ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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神聖なものへ向かっているから
2018/08/15

ワークを「やれやれ」と私に言われるからやる。面倒だけど、本当にこんなので変わるのかわからないけれど、もうすでに〇年もやっているのにちっとも変ってないけれど、でも「やれやれ」とうるさく言われると思うと思います。しかし、私はこの在り方を今のところは変えようとは思いません。

なぜならば、こんな面倒なことは誰も率先してひとりではやらないでしょうから。

人が自分を成長・進化させたいと願い、そのための新なスキルを身につけるには「やれやれ」と強制的にやらされる時期も必要で、私はそこの担当だと思っています(くどいけど今のところ)

なんでこの担当を受けもっているのかと言うと、自分の体験から、又は私の前を歩んでいらっしゃる方々から、成長・進化を望んで自分の心に向かう作業は神聖なものへと続く道であることがわかるからです。そこへ向かうことは人々の憧れでもあると思いますが、そこには覚悟と厳しさが当然必要になります。

それをひとりでやるということはよっぽどの魂の人だと思います。私も含めほとんどの人はそのレベルの魂ではないので、自立できるまでは、やらされる、というところを使ってでも、やっていかれればと思います。

これは芸術も同じです(だから自己探求をされている方に、本当の芸術に触れるようにとすすめているんです。そのものと対面したときその一瞬はそれのもつ神聖な領域に自分の意識が運ばれています。無意識であってもそれに触れることはよい影響を与えてもらっています)芸術という自分を超えたものに触れることはそこにある神聖なるものに触れることになります。だからピアノの先生とかバレエの先生は厳しいんだと私は思っています。神聖なものに対しての在り方を教えてくれているのではないかと思うんです。

私も「やれやれ」と言い続けられるうちは、これでいこうと思っています。

大丈夫、私にはワークがある
2018/08/14

「呼吸をするように語りかけをする」と昨日いらした方と話ました。

ついつい、語りかけしなきゃ、やらないと成長できない、やるしかない、やらないと嫌な感情から解放されない、やらないとまた伊藤洋子がやれやれとうるさい、などなどと思ってやる語りかけには、力みがあり、やらされている感があり、深刻さと重さがあります(厳密にはそういうときにパターンへ語りかけるのをしているのはパターンです)そうなると、語りかけの面倒くささと義務感しか感じられず、やるのが嫌になると思います。

私は、何かひっかかった→では「私」がやろう、ということだけでやっています。軽さと普通さでやっています。これを続けていくと、まだひっかかる/ひっかからなくなった、というところはどちらでもよくて、困っていい、悩んでいい、だって語ればいいだけだからというひとつ超えた心持になります。

で、気付いたのは、ひっかからなくなるから楽なんじゃなくて、困っても悩んでもネガティブな感情にのみこまれても、思考ぐるぐるになってもいいと思えるから楽なんだということです。

人である以上、困ることも、悩むことも、ネガティブな感情に飲み込まれることもあります。それは自然なことです。人は、そもそもそういうものだからそこには抗わないというところがまた楽なんだと思います。

どうなっても大丈夫、私にはワークがある、というところまで使って練習して自分のものにしていかれるといいです。これは10億出しても買えないツールです。これを持って人生という河をわたっていく。

神秘体験 
2018/08/13

神秘体験というものがあります。

それはすごいことのように思いがちです。特にそういうことを望んでいる人や、そういうことに憧れを持っている人にとっては(そういう方はどうしてそれを望んでいるのか、憧れているのか、と自分を観察してみてください。それはどこからきているのでしょうか)

そういう人達にとっては神秘体験をした=神に選ばれた、特別な力がついた、何かのメッセージだ、と思うかもしれません。それを信じてしまうと、またそれを欲し、その確認がしたくなります。そして、日々の生活の中に何かそこに関わるものごとをみつけようとし、ものごとに意味を見つけようとします。

神秘体験は、けっこう普通にあると思います。もしかしたら気付いていないだけかもしれないし、気のせいだろうとすませているかもしれません。

しかし、もし、そういうことを体験しても、自分の黒パターンが落ち着くわけもなく、白パターンを選べるようになるわけでもなく、ましてや神の資質で構成されている「私」が大きく育つわけでもありません。何も変わらず、今までの問題をかかえた自分がいます。又、そこにのめり込むことで優越感を伴う黒パターンを大きくしていくこともあります。

神秘体験で、幸せになれるというものではありません。逆にそこには怖いものもあります。そこにのめり込んで、壊れていった人達を今まで見ました。そして、そういう人達を金づるとして自分の利益のためにうまく利用する人達というのも見てきました。又は、自分が体験した神秘体験が素晴らしいものだったので、それを皆にも体験してもらいたいと素直に思っている人もいます。これは素直であるがゆえにまた困ったものです。

いずれにしても、神秘体験をしたいという動機で行うことにはかなりリスクがあります。目に見えないものは難しいです。

現実的なこと
2018/08/12

「悟り」というと、ものすごく崇高で、特別なことをイメージするかもしれません。

だとしたら、こんなに平凡な自分には縁遠いものだろうと。私は、今は全くそう思っていなくて(昔は思っていました。それがほしく色々とやりました。それが得られれば、この苦しみや問題が消えるだろうと思っていたからです)「悟り」はそれぞれの中に起きた「気づき」だと思っています。

気づきは違う言い方をすると、視野の広がり、意識の拡大、深い理解、大きな目で物事をとらえる力です。それは今まで自分がいたところを飛び出し、新な領域に足を踏み入れたと言えます。自分の枠を自分で超えたということはすごいことなんです。それが小さな気付きであっても、その人は自分の世界を広げているので、それはその人の「悟り」です。その体験を積みかさねていく「その人の気づき、悟り」それで十分です。

それは実生活にきっといかせるものであり、何か困ったことがあったとき、大事なことを決めなくてはいけないときに力になります。そうやって自分の能力にも善き影響を与え、それは家庭でも仕事場でも自他の為に使われます。自分だけのものではない「悟り」こそ私は尊いものだと思っています。

一般的にイメージしている「悟り」は光に満ちた、静寂と、やすらぎ、ネガティブなものごとは消え失せ、神から愛されている感覚、大いなるものに守られている感覚、というものがあると思いますが、これらはあくまでもイメージでしかありません。そして、これらを体験するためには、自分の能力を育てていくことなんです。それがあって、自分の内側からそれを自分で創れるんだ、自分で創っていたんだ、ということにもまた気づいて(悟って)いきます。そうなれば、ますます、もう、外側にそれを求めなくていい、「悟り」のセミナーに高いお金を出していく必要がない、本をやたら読むこともしなくていい、先生も必要ない、ということにもまた気づき(悟り)ます。

「悟り」は特別なことではなく、また、神の世界に入ることでもなく、神から愛されていることを確認できる場所でもなく、自分がどれだけ自分の世界を広げていくかという、とーーーーっても現実的なことです。

愛しかない
2018/08/11

盛岡は秋でした。

台風の影響も受けることなく、秋晴れの日でした。青い空に青い山々。茅ヶ崎では見ることのできない風景に、暑さで疲れていた体もクールダウンしていくようでした。よかった。

しかし・・・・・帰ってきたら、予想はしていたものの、やはり暑い。暑すぎ。もうしばらくは続くのでしょうかこの暑さ。

「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス著という本を読んだ方は多いと思います。先日、私もまた読み返していました。

その中で最も心に残った言葉は「愛こそ、さとりへの完全な道です。」これは「さとり」の部分を「自由」「平和」「やすらぎ」「自己実現」「意識の拡大」「深い理解」「慈悲」「許し」「解放」「成長・進化」「創造」「人間関係」「お金」「仕事」「健康」などの言葉が入っても成立します。結局、全て愛に基づいて創られていく。だから愛のないところには創れない。これだけです。たったこれだけ。

一見それっぽいものは作れる、だけどそこに継続性や正しさ(「私」が喜び、私たちを送り出したものが歓迎するという)や安全性ややすらぎがありません。

そして、「さとり」にしても「自由」にしても「自己実現」にしても、愛を使わないで創ろうとするから、苦しくなる。それは、愛でしかないこの宇宙に反することをしているからです。だからこの宇宙のルールに沿った生き方、在り方をしようと言っているんです。これもたったこれだけ。

しかし、愛を使うということがよくわからないというのもあると思います。ですから、その体験が必要になります。

そ・こ・で・まずは自分に目を向けて自分を愛することをやってみます。自分の中に起きていること全てをただただ愛すること。これはいいけどこれはだめとジャッジすることなく、人を恨む部分(パターン)も、自分を嫌う部分も、自分はだめだと言う部分も、パターンを嫌う部分も、それらすべてを愛することを体験します。語りかけはこの愛の行為です。愛することがわかりにくい方は、理解すること、許すことととらえてみるとわかりやすいかも。

そこへ意識を向ける、そこへ注目する、ということでパターンは認められたことへの安心により落ち着いていきます。誰だって無視されるのはいやでしょう?それにより、愛するということがわかってくると思います。あとは実践。

あらゆる問題は(個人から世界全て)愛が足りていないことから起きています。

自分を肯定できるように。
2018/08/07

自分のここがだめ、自分のここが嫌い、と誰でもが自分の欠点(?)を言います。

それらを理想の形にできれば、自分を肯定できるようになるのに・・と思います。しかし、これは際限がないということがおきます。理想の自分はそれはそれは大きなものなので、人生全てをかけてそれをやることになってしまうかも。

ある男性が、自分の納得いく自分になったらお坊さんになろうと決めて、次から次へと自分を理想の自分になるであろうことをしていくうちに彼の人生は終わってしまいました、という昔の話がありましたが、まさにそうです。

この、パターンが言っている理想の自分を目指すことは無理だし、そこではありません。今の自分の全てをひっくるめて「私」が見守れることが自分を肯定するということです。そういう意味では自分を変える必要はないという事も言えます。だから、自分の中へ入っていくこと。自分の心全てを抱きしめてあげられるようになることなんです。自分を肯定できるように。

今日はこれから岩手盛岡へ行ってきます。台風が接近しています。どうぞ皆さま注意してお過ごしください。

花火大会
2018/08/05

きのうは茅ヶ崎の花火大会でした。何もない茅ケ崎市にとってこの花火大会は外から人が来てくれる大イベントのひとつです。

しかし、財政が苦しいのか、はっきり言って・・・・しょぼい・・・・それでも、最初と最後は豪勢なので、そこだけ見ればいいか、と年々なっていっています。

そんな花火大会ではありますが、花火を見るたびに父のことを思い出し、そのひとときは私にとってはよい時間です。

父がずいぶん前に戦後、初めて見た花火大会のことを話してました。まだ、生活もままならない、終戦後、初の両国の花火大会。父は母の実家の3階にある小さな物干し場から、家の影になって半分しか見えない花火を母と母の家族と見たのだそうです。それは、自分が子供の頃に両親に連れられて、多摩川に花火を見に行って以来だったそうで「ああ、これからは平和になっていくんだ、これからは仕事もできるんだ、これからは自分の時間も持てるんだ」としみじみと思い、元気が出るようだったと話していました。

半分しか見えない花火なのに、今まで見たものの中で一番きれいで、印象深かったと話していました。この話とこの話をしている父の様子とが、しょぼい茅ケ崎の花火の中にうきあがります。

私たちは今平和に生活ができていて、自分のことを考え、自分のために使う時間もあります。それはあたりまえではなくて、父のような思いをした方たちにとってはあり得ないくらいの贅沢です。この恵まれている今を、大切にしていきたいものです。8月は広島、長崎に原爆が投下された月です。8月の持つ重さと痛みも心にとめながら、1日1日を大事にして過ごす月にしたいです。

幸せ感に満ちた心になりたい
2018/08/04

昨日書いた「どうありたいか」は…本当にどうありたいのか自分…と自分をみつめたときにでてくるそれのことです。

こうありたい、ああありたい、と色々出てくるものをより削ぎ落していったときに、たぶん、多くの方は「やすらぎのある心でいたい」「安定した心を持ちたい」「幸せ感に満ちた心になりたい」あたりが出てくるのではないかと思います(そうなりたいがためにまずは自分の外側にあるものでそこにつながりそうなものを探そうとするというのが昨日の話でした)

この思いは、長い長い人の歴史の中でずっと課題とされてきたものだと思います。どの時代の人々もそれを求め、生きてきたと思います。それを宗教に求め、哲学に求め、あらゆる学問に求め、生きてきた人の歴史です。

で、そこを求める人が常に持ち続けることとして「どうありたいか」です、ということです。これはもっと平たく言ってしまうと、自分が黒パターンを選んでいきたいのか、白パターンを選んでいきたいのか、をいつも選択していくところにそれは現れているよ、ということです。

白パターンを選ぶということは、良心に基づいたものを選ぶとも言えます・・が・・ここがはじめのうちはわかりにくいかもしれません。いかにも良心っぽさがありながら黒パターンだったりすることがあります。そのために自分でしっかりと自分の中を洞察するスキルは自分で育てていかなかればなりません。

いずれ自分のその傾向とか、クセとかも見えてくるので、だんだんそこには惑わされなくなっていきます。そうなるとよりクリアに自分の「どうありたいか」がわかってきます。そこから視線を外さないこと、ぶれても、落ちても、自暴自棄になっても、そこに戻ればいい(だけ)ということはぶれること、落ちること、自暴自棄になることもおそれなくていいということです。

という自己探求の道。時間はかかります。意志力も必要です。でも、挑戦する価値は多いにあります。そこに現れてくる世界を体験することは、まさに幸せなことだと思います。

どうありたいか
2018/08/03

誰でもが(私もかつて)自分の外側に自分を幸せにしてくれるものごとを探そうとします。

それが他人であるときもあるし、仕事とか、趣味とか、お金や物とかとか。とにかく、自分がうつうつとしたり、もやもやしたりしないで、すっきり、いい状態でいられるものを探します。反射的に。反射的というのは、反応のようなものなので、そこには、何故自分は今それをやりたがっているのか、という自分からの自分へのアクションがありません。それぐらい自分のうつうつ、もやもやは誰もが嫌なんです。

そして、みつけたそれも当初は楽しいんです。それは自分の生き甲斐のようにさえ感じられて、これで自分はもう、うつうつ、もやもやから解放されると思います。しかし、暫くすると、あの、うつうつ、もやもやが再びあらわれます。じゃあ、新しい何かをまた見つけようとして、また他のものごとにはまります。そのときも当初は楽しい。なんだ、これだったんだ、自分が本当に好きなこと、自分に合っていることって、と思うのですがまたしばらくするとうつうつ、もやもやが現れる。ということを繰り返します。

そして少しずつ気付いていく。自分の心の安定は外側に求めてもないんだ、ということに。自分の心のやすらぎは外側にあるものでは得られないんだ、ということに。ここへの気付きは、戸惑いもあると思います。たぶんそうなんだろうなあと感じるものの、ではどうすればいいのか、というやっかいな問題が次には出てくるからです。

私もここからが大変でした。たくさんの本を読み(当時、情報は本からしか得られなかった)いろんなセミナーに参加し、特別な力を持つ先生を尋ね、通いました。そうしていくうちに、本来やるべきことが少しずつ見えてきました。あらゆることをやり過ぎてより状況を複雑にしている自分にも気付き、必要なものだけへと削いで削ぎ落していくことで、すでに用意されて与えられているシンプルな道が近道であることもわかりました。

それは「どうありたいか」という視点だけでいいということです。ブレても、落ちても、自暴自棄になっても、この視点に戻れればまわりの膨大な情報に飲み込まれることがなくなっていきます。「どうありたいか」は「私」そのものです。そして、その意思にそっていくうちに少しずつ心のやすらぎを感じられるようになります。

そこに目覚めていく人たちが増えていくことを願っています。

感謝にあたいすること
2018/08/02

この時季さいこーーーに気持ちが良いのは、お風呂上りにベランダに出て、海からの夜風にあたりながら、家々の灯りを眺めることです(お酒が飲めるのなら、ここで一杯、といきたいところです)月が出ているときには、暗い海にうっすらとその光がうつり、幻想的です。

灯台の光を見ながら、今日も無事に1日がおわった・・・と感謝の気持ちにつつまれます。こうして、つつがなく毎日を送れることは、当たり前のことではなくて、感謝にあたいすることです。

先日の豪雨でいまだに家に戻れない方や、家そのものを失った方、仕事や健康を失った方、ご家族や友人を失った方、などなど、これからどうしたらいいのかという不安と絶望の中にいる方々もたくさんいらっしゃいます。そういう方々のことを忘れてはいけないと思います。

「よかったあ、自分と自分の家族は幸せで」という自分と他人を分断するような思考がひいては、私たちをおくりだした源とも自分を切り離していってしまいます。全てのものとつながっているから生きていかれるこの世です。

今日も住む場所があり、仕事ができること、ご飯を食べられることに感謝して過ごしていきましょう。

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