから、何を選ぶのか?がやってきたわけで、全てが必要なことだったとわかります。イボよ、ありがとう。

こんなふうに人って生きているのだと思います。誰でも。だからよく言われるように全てに偶然はない、必然であるということ。そして、必然だと思い、それを起こすもの(与えるもの)が存在していると思うのです。だから、ひとりで頑張らなくていいんです。起こることが起きて、なるようになる、そしてそこには「何を選ぶのか?」という自分の参加という枠も用意されている。

今回の事を通してそう思いました。…とこの記事を書いていたら、ぽろっと、鼻の頭のカサブタが落ちました。ちゃんと代謝している肌にも感謝です。

老人性‥‥
2025/06/27

1か月程前に鼻の頭に黒い点ができて。ほくろっぽいが自分ではわからないので初めていく皮膚科を受診しました。男性の先生でした。

先生は私の鼻の点をじーーと拡大鏡のようなもので見て「これは、老人性イボだね」と言いました。

「老人性…イボ…ろうじん…イボ‥イボ‥老人…ですかあ」と困惑している私に「あなた、69歳でしょ。老人ですよ。僕も69歳でおじいさんです。これはすぐとれるから焼き切って取りましょう」と提案されました。

もともと怖がりな私なので「焼き切る」という言葉に不安感が。すると先生の長年の相棒と思われる看護師さんが「ちゃちゃっとできますから、大丈夫よ。はい、横になりましょう。すぐですよ」と元気にリードしてくれました。その勢いに飲まれ焼き切ることにしました。

「では、はじめましょう」と先生が手にしている細い針状のものが鼻にあたり、ちくっとする痛みが走りました。そのイボが焼ける匂いや白い煙を見て一気に緊張。「大丈夫?」と聞かれましたが「耐えてます」と言う私の顔を見ていた看護師さんが「先生、麻酔を使った方がいいんじゃないですか?痛いと可哀そうですよ」と言いました。「どうする?使う?この人は麻酔なしでもいけそうなんだけど」と先生に聞かれ麻酔を打てば痛くない、と思い「お願いします」と答えました。

「じゃあ、麻酔打ちますよ。麻酔けっこう痛いからちょっと頑張って」と先生が言ったと同時に今までの麻酔なしの痛みよりはるかに強い痛みがーーー。こんなに痛いんだったら、麻酔なしで頑張ったほうがよかったかも…と思いましたが、後のまつりです。そしてものの数分で終了。

後から看護師さんに数日塗る薬の説明を受けました。その時「絆創膏とか貼ってたほうがいいでしょうか?」「お風呂とかいいんですか?」「化粧水も使っていいんですか?」と聞きました。看護師さんは笑いながら「なにやっても大丈夫ですから。絆創膏もいりません。お風呂も化粧水も今まで通りで大丈夫ですから。やけどした状態なので、少しずつ治りますから」と言われました。そういう看護師さんの言葉から私って怖がりなんだとつくづく思いました。まだしばらく鼻の傷が治まるのも時間がかかりそうです。

帰り道、老人かあ、と思いました。自覚しているつもりだったけれど、抵抗していたんだろうなあ、と思いました。パターンへ語ろう。そして、何を選ぶかだな、と思いました。「何を選ぶかだな」と思うとき、私はとてもいい気分になります。推進していく力をそこに感じるからなんだ、ということにも気づきました。

強み
2025/06/24

お世話になっている整体の先生が遺伝について話を聞かせてくれることがあります。

長い長い先祖の歴史(肉体的、性格的歴史)の中に今回生まれてきた私たちです。そこには遺伝が関与していて、遺伝にはたくさんの要素があるそうです。中にはやっかいなものもあるし、手間をかけないと生活できないような遺伝もあるようです。

でも、いつも先生がおっしゃるには「良くないことは、良いこともある。陰陽です」ということです。いわゆるやっかいな、面倒な自分の遺伝的個性。自分でも、嫌だなこれ、何で自分だけ、と思っていても、そこには、それの「強み」があるということです。強みは、ただ、強さなのではなく、才能であったり、特出しているものであったり、魅力であったり、だろうと私は思いました。

この話はいつも腑に落ちます。まさに黒パターンの横にはいつも白パターンがセットであり…という状態と同じと思えるからです。そして、その心の状態はまさに天が人に与えてくれた恩恵であると思うんです。誰でもがまずは黒パターンで生きるのですが、そこにはすでに白パターンが用意されていることに私たちがどれだけ大事に愛されて生かされてきたかを感じます。

で、遺伝の前に。そもそも、何故、この時代に、この国に、この両親の元に、生まれてきたのか?というところがある。もし、違う両親の元であればまた違った遺伝を獲得していると思うし、それにより体験も全く違うものになると思います。でも、この両親の元に来た。それは、ここに来ることが必要だったからだろうと思いました。

無駄は何もない。間違いも何もない。おまけに嫌だな自分のこういうところ、やっかいだな、面倒だなという遺伝として有無を言わさずに与えられてしまったものにも、逆に強みがあり、私たちはそれに変えていくこともできる…と施術を受けながら思いました。

チェロの音色に‥
2025/06/23

昨日は、NHK交響楽団の12人のチェロリストによるコンサートを聞きにいってきました。

会場はおなじみ、茅ヶ崎市民文化会館。カラスに攻撃された公園の向かいです(現場を横目で見ながら)。

1月から不調続きであったときに、動画で見た(というか、聞いた)Jodok Cello(ヨドク・チェロ  スイスのチェロリスト。街中で、大自然の中で(この時はほぼ素足)ジャンルを問わず楽しそうに演奏する)さんの演奏するチェロの音と、彼の様子に、そのときの心が和んでいくのがわかりました。

チェロの音ってこんなにも優しいものだったんだと思いました。弦楽器っていいなあと思う。今まで一度もさわったことのない楽器ですが(よく考えたら全部そうか)機会があれば弦楽器はやってみたい。そういうことがあり、今回、12人のチェロリストの演奏を聞いてみたいと思いました。

曲は初めて聞くものばかりでした。12人のチェロの音には厚みがあり、その厚みはあたたかく、優しく、心身をくるんでくれるようでした。自然と安心感がわきます。

で、聞いているうちに、オーケストラは皆が黒い服を着ている…ということに思いが飛んで…。これ、なんでだろうと。包容力のある音に包まれながら、そのことを考えた。

で、黒い服を着て、黒子に徹する、ということが浮かびました。作曲家のその曲への意図を、演奏者は自分を消して表現するためなのかも、と思いました。黒は自分を消す色かも。目の前の演奏家12人が自分の好きな服をそれぞれが着て舞台に上がり、バッハの曲を演奏したら?それはそれでおもしろいという見方があると思いますが、黒い服のほうが、バッハの思いが表現されやすい気がします。最優先されるもののために色を単一化しておくという感じでしょうか。演奏者同士も、その単一化があることで、意志疎通がしやすい、とか。

又、観客も、黒い服(プラス男性はシャツの白も)という視覚的情報の少なさによって曲に心を寄せられるのかもしれません。

アンコール曲はバッハの「G線上のアリア」でした。それはそれは美しく…を心身に感じながらも映画「セブン」の図書館での場面で流れていたこの曲の事を思い出し…。その図書館のたくさんある机の上に置かれていた緑色のライトの緑色を思い出し…。樹々の緑色にも心和ませてもらってきたということを思い出し、でも、そこでカラスに襲われたことも思い出し、と、思考しながらのコンサートとなりました。

なんだか、頭自体を解放してあげていた気がします。それも、ものすごく贅沢なBGMの中で。良い時間を過ごすことができました。

白パターン
2025/06/21

何故、白パターンを選ぶのか?

白パターンは正しいから…ではないです。今までの(今の)自分の状態が黒パターン側に偏っているからです。その偏りに縛られて、それが当然と思っている、だから仕方ないと決めていることで現れている現実を変えていくためです。それは黒パターンが動機になっているので、すっきりとした感情でいることができません。黒パターンの感情はそういうものだから。

その(極度な)偏りに在り続けている自分という意識を動かしていくために、黒パターンの反対側にある白パターンを選ぶということをやっています。今まででは選ぶということすらなかったかもしれません(気づいてはいても)。しかし、学んでいくうちに選ぶことが自分にできるということが理解できます。その体験の現われ自体が白パターンを選ぶということです。

そこには勇気がいる。怖いかもしれない。やってみたけれどうまくいかないかもしれない。継続しなくてはいけない。強い意志を持って。と、大変…と思うかもしれません。しかし、この、大変と思っているのも黒パターンで「私」はやりたいのです。今世こそは!

そうやりながら、今までは黒パターンでは体験できなかったことを体験していく。それは、やはり気分のいいものです。ということは、それが今の自分の真実であり、それをやりなさいと言われているということです。そうやって、バランスをとっていきなさいということだと思います。

そして、それはゴールではなく、そのあとも新な展開がやってきます。

というように、白パターンを選ぶということは、とても深い意味があるんです。これがあって、新な展開、新な気づきが与えられます。そうなってくると、ますますおもしろいと思います(興味のある方にとっては…ですが)。白パターンを選ぶことは、その後ろにはあるものが控えているということを時々思い出してみると、いいと思います。

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