ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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きれいな丸になる
2025/06/16

黒パターンの領域を抜けて、白パターンの領域で生き始めて、少しずつそこの住人になっていく。そして、その領域から「私」の領域へ…と移行していく私たち(と私は思っている)なんですが。

この「私」の領域って?何?と思うかもしれません。白パターンより上なんだからそれはそれは天国のような、やすらぎに満ちた世界だろうと思うかもしれません。そういう世界が用意されている、すでにある、そんなイメージがあるかもしれません。

しかし、そういう世界が在る、用意されているのではなく、白パターンの領域でも少しずつ体験しているように、そこで自分のその世界を創造し続けるということです。そこにそれを創るということです。「私」であることがいやすい世界を自ら創っているということだと思います。

だから、そこを目指すんだ、と、イメージ付けてしまったり、期待をしないということです。そうなると、そこに執着していく。「私」として生きる、「私」としてあろうということが目標になってしまいます。

えっ?…それが目標なんじゃないの?と思うかも。しかし、先ほど書いたように、そういうところが在る、用意されてはいないので、もともと、目標となるものはないんです。

しかし、「私」を知ることはできるんです。

例えばある黒パターンにひっかかって、それに飲み込まれ、翻弄され続けているときに思います。「ああ「私」よりもパターンのほうが勝っているのか。ということは、このパターンについては「私」を十分に機能させていないのか」。ここで今の「私」の(そのパターンへの)力量がわかります。又は、ある黒パターンにおいては、それをケアできていて、白も選べていい感じでいる。そんなときには「そうか、このパターンについては「私」が機能していて、なおかつ、白も選べていて、いい感じでいけているな」と、今の「私」の(そのパターンへの)力量がわかる。このそれぞれの時の「私」の様子、成長度、「私」は愛のかたまりなので、愛度を総合したものを知ることができます。こうして今の「私」を知ることができます。その瞬間には「私」としているし、「私」として生きていると言えます。もっと言ってしまえば「私」の領域にいる(それを創っている)とも言えます。

こうして、日々の中で「私」を見ること、感じることができます。そもそも「私」はあるがままにです。「私」の成長についてもそうです。今の「私」をあるがままに見て、その成長度も見て、今の「私」を知る。それでいいんです。そして、またやるべきことをやる。その連続で確かに「私」に力がついてきているわけですから。

この学びにおいては、どこかを目指そうとしなくていい。今のままでいい、でも、やるべきことをやる。この、目指さない、目標をもたないという在り方(やり方)は今までにはないものですが、それが身について、それが自然になったときに、今までの(←これも大事)在り方、やり方、と、この新しいもので、きれいな丸になるのです。そして、その真ん中にいつもいればいい。

やばい
2025/06/15

「やばい」という言葉。

今や、年代、性別、関係なく誰でもが普通に使っている言葉です。この言葉を使わない人のほうが珍しいくらいに、今やあらゆる場面に登場します。

前回の茅ヶ崎クラスで「やばい」の話をしたと思う。私はこの言葉の使い方に、ちょっとした危機感を感じているということを。

どんな危機感かというと「やばい」は何に対しても使えてしまう言葉なので(語源はそうではなかったようです)その人の真意がどこまで伝わっているのだろうかと思うからです。酷いことがあると「やばい」。嬉しいことがあると「やばい」。美味しい物を食べたときに「やばい」。まずいものを食べたときに「やばい」。うまくいっていても、いっていなくても「やばい」というように、便利に使えます。

お互いにその雰囲気が分かり合えばいいし、わかりあっているからいいよね、というものなんでしょうが、この言葉でやりとりをしていくと、お互いにそれぞれが抱いている微妙な気持ちや感覚、思考を表現していこうとしなくなるだろうと思うのです。なんせ便利だから。

特に若い人達にそう思う。だとしたら大人である私たちが「やばい」と言っている若い人に「やばいって?どういう風にやばいの?」と聞いていくことが必要になるのかもしれないと思います。聞かれれば人は考えますから。そして、自分を知り、それを伝えようとする。

で「生と死の哲学者」岩崎 大さんが、このことについてわかりやすく話していました。以下です。

『すごい、やばい、えもい、は使い勝手がよすぎる一方でそれを言った時点で満足して思考がとまっちゃうんですよね。そうではなく物事の機微をきちんと表現できる語彙力っていうのが知性のひとつの表れなんだと思います。』このコメントは知性を感じる人(頭がよいと思われる人)とは?…というところへのコメントだったのですが、私はこれを読んで「思考がとまっちゃう」という表現がわかりやすかった。起きていることってまさにそうだと思ったんです。

思考しなくてもいいから「楽」という「やばい」。知性とか頭が良いとかは置いておいて、より楽に、というところへ全てが進んでいってしまっている気がします。自分の言葉で自分の今を伝えようとする姿勢やそれをできるだけちゃんと受け取ろうとする姿勢には、エネルギーも時間も練習もいります。そういうことが段々省かれていっているように感じます。

しかし「やばいって言っちゃいけないのか」ではないんです。ここも楽に思考しないで、自分にとってそれはどうなのかと思考することが必要だと思います。その言葉の後ろにあるもの、そして、その言葉でやり取りしている後ろにあるもの、それについて自分はどう考えるか…です。

そうやって面倒くさそうに思えるものごとに魅かれ続けている私。

自覚すること
2025/06/14

岩手クラスでも話したのですが‥‥。

自分の成長、とか、自分の努力で獲得してきた力に自覚的であってください。わからなかったこのことが今は実感できる。できずにいたこと、ずっと逃げていたことが少しずつできるようになってきている。怖がらずに挑戦してみることが少しずつ自然になってきている。自分ではどうにもできないことに対して以前ほど慌てなくなってきている。他人の痛みが感じられるようになってきている。などなどなど。その人によってあると思うんです。これは自分の努力の賜物です。そして、それはお金で買うことができないものであり、消えるものでもありません。それらはこれからも質をあげていきます。

そういうことに対して自覚的であるといいです。それは決して傲慢とか、浮かれているとか、威張っているとか、優越感につながるとか、という類のいる領域の話ではなく、ゆがみなく現実を知る、今の自分を知る、というとても大事なことなんです。

自覚しているから、また次に進めるわけです。この自覚があるから、もっと現実的に、ゆがみなく、偏ってしまっているところが見えてくる。それは、まだこれができていない、ではなく、ここのバランスが悪いというものです。

人は、できていないところに目がいきがちですが、できたところにも目を向けることでここのバランスはとれていきます。で、そこが深まれば、できている、できていない、という事ではなかったんだという事にも気づくかもしれません。

そうなんです。できている、できていない、で、人って構成されているのではなく、バランスがとれているか、バランスがとれていないか、という、今の自分が現れている(だけの)存在です。そこを自分なりのバランスのよさ(それは心身、生き方、仕事、生活、好きなことなど全て)を自分で再構築していけばいい(だけ)のだと思います。

その時に必要なのが自分の努力で得てきた力です。それはきっとアンバランスな部分を補い、自分を少しまるくしてくれていると思います(時々、こうして自分を俯瞰して見てみよう)ですから、自覚することを大事にしてください。

憧れている世界
2025/06/13

「わんこそば」にひとり参加していた女性に感動した私でしたが、今回は、もうひとつ、印象的なことがありました。

それはセミナー後、皆でエレベーターに乗って7階から1階に向かうときのこと。そこに2人の女子高校生が乗ってきました。この日は館内に高校生がたくさんいて。何かイベントがあったのでしょうか。

乗ってきた2人は上下ジャージで可愛い。そしてエレベーターの扉(外が見える)が閉まったときに、その乗ってきた女子のひとりを、扉越しに夢見るような目でみつめていた男子がひとり見えました。それはほんの一瞬。エレベーターは彼を残して降りていきました。

ちょうど扉のところに私はいたので、その男子とその男子に見つめられていた女子を同時に見ることとなりました(彼は、彼女と一緒に帰りたかったのかもしれない)

その男子の醸し出す、彼女のことが好き、という気持ちがあまりにストレートで、純粋で、私は思わず「ふふ」と笑ってしまいました。そして、すぐにまずかったな、と思い、男子が熱い視線を向けていた女子に「笑ってしまってごめんなさい。失礼でした」というと「違うんです、違うんです。そういうのではないんです。そういうのじゃないです」と言いました。「そうなのね」というと「そうなんです!」と言いました。その一言一言や様子が可愛らしく、高校生って、こういう可愛さがあるんだ…と思いました。

今までも高校生はたくさん見ているのに、この年代の女子(男子も)の持つ可愛らしさは独特なものだと感じました。多分ですが、1年前の私はそこまでの思いは無かったと思います。可愛い子だなあ、はあったと思いますが、そこまでで、彼らのまだ心許なく、不安定で、迷いや、夢や希望の中で生きている年代の子たちのはかなさが尊いものとして感じられました。そういう自分にちょっと驚き。

こうして一瞬のことであっても、人って自分を確認することがあるんです。そして、その体験はとても大切な気がします。こうして、私は、自分が憧れている世界にシフトしていくんだろうという思いが感じられた一瞬でした。憧れている世界…これはまたいつか話してみたいと思います。

わんこそば
2025/06/12

今回の盛岡で、私は初めて「わんこそば」を食べている人達を目の前で見ることができました。

お昼に入ったお蕎麦屋さんでのことです。目の前に7人座れるC型のテーブルがありました。そこにはやくみの用意がしてあります。

ほーーー、ここでわんこそばやるのか、と思っていたら、続々とお客さんたちがやってきました。サラリーマン風おじさん3人、大学生風男子3人、そして、残りの1席には20代とおぼしき女性が1人での参加でした(この1人で参加する女性にえらく感動しました。わんこは1人で(特に女性は)…とはなかなか勇気のいること、と思っていたので)

全員初めてなので、テーブル中央に立つお姉さんが説明&注意点を伝え、いよいよ始まりました。

「では、いきますよ。おわんを持ってください。ハイハイ、どんどん、ハイハイ、どんどん」という掛け声とともにそれぞれのおわんにお姉さんがお蕎麦を投入。大学生風の3人男子は「おわんを出し過ぎない、おわんをもっとしっかり持って」と注意され、なかなか難しいものだな…と私は注文した「にしんそば」を食べながら思う。

お蕎麦を投入するにもリズムがあるようで、そのリズムをキープするための掛け声、おわんの位置、おわんをしっかり持つということでもあるようでした。

あっという間に全員が20杯。「まだまだ、これから、ハイハイ、どんどん」とお姉さんは攻めて来る。一体何杯いくのか…そして、誰が最初に終わるのか、それを見届けたい。そのために自分のお蕎麦はできるだけゆっくり食べました。

30杯になったときに、お姉さんが女性の方に「どうですか?おなか」と聞いたら「ちょっと苦しくなってきています」と答えていましたが、まだいけそう。そしてそのあとも「ハイハイ、どんどん」は続きました。そして全員が40杯食べたとき、お姉さんから「これはかけそば約4杯分にあたります」という説明があり、かけそば約4杯って食べられないだろうに、なぜわんこだといけるのだろうか?と不思議でした。

さすがに私のお蕎麦は食べ終えていましたがもう少し見ていたいので、お茶のおかわりをいただいてねばる。これ50杯いきそうだ、と思ってふと時計を見ると、もう出なくてはいけない時間になっていた(これからクラス)「決着がつくまでわんこ見てて遅刻しました」とはさすがに言えない。

レジで会計をしたときに、お店のおじさんに「次回はわんこに挑戦してください。過去に100杯食べた方もいらっしゃいましたよ」と言われました。私は多分、あのスピードで食べたら20杯でもう終わりかも。しかし、初めて見る事ができてよかったでした。

いつか、それが…
2025/06/11

6月の岩手クラスも無事に終わりました。ほっと安心。

で、パターンのこと(…と突然)。いつも言っているように、パターンを変えようとしない、ということ。語っていれば小さくなる、と言っていますが、それは消えることではないし、ひっかからなくなることでもない。小さくなるというのはパターン自体が安心している姿のことです。ですから、相変わらず、ひっかかる、それを持ち続けている、それでいいんです。

この、ひっかかるというところに執着してしまうと、ひっかかるレベルの自分が嫌であったり、自分はもっと大きな存在なんだ、とか、ミームが上とか、精神性が高い、とか、違う領域にいる、とか、すでにできている、とか、そのあたりにからめとられていきます。それ自体がパターンなので、それを選んではいけないと言えます。

選んではいけないのに選んでしまうのは「私」が機能していない状態であるということです。これは、パターンにしてみればうれしくて、とにかく、理想の自分になろうとします。パターンとしては、ひっかからなくなることが、成長・進化・心の統合だと思っているので、そちらを目指します。でも、苦しさがある。

どのパターンに対しても、そのパターンを上回るものがいつもひっぱっていくということになります。

・・・・・パターンを上回るもの・・・・・なんです。

パターンはこう言っている、それも強く、今までの体験を根拠に、その力は強い、そして、すぐに反応する、すぐにそれについて思考する。それは彼らの特徴です。しかし、それを上回るものがいればいいと思いませんか?

上回るものは、パターンの言い分も感情もよくわかっている。だけど、それを上回るものが決めていく。いつもいつも。その力自体が統合なんだと思います。これもひたすら練習しかありません。たくさんやっていく。そしてエラーする。またやっていく。そしてエラーする。これでいいんです。これが嫌だというパターンもいるかもしれません。やるからには正しくとか、間違いなく、というような(それがあるようであれば語ってください)

「私」は知っています。長い長い魂の歴史を思えば、そんなに簡単に単純なことではないことを。そして、物事は全て熟成させていかなくては真理に近づけないことを。

いつか、それが普通になりますように。

心配しなさんな。
2025/06/05

時々思い出すのは祖母がよく言っていた言葉です。

…「人間、いよいよのときにはどうにかなるから、心配しなさんな」…というものです(特に女性は…とも言っていました)

いよいよのときって、人によってそれぞれなんだと思いますが、どの人にとっても、いよいよのときがそのときなので、それについて今から心配しなくて大丈夫。そのとき、どうにかなるから、ということなんでしょう。

関東大震災、東京大空襲を生きのびた人の言葉なので、実際「そうなんだろうなあ」と思えます。それと同時にその言葉を自分で言ってみると、胸のあたりがじんわりといい気分になります。それにより、これでいいんだ、と思えて、安心します。この感覚は「今の自分にとって真実ですよ」と自分で確認していることになります。そして、今までの人生も、いよいよのときには、どうにかしてきた、どうにかなってきた、おさまるところにおさまった、とわかります。これはきっと皆そうだと思います。だから、これからのことも「心配しなさんな」なんだろう。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。今回も2日間セミナーなので、ゆっくりと、行ってまいります。クラスは学びの場であり、遊びの場、ヒーリングの場、想像の場、創造の場。少しずつクラスという枠をこわして、そこに流れている時間と空間に、本来ちりばめられているものをクリアにしていきたいと思っています。

この現実の世界を生きよう
2025/06/03

先日書いた「思い通りにならないのがあたりまえ」という前提。だから、何が起きてもひたすら我慢しなさい、ということではないし、そんな人生だから、楽しいわけがない、と、諦めるということでももちろんありません(遊ぶように人生を生きる…という人たちもいます)

「思い通りにならない」と捉えて、意味づけているのはパターンであるということはわかると思います。パターンは全て、本当に全てにおいて思い通りにしたいので(だからより自分自身への理解が深まると、黒パターンの名前は「全てにおいて思い通りにしたい」これのみになると思います)このパターンの望む「思い通り」について、それは無理です、という意味での仏陀の言葉なのだと思います。

それに対して「私」は思い通りという概念を持っていないので、ただ、その事象があるというところにいます。で、そうであればその「私」はパターンが「思い通りにならない」と言っているその事象に対してどう意味づけ、そこから何を選んで、言動していくのか…ということになります。今の自分が考えられる意味づけと選択と言動…それでその事象に向き合っていかれればいいんです。(量子の話も知っていればますますそうしようと思うはず)

それが少しずつ出来るようになっていっている自分を感じたときに、人生、こういうふうにしていけばいいんなら、思い通りにならなくてもいいや、と思うのではないかと思います。ここでパターンが勝っている場合は、パターンは諦めないので、あの手この手で思い通りになるように頑張り続けます。でも、これには無理があります。ここも今の自分を知る一つのポイントになると思います。まだまだパターンのほうが勝っているな、と、クールに見ることができます。ここを正直に見られるから先に進むことができます。

自分を含め、自分の周りに起こるいろんなことを自分という「私」はどうしていくのか。パターンが小さくなれば、パターンが大人しくなれば、いい、ということじゃなかった。それは、パターンに変わってね、と押し付けてしまっている。しかし、パターンはそれができない。そうではなく、それを上回る「私」として存在すること、こっちをやっていかなくてはいけないということです。そのほうが現実的だということです。それにそうできる自分に喜びも感じられるのではないかと思います。

私たちは苦しむためにこの世にやってきたのではありません。パターンではなく本当の自分の喜びや幸せを感じながら生きるためにやってきたのです。そのことを成長とか進化というのではないかと思う。これはすごく現実的。こうして、しっかりとこの現実の世界を生きよう。

パターンと「私」の語りかけの違い
2025/06/02

黒パターンを嫌う黒パターン(多分、プライドパターン)。それが行う語りかけと「私」が行う語りかけとは全く違うものです。

それをざっくりと、わかりやすく表すと、黒パターンの語りかけには、勢いがあり、熱があり、情があり、達成感や満足感や頑張った感があります。そこには目的(楽になりたいなど)があり、それらは一般的にはいい感じのもの、必要なことだと思います。こなしていく、かたづけていく、これが終われば、という仕事に対する時のものと似ているかもしれません。このやり方に私たちは慣れているので、最初はどうしてもそうなってしまいます。

「私」の語りかけは、あっさりと、すっきりと、後に残らず、その一瞬に全てを集中して行っている感じです。それができた喜びとか、達成感、充実感はないです。語りかけ中には静寂な時間が流れ、それはあたかも瞑想をしているような時間です。その動機は、必要なことであるから、パターンが苦しんでいるからというものです。「私」はパターンよりも上の領域にいるのでパターンの言いたい事、感情・感覚がよくわかっています。物事を俯瞰して見ると細部と全体が見えるように。それが共感力になっています。

この在り方は、もしかしたら、一般的には冷たく、厳しく、親しみを感じにくいものかもしれません。「情」がないからでしょう。「私」は情ではなく「愛」として存在しています。その「私」が語るのが語りかけです。

‥‥と言われてもねえ、わからない。と思われるかもしれません。確かに、最初に書いたように、私たちが獲得してきたことは、全てを仕事モードでこなす、というものです。そこを子供のときから求められ、それを身につけてきています。「私」はそことは反対にあるものなのでわかりにくいかも。しかし、ここは迷いながら挑戦していくしかありません。

語りかけをするときに「私」が語ると決めて、王として、パターンとの距離をとり、しかし「愛」そのものである王として語ることを、色々と試していきます。「愛」そのものである王として…の部分は今の自分の愛度でいいんです。それでいけばいいんです。そこからきっと、ああ、この感じか…とわかるときがきます。その愛度は、自然と自ら深めていきたいという気持ちになっていくので、最初から愛度100%を目指さなくてはと思わなくていいんです。

ここはどれだけ自分を赦せているか、というところに関わってくるのでゆっくりといけばいいんです。これも自分を赦すことのひとつ。自分への愛。

「私」はとても仏陀的。
2025/06/01

仏陀の教えの大前提となっているのが「思い通りにならないのがあたりまえ」ということだそうです。

人間とか人生とかって、そういうふうにもともとできているのに、自分の思い通りに自分自身を、人生をコントロールしたいという強い欲望が、そうなれない自分を、結局、苦しめていくことになる、ということです。

だから、それが腑に落ちてわかったとき(それを受け入れたとき)から、人は心が軽くなり、生きることが楽になっていきます。これがありのままということです。

人の苦しみって、決まっていることに抗うから。ということであるのなら、今、自分が苦しいのは、思い通りにならないことを思い通りにしようとしているのかもしれません(パターンが)そこを見てみるのもいいと思う。

で、道場的には「黒パターンを嫌い、その黒パターンを思い通りにしたがる黒パターン」が先ほど出てきた人生をコントロールしたいという強い欲望だと言えます。もちろん、認められたい、とか、他人にすごいと言われたい、というストレートな黒パターンはあります。それはわかりやすい。

そしてその他に黒パターンを嫌い、その黒パターンを思い通りにしたがる黒パターンがいることに気づいていないと、それが「私」になりすまして語りかけをすることもあるだろうと思いました。これが、きっとプライドパターンなのだろう。

…黒パターンに執着する黒パターン…です。

そのパターンは自分が語りかけをすることで、他のパターンを抑えつけたり、出てこなくなると思っていたり、ひっかからなくなると思っていたり、語りかけをすることで苦しさから逃れられる、楽になると思っていたり、何かが変わると思っていたり、全てのパターンが言うことを聞くようになると思っていたり、自分の思うように心を整理したい、そして、自分が思い描く自分になろうとします。そのような衝動を感じたときには、こいつかも、とみてみるといいです。自分が思い描く、ここがポイント。

この黒パターンは他の黒パターンも、自分自身さえも、思い通りにならないのが当たり前という事を知らないのです。ですので、語りかけにやたらと執着します。たくさん語ればもう苦しまなくなるんだ…と。

しかし「私」はすべてそのままでいいと言います。ということは、黒パターンはいつ出てきてもいい、いつひっかかってもいい、黒パターンは成長しなくていい、変わらなくていい、なぜならば「私」が毎回受け入れられるからです。そして、そういう「私」が行う語りかけはあっさりしていて、語ったらあとはほっておけるようなかんじです。なんせパターンたちはそのままでいいわけだから。「私」はパターンに(も)執着していないんです。

心を整える、統合していく、というのはそもそものありのままの心にOKを出せるようになっていくということです。「私」はとても仏陀的。自分の内に仏陀がいる。そしてそれが本当の自分。

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