ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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空を飛ぶ夢
2024/03/17

昨日ふと思った。

そういえば、ここのところ長い間、空を飛ぶ夢を見ていない…と。

昔は、よくこの手の夢を見ました。ちょっと助走してぽんと飛び上がるとそのまま空中をただよい、好きなようにあちこちを飛びまわる。低いところを平泳ぎをするようにしてぐんぐん進んでいったり。高いところから一気に下に落ちて地面に着くぎりぎりのところで足を地につけてジャンプすれば、また空に浮かび上がり飛び続ける。あの落ちるときのふーーーと体の力が抜けてしまう感じや、飛んでいるときの空を切るような感じなど、実際体にそれを感じながら見ていた夢でした。

あんなによく見ていたのに、もう、全くないのはどうしてでしょうか?トミーにも聞いてみたら、やはり、もう、そういう夢は見なくなったと言っていたので、年齢に伴うものなのだろうか。懐かしいなあ、また観てみたいなあ、と思いました…が…もう体があの感覚についていかれないのかもしれません。だから頭はそれを知って、その手の夢は見させないのかもしれません。

このように、気づかないうちに、今まであったこともなくなってきていることに時々、気付きます。こうして体ってその年にあったようにうまく変化していくのでしょうか。これは、すごいです。そう言えば、あんなに年中なっていた「結膜下出血」もここのところ起こりません。調べてみたら、加齢とともに減るものらしく。もう、出血するパワーがなくなってきているのか(‥(笑)‥)

体はこうして色々とその時その時のいいあんばいに変化していく。自然に。ゆっくりと。そんな体への畏敬の念を持つこの頃です。

こうして、日々、元気を感じていられることがありがたいです。

努力はつきもの
2024/03/16

人って変わることができます。これは皆に言えることです。

ただ、本人が自分を変えていきたいのか、どうか、というところで決まってしまうことなので、他人がとやかく言えることではありません。

かつて「私は変わりたいんです、本当に、変わりたいんです」とあるセミナーで先生に言っていた方がいらしたのですが「だったら、変わればいいじゃないんですか。そう言っているということはまだやりたくないということです」と先生が応えていたことがありました。当時、私はよくわかっていませんでしたが(先生、冷たいな、くらいに思っていた)…そうなんです。

そこが人に与えられた自由意思なんだと思います。その自由意思を自分のためにどのように使うのか、は、自由です。

で、変わるためには?なんですが、いつも言っているようにまずは今の自分をちゃんと認めるということなんです。それがどんなに嫌なこと、みじめなこと、恥ずかしいこと、悔しいことであってもです(そう思っているのもパターンなので)。そこはすごくクールに、ただあるものとして見て知る(だけ)のことです。

そこをどれだけストレートに深く見れているか、認めているかに関わってきます。何もそこまで自分を見なくても、と思う方もいるかもしれないけれど、それは人というものの可能性、そこに展開される神秘を知らないからだと思います。自分の内側に分け入れば分け入るほどに心はその世界を見せてくれます。

その体験を多くの方にしてほしいと思います。なぜならば、そこには、マスターたちが言うようにやすらぎの世界があるからです。いや、そこにしかありません。やすらかに生きることを体験してもらいたいです。

何かを得ていくためには、努力はつきものです。意志を持って継続すること、あきらめないこと、その努力はやはり必要になります。

カレーはちょっと辛口
2024/03/15

大相撲3月場所が始まり、私はうれしい毎日です。

先日近くのスーパーへいったら、またやっていた。日本相撲協会とのコラボ商品の販売。色々と手にとってみて、今回は「横綱 北の富士カレー」を購入しました。

箱には「解説は辛口 カレーはちょっと辛口」と書いてある。「本当に私が作った自信作です!」という北の富士勝昭さんお手製のカレーを忠実に再現したものだそうです。レトルトカレーですが、これがなかなか美味しかったのでまた買おうと思っています。「国技館カレー」というものもあったのでそちらも買ってみよう。

北の富士勝昭さんは第52代横綱、そして引退後は解説者として毎場所、その声と解説を聞くことができていたのですが、去年から体調を崩されたようでお休みされています。辛口と言われる解説を、多くの相撲ファンは楽しみにしていたと思います。私もそう。

「何やってんでしょうね」「だめですねこれじゃ」「稽古してるんでしょうか」「なげかわしい」「しっかりしてほしい」と容赦なくダメ出しをしていきます。それに対して同席しているアナウンサーは時々絶句しながらも、言われた力士をフォローするほうにまわっていて(そうだよなあ、一緒になっては言えない)そのやり取りのおもしろさもありました。

しかし、ある場所で北の富士さんがおっしゃった言葉「ただただ、強くなってもらいたいんですよ」。それを聞いたときに、それがあるからだと思った。ただ、ダメ出しするのではなく、これが動機になってのあのコメントなんです。

強くなってもらいたい、自分も強くなりたいと思って頑張ってきた。その思いは相撲を志すものは皆持っているだろう、という思いの言葉。そんな北の富士さんが増々好きになりました。

コラムも時々読んでいて、とても正直にご自分の思いを書いていらっしゃることに好感がもてましたし、内容も面白かった。実際私がTVで見た取り組みを細かく解説してあり、はあーーーーそういうこと、と、わかることもありました。しかしそのコラムも約1年前くらいから更新されず。

現在、80代でいらっしゃいます。お健やかにお過ごしいただきたいです。

まずは自分自身への如実知見
2024/03/14

今のありのままの自分を知ること。そのためには「私」が自分を見ることです。パターンに自分を見させてしまうと、都合の良い所しか見ようとはせず、都合の悪いところは見ない、もしくは、それはないものと認識したり、すり替えたりします。

「私」は、ただ、あるものをあるものとして見ているだけで、そこには一切のジャッジはなく、ただ、あるものをそのままの姿で大事にします。それがどんなにネガティブなものであってもです。それも全て自分の内に一緒に生きているものたちであり、それが在っての自分です。

だからどうぞ大事にしてあげてください。

これが自分自身への如実知見。この感覚を自分のものにして、いつか、それが自然に外側に放たれ、他の人たちのことも如実知見で向き合えるようになっていくうちに、本当は、人が最もやらねばならない事「人間関係」を築くことに着手できます。

それをまず自分自身にやらなくてはならない。こうして自分との関係を築くことです。他人の前に自分です。自分にできるから他人にもできるようになるので。

そのためにも、今のありのままの自分を知ることなんです。ありのままの自分を知ることをパターンは嫌がります。それを知ってしまうと生きていかれない、自分のレベルがわかってしまう、と思っているからです。わかってしまうと、その自分にがっかりしたり、みじめになったり、出来ていると思っていた自分が崩壊してしまうからです。だったら見ないようにしようとします。

本当はとても怖がりで不安が大きくて、他人を自分の思うように動かすことでしか、それに耐えられないと思っているのでは?だから、自分ひとりで何かをすることができないのでは?これって全員がそうだと私は思っているんですが、そこをちゃんと自分で認めていますか?ということです。ここに対して如実知見を持っていますか?ということです。

それはパターンであって「私」ではない。だからといってそのパターンの王(大木、恐怖と不安)をそのままにしておいてはずっとそのままであり、今後もそこからの枝葉を出し続けます。王も怖いのです。だから枝葉をのばしているんだろうと思います。一番救ってほしいと思っているのかもしれません。

だから、まずは、自分に対しての如実知見。根底にある恐怖と不安をしっかりと認識する。そして、だから、ああいうことをしてしまうのか、だからこういう行動をいつもとるのか、と確認し、つなげてみる。もしかしたら、心が軽くなる感じがあるかもしれません。人って、素直に正直に認めたときに心が晴れるのです。

マスターたちには潜在意識がない、ということもこのことだろうと思います。マスターを目指しているわけではありませんが、潜在意識のものたちに光をあて、風を通してあげられると、彼らはやっと呼吸ができるように見えます。一緒に生きている彼らに楽な呼吸をさせてあげたい。

覚醒
2024/03/13

どうして、こんなにも自分をわかってもらいたいのか、自分を理解してもらいたいのか、自分を選んでもらいたいのか、自分を受け入れてもらいたいのか、自分を褒めてもらいたいのか、自分を認めてもらいたいのか、このあたりのパターン、これは人を苦しめます。今更ですが、そうです。

そして、そのことはきっとわかっているはずです。それなのに、どうにかそれを成し遂げようとするこのパターン。今までお会いしてきた全員がこのパターンに動かされていました。

このパターンが主体となっているときには、それはごく普通であり、なおかつ、パターンなのでそれが思い通りになっているかどうか、というところをパターンはいつも気にしていて、それに過敏に反応します。

この類のものは、全て、他人から与えられたいというものです。何故、他人から与えられないといけないのでしょうか。それは、自分で自分を幸せにする力を自分では生み出せないと思っているからです(そのカードをパターンが選んでいて量子は動き、実現する)そうなると、自分が生きていくにはどうしても他人が必要になります。

何故、自分で自分を幸せにする力を生み出せないと思うのか。自分に自信がないから、頭がよくないから、学歴も職歴も低いから、平凡だから、もう年だから、弱いから、今までも成功の体験がないから、逆に、自分は与えられる側の人間だから、自分は上の人間だから、自分は特別だから、自分は他人よりできがいいから、自分には自負があるから、ということをパターンは言います。

しかし、これらは、ただ、自分には力がないというパターンだからこそ、必要だと決めているだけのもので、幸せとは全く関係のないものです。そして、その力は、発見するものではなく育てるものです。それも練習を繰り返し、繰り返ししながら自分が自ら育てるものなんです。生まれながらにそれを持っている人はいません。

では、具体的にどうするのか?それは、他人から与えてもらいたいと思っていることを自分で自分に与えてあげるということです。それは、自分で自分をわかってあげる、理解してあげる、受け入れてあげる、ということです。今のありのままの自分をです。今のありのままの自分の内にある、自分で自分を幸せにする力を自分では生みだせないというパターンがあることを認めることが、まず、やるべきことです。そして、これが自分に与えてあげる(わかってあげるを、理解してあげるを、受け入れてあげるを)ということなんです。

繰り返しの練習の結果が感じられると、他人に与えてもらおうと思わなくなります。何故だかわかりますか?他人は自分ではないので自分が本当にほしいものは他人が与えることが出来ないことに体験を通して(頭でではない)気づくからです。自分で自分に与えたものが自分には一番ぴったりであることを知るからです。

こうしてみると、他人から与えてもらえると思っていること自体が「幻」なんです。そんな幻を追い続けてしまっている。まず、そこから目を覚ますことです。覚醒していくことです。

クラスで学ぶこと
2024/03/11

今月(というか、今年からは)の茅ヶ崎クラスは、新な領域へ少しずつシフトしていっているために、今迄とはちと違うアプローチもありつつの、もっと自分という意識をどう扱っていくのかというところの話をしました。今年はこうして進んでいくのだろうと思います。

クラス内の皆さんのやりとりもより活発になり、質問をしたり「今、ひっかかっているけれど、何のパターンかわからない」ということについて皆が共に考え、それを見つけていかれたこともよかったです。

このような小さなできごと、ささいなできごとを開示できて、共に考え、これを繰り返すことが私は何よりの実践、行動であり、自分の変容につながる力をつけていくことだと思っています。心で思っていても、それを表明しないかぎりは何も変わらないんです。ですのでこのことは続けていってください。

クラスの同志として、一緒に学ぶことはとても貴重です。クラスをやめない限り、逃げるに逃げられない人間関係って大変かも。しかし、それゆえに、分かり合えるようになることがある。それゆえに分かり合えないことがあることも知る。まさに人間関係を学ぶ場がクラスです。

そして、それはずっと続くことはなく、いつかクラスも最終日を迎えることになります。それまでは、皆が元気に学べることを願っています。そして、自分も元気でいなくちゃと思います。しかし、それも全て天が決めるので、私が決められるものでもないこともわかります。

天が「いいよ、もう少し続けても」と言ってくれるように私も「どう在りたいのか自分」を日々確かめながらいきます。

で、知ったこと。仏陀はサンガ(4人以上のグループ)の中で学ぶことを勧めていた、ということ。何故かというと、その中での人間関係に悩んだり、面倒くさくなったり、腹がたったり、落ち込んだり、ということが起きてくるからだそうです。ということは、人が最も学ばなくてはならないこと(人を最も成長させるものは)って「人間関係」なんでしょう。

幸せを感じるのも人間関係、悩みになるのも人間関係。それを行っているのがクラスです。このことも知って、ますますクラスの大切さを思いました。それと同時に、仏陀の教えって、本当に身近なところにあるものであり、よりよく生きるための智慧であることがわかります。肉体を持って生きていくこの地上で智慧を持って生きていきたい。

パターンで生きることをやめる
2024/03/07

悩みって、簡単に、ざっくりと言ってしまうと、パターンが納得しないことを言う。

パターンを主体にして生きていれば、それはあたりまえのように毎日起こります。あの人があんなことを言った、あの人がこうやらない、この人が自分をわかろうとしない、誰も自分を大切にしてくれない、こうされたくない、ああされたくない、などなど。

これが全てパターンだということはわかると思います。必ず感情や感覚が伴っているので。1日のうちに何回かは、それが起きていると思います。そして、それがパターン主体で生きているということなんです。

そこを変えていくには、これも簡単に、ざっくりと言ってしまうと、パターンを主体にして生きることをやめる、ということです。実はとてもシンプルなことなんです。しかし、これが頭で理解できても実際そうなれないのが人間。おまけに今まで長年にわたって作ってきてしまって頑強に育ててしまっているので、一筋縄ではいきません。だから、仕方ないよねえーーーではない。

それも理解しつつ、でも、自分(「私」)はどうありたいのか。このままパターン主体で生きていくのか、それをやめるのか(ここは自分に誓って強く思ってください)そこは自分で選ぶしかありません。決して「私」で生きることが正しいということでもないんです。それぞれの魂の課題があるので、パターンで思いっきり生きることでもいいんです。

で、パターンで生きることをやめる、というのは、智慧を持つということだと私は思うんです。智慧というとえらくすごいことのように思うかもしれませんが、視野を広げる、新な意味づけを体験する、自分が今まで知らなった世界へ分け入っていく、ことで智慧を育てる。そういう智慧です。

昔、お世話になった先生がおっしゃっていましたが「愛」の反対にあるものは「無智」なのだそうです。無智であるというのは、今のこの思いに縛られてしまうことです。無智であるがゆえに違うものごとを見つけることができず、そうであればどうしても停滞します。

さて、今日はこれから2日間の茅ヶ崎クラスです。今回も岩手クラスよりゲストが参加されます。今回のクラスはこの今回だけです。この時にだけ必要な学ぶことが、与えられるはずですので、今回だけであるという思いで大切に2日間学んでください。

喫茶店
2024/03/06

本屋さんで「東京の喫茶店」という雑誌を見たら、素敵な喫茶店が沢山出ていて、どこも行ってみたいと思いました。

ところで、喫茶店とカフェの違いって何?喫茶店は中高年向きで老舗が多く、カフェは若者向きで明るくオープンな感じとありましたが?よくわからない(ま、どっちでもいいや)

で、思い出した喫茶店がありました。昔、よく行っていた吉祥寺の「くぐつ草」。階段を下りて、店内に入るとまるで洞窟のようでした。

https://www.kugutsusou.info/ 

圧迫感を感じる人もいるかもしれませんが、私はゆっくりできて好きでした。

それでもそのころの私は自分自身とも、他人とも、その他あらゆることと闘って生きていたので、心は不安や、空虚感や、焦りや、思い通りにいかないことへの怒りでいっぱいでした。周りの人たちは皆うまくいっているように見えていて、自分には何もないと思っていました。まさに、そんな意識がそんな現実を創り、私はそこで生きていました。当時は、そんな、疲れてしまった心身をいやすために、一瞬の安らぎを求めてそこへ行っていたんだと思います。

その頃の私と今の私と「くぐつ草」で一緒にお茶をしたいものです。そして、話を聞いてあげたいです。「大丈夫だよ(自分を変えれば)」と言ってあげたい。でも、当時の私ではわからないでしょう。ひたすら自分の外側に自分を支えてくれる人を、物事を探していましたから。苦しかったと思う。なんせ幻を追っているわけですから。よく、ここまで来たと思います。

で、茅ヶ崎にも喫茶店があるのだろうか、と調べたら「カフェムラサキ」(カフェだけど喫茶店1964創業)という喫茶店がありました。昔ながらのメニューの数々。古いけれどきれい(らしい)な店内。タバコ臭くもない。と口コミがあったので、今度行ってみようと思います。落ち着けて、ゆっくりできて、それなりに美味しい喫茶店が近くにあると、それもまたいい。

…なんか…かっこよかった…。
2024/03/05

先日、駅ビルのエレベーターの中でのこと。

エレベーターに乗っていたのは私、若い女性、80代くらいの男性の方の3人でした。

エレベーターが1階に着き、ドアが開くと若い女性が「開く」ボタンを押して「どうぞ」と男性の方に声をかけました。するとその男性も「開く」ボタンを押していて「どうぞ」と若い女性に言いました。その女性は「ありがとうございます」と言って先に出ていきました。

すると今度はその男性の方がボタンを押したまま「どうぞ」と私に言ってくださったのですが、お見受けしたところ、足元がおぼつかないようだったので「どうぞ、お先に」と言いました。するとその方が「いえ、いえ、どうぞ」と言います。私もまた「いえ、いえ、どうぞ」と。

するとその方が「いいえ、レディーファーストですから」とおっしゃいました。それを聞いて「では、お先に。ありがとうございました」と言って私が先に出ました。

高齢でいらっしゃるからか、もしかしたらどこかお体が悪いからか、足元が危なそうです。本当なら真っ先に出ていいのに。それよりも、ご自分の「レディーファースト」を貫きたかったのだろう…男性として、いくつになってもそうありたいと思っていらっしゃる方なのだろう…と勝手にですが、思いました。

…なんか…かっこよかった…。

自分が貫きたいもの。いくつになっても、どうであっても。それがあるということは自分をしゃきっとさせ、自分としてそこに在るのだと思います。そして、それは他人にも何かしらの影響を与えます。私が貫きたいものって?と道々考えながら帰りました。

二極の世界の限界
2024/03/04

「自分を卑下してはいけない」…と言われると「自分はすごいんだ」に傾いてしまいやすいかもしれないと思います。こっちでなければあっちと。これは両極を極端に動いている状態です。

一般的にはそういう在り方をしているし、勧められてもいます。「自分を卑下してはいけない。あなたはすごい存在なんですよ。だからもっと自信を持って」と。自分のことを知らない人がなんで「あなたはすごい存在なんですよ」と言えてしまうのだろうか…と天邪鬼な私は常々思ってしまいます。

私(道場)としては、ありたいところはそこではなく、その両極の真ん中にあります。その真ん中に自分はいて、両極に向かってその時必要なものを浸食していくような、両極からその時必要なものを選んでいくような、在り方をしていきたいです。

なぜならば、そこにはたくさんすぎる選択肢があるからです。そしてそれは全てが絶対ではなく、いつでもどこでも変更可能なものとして漂っているからです。そんな自由なところにいることを実感していくことをぜひ皆さんにも体験していただきたいと思います。

「卑下」なのか「すごい」のかだとこの2つのうちのどちらかになってしまいます。それしかない。しかしそこにあてはまらないことも多々あります。だからそこにいては窮屈です。

二極の世界の限界ってここなんだと思います。そこを離れてたくさんすぎる選択肢の真ん中に立つ。そこは新しい世界だと思います。

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