ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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子供のころに・・・・
2019/02/18

自分が何をやりたいのか(好きなのか)がわからないときには、子供の頃の自分を思い出すといいと言われたことがあります。幼稚園の頃〜小学3年生頃までの自分かなあ。そこには無条件に自分が好きなことがあらわれているそうで。

私はどうだったかと思い出してみました。とにかく動物が好きでした。あと、虫にも興味があって、さなぎを見つけて家にもって帰り、ガラス瓶に入れて飼いました。ある晩、羽化したのですが、蝶ではなく、蛾でした。瓶のふたが開けっぱなしになっていたため、その蛾がばさばさ部屋の中を飛び回り、母がギャーと言ったのを覚えています。それ以来、さなぎは持ち込み禁止となりました。

かたつむりを育ててそれが卵を産んで小さなかたつむりがたくさん生まれてきたこともありました。うれしくてうれしくて学校にそれを持っていったら、男の子たちから「女が虫を好きなのは変、変態、変態〜おとこおんな〜」と言われ、それ以来虫は封印しました。ここで強さがあれば女性ファーブルと言われるようになっていたのかもしれませんが、みごとに他人の価値観に打ち砕かれました。小学校の3年生くらいのころのことです。

絵をかくこと、歌を歌うこと、踊ることも好きでした。小学校の2年生くらいまでは、ペンキ屋さんになるのが夢でした。毎日、大きな絵がかけて楽しそうと思っていました。

・・・・と自分の子供の頃に好きだったことを思い出してみると、それをそのまま今までつなげてきたものもあるし、あきらめてしまったこと、やらなかったことなどもあります。

自分の子供だった頃に好きだったことは、経済活動ではないし、義務でもありません。それをやっているときが楽しくて、好きだったことです。そう思うと、それらの中に本当の自分の個性が光っているように思います。

ちょっとわかりにくいかもしれないけれど・・・
2019/02/17

いいあんばいで全てが、まあまあ、それなりにまわっていれば、今のままいけばいい・・ということを自分の指針にして生きています。

そんなことを指針にしていいのか、それはただの思い込みではないのかと思う方もいると思いますが「こうなんだ」と自分で決めたものごとはそうなるということなんです。だから自分の「こうなんだ」を決めていけばいいということが言えます。

何か、いいあんばいの状態から外れてしまったら「何が間違っていたんだろう」と考えています。「何が間違っていたんだろう」これを思い、考えていくと、それを教えてくれる出来事にであったり、人にであったり、何もであっていないのに、なんかこれは解決にいくな、と思えたりする。

これはきっと「何が間違っていたんだろう」という言葉と思いの中にも、この言葉を使うときには「こうなんだ」が造られて、存在しているのだと思います。

「何が間違っていたんだろう」=今の自分の反省と元に戻すことへの努力をすれば、外れたところから、元のところへ帰れるということが「こうなんだ」ということ。

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、自分で決めたものにはその力があるということです。人ってそういうふうに創られているのだと思う。

何か小さなことから、これを体験してみると、信じられると思います。

ホテルにて
2019/02/16

盛岡は寒かったけれど、お天気に恵まれ、助かりました。

去年よりは道の凍結も見られず、おかげでそれほど恐々ではなく、歩けました(と言っても大した距離じゃないんだけど)去年は焼き肉屋さんの駐車場からお店の入り口までの数メートルを、転ばないようにとよちよちと歩いていたので、だいぶ今回は違いました。

岩手では、夜、ホテルの部屋でテレビやルームムービーを見ることがあるのですが「へぇーーー、そーーなんだ」というプログラムにであいます。岩手ではそれが多いです。

それは、あるときにはある方へ渡すべき誰かの言葉であったり、新な試みを見たり、今、考えていることがクリアになる内容のものであったり、いいなあ、と憧れるものなど、色々です。

今回は「又吉直樹のヘウレーカ!」という番組で、ピアノを弾くことで脳や身体にどんな変化が起きるのか、というお話を、音楽演奏科学を研究する古屋晋一さんがされていました。

その内容も「へぇーーー、そーーなんだ」というものでしたが、そこに70歳の男性の方が登場。その方は65歳からピアノを習いはじめて、番組内でショパンの曲(ノクターンbP2番)を楽譜なしで弾いていました。65歳から始めて、すごいなというのもありましたが、その弾いている姿や、その音色から「どうだ、すごいだろう」というものが全く感じられず、まるで、ショパンとその男性とが対話しているような感じでした。

その方の在り方が音にあらわれていて心をひきつけます。ショパンと自分とで時間を共有しているのが贅沢です。

この男性の前には小学生の男の子が登場し、それはそれは素晴らしいテクニックでブラームスの早い曲を完璧に弾きました。それも「うーーむ」と唸ってしまうほどでしたが、その男の子が70歳の方のショパンを聞いて「自分が大人になったときに弾いてみたいです」と言っていたのを聞いて、こちらのほうにもびっくり。小学生でありながらすでにそんな感性があるのか・・・・とこれからが楽しみな小学生でした。

ピアノっていいなあと思いました。年齢関係なく、人を育ててくれるものです。物理的に脳の働きが良くなる、従って身体も良くなる、ということだけではなく、人の精神性を育ててくれます。そして、それはいくつになっても可能なことです。これはピアノだけではなくて、芸術と言われるものは全部そうですね。

今回もよかったミニホテルライフ(?)また4月も何か見よ。

如実知見
2019/02/12

「自分はレベルが高い」「高いレベルの自分が選んだものはレベルが高い」「自分には高いレベルの人、ものしか必要ない」というパターンは、パターンの判断したレベルの低いところには何も自分に必要なものはないと思っていて、自分のレベルにはそれは無価値だと思っています。

従って、レベルが低い(とパターンが思っている)人達を下に見たり、レベルが低いと思っているものごとを軽蔑したりします。しかし、それはパターンの信じているレベルなので、とても狭く、小さな世界です。その狭く、小さな世界で一生を終えるというのも魂の体験としてはありなので、それがだめとは思いませんが、もったいないです。

私が最初に知った、マスター級言葉は「「如実知見」(何にもとらわれずに、ただ、あるものをあるがままに知見すること。そのまま知見するからそこに苦しみがない)でした。これは今でも当時以上に私の中で息づいている言葉で、自分の成長・進化というのはいかにここに近づけるかというところのものだとも思っています。

この言葉、一体どんな高いレベルの師から教わったのか?どんな高尚な本に書いてあったのか?と思うかもしれませんが、それを教えてくれたのは、当時(多分、20数年前)我が家で、時々、読んでいた「ビッグコミックオリジナル」(小学館)という男性向け漫画誌に連載していた「浮浪雲」(ジョージ・秋山)という漫画でした。

トミーが時々買ってきていたので、その時には、私も読んでいましたが、男性向け漫画誌なので、女性が買うものではなかったと思います。で、ある号の「浮浪雲」の中にこの「如実知見」が出てきたんです。

そのころは、カウンセリングを学んでいた頃だったと思いますが、この言葉の意味もそこには書かれていて「よくわからないけれど、いつか、そうなりたいなあ」と憧れをもちました。それを得るためにどうしたらいいのか・・・と考えなかったのは、この境地はまだまだ自分がいかれない境地だとわかっていたからだと思います。先生からいつも自分を見るようにと言われていたのでまずはそっちだろうと思っていました。

このとき、もし、男性向け漫画誌を軽蔑していたら、こういう漫画誌はレベルの低い人が読むものと決めつけていたら、多分、この言葉とであうことはなかったと思います。私の自己探求はここから始まったと言ってもいいぐらい「如実知見」は私のテーマであり「魂の道場」のベースです(ビッグコミックオリジナルに感謝です)

昨日も書きましたが、あらゆるところに師はいます。偏見という黒パターンを選んでしまっていることで、出会えないということも起こり得ます。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。今年初の盛岡クラスです。楽しく、皆さんがまた1年学んでくださることを願っています。クラスの皆さんには今年の抱負をうかがうので準備しておいてください。あとは・・・凍結した道でころばないように注意して、よちよち歩きで・・・行ってきます。

師はあちこちに
2019/02/11

学びには、欲しい知識を手に入れるということがあると思います。例えば今の自分の仕事のスキルとして新な知識を学ぶ、とか、興味があることの知識を得るとか、困っていることを解決するために知識、情報を学んでそれにいかす、など。それはひとつの学びです。これは誰でもが日常的に使っているものです。

そして、そうではない学びというものがある。それは主に、自分の内側にむけてのものであり(目には見えないものを学ぶ)自分を知り、自分を変容させていくための学びです。

そして、この学びは、冒頭に出てきた学びとは違って、学ぼうと何かに挑むのではなくて、教えてもらえるように、気付けるように、受け取れるようにという自分の姿勢というものが関わってくるものです。そして、これはどうもその人に準備ができたときにその機会を与えられるもののようです。準備ができたときって、自分で判断することではないので、だとしたら、一体誰が決めているんでしょうね。

私は、実は、ここがとても気にいっているところで、人生の面白さを感じます。自分に準備ができれば自然と次の扉が開いて、そこに師が現れるということを今まで体験してきて、それはいまだに継続中です。その体験で学んだことは「ひとりで頑張らなくていい」ということと「人生とは自分の取説を創り、それも使って幸せに生きる」ということです。

自分の姿勢(真摯に自分に向き合い、自分を変容させていきたいと願い続ける)に対して、何かがちゃんとその道筋を創ってくれて、それに素直にのっていけば今の自分に必要なものごとはちゃんと与えられます。だから楽。挑みという力みを使わなくていいからです(白を選び続けるという努力はあるけど)

多くの人がいつも何かを得よう、得ようとしている気がします。それも、こういうものを得るために、と得るものを決めています。この人からは、思い通りの得るものがある、この人からはない、この本には自分の欲しい得るものがある、これにはない、この会合だったらメンバー的に何かが得られる、こちらはメンバー的に見て意味がない、とか。

これをすれば、これが得られるというパターンに突き動かされているので、自分に向き合うということもこれと同じ脳で行ってしまう。するとそれはうまくはいきません。教えてもらえるように、気付けるように、受け取れるようにという姿勢がそこにはないからです。

ここでの姿勢は、得る/得ないというところの話ではないんです。そこへの執着とか、そこで使う思考とか、脳を手放していることが大事です。そんな柔らかな、あいまいな、よくわからない、でも願い続け、ちゃんと生きる心でいることで教えてもらえる、気付ける、受け取れるという機会を与えられます。

師はあちこちにいます。そんな中で最も偉大な師は自然界に生きているものたちです。彼らは教えようとしてくれます。だからそれを、教えてもらえる、気付ける、受け取れる心を私達は創っていくことが大事です。

その方達は表にあらわれることなく
2019/02/10

この世界には、誰にも知られずにひっそりと、地球と天への感謝と祈りをささげ、その生き方をしている方達がいる、と思っています。そして、そういう方達の力でこの地球はまだ存在してくれているのだと思います。その方達がいなければ、もうすでに地球はなかったかもしれません。

その方達は特別な人ではなく、普通に生活をし、もしかしたら、ずっと病院のベッドの上から、又は、ぎりぎりの生活の中で、地球と語りあい、天の意思に沿って生き、天と地を結ぶ役目も背負ってくれているのだと思います。

その方達は表にあらわれることはなく、ましてや「私、こんなことしています。そしてこんなメッセージをもらっています」とは言いません。「魂の道場」やってます、なんて言わないんです。それゆえ本当の魂力をもっていてきっとその人たちの祈りは全て「それが神(天、宇宙)のご意思であれば・・・」」という言葉がついているもので、自分と自分の家族の幸せは祈らないのだと思います。あきらかにミームの違いです。

で、私は思ったんです。私はそういう方達の足をひっぱらないように生きようと。今の私にそれだけの力はとうていないので、自分のできることはなんだろうと思ったときに足をひっぱらない生き方をしようと思いました。そういう方達の健康と幸せも日々の祈りに入れてサポートできるだろうかと思っています。

だんだん自分というものから離れていくことにより、広い世界を見ていくようになるんだなあと思います。地球規模で見たときに自分ができることはなんだろうと、考え、それを実践し続けたいと思います。地球の手伝いをしている方達の手伝いが少しでもできるようになりたいです。

謝る
2019/02/09

「原因と結果」・・・これだけ・・・です。すっごくシンプルな宇宙の法則。

いままでの自分に起きてきたこと、周りの人々に起こること、それらを合わせてみればそれしかないと思います。マスターたちもそう言っています。

「どうして、私はいつもうまくいかないんでしょうか?」と聞かれることがあります。「そういう結果を受け取る原因があったから」です。

多分、ご自分でもわかっているのではないかと思います。わかっていなかったことも、結果に苦しんで、わかる、ということもあります。

私は特に悪いことはしていないのに、と思うかもしれませんが、社会的に悪いことをしていないということではなくて自他への思い、言動、身にしみついてしまっているクセ(パターン)などの原因にそれに対しての結果がそのとおりに与えられて現状になっています。ここは誰も逃げることができなくて、誰にでも平等に起こります。

自他に対して、言うべきではないことを言っていたり、やるべきではないことをやっていたり、思っていたり、考えていたり。特に他に対してのことはキョウレツに結果としてやってきます。だれでもこれはおぼえがあるのではないかと思います。今までに、誰かにひどいことを言ってしまった、やってしまった、それも、その人を傷つけるようなことをわざと言った、やった、とおもいあたることがあるときには、まず謝ることです。もし、その方がいるのなら直接。もし、すでに亡くなっていたり、遠方にいらっしゃるのなら、心の中でその方をイメージして謝ります(そのときに言い訳などしないで。言い訳はまだ自分が正しいと思っている)

自分が誰かから同じことを言われたり、やられたりしたらどんなに傷つくか、と思います。そんなことも感じながらきちんと謝ります。そうやって今までのカルマを自ら自発的に軽くしていきます(そうやっていかれればラッキーということではありません)

正しく生きるということはとても大事なことなんです。自分自身に恥ずかしくない生き方をしていくことが何より大事です。そのためにも自分の観察は欠かせません。

浮き草のように・・・
2019/02/08

青いキャンバスに一筆書きのような雲(たぶん、ひこうき雲?)写真の整理をしていたら出てきました。

この写真は2009年の12月に撮られていました。

今年の12月で10年となる。当時53歳の私。そのころの自分のことも振り返ってみました。

まだまだ体力も気力もあったころです。その後、55歳頃から更年期でつらい時期を過ごすことになりましたが、今思うと、このつらい時期がより自分を内省するための時間に使われていたことがわかります。この10年は、私にとって、自分を変容させた10年だと感じます。

具体的には、いろんなこだわりをひとつひとつ手放していったということです。自分へのこだわり、カウンセリングへのこだわり、家族や、クライアントさんへのこだわり。そのこだわりを手放すことでより軽くなり、柔軟になっていきました。それは、ゆだねるという事にもつながり、ただ、正しく生きること、自分の愛を深めること、それを他のために使うことだけをやってあとは天にゆだねるという在り方におちつきました。

地上で生かされている私達にはこれだけを踏み外さないで生きれば、大丈夫、と言っても過言ではないと思います。

これからの10年は(仕事を与えていただいている間はしっかりと働きますが)浮き草のようにいたいです。風の吹くまま、気の向くまま、心の声を聴き、魂の衝動のままに。

まず、自分
2019/02/07

誰でも、他人に優しくありたいと思っています。それは本当の自分「私」が持っているものだからです。命である「私」、そこにあるものだからです。

それなのに、他人にその優しさを向けられないのは、皆、自分のことだけでいっぱいいっぱいだからです。これはごく自然なことで、その状態で他人に優しくなんてできません。そういう意味では、とても素直に他人を捉え、他人に接しているとも言えます。しかし「私」はそうではないよなあ・・・と感じています。

その自分のなかの不一致が続くことで人はより自分だけを守ろうとするようになってしまいます。これもごく自然なことだと思います。

本来はこうありたい、というものがあるのにそうできないのはパターン=自分だと信じている、決めている、長い間そうやってきたのでそれが身についてしまっている、からです。

しかし、パターンは自分ではないんです。「自分はだめなのではなくて、自分はだめだというパターンがあるだけ」です。そしてそれを選んでしまっているだけ。それを選んでしまえば苦しいわけですから、どうしても自分のその苦しみを消そうと常に自分のことでいっぱいいっぱいになり、他人に優しい思いを持つことなんてできません。

だから、まず、自分に優しくしてあげてください。自分のなかのたくさんの苦しんでいるパターンたちを全てそのまま愛してあげてください。そこには練習が必要ですが、やり続ければ、そのようになっていきます。

そうすれば自然と、他人へ素直な視線を向けることができるようになります。そして他人の痛みがわかるからその人に優しくしたいと思えます(優しくしなきゃではなくて優しくしたいです)

まず、自分です。そこで「私」は力をあちこちにおいて発揮していくことになります。

おつかれさまです。
2019/02/06

外に出れば、いろんな人とすれ違います。又は電車に乗れば多くの人を目にします。

そのひとりひとりがそれぞれの過去世を持ち、そこでの体験を持ち、それぞれの課題(パターン)を持ち、生きているということがとても身にしみます。それこそ今生きている人(亡くなった人もか)は全てがそうで、大人、子供、赤ちゃんの区別なく、人であるということはそういうことです。

この人も、前世からのクリアできない課題があってまた今世ここに来ているんだよなあ(私と同じように)と見ず知らずの人、誰に対してもそう思う。すると、心から「おつかれさまです」という気持ちになります。

特にクライアントさんは面とむかってお会いしているので、時々そちらのほうへ意識が向くことがあります。ずっと過去の課題を背負ってきた魂、その背後にたくさんの体験があり、それはとても巨大なものとして、時々押しつぶされそうな気持ちになります。その人の持っているものがあまりに巨大で。

そして、そこへ目を向け、そこを感じていくと、いわゆる皆が興味を持つところのこと(どんな仕事している、とか、年収がある、とか、学歴がすごい、とか、何ができる/できない、とか、他人に認められている/認められていないとか、・・・)はどうでもよくて、ただただ、お互いに多くのものを背負ったね、という気持ちになります。背負っているものの違いはあるかもしれませんが、人間として背負うことの大変さは一緒です。

それでもその背負ったものを放棄することなく、今世も自分が望んでクリアすべくそれと共にここに来ている。人間はすごいと思う。私たちはきっと自分たちが思っているほどヤワではない気がしています。私たちの本質である魂は図太い。そして、他人はどの人も同志。自分と同じようにずっとクリアできなかったパターンをクリアしようとする同志です。そんな目で他人を見てみるのもいいと思う。

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