ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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モノ V
2017/09/16

今日も続いています。

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」佐々木典士著。

この本で私が初めて知ったこと、それは「人間は5万年前のハードウェア」(著書より)・・・ということです。以下抜粋です。

「一方、ぼくたち人間は、5万年前から変わっていないハードウェアだそうだ。ぼくたちのハードディスクであり、メモリであり、プロセッサである脳は400年前の江戸時代どころか、5万年前から進化していない。」「進化していない5万年前のハードウェアに情報もモノも詰め込みすぎている、というのが今の実情だ。限られたハードディスクには不必要な情報が満載。貴重なメモリは、他人の目線を気にして、モノを追いかけ、管理することに大きく割かれる。そうなると本来の大事なことが見えづらくなるのも当然だろう〜」「もはや増えすぎた情報をいかにたくさん得るかではなく、いかに距離を置くか、いかに「ムダな情報を減らすか」という事の方が今は問題だ。〜」(著書より)

そうなのか…私達は5万年前のハードウェアなのか…。

進化しないということは?そこは、とにかく増やせばいいというところではないということが言えるのでは?。

私達は、自分というものを知らずに、間違った自分の使い方をしています(全てパターンで動いている)本来、人は、貯蔵庫なのではありません。そのことに気付き、自分の使い方を知り、実践することで、人本来の機能を発揮し、そもそもの私達の課題、幸せになる(幸せを感じられるようになる)を体験します。

5万年前のハードウェアである私達。限られた自分のハードディスクはどんな状態なのでしょう?今一度、自分をみてみることが必要です。幸せを感じて生きるために。

モノ U
2017/09/15

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」佐々木典士著の中に出てきた昨日の言葉「今までぼくもご多分にもれず、モノを溜め込み、それが自分の価値、ひいてはぼくの幸せにつながると考えていた」(著書より)

そうなんです。自分への価値が感じられないと、人はいろんなモノを自分に与えます。それは物質であり、そうではないものです。それにより、自分への価値を感じられるんじゃないだろうか、他人からも価値ある人に見てもらえるんじゃないだろうか、と考えます。そうすればきっと幸せになれると思っています。

しかし、ここで言う「価値」というのは本当にやっかいなものです。なぜならば、それは他人からの承認や、称賛や、高い評価などがなくては成立しないものだからです。価値ある自分=他人から認められる自分なんです。

そして、価値ある自分というところには必ず他人との比較があります。あの人よりできる、あの人より上、あの人には負けていない、あの人に認めてもらえる、あの人を抜かないと、などなど。

本来は他人の出てこないのが人生なんですが、自分の人生なのに常に他人が登場して比較し、裁き、争います。そして、それに疲れながらもそれが普通になっていきます。人生をかけて、価値ある自分=他人から認められる自分になることをやり続けます。そうすれば幸せになれると思うから。そのために必要なモノ、モノ、モノ。こうしてどんどんモノに支配されていく自分になっていってしまいます。これは自分以外のもので満たしていこうとしていることになります。

ここには幸せはない。きっと誰もが体験して知っていると思います。ここには、焦りと不安と不満としかない。

幸せになりたいのであれば(幸せを感じたいのであれば)自分の価値を証明するためのモノをもう必要としない=他人に認められなくても自分の価値を知っている自分になる、というところへの転換が必要です。

モノ T
2017/09/14

久しぶりに沖縄の超キョウレツな陽射しをあびました。今年の夏は日照不足だったので、今さらでしたがうれしかった。

そして、もうひとつ今さらですが1冊の本を読みました。「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」(断捨離からミニマリストへ)佐々木典士著 です。

クライアントさんとの話の中に出てきたその本を玉プロが車の中にもっていたのでお借りして、帰りの飛行機の中で読み終えました。

この本は、ただ物を減らして(捨てて)ミニマリストになろう、モノを持つべきではない、ということではなくて、何故、モノが増えてしまうのか〜そこから抜けて自分らしいモノとの付き合い方へが書かれています。

特に何故、モノが増えてしまうのか、はご自分の体験を開示されていて、とても共感できる内容でした。

本の冒頭にこう書かれています「誰しもが幸せになりたいと願い、生きている。〜人を突き動かしている根本のエネルギーは幸せを求めること。」(著書より)そうなんです、誰もが幸せになりたいと願っています。そのときの自分が描く幸せ(幸せもミームにより変わってきますが)がモノによって得られると思うときにはモノを増やして幸せになろうとします。

それは、流行の服、車、部屋、誰もが欲しいというブームになっている物事、本、CD、DVD、SNS、情報、知識、家電、旅行、趣味、学ぶこと・・・そうやって、おしゃれで、知的で、何でも知っていて、最新の物を持ち、旅行に精通している自分、趣味で才能を発揮していて、SNS仲間に認められている自分、皆の知らない知識と情報をもっている自分、そういう自分になれば幸せになれる、と思います。そうやっていくうちに、どんどんモノは増え、ぱんぱんの部屋と、知識と情報でぱんぱんの心身になっていくと言っています。

佐々木氏はこのように書いています「今までぼくもご多分にもれず、モノを溜め込み、それが自分の価値、ひいてはぼくの幸せにつながると考えていた」(著書より)私もかつてはそうだったと思います。これがあれば、と思っていました。それがないから私は不幸なんだ、これが足りてないから不幸なんだと。明日も続きます。

語りかけがつらい
2017/09/08

はじめのうち、語りかけがつらい、苦しいという方は多くいらっしゃいます。何故かというと昔の嫌なことを語りかけをすることで思い出し(がんばって封印してきたのに…せっかく過去のものにしたのに…)そこでまた苦しむからということです。このように、もう、すでに終わったものとして扱うというのもひとつです。又、ちくちくと心が痛んでも、そのときそのときで対処していくというのもひとつです。それでやっていきたいと言う方はもちろん、それでいいですが、心底、そこから自由になりたいという方はちゃんと向き合うという努力が必要になります。

そういうときは、語りかけは苦しいというパターンに語りかけをしてあげてください。語りかけがつらい、苦しいという時点でそれは「私」が語っているのではなく、黒パターンが語っています。「私」はいわゆる感情を持たないです。そういう「私」だから、たんたんと、でも、自分の資質をたくさん使ってパターンに寄り添い、語りかけができます。

語りかけは苦しい、語りかけが面倒くさい、語りかけしても効果がない、語りかけで変わるわけない、どうせ自分はできない、などなどは全てが黒パターンなので、それらに語りかけをするということです。そうしてから「私」が語るんだ、という意思をもって、昨日書いたように、あたかもそれが存在しているものとして(わからなくても)語ります。

その繰り返しで、だんだんと「私」が大きくなってきます。大きくなればなるほど、語りかけはふつうのことになります。パターンとの分離感も感じられます。そして「私」の存在が少しずつ感じられるようになります。それは「私」自身がいるところの静寂さ、やすらかさ、安定感です。まず、目指すところはここです。

さて、今日はこれから沖縄です。33度だそうで、また暑さを体感できそうです。今回も善きセミナーを行ってきます。では、皆さまもどうぞ良い週末をお送りください。

静寂なる部分=「私」
2017/09/07

いろんな感情が沸き上がるのが人です。誰でも。もちろん私も。

それらはいつも言っているようにパターンが生み出しているものです。しかし、その奥に(下に、深いところに)感情とパターンを超えたところの静寂な部分があります。これも誰にでも。それを見つけること(気付く体験)が自分を楽にすることになります。

そして、その楽というのは、いつもあって、消えたり現れたりするものでもありません。それはずっとずっと私達が本来持っているものです。

そんな静寂なる部分を見つけるためにどうしたらいいのか、ということですが。まず大事なことは、自分の中にそれが存在していることを信じる、認める、という事が必要です。一般的には、存在していることがわかれば信じられる、認められるという順番かもしれませんが、これは逆です。まず、信じる、認めるという心持が大事です。これをブロックしているのがパターンたちです。

人が信じるものごと、認めるものごとというのは存在していくことになります。どんなに訓練をしても、根底にそれは信じられないというものがあれば、それを見つけることはできません。信じられないということがちゃんと存在するからです。

よく、現実化するときに、あたかも、すでにあるように思い描くということを言います。それに似ています。感情を超えたところの静寂な部分(「私」)があるんだ!と、あたかもすでにあるかのように思い描き、信じることです。そして、それを使うことです(これは自己観察〜ワークで使えます)それを続けることで、本当に、その体験をしていきます。

感情に飲み込まれて過ごしていると、急にそんなことを言われても・・・と思うかもしれませんが、それでも、ちょっと気持ちを切り替えてこのことを思い出してみてください。そして、自分の中で反芻してみてください。

・・・・・「私の中の静寂なる部分」・・・・・私の中にそれがある。

やっぱり素敵!
2017/09/06

きのうの日記の続きです。

生意気な女は、嫌われる。

きっと。特に男性に。そう思うと怖くてついつい都合の良い女でいてしまいます。言い返さない、反抗しない、喧嘩を売らない、物わかりと、あきらめのいい女、男性に従順な女としている。そうすることで受け入れてもらえれば、可愛い女と思ってもらえれば、選んでもらえれば・・・安心。だから生意気な女だと思われたくない。

これは男性側の問題もあります。自分に従順な女がいい、というパターンが日本の男性は強いと感じます。実際、カウンセリングにいらしているうちに自己主張をし始めた妻に対しての文句が私に向けられたことがありました。それぐらい妻が自立してしまうことは(生意気な女になってしまうことは)その男性にとって不快なことなんです(もちろん、そうではない男性の方もいらっしゃいますので全員ということではありません)

又、同性に対しても、自分を受け入れてもらうために、いつも優しい、嫌なことを言わない、空気が読めて、他人を優先する、思いやりと、優しい微笑み、そんな生意気な女と反対にいる人は同性からも好かれます。

そういう自分であれば嫌われない、はじかれない、孤独にならない、必要とされる、だから、同性にも生意気な女だと思われたくない。

これも相手のパターンの問題ももちろんあります。自分のことをいつも受け入れてくれるその人なら好きだけど、そうではないことがわかると「あんな人だと思いませんでした」とだいたい言います。

結局「いつも嫌われたくない、誰からも」というパターンのなせる業です。このパターンが自分にあるのかどうか・・・。このパターンが自分を縛り付け、窮屈な日々にしています。いつでも視線は他人にいっているからです。

そうは言っても「生意気な女」では嫌、という場合は、生意気と言う言葉のイメージに縛られていないかどうかも観察してみてください。全ては中立にあり、それへの意味づけをしていくことで自分の「生意気」が創れます。

私にとっての「生意気」はユーモアと知恵と正直さとユニークさです。うーーーん、やっぱり素敵!

生意気な女
2017/09/05

お会いした方から伺った言葉。

『従順な女は天国へ行くが 生意気な女はどこへでも行ける。』ウーテ・エーアハルト(ドイツの心理学者)聞いたとたんに、すごく好き、と思いました。

従順な女になんてなりたくない、生意気な女でいたい、と思う私。

何に対して従順なのか、はありますが、他人に、規則に、常識に、決まり事に、今までのやり方に、ひたすら従順に生きるなんて。それでいくら天国に行けると言われても、そこでの天国はきっとたいくつ。そして、そこでも天国の規則に従順でいなくちゃいけない。

生意気な女は、我儘、マイペース、自分優先、自由が何より好き、一筋縄ではいかない女。そういう人のほうが私は魅力を感じるし、人間として生きているという感じがします。私はそうありたいです。

そんなこと、自己探求をしている人が言っていいのか、魂だの、愛だの、神だの言っている人が言っていいのか、と思う方もいるかもしれませんが、そういうスピリチュアルの持つイメージにとらわれているところも今までのものに従順でしょう?私にとってのスピリチュアルって?・・・という哲学を自分が創っていいよね。・・・と私はすでに十分生意気な女でした。

こうして生意気な女はどこへでも行ける。それは従順な女が思い描く天国じゃない、でも、自分の天国。それは素敵だと思いませんか?

ウーテ・エーアハルトさんの著書も見つけました。

・「誰からも好かれようとする女たちーモナリザ・シンドローム 微笑みの心理」

・「生意気な女になるための20の方法」

おもわずにやりとしてしまう題名です。機会があれば読んでみたい。

スプリッツ
2017/09/04

おうちでバレエは続いています(やり始めたのがいつだったか)

週に1度くらいではありますが(時にはもっとあいてしまうこともありますが)ロイヤルバレエ団の2016年版のレッスン動画は、約1年ほどかけてバーレッスンの動きはほぼできるように(といっても高度なものはできなので、それは自分流に簡単にしながら)なりました。

頭が固くなっているせいか、以前のように動きがすぐ覚えられないので、とにかく時間がかかっています。でも、できるようになっていくのがうれしいです。バレエは体操ではないので、動きを覚えて動けるようになったら、そこに心を開いて、自分を表現していくという楽しみがあります。これがすごく好きです。

で、3週間ほど前に急に「前後開脚」をやりたいと思いました。左右開脚は、よく知られていると思います。ちょっと前にブームになったこともありましたね。あれの前後版です(スプリッツといいます)

昔バレエをやっていたころはできていたので、できるんじゃないかとやってみたら「いででで」状態でした。左右開脚もできないようになっている。色々と調べてみて、只今、挑戦中です。ちょっとその感覚がわかってきたので、これも1年くらいかけてきれいなものになるかも。

その他、V字バランスとY字バランスは、細々と続けています。これらができると、私としては体がOKという感じがしています。近くに60歳以上の人のためのバレエクラスがあれば行きたいと思っているのですが、ないので、見つかるまではおうちでバレエです。

サイン
2017/09/03

きのうのメッセージに関連して。

もうずいぶん前からですが、カウンセリング中にサインをもらうことがあります。一体いつからはじまったものなのか、もう、忘れてしまいましたが、向かい合っている方が、話をしているときに、きらっと光る小さな光が現れます。人によって白だったり、青だったり、薄い緑だったり。1つの場合だったり、いくつかだったり。

はじめは、目の錯覚だと思っていたのですが、一時頻繁にそれが起こり、これはなんだろう?何かのサインだろうか?それこそ・・・メッセージ・・・?と思いました。

それからは、そのサインがあるときにはその方が今、何を話したのかとよくよくみることにしました。そして(今の私がですが)理解した事は、その方がこれから歩んでいくために必要なことがそこで話されているということでした。まだ、もしかしたらご本人も気付いていないこと、キーになる言葉、うっすらとしたこれからのビジョン、などなどがそこに含まれていることに気付きました。

そんな大事な一瞬を、現れる光が教えてくれています。それは、その方を見守り、後押ししようとするものです。向き合っている私にちょうど見えるように送られてくるサイン。それは「大事なところなので、プッシュするように」と言われていると思いました。

それに対して私ができることは「もう一度話してみてくれる?」とか、「〇〇〇って?」とか、再度話をそこに集めて、ご本人に今ご自分が話したことを再確認してもらう作業をしてもらうことでした。繰り返すことで、自覚できると思えたからです。必要に応じてはしつこく何度もプッシュ(笑)

そんなわけで、カウンセリングは、ご本人とその方を見守る存在と私と私を見守る存在とで行われています。このチームはなかなかいいと思っています。チームの結束を高めるためにも自分の愛の力を育てたいと思います。

ひとりぼっちではないんですよ。誰にもその存在がついています。すぐそばに。

まずは自分で・・・
2017/09/02

メッセージをやたらと探してしまう、ということ。

これは、スピ好きな方に多いですね。

数字がそろうこと、自分の生年月日の数字は特に目にすると、そこにメッセージがあると思う、とか、自分の中に沸き起こる衝動も、何かからのメッセージであるというようにです。それによって、この仕事は合っていないと教えてくれている、とか、今日はでかけないほうがいいと知らせている、とか、この人とは付き合わないほうがいいとか。たまにそういうこともあってもいいとは思いますが、全てを何かからのメッセージにつなげてしまうのはどうか・・・・と。

それによって行動していくうちに、何かからのメッセージがないと、自分で決められないということにもなりかねません。

それは、自分で決めることに自信がないというパターンがあるのかも。自分で決めたことはきっと正しくない、だから、何かに決めてもらいたいということをパターンは言っているかもしれません。そうであると、メッセージ探しを知らず知らずのうちにしているということがあると思います。

自分に何かを知らせる必要のあるメッセージというのは確かにあると思います。しかし、それは頻繁にあるわけではありません。自分で決めて自分で動いてみるという事を自発的に行っているうちに、それを後押ししてくれるような、それも必要なときにメッセージを感じ取ることが起きると思います。それはよいものだけでもないと思います。時には厳しこともあるのがメッセージです。

まずは自分でやってごらん、見守っているから、ここで一緒にいるから・・と私達は言われているんだと思います。

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