ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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守破離
2026/03/10

「守破離」とは。以下、Wikipediaより。

「日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したもの。修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのである。」

と説明されています。

そして続いて「落語」での例が書いてありました。以下です。

守:古典落語を忠実に表現することができる。

破:古典落語をより面白くアレンジすることができる、 あるいはよりわかりやすく表現することができる。

離:経験を活かし新作落語を作ることができる。あるいは、落語から進化した新たな芸風を作ることができる。

こちらはわかりやすいですね。で、このようにオリジナルを創っていくということなんです。これは人生そのものをオリジナルなものにしていくということです。誰のものでもない自分の人生を自分が創るということです。カウンセラーとして、というのはその一部でしかありません。

その土台が「守」の部分。だから「言われた通りにやって」と私は言い続けています。スキップしないで、ちゃんと言われた通りにやってください…と。それが自分のものになったときに「破」「離」は自然とやってくる(自分で生み出せることがわかってくるので、「破」「離」になる)

守破離は芸事においてだけではなく、自分自身と自分の人生にも当てはまると私は思います。道場でやっていることは「守破離」の人生版。ここでのやり方はねらって作ってきたわけではないのですが、気付いたらひとつの道になっていました。「創る」ところへ向かうためのものです。

ネガティブな感情が嫌
2026/03/09

3月の茅ヶ崎クラスも無事に終わりました。

今回はゲストがお二人。いつものように、やっていることは同じなので、ゲスト感はどなたが参加されてももうすでになく、いつものメンバーの気がする。遠いところ、ありがとうございました。

で、今回思ったこと。パターンは悪者ではない、ということはきっと皆、もう、わかっています。それでもパターンにひっかかりたくないというのは、パターンにひっかかったときにわきだすネガティブな感情が嫌なのだろうと思いました。

だから、厳密には、パターンにひっかかることが嫌なのではなく、そこから湧き出るネガティブな感情に飲み込まれ、それが何日も続く、それについてぐるぐる考えることが嫌なのだろう…と思いました。

しかし、生きている限り、パターンが嫌だと思うことはこれからも普通にあります(それがあるから成長できるんじゃなくて、そもそもそういうものだから)で、そのたびに不快な感情はわきあがります。

だから、一般的には、この不快な感情がわきあがらないようにしようとする。無視したり、感じないようにしたり、違う考え方を持ってきたり、その原因を探ったり、時には退行催眠、エネルギーワーク、パワースポットへ行くとかとか。しかしこれらは対処療法としか私は思えません。常に対処療法を使い続けてそれでいいという人もいると思うのでそれはそれでありなのかもしれませんが。私はそれを選んではいないです。

本当に望んでいることはなんなんだろう?と自分に問えば、どんな感情(感覚)も受け入れられる自分になることだからです。どんな感情にも慣れる。それはよいと思う感情でも。慣れるというのは包み込めるようになるということで、鈍感になることでも、それを省いたり、変えようとしたりすることでもありません。

感情そのものを自由にしてあげるというもので、それを見守れる「私」であればいいのです。そして何より、そもそも、感情ひとつひとつもただひとつの事象です。それがそのものとして在るだけ。

そんなような感情(特に自分にとって嫌な感情)への新な視点を少しずつ持っていきます。そして、不思議なことにそうなっていくうちに自分の心は穏やかに、すがすがしく、活力や楽しさや明るさで満たされていくようになります。

という事は‥やはりあるものをないものにしようとしないということだと思う。それが天のルールなのだと思います。で、やっぱり、そのルールに乗って生きていれば、自然といいかんじで、いいあんばいで、生きる方へ導かれていきます。道場で学んでいることは、このルールに乗ること。あとは、天にひっぱってっていただこう。こうして天の一員でありたいと願う。

夜ご飯って…
2026/03/05

夜ご飯って…なんでこんなに面倒くさいのだろうか。

我が家は、朝食は別々にそれぞれが用意して食べる。昼食もほぼほぼ別々。ちゃんと(私としては)作るのは夜ご飯だけなのに(それも週5日/6日)それでも、私には、荷が重いのです。

トミーが夜ご飯を食べない日もあったりすると、朝からものすごく解放感を感じます。そんな日は自分の食べる分だけでいいので、すごく楽。

…ということは、トミーがいるからよりちゃんとしたものを作らなくてはと思っているのだろう。(妻だからはない)そこには、一応、バランスよく、があるのだろう。それにより自分も恩恵を受けてはいるのですが、この食事にまつわるところのパターンは今だによくわからなくて宙ぶらりんの状態です。

だから今日から茅ヶ崎クラスのセミナーが2日間あるので、ご飯を作らなくていい、ということで気持ちも晴れやか。こんなにも違うものなのか、と思います。そもそも料理が苦手なので、夜ご飯作りは私には苦行なのです。

経済的に許すなら、1週間分作ってくれる方にお願いしたいところです。

今月は大相撲もあり、WBCもあり(ずっと見続けているわけでもないのに)大忙しです。それこそ夜ご飯のための買い物や作ることに時間を使いたくない。挑戦の1か月となります。

白パターンを選べない
2026/03/03

今朝書くことは、ちょっと混乱してしまうかもしれませんが、ふーーーーん位に読んでいただけたらと思います。

私はこだわりが強いので「だって、嫌なもんは嫌なんだもん」と口にすることがあり、そのときには、その通りに行動します。これは、それに対して、嫌という感情を生み出しているし、それへのストレスも感じているし、すっきり感がない…だからパターンなんです。

それでも「だって嫌なものは嫌なんだもん」というパターンを選んで行動することがあります。その結果(というか、それと同時に)より、気持ちが重くなるという事も受取ります。またやっちゃったよ、それではないことはわかっているのに、というような(パターンとしてはほっとする)

じゃあ、何故そこを選び変えて(白を選んで)そちらを実践しないのか。その白はとても気持ちがよいものなのに。何故?と思うと思います。普通(というのも変だけど)はそうするよね。はい、そうしています。

しかし、そうできないものもある。それはまだ白を選べないということです。だったら仕方ないね、と「私」が黒パターンを選んでいるということです。

えーーーっ?いいのか?そんなことして、と思うかも。でも、選べないのなら、そこでいくしかないわけで。今は重い気持ちを持ちながらそうすることを選ぶ。しかし、そこにい続けたいわけではなく、どこにいきたいかもわかっている。どうすべきかもわかっている。そのために「もう少し苦しむ」(エックハルト・トールさんの言葉)を選んでいるとも言えます。

というように「もう少し苦しむ」ことを承知で黒パターンを選ぶということもあります。しかしそれは全部黒パターンでいっていいということではもちろんなく、多分、多分なんですが、その人の課題となるところのものは最後まで選び変えることに時間がかかるような気がします。それも頭では理解できる。こだわりって、大きな課題というものだろうから。

…といろんなことがありながら(そんなにきれいにスパッとはいかないのが人間か、という深い理解とともに)それでも、きっとここへ「私」はいくだろうという世界を見つめて今日も生きる。それを思うと心は晴れます。そこに無理なくいかれるようになるまで「もう少し苦しむ」が必要なのだろう。なんか、いい、と思います。

睡眠障害から…
2026/03/02

睡眠障害になって、1年がたちました(これも1年計画か?)

去年の今頃は、眠れないという人生初の体験にどうしたものか‥と闘っていました。どうすれば以前のように眠れるのだろうか、どうして眠れないのだろうか、と、いろんな情報を集め、よいというものを色々と試し、以前のように眠ることができるようにしよう、と思っていました(以前は、人一倍、よく眠っていたので特にそう思う)

で、1年。現在は、寝ているような寝ていないような、よくわからない状態です‥が‥普通に日常生活を送れているので、これはこれでいいのかもしれないと思うようになりました。

質の良い睡眠がとれないと、心身が休まらない、リカバリーできない、免疫力が落ちる、病気になる、死亡率が上がる、やる気が出ない、日中ひたすら眠い、仕事のパフォーマンスが落ちる、など言われているので、とにかく眠らなくては、と思っていました。

最も気になっていたのは、個人のカウンセリングとクラスでのセミナーのことで、眠れていないこの状態でできるのだろうか、続けていいのだろうか、と思っていたのですが、自分の(あくまでも自分の‥です)感じでは、1年前よりも寝られていないことで何かが抜け落ちたのか、諦めるしかないと腑に落ちたのか、より、感じられる、とか、ひらめく、とか、ゆだねる、とか、まかせる、とか、流れるまままにしておく、とか、それはそのままでいい、とか、そのあたりに自然とシフトしていたことに気づきました。

以前のように頑張る力はないけれど、心の中にある熱いものは軟らかく練られて自由に動いて以前とは違う活力を感じます。その状態でカウンセリングやクラスを行うと心身は生き生きとしてくるのもわかるので、今の私には、これが真理だと思います。

これから先どうなるのかは全くわかりませんが、もう、自分で闘って思い通りの睡眠をつかむことはやめようと思いました。何かの計画のもとに起きているのかもしれませんし、そうではないかもしれませんが、年々年を重ねていく身体の都合というものもあるでしょう。この1年の学びはそういうものでした。

しかし、私は、1年かからないとわからないことが多い。そういう個性、性格なんだと思いますが、それを大事にしてあげようと思います。

パターンに行きつく前にあったもの
2026/03/01

「今、どう感じている?」「今どんな気持ち?」と自分に問う。それも、唐突に。それを皆さんにお勧めしています。

初めて、この道に入るとき、まず、これをしつこくやったと思います。「今どんな気持ち?」と私が聞く。それに対して返ってくる答えは思考していることがほとんどだったと思います。「それは思考でしょ、気持ちは?」とまた私が聞き、少しずつ「気持ち」を感じられるようになり、それを口にするということができるようになっていったと思います(ここまで書いて、以前、同じことを書いたような気がしますが、再びよろしくお願いします)

そのくらい、大人になってしまうと、今の自分の気持ちがわからなくなっているんです(大人でここがひょいひょい出てきた人には今迄お会いしたことがありません。カウンセラーやセラピストの方達ともお会いしてきましたが、誰もそうではありませんでした)皆、自分の気持ちよりもちゃんと考えろ、感情的になってはいけない、ということを要求されて育ってきたので。特に社会に出ればそこはより大きく強くなります。で、使っていないものは自然と退化していくので、わからなくなります。

で、何故、今、再び、この初めてやったことが必要なのか、なんですが。これから先の「私」はどうありたいか、も、この今の気持ちを察知することの延線上にあるものだからです。「私」はどうありたいか?という問は、それについて考えるというところへ行きやすい問だと思います。

しかし、考えてそれを導き出すのではなく(それは頭の中の今までの体験や記憶から導きだされているので)「私」としてのところを感じたい。それは新しいもの、「私」の大欲、それを感じたい。それはきっとその人=「私」の真理だと思います。真理は思考では見つけられないんです。

それに役立つであろう今回のこれです。最初にやったもの。これは、パターンに行き着く前にあったものです。

で、この最も自分の近くにあるもの、最初にあるものが最も大事なんです。だから「今、何を感じている?」「今、どんな気持ち?」です(これはパターンをみつけようとしなくていいです。パターンを見つけるときは先に感情が自然と出てきているのでそれについてはパターンをみつけます)

又、この感覚を思い出すことで、語りかけも白パターンも最も今の自分の近くにあるものを見つけていけるようになると思います。それは今の自分のレベルに合ったもの、背伸びしないものです。そうしていくことで、今の自分を知ることになるし、その自分に何が必要なのかもわかってくると思います。

普通
2026/02/27

人は精神性を上げていくたびにどんどん「普通」になるんだという事を知った今。

昔は、精神性を上げるって、特別な自分になることだと思っていました。だから、その頃出会った先生たちは特別な人だと思っていました。覚醒とか、悟りとか、愛の人とか、直感や特殊能力で全てがわかる人、そういう人であるように見えていました。

そして、何より楽そうに見えました。嫌なことやストレスがないんだろうなあ、そして、特別な仕事を持っていていいなあ、覚醒すれば、悟れば、愛の人になれば私もそうなれるんだ、と思っていました。ということは、当時は楽ではなかったんだね。そう、本当に苦しかった。とにかく早くそこから抜けたかった(というパターンの衝動と動機で全てを決めていたことが今はわかります)

しかし、いつの頃からか、そうではないということがわかるようになりました。同時に覚醒とか、悟りとか、愛の人とか、直感や特殊能力で全てがわかる人についての意味づけも自分の体験を通して増えていきました。それすらもただ一つの事象であり、特別なことはひとつもないということがわかりました。だから特別な先生もいないんです。

で、そこからだと思います。自分らしく生きられるようになったのは。もう、それは私にはいらないと思えるようになってからだと思います。ただ、自分の信じた生き方をしていけばいいだけなんだと思えるようになった。

そして「私」は利益を欲しがらない、ということにも気づきました。「私」は報酬や結果が欲しいのではないんです。なぜならば「私」はもうすでに、ずっと昔から満たされているからです。ただ、その人自身=「私」として存在したいだけです。それが「普通」なんだと思います。この「普通」を知って…人ってそもそも素晴らしいと思えるようになりました。誰もがそういう普通だから素晴らしい。

イソヒヨドリ
2026/02/26

先日、朝、洗濯物を干すためにベランダに出たところ、鳥のさえずりが聞こえました。よく通る、透き通った声がとてもきれいで、しばしじっと聞き入りました(こういう時、私はハイジ‥ここはアルプスと思う)

それにしても、近くで鳴いている…どこ?…おとなりのベランダをそっと見てみたら、そこにいました。ベランダの手すりの上に。青と茶色の体で、ムクドリくらいの大きさです(後から調べたら、イソヒヨドリの雄でした)

私はできるだけ気配を消して、その姿をそーーーっと見たのですが、さすが野鳥、なんか変な気を感じたのでしょう、さえずりをピタッとやめてしまいました。≪たのむ、もう一度聞かせてくれ≫と欲望丸出しの私の気にこれは危ないと思ったのか、すっと飛んでいってしまいました。

そうだよなーーーと言いながら洗濯物を干す。人間の欲望を満たすためにさえずっているんじゃないよな。

意識のレベルに、レベル500(愛)に属しているものとして、鳥のさえずりがあります。そして、犬が喜んで尻尾を振ること、猫がリラックスしてごろごろ喉を鳴らすこと、それも同じ500です(レベル500の人間はとても少ないのに)それらに触れた人間の意識は一時500に引き上げられます。

何故彼らはそんなことが出来るのか…。それはただ、自分をそのままに表現しているから。自分は人間の意識を引き上げることができる、などとは全く思っていない。その意識が私たちの意識を引き上げてくれるのです。彼らは私たちの先生。

また、聞くことができるでしょうか。

自分の個性に合った哲学を
2026/02/25

自分=「私」。そして「私」は神の子。だから「私」には神と同じ資質がもともとある。それを使って(…というよりも使わざるを得ない状況を与えられると思っている)生きることが私のやるべきことだと思っています。

何故か?神はそれを望んでいるから(‥と信じている)そうやってこの宇宙のルールに乗って生きて欲しいと思っているから(‥と信じている)というように、私は生きることの焦点をそこだけに決めていて、だから、やるべきことはとてもシンプルなことになります。

これは自分の個性に合った哲学であり、これが正しいということではありません。そして、その哲学を思うとき、私の本質である「私」は安堵感や懐かしさを感じているのもわかります。そうだね、今世はそれをやりにきたんだね、やりたいんだね、と自分が自分に言う。だから、今日もやっていこう、と思う。

やりたいことをやるってこういうことでもあるのだとも思います。決して、やりたいこと=好きな仕事につく、旅行に行く、結婚する、家を買う、財産を成す、などなどだけではないということです。もちろん、それを得ることが生きる目的でありそこへ邁進していくというその人の個性に合った哲学もあっていいんです。そこにはどれがレベルが高いとか低いとかは一切ないです。私の場合はこの単純な個性に沿ったものがこれでした、ということです。

こうして、それぞれの哲学を意識していないくても持つのは何故かというと、皆、心のやすらぎや幸せを感じて生きたいからだと思います。人はやはりそこへ戻りたいのだと思います。だから自分の個性に合った哲学を、自分の生きる指針になるものを持つことは大事だと思います。

決して誰か偉い人がこう言っていたからそうなんだ、ではないということです。自分の個性に合った哲学を作り、それに色を添えていくのはそれぞれの「私」にしかできません。パターンはやりたがってもできないのです。だから「私」を育てる=あらゆる資質を使うということが大事になっていきます。

自分はうまくいくだろう
2026/02/24

自分の心の底にある思いが、自分自身なんだと思います。それは、心の一番底にある信念のようなものです。

そして、その信念は、ざっくりと言ってしまうと根拠がないところの「自分はうまくいくだろう」というものと「自分はうまくいかないだろう」という2つです。両方とも、心の底にあるので、日常、それを選んでいる、という意識が持てないもののような気がします。それでも、その2つのうちのどちらかを自分は決めていて、それが自分自身になっていくのだろうと思います。

そしてその決断は、心の底にあるということから(多分思考が入り込めないから?)物事を動かす力が強いだろうと思う(純粋に量子を動かすのだろうか)そこも意識することなく自動的にそうなるのだろうと思います。

そんな、意識できない心の底にあるものに、アクセスできるのだろうかと思う方もいるかもしれません。一般的には、退行催眠や、深く瞑想すること、エネルギーワークなどでアクセスすると言われていますが、私は、日々の感情の動きやパターンの動きなどを総合してみていくと、自然とわかるのではないだろうかと思っています。そこは特別なことをしなくても、誰にでももともと与えられているものだからです。

で、パターンを総合的に見ていったときに、自分はどちらを選んでいるのかがうっすらとわかると思います。そこがきっと心の底にあるものです。そこに直接アクセスできないというのは意識的にそこを動かすことができないということです。

しかし、パターンというそれの上に層のようになっている部分へのアクセスはできます。そしてそのパターンが少しずつ落ち着いて(落ちついてというのはひっかからなくなるではないです)くればその層の変化は自然と心の底に落ちていくと思うのです。もし「自分はうまくいかないだろう」をずっと決めてきたとしても、そこへの影響は必ずあると思っています。そうして、ここも自然に「自分はうまくいくだろう」に変わっていく。それが根底になり、その上に落ち着いたパターンたちがいる、というイメージです。

根底を変えるために「自分はうまくいくだろう」と強く思う、願う、言い続ける、ということではないです。これらは思考で行っていることでそれが根底に届くことはありません。そう思うだけで変化できるのなら、きっと全世界の人たちはそれを行い、全ての人がうまくいっているはずです。

根底にあるものを変えようとするのではなく、パターンたちに協力してもらえるように、一つ一つのパターンを大事にする「王」でいてください。

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