ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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「私」が与える贖罪
2019/03/08

ここの所、映画ネタが多いですが。

TVで見た「ミッション」という映画。「1986年のイギリス映画。18世紀、スペイン植民地下の南米・パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)を舞台に、先住民グアラニー族へのキリスト教布教に従事するイエズス会宣教師たちの生き様、彼らの理想と植民地社会の現実や政治権力者の思惑との葛藤を描く」(ウィキペディアより)・・・というものです。

ロバート・デ・ニーロ演じるロドリゴは傭兵であり奴隷商人であり実の弟を殺した犯罪者です。そこに宣教師の神父ガブリエルが現れて、ロドリゴに改悛を勧め、彼は先住民グアラニー族の住む山の上に数人の宣教師とともに行くこととなります。

そこは険しい崖と深いジャングルに包まれている村でした。その道をロドリゴは重い荷(甲冑や重い剣などが入っている袋)をもって崖を上っていきます。それは戦闘用のものとしてだったのかもしれませんが、それよりも自分の罪を贖うためのものとしてに見えます。

足をとられ、荷とともに滑り落ちても、また荷とともに上がってくるロドリゴを見て、ひとりの宣教師が彼の荷を捨てます。そして「もう、彼は十分罪を贖ったのだから荷をおろさせてやってください」とガブリエルに言います。しかしガブリエルは「私たちがそう思っても彼自身がそれを許していないのだ」と言います。

ロドリゴは荷を持ち続け、山頂をめざします。その姿からは痛みと苦しみを自分に与えずにはいられない気持ちが感じられます。ガブリエルが「神が許すまでそれは続く」と言ったときに神は「私」であり、「私」が納得するまでということなのだと私は深く理解しました。

ロドリゴは神に許しを求めているのではなくて、自分が自分を許せるまで自分に苦痛を与えていきたいのだと。自分を許さないのは神ではなく「私」なんだと。「私」が与えている贖罪。自分の作ったカルマを死後に持ち越さずに現世で償いたい。

こうして重い荷とともにグアラニー族の村に着いたロドリゴ。彼をみつけたグアラニー族の男がロドリゴの、のどもとにナイフをつきつけます。ロドリゴはこの村の人達を狩り、奴隷として売っていたからです。ロドリゴは殺されていい、それは当然だ、という顔をします・・が・・その男は彼の重い荷のロープをナイフで切り、ロドリゴを荷から解放させます。

そのとき、初めて、ロドリゴは泣くのです。泣くことさえ自分に許していなかった彼が初めて泣くことを自分に許し、このときに、彼の「私」は自分を許したのだと思いました。泣いているロドリゴを村の人たちは、笑ってみています。そして神父ガブリエルはロドリゴを抱きしめます。ロドリゴは神父の腕の中で子供のように泣き続けます(ロバート・デ・ニーロは本当に上手い)「私」についての理解をより深めた映画でした。

さて、今日はこれから沖縄に行ってきます。今回も行かれることに感謝です。皆さんもどうぞお元気でお過ごしください。

絞ることの継続
2019/03/07

「自分が望む人生を創っていくためにはどうしたらいいのか?」と聞かれることがあります。

それは「できるまでやり続けること」です。

その間、そこに絞り込んで、ビーム光線のようにそこだけに意識を向け、努力を惜しまず、毎日、それに向かってやり続けることです。そういう意味ではすごくシンプルです。焦点を絞る。これでできるまでやれば必ずできます。

多くの場合、この絞るというところがうまくできていないような気がします。こんな人生を生きたい、だけど、これも捨てがたい、これは好きだからやめたくない、これもたまにはやりたい、今の状態は手放したくない、継続は苦手なので気の向いたときにやりたい・・・と・・・この時点でエネルギーは分散されていくので、なかなかビーム光線のように強く働きません。こう言っている人で自分の望む人生を手にしたという人を知りません。

時には息抜きも必要だよね、ときには自分にご褒美だよね、といつも息抜きとご褒美では・・・・・無理でしょう。

なんか、そのへん、メディアの影響か、ゆったり生きるとか、ナチュラルな生き方とか、ゆとりある生活とか、自分の時間はおしゃれなカフェで的なイメージが自分の望む人生だと思っている方が多い気もします。それは、努力して望むものごとを手にしたあとに、付録的にあるもので付録はゴールではないと思います。

自分が(「私」が)望む人生を創っていきたいという方はぜひ、絞ることの継続をしていきましょう。はじめはそこに意思力が必要とされますが、ある程度それに慣れていくと、そのプロセスそのものが清々しく感じられるとも思います。そうなってくるとそれは大きな自分の味方になってくれます。その清々しさを今日も体験したいと思えるようになるからです。そうしてそれが普通になると、望んでいたものが少しずつ形になってきていることを感じると思います。

「私」が選ぶ
2019/03/06

どっちを選んだらいいか迷うとき、私はAの部屋とBの部屋をつくって両方に「私」が入って、入ったときの一瞬の感覚で決めています。

いつのころからか、これをほとんどの場合(特に大事なことを決めるとき)に使っています。そんな根拠のない危ういこと、と、ほとんどの方は思うと思いますが、そんな危ういことと決めればその通りに危うくなります。

これは私の一つの決め事で「私」が見て、聞いて、考えて、言動してというのと同じように選ぶことでも「私」で行う、というだけのものです。

こうすることの何がいいのかというと、どっちを選んだらいいのか、ああでもない、こうでもないともんもんと考える時間と労力を使わなくてすむということです。これは本当にありがたいです。

一般的にはしっかり考えて、あらゆる場面を想定して、リスクがないように、望む結果を得られるように決めなくてはいけない(特に大事なことは)と言われますが、決めたものごとにはいずれにしても+もあれば−もあるので、ある意味、何を選んでも一緒というのもあります。

それよりも「私」の選択したもののベストをつくす努力をします。「私」が選んだからと言って、嫌な目にあわない、ということではありません。嫌な目が今の自分に必要ならちゃんと選んだものごとの中に「私」は嫌な目をセッティングします(神が試練を与えるのではなくて「私」が「私」のためにセッティングします。神はみているだけです)そんなとき、もう片方を選べばよかったというのもありません。

「私」が選んだのだから長い、大きな目でみれば「私」にとってこれでよかったということを知ります。それは本当に秩序だてて、細部においても計画され、行われていることだとわかります。

これは使えるようになるといいです。ここからまた、色々なことに気づかれると思います。かと言っても、最初から大きなことを決めるのは怖いでしょうから、最初はリスクの少ないものごとで練習を重ねていくといいです。毎日、それをやっていくうちに「私」の感覚というものがきっとわかると思います。

注意点としては、各部屋に入ったときの一瞬の感覚の良い方を選ぶということです。「私」が各部屋に長い間いると、すぐに思考が動き出す(パターンが頭を動かします)のでわからなくなります。一瞬の感覚がキーです。

実は、わかっていないだけで…・
2019/03/05

「では、今日のセッションはここまでにしましょう。来月はどうしますか?」と私が聞く。

「そうですね、じゃあ、来月の28日ってどうですか?」とクライアントさん。

「大丈夫です。じゃあ、来月28日の同じ時間にね。ところで…〇〇さん(クライアントさんの名前)って、どこから来てくださっているんでしたっけ?」と私が聞く。

「東京です。確か、ここに来ている〇〇さんも、東京からですよ・・・・江戸時代の・・・・」とクライアントさんが言う・・・という夢をみました。

夢の中で「江戸時代から来ているの?」と驚いているところで目がさめました。「江戸時代からこの時代にカウンセリングを受けに来ているということかぁ」としばし、ぼーーーっとしました・・が・・もしかしたらこういう事も無きにしも非ず・・・とも思ったりして。

好きな映画に「メン・イン・ブラック」というのがあって。トミー・リー・ジョーンズとウィル・スミス主演のコメディ、SFアクション映画ですが、実は地球上には大勢のエイリアンが人間に変身して、人に混じって普通に生活している、という設定になっています。

そう言えば「コンスタンティン」という映画では天使と人間・悪魔と人間の中性的な存在が人間の姿でこの世に住み着いているという設定でした。あちこちで普通に生活をしている人がキアヌ・リーブス扮するコンスタンティンには天使に見えたり、悪魔に見えたりします。

実は、わかっていないだけで、見えていないだけで、本当はそうだったり、わかっていないだけで本当は時代を超えて会っていたり。夢を見た日は確かTVで「メン・イン・ブラック3」を見た後だったので、そのせいかもしれませんが、なかなかインパクトの強い、でも、どこかわくわくするような夢でした。

ちょっとそんな目で他人を見たら?いや、その前に自分は?どうなんでしょう。

人生全体を見る目を持つ
2019/03/04

「世界の中にありながら世界に属さない」(吉福伸逸 著)の中に、古代インドの「四住期」という考え方がありました。

それによると、人はまず「学生期」からスタートします。心身を鍛え、学び、自我を強めて、社会の中で生きていく力をつける時期です。次が「家住期」です。学生生活を卒業し、社会人として仕事をして、家庭をもち、子供を育てる時期です。次の「林棲期」は社会的役割を終えたら、たった一人で森にひきこもって瞑想生活をする時期です。これにより自我の縛りが少し弱まってくるのだそうです。そして最後は「遊行期」です。インドにおいてはいろんなヒンドゥー教の聖地を順番に巡っていきながらその旅の途中で死を迎える・・・・・というものでした。

『こうした人生全体を見るというのは、インドにかぎらず、日本にもそれに近い伝統があるし、洋の東西を問わず同じようなことが多くあります。特に宗教的修行の伝統の中にはそれがしっかりと存在している。ネイティブ・アメリカンにも似たような考え方がありますし、キリスト教神秘主義と呼ばれる伝統の中でも、また、イスラム教神秘主義派のスーフィズムにも、ほぼそれと同じような人生観があります。』(世界の中にありながら世界に属さない より)

こうして人生全体を見る目というのが、私には、いい感じであり、きのう書いたことも合わせると、今、私は年齢的には「林棲期」にいて、もう少ししたら「遊行期」への道を歩むんだなあと思いました。

人生100年と言われるようになり、いくつになっても成長し続け、挑戦し続けることがいいことのような風潮が生まれつつあります(もちろんそうしたい方はそれでいいのですが)社会全体がそうなっていってしまったときに「(そういう)世界の中にありながら(そういう)世界に属さない」を肝に命じて私は私の人生を送ろうと思いました。

結局、いつも書いているとおり、この人生を生きていく、自分専用の取説を自分のために創ることなんだと思います。その際に生物としての自然な流れを妨げることなく、人生全体を見る目を持つ、という項目も増やそうと、今回思いました。

生物としての自然な道
2019/03/03

お会いした方が「よろしければ・・・」と本を貸してくれました。

「世界の中にありながら世界に属さない」(吉福伸逸 著・筆者は日本にトランスパーソナル心理学を紹介した方です)まず、この題名がすごくいいと思いました。

この本の帯に『スーフィーの言葉でいわれる「世界の中にありながら世界に属さない」というふうなところに行ってほしいんです。超えるんじゃないんですよ、世界にいながら属さないんです。属さないっていうことは縛られないってことなんです。社会からどう思われようと、世間からどう思われようと、そんなことは関係ないんですよ。(本文より)』とありました。本を読んでみて、帯に書かれているこのことに要約されていると思いました。

そして、私個人として、クリアになった部分がありました。それは、心身の発達はある程度のところで進まなくなる、ということ。それから、年をとっていくことで自我が薄くなっていくということ、はっきりさせる必要がなくなるということ、社会的機能が低下していくということ。それは年をとることで生物に起こる自然なこと・・・ということ。

60歳をすぎてから感じ始めたこのような感じ。もう「私が私が」ということには気持ちが動かず、それよりも周りの景色に溶け込むような自分でいたいという思いがつのっていました。ああ、私は生物としての自然な道を生きているんだなあと思いました。

自分の中に起きてきていたこの感覚、ここがクリアになったことはこの本をお借りしたことの大きな意味であったと思います。続く。

気づきの先生
2019/03/02

先日の電車の中で。

80歳の女性2人と、4人掛ボックス席で一緒になりました。お二人ともキャリーバッグをもっていて「ごめんなさいね、じゃまでしょう?」と聞かれたところから会話が始まりました。

横浜から茅ケ崎までの30分間でしたが、楽しかった。

お二人はかつての同僚で、今は年金で毎月、近場に旅行に行ったり、年1回は、遠出の旅行をしているのだそうです。一人の方は熊本出身だそうで、九州の良さを話してくれました。

私が「まだ1度も九州に行ったことがない」というと、熊本城は必見の価値があると言っていました。「広くてね、大きくてね、とにかく素晴らしいの」と。そして、宮崎も、鹿児島も、長崎も・・・どこも、九州はいいと。「初めて神様が降臨したところだから、九州は特別なのよ」ともう一人の方が言いました。ずっと九州は行ってみたいと思っているのでそろそろ行かれるのかもしれません。

茅ヶ崎で降りるときに、私は「お話しをありがとうございました。楽しんできてくださいね。さようなら」と言ったと思います。それに対してお二人は「どうぞ、お元気で」とかえしてくれました。

電車を降りてからこの「どうぞ、お元気で」という言葉に人生の幅というのか、その人の人生の歴史というのか、そんな厚みを感じて、まだ私はこの言葉を言えないんだろうなあと思いました。

見ず知らずの人から教えられること、ふと目にしたものごとから教えられること、耳に入ってきたことから教えられること、あちこちに気づきの先生はいてこちらが心を柔らかく開いているだけだと思っています。

中立ワーク
2019/03/01

「魂の道場」のオリジナルワークとして「中立ワーク(意味づけワーク)」というものがあります。

試験を受けている方々にとってはこれが最も難題となっているものかもしれません。このワークの核になっているのは「この世の事象には意味がない」というものです。これは頭ではひとつの情報として理解できるのですが、腑に落ちてわからないというところに難題さが出てくるのだと思います。

*****「あらゆる事象に意味がない」****という感覚。

「ただ、そのものとして無意味に存在しているだけ」という感覚。そこがおぼろげながらも感じられるようになってくると、だんだんと難題ではなくなります。

ですので試験においては、これを覚えるとか、すらすら説明できる、ということではなくて、自分がどれだけそのおぼろげなものをつかめているか、おぼろげから腑に落ちたものにしていっているか・・・というところにかかってきます。

「意味がない」状態って、なかなかわかっているようでわかりづらいものです。そのくらい私達は全てを普通に決めてしまっているからです。

病気というのは悪いもの、よくないもの、苦しいこと、だめなこと、弱いこと、自由ではないこと、などなどを意味づけてすでに皆が決めています。健康は良いもの、絶対に必要なもの、楽な状態、強い、明るい、自由、いつも持っているべきもの、などなどを意味づけてすでに皆が決めています。そういう中で生きているので自然にあたりまえに普通にそうであると決定されています。

この決定を崩していく自分の体験に基づく新な意味づけ(・・ここが大事。それの持つ一般的に言われる+面、−面を見つけるということではありません)を作ることで自分自身を縛りから自由にしていきます。これはその事象そのものも自由にしてあげる=本来の姿に戻してあげることになります。そして、自分の新な意味づけは自分の世界を広げます。その意味づけの中から何を選んでもいい(それは、今までの自分の意味づけも含めて)というところで自分の行動範囲も広がります。

地味なワークですが、その後ろにあるものは、壮大なものです。そこが腑に落ちてわかったときに、きっと自分自身がソース(源)である、と言われていることも腑に落ちると思います。「中立ワーク」の世界を楽しんでいただけたらと思います。

ある方のお話 V
2019/02/28

Aさんが許しの心でBさんに対することでAさんにもBさんにも善き循環がおこります(人と人との関係はそこでの循環。どんなものを循環させているのかです)

まず、Aさんが昔のように他人を許さないで居続けることは相当につらいことです。それは心身を疲労させます。Bさんとのその後の仕事も不信を感じながら行うことになると思うので、良い仕事にはならない可能性があります。

しかし許すことを選んでいけば、自分はその苦から離れるので楽でいられます。自分を楽にしてあげることは何よりです。そして、Bさんにとっても、Aさんに許されることで、素直になれるので、すぐにではなくても自分を変えていこうとする気持ちをおこすことにつながります。

つまり・・・・許しは他人を育てるんです・・・・許しが相手の人の心にスイッチをいれます。

そしてAさんは自分の許しの力を深めていきます。その許しでまたBさんと仕事をする。その許しをBさんは受け取り、感情的になることが減ってくる、そういうBさんとAさんは接していくことになる、そしてまた・・と。そういう循環がおこります。

そんな壮大な世界を「許し」は持っています。こうして、Aさんの体験から壮大な世界への話となっていきました。

Aさんが「今までは使ってこなかった「許し」は・・・そうか、語りかけしていけばできてきますね」と言いました。そうです。自分のパターンへの許しが他に向かうことになるので、その通りです。その体験があるからその感覚がわかります。

ここで注意が必要なことは、許しを感覚として体験することなく頭でそれをやろうとしてしまうと誰にも、いつでも相手を許す(黒パターンがやる許し)ことを行ってしまって、えらいことになります。

まずは自分への許しです。これができてからのものですので、早くそうなろうとしないようにしてください。いつか「私」がそれを使えるようになっていってください。

ある方のお話 U
2019/02/27

きのうの続きです。

まず、Aさんの気づきとしてこういうものがありました。「Bさんに感情的にきつく言われて、自分も昔はこういうふうに感情的にきつく他人に言っていた。こうやって言われた方はとても嫌な思いをするものなんだな、ということがわかった」

自分のやっていることは自分ではなかなか客観的に見ることは難しい。他人にやられてそれが初めてわかるという体験です。この体験を通してAさんは、これはやってはいけないと思ったのだそうです。

そして、話はまたそこから広がります。

Aさんに気を使って話かけるBさんに対して「Aさんがどんな心でその人に対するのかということが大事なんだよ」という話になりました。「何を今さら気を使ってんのよ。私は絶対に許さないから」という心を持って向かえばBさんは心を閉ざしていきます。そんなBさんを見て、きっとAさんも心を閉ざすはずです。だから、AさんにはBさんに「許しの心」を持つことを勧めました。

許すことは(相手を)理解することです。気を使ってきたということは自分では悪かったが、あるはずだから、ということを理解する心。もし、Bさんのそれへの動機がもっと表面的なものであろうと、それでも、そういうふうにしか今はできないBさんを理解する心を持つということです。Aさん自身がBさんの言葉にショックを受け、傷つき、怒りがおきたことは自分のパターンなのでAさんの「私」が十分にケアしてあげればいいですね。

その心で「これ、やっておきましたから」には「ありがとう、助かりました」と言えればいいね、ということです。

Aさんはこの「許し」というものが今の自分のキーであり、使ってきたことがないと言います。このあたりのAさんの素直な洞察がいいなあと私は思います。

そして、自分が昔、感情的にきつく誰かに言ったあと、その言われた人は次の日には普通に自分に話しかけてきてくれて、はたして自分はそうできるのだろうか?とも思ったそうです。「そうやって、その人はAさんを許してくれたんだね」ということです。こうして自分のわからないところで誰もが誰かに許されています。

だから今度は自分が誰かを許そう。

この許すという行為にどんなことがかくされているのか・・・というところへまた話は進みました。明日に続く。

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