ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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マスターのようになりましょう・・ではない
2017/08/11

一生懸命にワークに取り組むという姿勢は、素晴らしいと思います。

しかし、力み過ぎてしまうこともあります。そこも含めて自分を観察するといいですね。

力み過ぎてしまうときというのは、焦りや不満やわずらわしさ、追い込まれる感じなどの感情が湧きだしているかもしれません。それらを生み出しているパターンは何なのか。例えば、早く成長したい、早く変わらなくてはいけない、早く超えたい、早くひっかからなくなりたい、こんなにやっているのに・・などかもしれません。

これらは全て黒パターンです。このへんが騒ぐと、焦りや不満やわずらわしさ、追い込まれる感じなどの感情を感じると思います。だとしたら?ケアして、これは選ばない、白を選んで、ワークをするということです。これらの黒パターンを動機にしやすいというのはありますが、それは違っています。

又、マスターたちの動画を見たり、本を読んだときに受け取るイメージというものは、誰にもあるんですが、それは今の自分が受け取っているものです。今、自分がいる領域で受け取っている。それは、相手がマスターである、ということや、多くの人々に善き影響を与えている人であるから、それは正しいことであり、完全なるものであり、そのようになろう、なりたい、ならなくては・・と思う領域なのかもしれません。すると、そこに向けてワークをすることになるかもしれません。

しかし、そこではないんです。とにかく、今の自分です。未来の自分、〇〇さんのようになる、に向けてではないです。ただ、自分の中の傷つき、怒って、悲しんでいるパターンを助けるためにやっているということです。

ここがわからなくなってしまうこともあるかも。だからこそ、苦しさはないか、違和感はないか、無理していないか、と、自分を見ていくといいです。

マスターのようになりましょう・・ではないんです。皆がマスターに憧れるのはたぶん、ネガティブなものに支配されていなくて、楽に、おだやかに見える(これが今自分のいる領域のイメージです)からだと思います。イメージは限界をつくってしまうので、見えていないものが自分には常にあることも知っておくのもいいと思います。その見えていないものが何なのか、は、その領域にいかないとわからないので、見えないからわからない、無い、ではなく、それを知識として知っておくということで十分です。

私は、マスターたちもいらいらすることもあるだろうし、嫌いな人もいるだろうし、悲しいことも、後悔することも、面倒くさいと思うこともあると感じます。ただ、それらを全て本当の意味で許していて、そこへのコントロールの方法をそれぞれが知っているからそういうように見えるのだと思います。

完全なるものは、人として魅力的じゃない。いろんな負の部分をもって生きているからこそ、人は他人に共感できて、痛みがわかって、理解できて、それが魅力になっていくのだと思います。

ちょっと上級編
2017/08/10

今日の日記はちょっと上級編です。

黒パターンへの語りかけを続けることで起きてくることのひとつに黒パターンが落ち着いてくるということがあります。今まで過敏に反応して、感情を吐き出していたパターン自体が、同じような状況になっても、それほど過敏に反応しなくなるのを感じられると思います。これはワークによってパターン自体が変容していったと言えます。この体験はこれからもこの道を歩く上でのモチベーションになっていくと思います。

そして、もうひとつは、語りかけを通して「私」が育つというものです。ワークをしているのは「私」なので(パターンにワークをさせないように注意してね)「私」を構成している普遍的資質を色々と使うことになります。使えば使うほど「私」は育ちます(筋トレと同じ)

そして、「私」の成長に伴い、パターン、ひいては自分への、また、この世の在り方へのより深い理解と、そこに沿う自分を管理していく能力が身についていきます。この、より深い理解と自分を管理していく能力を身につけることがある段階においての成長であり進化です(でも、それがゴールなのではありません。その先も続きます)

力がついてきた「私」は、今までは黒パターンを落ち着かせること(従ってひっかからないこと)をひとつの目標にあげてきていましたが、だんだんと、ひっかからないことではなく、ひっかかってもいい、なぜならば、自分で管理できるから、という新なものを選択できるようになっていきます。

えーーーーっ、そうなの?と思われた方もいらっしゃると思います。そういう方は、今は黒パターンをケアして、白を選んで実践するということを大事にすすめてください。自分に無理をさせてここに移ろうとしないでください。進んでいるから偉いというものではありません。そして、やっていけば自然にそこにいきます。

そして、なんとなくおぼろげながら、それが見え始めている方もいらっしゃると思います。そういう方はぜひ、黒パターンがひっかかってもいい、のスタンスをとることはどういうことなのか、そこに展開される世界はどんなものなのか、を考えてみてください。その答えはさそい水になって、次への成長・進化への歩みをサポートしてくれると思います。

2017/08/08

「魂の道場」のトップページの「龍」の写真。

2010年の12月にベランダから撮ったものです。私の安物のカメラでの撮影だったので、なんとなく全体にぼけてはいますが、それでも、躍動感と使命感を感じます。

「龍」は人々に気付き、目覚めを促すという使命を持ち、神さまのお使いとして活動しているといいます。すぐ近くに江の島があるので、そこからのお使いだったのかもしれません。

で、毎日、このトップページを開くたびに、この写真が目に入り「気付け、目覚めろ」と言われているような気がします。そして「その目覚めを、躍動感とともに実践しろ」と言われている気がします。躍動感とともに実践というのは、ハイテンションで、ということではなく、実践するときに、積極的な心持でやろう、というものです。そのときの躍動感が持つエネルギーは自分を今までとは違うところへ運んでくれます。

これらも含めて、この写真は、私がセッションを通してやっていきたいこと、自分の担当分野だとも思っていることを、応援してくれているようにも思え、毎日、気持ちを新たに、今日も1日がんばろうと思います。

日記を読んでくださっている方も、よろしければ「龍」が何を自分に言っているのかを感じてみてください。目覚めたい、という人にはきっと言葉を与えてくれると思います。

もう、年だから・・・
2017/08/07

「もう、年だから」という言葉をよくききます。

特に50代、60代(時には40代の方からも)の人たちはよくこの言葉を口にしています。

「もう、年だから」は、これからの長い年月を、あらゆる面で、守りに入って暮らしていくしかない、皆もそうだから、自分もそれでいい、もう、それしかないと思っている気がします。日本人は皆と同じであることに安心しますね。

しかし、年だからこそ、ここまで生きてきたからこそ、得たものはたくさんあります。そういう意味では、全く同じ体験をして同じものを得た人はいなくて、自分の貴重なそれによって自分は熟成されてきたと思いませんか?誰ももっていない貴重な体験があるのですから、ぜひそれを土台にして(活用して)自分がやってみたいことをやってみるといいと思います。

体力は確かに年々落ちていきますが(自然な老化を認めつつ)それにあったやり方もあるはずです。50代、60代の方達がそのように生きて、年下の方達に、こんな生き方もあるんだ、もう、誰かの敷いたレールにのっていくことだけではないんだ、ということを伝えられたらいいと思います。それはきっとご縁のある方々を助けることになると思います。

「もう、年だから」が口癖のようになっていないか、自分を観察してみてください。

身の丈
2017/08/06

何かをやろう(やりたい)と思ったときに、はたして自分にできるだろうか、それは無理では?またきっとうまくいかない、それだけの能力がない、体験がない、時間がない、お金がない、もう年だし、面倒くさい、やってみたいけど今さら、できなかったらどうしよう、そんなことをやってまわりからどう思われるか・・・など、自分に制限をつくってしまう人がとても多いです。

そして、それらの自分の可能性をブロックしてしまう思考への言い訳(自分を納得させるもの)として「身の丈を知る」という言葉が使われたりもします。

それは、これ以上欲張ってはいけない、みっともない、今、与えられている物で十分じゃない、などと考えています。

このように理解をする領域に自分がいるときには、良い/悪いではなく、このように理解します。これはこれでありです。しかし、ここではもうひとつ上の領域で考えてみましょう。

「身の丈を知る」は、本来の自分(いろんな普遍的要素で構成されている自分)を知ることであり、そこを使って生きる自分のマックスを知ることと私は意味づけています。そこにはその人の才能、可能性、魂の夢、希望、などがからんできます。そして、それは必ず他のためになるものです。

そうやって「私」を生ききることの「身の丈を知る」。

先ほどの、今、与えられている物で十分、欲張ってはいけない、というのはあくまでも物質のことであり、ここでのそれは、精神性、霊性への欲です。そこをどんどん伸ばしたい、深めたい、「私」の最大化をしたい、などなどです。これは魂の声です。

そうやって個性豊かな「身の丈」をそれぞれが体験していくことで、きっと自他は善くなります。

ただ、現れているだけ
2017/08/05

・・・ただ、今、その人がそこに現れているだけ(たったそれだけのこと)・・・という感覚は、20年くらい前に突如としてやってきた感覚でしたが、それはいまだに全く薄れることなく私の中にあり、ベースになっています。

この「ただ、今、その人がそこに現れているだけ」は、他人に対して「あの人は違っている」「あの人の考え方はおかしい」「自分のほうが正しい」「あの人はレベルが低い」などなど、他人をジャッジしていた私を有無を言わさず、粉々に打ち砕き、自分の無智さをつきつけました。「ただ、今、その人がそこに現れているだけのことなのに、何故、私はずっと他人をジャッジしてきていたんだろう、他人と自分を比較していたんだろう、何やってたんだ私、おまけに自分自身に対しても私は、今の自分が現れているだけなのに、ジャッジしてきていた」ということを一気に理解しました。

一気にきたものはリバウンドがありますが、これにはそれがないので、これは、頭の中で起きたことではないんだろう、と思っています。

ただ、現れている、何が?その人の意識がです。今のその人の意識がです。意識というのは、黒パターンと白パターンをかかえた「私」です。それが体をまとい、服を着て、生活しています。

イメージとしては目に見えない雲のようなものが歩いている。いろんな雲がたくさん歩いている。

そして、黒パターンが多ければ、苦しみや、問題を抱えます。それが、ただ、現れているだけ。でも、今、そうであるということで永遠ではないし、変更可能です。

白パターンを選んでいけば全般的にいいあんばいでいきます。それが、ただ、現れているだけ。それも、今、そうであるということです。

その理解により、他人を愛おしいと思えるようになったし、起きていることを客観的に見ることに慣れてきたし、全ては成長と進化のために起きていることであることも受け入れられたし、たんたんと生きることを学びました。そして、これはこれから先へ進んでいくんだろうと思います。愛に向かって。健全な成長と進化は全て愛へ向かうものです。

・・・ただ、今、その人がそこに現れているだけ(たったそれだけのこと)・・・自他ともに。

品川へ行く
2017/08/04

2日、3日と用事で品川に行ってました。

品川は20代のころに通勤で使っていた以来、ほとんど行ったことがなかったので、その変わりようにびっくりでした。オフィスビルが連立する中に意外と緑が多くて、以前の品川のイメージとは全然違っていました。

28階のビルから景色を眺める機会があり、そこからの景色は、茅ヶ崎では見ることのできないそれで、いつもとは違う頭の中が刺激されているのがよくわかりました。

茅ケ崎で見る雄大な海と空の景色で刺激される部分と大都会のそれとは大きな違いがありますが、どちらがいいというものでもなく、ただ、刺激される部分が違うというのがおもしろかったです。オフィス街より、自然のほうが勝っているとスピ系では言いますが、そうとも言い切れないです。両方を見ることが日常的にあるとバランスはいいのかもしれませんね。

そんな大都会のオフィス街で働く大勢の人たち。駅構内で、ゆきかう人たち。皆、知らない人たちですが、ひとりひとりにドラマがあって、いろんな思いがあって、それは私とは違うけれども、それぞれが懸命に生きているんだということを思います。そんな気持ちが沸き上がり、人、というところに視点が動くと、もう、オフィス街とか海と空とか、そこは関係なくて、人のもつもののほうが大きいと思いました。自然に囲まれて、もしくは美しいオフィス街の中で、癒しや、活気を与えてもらえると言いますが、人のほうがパワフルです。

オフィス街も海も空も自分の中にあって、それをいつでも引き出せる自分でありたいです。

友達100人いなくても・・・・
2017/08/02

きのうの続きです。

自分専用取説(哲学)を創らないことで、自分をいつでも誰かの創った取説(哲学)にあてはめようとしたり、若かりし頃の取説を変更せずに守り続けていることから苦しみが生まれるということが言えます(どうも、誰の中にも1度決めたものごとは変えてはいけないというパターンがあるようです)

きのうの健康も、若かりし頃の自分のその哲学に今の自分をおさめようとするから苦しい。

仕事も、若かりし頃に教えられた仕事についての定義を変えようとしない、変更できるかもしれないのに、そうしようとしない、仕事とはそういうものだと決めてしまうから苦しいんです。

人間関係も。大人になっても「〜♪1年生になったら〜友達100人できるかなあ〜♪」の歌のように友達は多いほどいい、と信じていて、それができていない自分はだめだ、自分は人から好かれない、自分には人が寄ってこない、などと思い、自分を苦しめることになります。確かに、友達100人の人もいます。でも、それはその人の取説(哲学)であって自分のではない。

本来、自由に個人的に変更可能なものが取説(哲学)です。よほど社会的にまずいものでないかぎりは(「私」が創っていればそれは大丈夫なはず)自分で創っていっていいものです。

自分を苦しめているのは結局自分です。ということは、今、苦しいのであれば何をどう変えるのか、です。一気に大きなことをしなくていいです。小さなことから変更をしていきましょう。

自分を自由にする取説
2017/08/01

楽に生きるためには、その年代、その時、その瞬間に自分があらゆることに自分なりの意味づけをしてそのものの哲学を創っていくことです。

それは、仕事に対しても、お金に対しても、健康に対しても、家族、生死・・・全てにおいて。自分の創る哲学は自分を生かす(活かす)取説のようなものです。

取説は誰かの創ったものではなく、又、固定化されたものでもなく、自分で創りかえていくことができます。

例えば、健康ひとつとっても、若い頃のそれに対する意味づけ、そして今の意味づけは違っていると思います。若い頃のそれは、ひたすら元気であること、治りが早く、大病もなく、疲れもなく、体自体の機能もいい。しかし今の自分のそれは、元気の質が変わっていること、治るのにも時間がいることを許し、大病をする可能性もあることを受け入れ、体自体の機能も全体に落ちていることを思い、疲れたら大事にすること、そういう状態をできるだけ保つ、それが健康となります。

若い頃の意味づけが一般的なのに比べ、今の意味づけは独自のものになり、知恵や体験が加味されてできていることに気付くと思います。こうやって、これから先も、健康についての意味づけを深めていかれます。

こうしていくことで、昔の自分と今の自分を比べる必要もないし、他人と自分を比べることもやらなくていいということもわかってきます。

・・・・・ですから、楽です・・・・・

自分専用の取説(哲学)を創りましょう(ただ、創るのは「私」であって黒パターンではありません。ここを間違えるとかえって苦しくなります)どんな取説でもいいです。そうやって、誰かの創った一般的な、限定された取説から自分を自由にしてあげましょう。自分を自由にする取説です。

女心に包まれたサービス
2017/07/31

きのう、PCをぽちぽちしていたとき、テーブルの上に1枚のちらしがありました。トミーがポストからとってきたものらしい。

それは新しくオープンした大手有料老人ホームのちらしでした。そこにはこんな文章が。

「24時間「看護」の女心に包まれたサービスと、快適な住空間を・・・」

・・・・・・ん?…何?「24時間看護の女心に包まれたサービス?」待ってよ、それって何?これ、老人ホームだよねえええ?そこで女心に包まれたサービス?それってもしかして?えええーーーーーー?いいの?それ。新手のホームだろうか?しかし、女心に包まれたサービスって?・・・・・・と考えてしまいました。

そしてそばにいたトミーに「女心に包まれたサービスってなにすんの?」と聞いて、よーーくチラシを見てみたら、女心の女の字にはウ冠があることに気付く。それは「女」ではなく「安」でした。「安心」の「安」それを「女」と読んでいたと…さ。めでたし、めでたし。

もう、自分の目が信じられない。この思いこみが信じられない。常識でわかるだろうことがわかっていない自分が信じられない。人生には信じられないことが(年を追うごとに)起こります。

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