ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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あっちかこっちか
2017/07/09

人は矛盾がないほどいい、と誰かが言っていました。

本当はそうしたくなのに、我慢して何かをしなければいけなかったり、してはいけなかったり、自分の本位に反するところに矛盾が生まれます。

それは痛みや苦しみを伴うこともあるし、理不尽さや、やるせなさを感じることもあります。でも、私は、それもいいんじゃないかと思うんです(バランスの問題なので、あくまでも偏り過ぎていなければですが)

矛盾を一切含まずに生きているのは、もしかしたら、動物や植物だけかもしれません。ほとんどの人間は矛盾とともに生きている。だって、そうじゃないと社会生活も日々の生活も営めなくなる。矛盾がないように自分の本位を押し通してばかりでは、生きること自体が難しくなる。そう考えると矛盾は生きていく上での潤滑油かもしれない、と思います。

そして、何より矛盾による悩みが自分を成長させてくれる。矛盾が一切なかったら、ストレスもないわけでそこには成長はないでしょう。本当に大切なのは、そんな矛盾が今自分の中に起きていることを認識できていて、それを「私」の知恵で切り抜けていく、それは、矛盾をかかえながら超えていくことなんだと思っています。かかえながらいけるのであれば、いいじゃない矛盾と一緒にいけば、というふうに思います。

物事の解決が一般的には、こっちかあっちかというものになりすぎている中で、かかえながらいこう、というのは理解しがたいスタンスに感じられるかもしれません。しかし、ここは、あっちとこっちという2極ではない、幅広い選択のできるところです。この幅広い選択のできるところでは、矛盾への自由な意味づけができます。

全ての事象をこの幅広い選択のできるところでみていかれたら…あっちかこっちかという狭いところから自由になっていくのを感じられると思います。

七夕の日に・・・
2017/07/08

きのうは映画「ラ・ラ・ランド」を見ました。

この映画、予告編を見ると、恋人同士の明るく楽しいミュージカル映画かと思っていましたが、見た方々から「あれはドラマだった」「せつない」「悲しい」「ハッピーエンドじゃないよ」など聞いていたので、一体どういう内容なんだろうと思っていました。

又、監督は「セッション」をつくった方で、だとすると一筋縄ではいかないだろうとも思っていました。で・・・やっぱりそうでした。「セッション」もそうでしたが、この映画も賛否が大きく分かれているようです(万人向けではないという魅力がある)

実際、となりに座っていたカップルの男性は途中寝てました。確かに途中ちょっとかったるさがありましたが、見終わってみると、そのかったるさが、2人が恋に落ち、愛しあうまでの時間を感じられるものだったと思いました。

恋する2人ではありますが、そこにはお互いの夢と現実もあります。そこのハザマで2人の気持ちにずれが生じたりするんですが。それを乗り越え、愛する2人はハッピーエンドに…ではなかったんです。でも、あのときの真剣な恋は、本当だった(・・・ネタばらし的なので、これから見ようと思っている方には申し訳ない)

最後の最後のシーンで5年ぶりに再会した2人が見つめ合い、でも、一言も言葉を発することなく、静かな微笑みとお互いを認め合うその視線に、ただの恋愛の愛ではないものを感じ私はほっとしました。恋はいい。でも、恋はつらい。そこを昇華して愛にもっていくのには時間もエネルギーもかかる。でも、その価値はある。そんなことを思った映画でした。

ただ、私としては1作目の「セッション」のほうがよかった。あれほどの衝撃は今回はありませんでした。監督の1作目って、駄作ではないかぎり、その人自身があらわれていて、とても衝撃があると思うんですが、2作目、3作目はなかなか難しいですね。期待している分というのもあるのかもしれません。

でも、七夕の日にはぴったりの映画だったと思います。

自分のことが好きか?
2017/07/07

自分のことが好きか?

それは、自分のやっていることとか、自分の作ったものとか、生き方とか、在り方とかではなくて…自分のことが好きか…ということ。

このことを自分に問うてみるといいかもしれません。

だいたい自分が好きという場合は、自分の偉業やそれによる名声とか、お金とかを得ている自分、知的で、情報通である自分、スピに特出している自分、真理の道を歩んでいる自分、頭の良い自分、頑張っている自分、彼に愛されている自分、などなど、そんな自分が好き、という認識では?もちろんそれは自分ではあるんだけれども「そういう自分」というものです。

では、それらがない自分はどうですか?何もないの。ただ、今の裸の自分のみ。それでも自分のことが好きか。

で・・・・自分を愛するというのは、そういう状態へ向かっていくことなんじゃないかと思うんです。この状態には過去の自分や他人との比較はないはず。そして、実は、ただ、今の自分をそのまま好きであれば、心身は、本来(健康)のように動いていくんじゃないか、と感じているこの頃です。心身の健康をブロックしているのは自分のことが好きじゃないから…これはきっとそうだと思う。かなりの確率で。好きじゃなかれば、自分を責めることもするし、嫌う部分をなくそうと闘う。この闘いにより心身は傷つけられます。それは無意識に行われていることがほとんどだと思います。だから、無意識の領域を意識化していかないといけないんですね。

「そういう自分」がなかったら?それでも自分が好き?ちょっとそんなことも考えてみてください。

皆さんにお勧めしたこと
2017/07/06

沖縄はやっぱり暑かったけれど、帰ってきてからの茅ヶ崎も暑い。今や暑さは日本全国同じようです。そういう意味ではこの時期の出張は着るものを色々と考えなくていいので好きです。

さて、今回の沖縄で、父の話が出て、皆さんにお勧めしたことがありました。

それは…ご両親がお元気なうちに、ご両親とこれから先のことを話合っておくといいよ、ということ…です。

ご両親が病気になり、入院し、様態が悪くなってから色々と聞くのはお互いに悲しい。最期のときは、亡くなっていく方だけを見つめていたいです。それは亡くなられる方にとっても安心感を感じられるのではないかと思います。2度とない大事なときだから、そして自分が後悔しないためにも。

我が家は、私と妹のほうからそういう話をする前に、父が数年前に「自分が死んだら」ということでマニュアルを作成してくれていました。

可能なら〇〇病院に入りたい(そのとおりとなりました)、延命治療をしないで、静かに死なせてほしい(そのようにできました)、様態により預金をおろしておく(名義人死亡のときには凍結される)、通帳と印の在りか(要・マイナンバー在りか←必要頻度大)、葬儀場のこと(父が生前決めていたところ)、遺影のこと(用意してあった)、葬儀のこと(お棺はどうせ燃やしちゃうから安くていいとか言っていた(笑))、葬儀に参列していただきたい方の名簿、その方たちにお世話になったことのお礼を伝えてほしいということ、お寺のこと、お墓のこと、その後のもろもろの手続き、そして、私と妹とトミーとで仲良く助け合っていってほしいということ。事務的なことだけではなく、そこには父の病気や死に対する考えも書かれていました。

それを前もってわたされ、3人で会議(笑)もし、シュミレーションしていたので、入院〜亡くなったあとも、戸惑うことなく、つつがなく事が運んだと思っています。大方、父の希望通りにできたと思い、さいごの親孝行だったのかもしれません。

死ぬときのことを話すなんて縁起でもないと思われるかもしれませんが、もし、ご両親がそこに強い抵抗がないようであれば(無理強いはだめだけど)ぜひ、ゆっくりと話し合ってみられるといいと思います。エンディングノートも今は出ているので、そういうものを使ってもいいですね。

私は子供がいませんが、いつ、どうなるのかわからないので、記しておこうと思っています。

責任をはたすため
2017/06/30

先日乗ったタクシーの運転手さんとの会話。

運転手さんがこの仕事に就く前、自分がプライベートで車に乗っているときには、まわりのドライバーをみていらいらすることばかりだったのだが、こうして仕事として運転をしていると、以前ほどいらいらしなくなったと話をしていました。

「車に乗っている時間が増えたのに、どうしてですか?」と聞いてみると「仕事となると、責任がたくさんついてくるんですよ。一番の責任は事故をおこさないことで、そうなると、いらいらしていてはその責任がはたせないので」とおっしゃっていました。なるほどなあ…と思いました。

何かを行うにあたって優先されるべきことはなんなんだろう?と考え、それを遂行するためには、自分の何かを我慢したり、変えたり、選ばないようにしたりすることって何事にもあります。

当たり前と言ってしまえばそこまでですが、この運転者さんのように、そこを意識的に行えているのかどうかがそれを継続できるかどうかなのだと思いました。自発的にそれに気づいてそうしようと努力しているのか、それとも、仕事だからとやらされているのか。このどちらを選ぶかで、その日1日も、そしてこれから先も大きく差がでてくるのだと思います。やはり一瞬一瞬の選択ですね。

今日はこれから沖縄です。梅雨明けした沖縄、きっと強い日差しがさしていることと思います。一足先に夏にひたってきます。皆さまもどうぞお元気でお過ごしください。

愛の体験は今のありのままの自分に向けて
2017/06/29

私もあなたも皆が愛のかたまりなんです…と昨日書きました。

この体験は、他を愛するという体験なので、喜びや、尊厳とともに大変ありがたいものなんですが、そこにまで成長してこれたのは、自分の中のネガティブなものを愛することを行ってきたからだと思っています。そこを無視して、他人を愛の目で見るということをやっても、それは形だけのものであって、きっと自分が苦しくなります。

ですから、愛の体験は、今のありのままの自分に向けてからスタートするということがとても大事です。

もし、レースのシャツを脱いでいる彼を見たときに、彼が愛のかたまりだというフレーズが頭の中をめぐっても、やっぱり、いらいらする、いい加減に早く座れ、などの感情や思考が沸き上がってきたのであれば、それを大事にするということです。

そこでそれらを抑圧して、彼を愛のかたまりだと思おうとしないでくださいということです。それよりも、今自分が感じていることを優先します。又、他人を愛の目でみるということが思考に埋め込まれてしまうと、自分の中に起きているいらいらなども感じられなくなるということもあります。ですから自分への観察がとても必要になります。

正直に今の自分をみていくことで、自分の中に起きたいらいらは、レースのシャツの彼のせいではないということにも気付くと思います。自分の中のパターンにひっかかるからいらいらしているんだということに気付きます。その気付きが、他人と自分との距離感や、他人に振り回されるということから離れていくことになります。

そして、自分のパターンたちに向けた愛は、いずれ他人にも向けられるようになります。そんなときにわきあがる他を愛するという体験。それはきっとその人にふさわしい体験であり、その人独自の言葉によって表現されるのだと思います。

目にみえない最も大切なところ
2017/06/28

昨日の続き。

電車は結構揺れていますが、それでもしっかり立っている彼に、驚きました。どうみても運動している感じには見えない彼なのにバランス力、足腰の強さはみごとです。

そして、やっとレースのシャツを破くことなく脱ぎ終え、丁寧にそのシャツをたたみ、席に置いてあるバッグの中にしまいました。

…と同時位に電車は次の駅に着き、彼はゆっくりと座席に座り、スマホを出し、音楽を聞き始めました。次の駅からは多くの人が乗ってきましたが、彼がその人たちの邪魔になることはありませんでした。一件落着。

私はさきほどの周りの人達の彼への視線のことを思い出しました。それは、批判的な視線だったと思います。自分とは違うものへの視線。もちろんそれぞれパターンにひっかかってです。私もどちらかといえば、不快感がありました。公の場で他人への気遣いが出来ていない人はだめ、というパターンです。

そんな自分を観察しながら、目の前の彼をなんとなくぼーっと見ていました。彼は全く私にも、他の人にも目をむけません。

そのときに、心の中にうかんだことは、この彼も両親に愛された人なんだということ。彼が生まれて、とても喜び、大事に育てたであろう両親がいる。そして祖父母もいたかも。兄弟がいたかも。そういう人達の彼への愛を彼はたくさんもらって、それゆえ彼は愛のかたまりです。

そして、彼に批判的な視線を送っていたあの人も、こちらの人も、私も、同じように愛のかたまりです。皆、同じ存在。

目に見えるところはそれぞれ違う。それは自分にとっては理解できないことかもしれません。でも、目に見えない最も大切なところは皆同じなんです。そこへ気付くと、誰でもが愛おしい存在として感じられます。

お互いにここを見ていかれたら、平和な世の中になっていくんじゃないかと思います。

レースシャツを脱ぎ続ける彼
2017/06/27

電車に乗ったときのこと。7人掛けの席はあっという間にうまりました。

私の目の前の席もすでに6人が座っていて、最後の席に座ったのは、20代の細身、長髪、陶器のようなきれいな肌の色白ロック系男子でした。(たぶんバンドやっているんじゃないか‥と思う)

そのロック系男子、電車が動き出したとたんに席から立ちあがり、バッグを席に置き、ゆっくりと細身の上着を脱ぎました。その上着を何度が丁寧にたたみなおし、席に置いてあるバッグの中にしまいました。上着の下にはやはり細身の繊細なレースのシャツとその下には体にぴったりとはりついているTシャツを着ています。

すると、今度は、レースのシャツの前ボタンをはずし、上着のときより、ゆっくりと脱ぎだしました。その間電車の揺れには「おみごと」というくらいのバランス感覚で立っています。

ところがそのレースのシャツを脱ぐのに時間がかかっている。ひとつにはシャツがすごく細身だから。そしてもうひとつは、彼は親指を除く両手の全ての指に指輪をしているからです。その指輪が全てごついの。どくろの指輪、ドラゴンの指輪、ぎざぎざの指輪、チェーン付き指輪など、乱暴に脱いだらぜったいレースを破くだろうと思われるものばかりです。

彼は慎重に慎重にレースに指輪がひっかからないように、脱いでいました。

ほとんど立っている人がいない真昼の電車の中でひとり立ったまま時間をかけて脱いでいる姿に皆の視線は自然と集まります。周りにいる人達の顔を見てみると、男性はあきらかに「何やってんだおまえ、男だろ、早く脱げ、早く座れ」的な感じ。女子は「気持ちわるいこの人」的な感じ。私は、そろそろ次の駅に着くけれど、そのときにまた人が乗ってきたら、けっこう邪魔かもと考えていました。

そんな周りの人々の視線や思いなど、どこ吹く風でレースシャツを脱ぎ続ける彼。暑いのか、時々、長い髪を上にあげるようにして首の汗をハンカチでぬぐいつつ。続く・・・・

もう、十分
2017/06/26

「清福」(純福、正福、など)・・・・・・・何故、清(純、正)ありきなのでしょうか?それよりも福をたくさん得られることを考え、それに向かっていくほうが早いと思うかもしれません。

この考え方はひと昔前(昭和時代)の考え方になります。以前はこれが主流でした。福に恵まれたいのなら、たくさん働いて、又はお金がお金を生み出すことを考え、福を増やす。資産になるものを集める。福はあればあるほどいい。しかし、もうそこではないです。

そこに気付き始めている人が増えていると思います。福だけというのは、単発的には得られますが、継続性がないということがあります。継続性には、どんな心(意識)でそれを行っているのかが必要になります。心(意識)から全てが創られるからです。

そして、清(純、正)そのものに、福が含まれています。何よりそうある自分への喜びがあります。そして、それは他のためのものでもあります。物質ではないものの豊さを感じ、生かされていることへの感謝もあると思います。そして、清福を選ぶときには、恐怖と不安というパターンで選んでいるのではないことも感じられると思います(そのためにそこへのケアは必要です)

そういう心が創る現実的な福。心と現実に与えられる福。

・・・・・もう、十分と思えます・・・・・

そんな幸せを味わって人らしく生きていきたいです。

清ありき
2017/06/25

自己探求、己の成長・進化というと、聖人君子というイメージがあるかもしれません。

もちろん、そういうことを目指してやっていらっしゃる方もいます。ここも一人一人(魂の課題が)違うので、どれが絶対はありません。今の苦しさから抜け出すために、より自分を知っていくために、真理の探究のために、今の仕事にそれをいかすために、カウンセラーになるために・・・と色々あります。いずれにしても、自己探求、己の成長・進化は必要です。

私が、この自己探求、己の成長・進化で目指していることは、聖人君子になる、マスターを目指す、というものではなくてこの地上で「清福」の体験をするためです。そのために、パターンで生きないこと、「私」がオリジナルな創造をして、実生活でそれを実行することを行っています。

私は山にこもっているのではなく、修道院にいるわけでもなく、普通の生活をしている普通の人です。その普通の生活に「清」と「福」という一見相反するものをとけこませ、統合させていくプロセスとその結果を受け取るという体験をしたいからです。

高い精神性や霊性があればいい、どんなに貧しい暮らしでも…というのは私はちょっと…。

いま、ここに肉体をもって生まれてきたのですから、福に恵まれ、幸せになることはとても人間らしいことだと思います。ただ、福のみではないんです。その福を生み出す清が必要です。そして、まずは、清ありきです。

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