ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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新な世界へ
2025/09/15

9月の茅ヶ崎クラスも無事に終わりました。気づけば、今年はあと茅ヶ崎クラスは1回。なんだか、まだ先があると勝手に思っていましたが、そうだった。

クラスはだんだん、新なことについて学んでいっています。今までいた自分の世界は、誰にでもわかる世界で、目で見ることができて、一般的だし、思考で対処や思考で導いていけば、そこには答えがあって、それを自他共に認識できる世界です。そこは誰もが十分にやってきました。それは心身に身についていて普通のことになっています。

この世界だけで生きて、あちらへ旅立つ人のほうが多いです。でも、それがダメだとか、レベルが低いということではないんです。この世界も肉体を持って生きている私たちにはとても大事な世界です。

しかし、その世界の他にもうひとつ、今までの世界とは相反するような世界があります。そちらの世界は、わかりにくく、あいまいで、混沌としていて、感覚や直感を使うこともあり、そこに流れているルールはそもそもというものであり、それにそって決断し、行動し、自分で創造して行く世界です。この2つを知り、使い、体験していくことで人の心はひとつのまあるい円になると私は思っています。

それは卵の部屋にいる黒パターンと白パターンの両方のバランスがとれたとき、ひとつのまあるい円(陰陽マーク)になるようにです。2極で出来ている世界に生きている私たちなので、すべてにおいて相反するものがあってひとつだと思います。そして、相反する両方をその時その時で自分で上手に使っていけばいいと思うんです。これは豊かなことではないでしょうか。

で、道場ではこのもう片方の世界を学んでいっています(クラスは少しずつそちらへシフトしていっています)でも、初めての世界だから、わかりにくく、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうと思います。どうしたらいいのか…が使えないところが悩ましいところだと思います。

この世界の大きな特徴は、今までのように自分の力だけで得ていくのではないということへの気付きです(厳密には今までの世界でもそうだったんだけど)私たちよりもはるかに大きな存在と共に生きていけばいいんだという体験です。

今までの世界ではひとりで頑張らなくてはいけなかったので常に緊張があり、気を抜いてはいられないような世界だったと思います。過去の後悔と未来への心配、そして闘いの今という日々。

しかし、それに相反する世界が新な世界です。少しずつそこでの在り方、生き方を体験しながら、安心して生きることを感じていけるといいなあと思います。そもそも、安心して生きるように創られているから。本来のそこへ戻っていく世界とも言えます。

バランス
2025/09/11

伝えたいことはいっぱいある。いや、伝えたいことはひとつなんだけど、それを伝えるためにいくつもの考え方とか、例えばなしとか、時にはフィクションの話とか、そこに近いことを思っている方々の話とか、とか、とか。色々考えていると、伝えたいことはいっぱいある、になるんだなと気付きました。

でも、伝えたいことはひとつで、それは、私たちを送りだした大元が望んでいるであろうそもそもの生き方をしていく(私たちも自然の一部であり、でも、人間は、直接、大元が息吹を吹き込んでくれて生まれた存在だから←これは聖書から)ということ。そこに少しずつ気づいて、腑に落としていかれるようにということです。

そこに在るものは「バランス」これだと思っています。だからバランスのとれた自分に育てていく、ということ。それは、今は肉体を持ってこの世界に生きているので、そこでの物質的な生き方とそこではない領域の「私」の生き方の両方のバランスをとるということです。

宇宙は微妙なバランスで成り立っていると思います。何かがちょっとでもズレたりしたら、あらゆるところに影響が出て、人間は生きては行かれないのだろうと思います。この大宇宙のミニ版が私たちひとりひとりの心なので、その中に流れているルールは大宇宙と同じだろうと思っています。

だからミニ版宇宙の私たちもバランスが必要になるのだと。そこを伝えるためのクラスであり(ワークペーパーのひとつひとつであり、皆で話し合うことであり)カウンセリングであり、なんだと思います。

「バランス」この美しさを自分で育てていかれるように、私もやるべきことをやっていこう。今日から茅ヶ崎クラス2日間です。楽しくやっていきましょう。

こんなに変わっていたんだね。
2025/09/10

時々、10年前、5年前、3年前の自分と今の自分を比べてみよう。絶対(これはあえて絶対といいたい)以前の自分と今の自分の変化があるはずです。

それは小さなものかもしれないし、自分でも驚くほど大きなものかもしれない。小さいからだめでもなく、大きいから素晴らしいでもない。そういう領域での変化ではないからです。その人にとって必要な変化が起きているはずです。

そこを自分で確かめ、それをこの道を歩くときのモチベーションにしてください。

パターンはその変化についてもパターンが望むような自分自身、自分の日々の生活、全てを望みます。きっとこうなっているだろう、きっとこんな風に生きているだろう…というようなことが変化だと思っている。だから、その通りではないと嫌がるし、それはまだまだ変化とは言えない、成長していない、無理なんじゃないか、と言います。これはパターンの声です。

実際自分の変化をよく見てみれば、いくつもそれは起きていると思います。それが現実。こうして自分の現実を知り、見る、ということです。そこで自分の力を感じることができると思います。

「こんなに変わっていたんだね、よくやってきた。嬉しいね!」と自分を褒めてあげてください。他人から褒められることを人は望みますが、自分で自分を褒められるようになることはまさに自立への道を歩みはじめていることです。他人が褒めるのもほぼほぼパターンだし。

自分の成長の現実をしっかりと見よう。

本来の語りかけ
2025/09/09

ずっと同じ語りかけを繰り返していて、自分でもどうもすっきり感がないというときには、パターンが違っている場合もありますし、パターンが語っている場合もありますし、複雑にしてしまっている場合もあります。

語りかけは確かに数回やったらすっきりというものではありませんが(特に長い間使ってきてしまったものは)回を重ねていくうちに、どこか、良い意味で慣れ親しんでくる感覚があります。これを言葉にするのが難しいのですが。どうしようもない家族に対して、健全な怒りや不満や不快感を持ちながらも、それでも、血の繋がりを切ることはできないからなあ…というようなものと言えばいいのか。

前向きな諦め。そんなカラっとした感覚に変わっていきます。初めて語りかけをしたときのような、深刻さやウェットさが少し抜けているような、そんな複雑な変化やいろんな気持ちといることに慣れ親しんでていく。語りかけの進み具合ってそんな気がするんです。

もちろんパターンを失くすためにやっているのではないので、今後もパターンのままにひっかかりますが、ひっかかる感じもどこか軽くなっていくので、ひっかかってもいいと心底思えます(プライドのパターンも同じなので、プライドを使わないように注意しなくちゃ…はやめてください。そうなると常に自分の言動を見張るクセがついてしまいます)

そして、掘りすぎないことです。そもそもすごく単純なのがパターンなので、そういうものである、ということも認知しておいて、パターンを探します(この、探すっていう言葉も違うか。出てきているから語るということか)掘りすぎてしまっている場合もよくあります。もっとストライクなパターンはないだろうか、この言葉よりももっと心意を感じられる言葉はないだろうか、本当はこうなんじゃないだろうか、もっと成長につながるような語りかけを、こっちのほうがいいかも…と、分析して作る語りかけをしていくと、どんどん複雑に、難しくなってしまいます。これをやっているのもパターンです(小学生なので、思考以外を知らない)「私」は出てきたものだけを単純に語りかけの対象とします。

この、物事全般を単純にシンプルに受け取る感覚は大人はとても苦手ですが、そこを鍛えていくためにも、自分のパターンをみつけて語るということは練習になります。ロジカルに、納得する語りかけを、より、自分がいいと思えるものを、今のこの感情から逃げたい、と思って語りかけをするのではありません。そもそもに立ち戻る。自分は本来の語りかけをしているだろうか?

音楽の力
2025/09/08

昨日は「茅ヶ崎交響楽団第84回定期演奏会」に行きました。

今回はエルガー作曲「エニグマ変奏曲」と、ラフマニノフ作曲「交響曲第2番」。両方とも大作。そのせいか、いつも以上に団員数が多く、音も厚みがあり、迫力がありました。

で、いつも思う。皆さん仕事を持ちながら、家庭を持ちながら、または、シニアの方達が毎週集まって練習して(家ではきっと毎日練習して)この日を迎えている。皆さん、音楽が好きで、演奏することが好きで、皆で奏でる音が好きで、そこに現れる世界を感じることが好きで、やりたくてやっている。

この、すごく自分の正直な部分をやっていることがとてもいいなあと思います。

それでも、一緒に練習していれば、お互いパターンにひっかかることはたくさんあると思います。誰かを嫌ったり、嫉妬したり、出来ない自分に落ち込んだり、時には辞めようと思ったり・・・。きっとあると思います。でも、それがありつつも、それを上回るように「音楽」が人と人の間に共通な「美しさ」を持たせてくれるのだと思います。隣のあいつは嫌い、だけど、その美しい旋律を奏でるときには2人は同じところにいてお互いのそれも感じられている。お互いの息遣いを感じてしまう。

そういうふうに、人々が持っているパターンすら巻き込んで昇華させてしまうものが「音楽」にはあります。人と人の心を結ぶ音楽。パターンの思いを超えて存在している音楽。

で、これはちょうど黒パターンを持ちながらも、それを上回る「私」の意思と同じだと思います。どんなパターンもあっていい(というか、実際あるし)それはそのままでいい。だけど、それを上回るように「こうありたい」という大欲を「私」は求めます。それは静かに確実に自分の心の底から浮かび上がってきます。

そして、ここが自分の正直な純粋な「どうありたいか」なところだと思いませんか?黒パターンに飲み込まれ、それを信じて生きることは、自分の本当にやりたい正直なところではないのでは?黒パターンはそのままでいい、なので、それよりも「私」の意思を感じ、それを体現する努力をする。だってやりたいと思うから。

こうして、本当にやりたいこと、純粋に求めていることを自分で感じてみてください。

土台を整える
2025/09/06

「自分自身と自分の人生は変えられる」これが自分はどう在りたいのか…の土台になっています。土台である「自分自身と自分の人生は変えられる」を、そもそも信じていなければ、それは難しいとわかると思います。人は信じていないことはどんなに頑張ってもできないからです。

しかし、ここが信じられない、信じていない、という方がとても多いと感じています。それは根拠のないことだから、というよりも、自分には、それを信じること自体が無理というものです(もちろんパターンです)

パターンは、自分はやったことがないから、とか、自分は頭がよくないから、とか、自分には能力がないから、とか、誰にも教えてもらえなかったから、とか色々言います。だから「自分自身と自分の人生は変えられる」ということは自分においては信じられないし、信じていない、と(パターンは)決めているのです。人生を変えるなんてそもそも無理と。

そういうパターンが自分にあるだろうかとみてみるといいです。そして、もしそれがあってもがっかりすることはないです(がっかりするのもパターンなので語ります)信じられない、信じていない、というパターンへの語りかけと白パターンを選び、土台を変えていくことをしていけばいいからです。そうしたいのか、どうか、ここだけです。

パターンは自分が知っていること、体験したことしか信じていません。それは良きことも悪いことも。知っている物事を信じます(そう思っているだけで実はパターン特有の見方をしているだけなのですがもちろんそこには気づいていない)

しかし、自分自身と自分の人生は変えられる、というのは、今までの知っていることで成すことができなくて、新しく創造していくことでつくりあげていくものです。それはパターンにとっては不安で怖くて、嫌なことなので、だから自分には無理と決めてしまうのかもしれません。これは無理と決めてしまえば、できなかったときに傷つかないで済みます。でも、パターンだから。これも全部踏まえて、自分はどう在りたいのか…なんです。どう在りたいのか、が、どれだけ大事であるかということなんですが。

で、もしかしたら自分はどう在りたいのか…という自分への問への答えは「自分自身と自分の人生は変えられる」ことを信じられる自分で在りたい、なのかもしれません。こういうことも在りたい自分のひとつであり、けっこうこれはナイスだと思います。どう在りたいかって、自分の最も弱い部分を歪みなく見て、そこをクリアできれば、これからの人生を創っていかれるとわかっているそれ。それって最も欲しいものなんじゃないかと思います。だったら、求めよ…です。

過去の体験で…
2025/09/05

過去の体験で自分自身を決めてはいけない。

33歳のときに体験したあのできごと。その後、心身を壊し、実家に逃げるようにして帰ってきて、まず思ったのは、自分の人生はもう、終わったということでした。

周りを見れば、順調にいっているように見える人ばかりで、もう、皆より遅れてしまった自分は、取り残されていくのだ、何もできないのだ、だって出遅れてしまったから、と思っていました。そして、一体いつまで生きればいいんだろうとも思っていました。生きることが苦しくて辛くて、自分が幸せに生きるなんて、夢の夢とも思っていた。それは全てが上手くいっている人にしか手にできないものだと思っていた。

今思えば、自分の人生が自分の思い通りになることは当たり前で、そのために頑張っていたのだと思います。ですから、そこから外れてしまったその時の自分は、もう、全てをなくした、価値のない、嫌いな自分になってしまっていて、もう、諦めて生きるしかないと思っていたのだと思います。今見てみると笑ってしまうことですが、当時はそれが本当だと信じていました。

で、この、過去に体験した事実、そのときに生み出したパターン、それが生み出す偏った考え方と言動。これらをここでかっちりと決め続けて(選び続けて)しまうと、その通りの一生をちゃんと生きることになります。自分で選んでいる(欲している)わけですから。

しかし、ここで、それらが全て黒パターンを主にしてあったことがわかると、どんなに辛いことでも自分で変えていくことができます。だから過去に体験したこと、その時に決めたことで自分自身と自分の人生を決めてはいけないということです。ここは声を大にして言いたい。

自分自身と自分の人生はいつからでも変えられる。そこを拒んでいるのは、パターン(の持つ一般的価値観)です。体験は事実であったという現実は確かにある。しかし、それについてどう捉えていくのか、そこに在る意味をみつけていくということが最も大事なことです。そのスキルを身につけよう。それを持つことで、少しずつ、しっかりとした自分になっていきます。

いつからでも人は幸せを感じられるような自分になれるんです。

かわいいーーーーー!
2025/09/04

先日、買い物に出たときに、前から小学生の女の子(3,4年生くらい?)が歩いてきました。

髪をきっちりとアップにして、ピンでしっかりとめて、見るからにバレエをやっているんだろうなあとわかるようないでたちでした。彼女の身体からはみ出すように大きなリュックを背負って、歩いてきます。リュックの中には稽古着や、着替えや、シューズやこの暑さなのでタオルや飲み物や、色々と入っているんだろうなあと思いました。お母さんが用意してくれたのかな。

一生懸命に歩いている様子がとても健気で、私は思わず、目の前に彼女が来たときに笑いかけてしまいました。するとその女の子も私の顔を見て笑いかえしてくれました。「かわいいーーーーー!もーー、ホントにかわいい!」通りすぎてから口に出してしまった。

屈託ないその子の笑顔に、暑さもふっとび、清涼感さえ感じました。すごいね、笑顔って。一瞬にして人の気持ちを違うところにもっていくんです(笑顔のレベルはかなり高いと思います)

で、笑顔って何ものにも負けないものであって、誰もがその笑顔を持っているという事実。私は人の魅力の最強、最高なものはこの「笑顔」だろうと思っています。男女問わず。年齢問わず。

毎朝、鏡に映る自分の顔に向かって最高の笑顔を向けてあげてみてください。この笑顔で今日も1日過ごそうと思って。そして、その笑顔を今日、誰かに向けよう。きっとその人も自分の笑顔を思い出すから。こうして笑顔の波が広がっていくといい。

9月になり…
2025/09/03

「ネガティブな感情を、健全に、軽く、カラっと、した心意気で捉える」ということを昨日書きました。

ネガティブな感情をそんなふうに捉えられるわけないでしょ、と一般的には思います。だって実際つらいし、面倒なものだし、嫌なもの、何と言ってもそれに苦しめられているのだから、ということだと思います。

じゃあ、何故、ネガティブな感情に対して健全に、軽く、カラっとした心意気で対峙していくことができるのか、ということですが。それは、自分の内に起きたネガティブな感情が他人や、物事のせいではないことを知っていて、その在り方が身についているからです。

逆を言えば、他人や物事のせいにしているうちは、ネガティブな感情に対して、健全に、軽く、カラっととした心意気にはなれません。そうされてしまっている、という犠牲者として自分を見ています。

私たちはワークや自分を見続けることを通して、自分の内に起きていることは自分の責任(自分が選んだこと)という事を体験しています。そしてそれが身についてきていると思います。そうなって初めて健全に、軽く、カラっと、ネガティブ感情をみるという事の意味を全身で理解します。

このように、新なスキルを身につけていくと(ここでは自分で引き受けること)そこからまた、新な目を持つことができて、新な世界を知るようになります。ここはとても不思議でおもしろいところです。

何かをひとつ身につけると(身につけているということは、何かを捨てています。スペースに限りがあるので)次があらわれます。そしてその次を身につけると、また次が現れる。こうして誘われるようにして、自分の成長が促されていくのです。

これを思い、感じたときに、何かの力が働いているといつも思います。そして、それは私だけに特別に起きていることではなく、皆に起きていることです。そこに気づいているかどうかなんです。私がそういう話をするとそれは先生だから…と思うかもしれませんが、あなたもそうだよね、ということです。それに気付くという事自体が新なことなのかもしれません。

9月になり、これから後半はより早く過ぎていくと思います。振り回されないように、しっかりと自分の足で立っていこう。そして、この波に乗っていこう。

ネガティブな感情
2025/09/02

ネガティブな感情というのは、重く、やっかいで、もやもやし、悩み、苦しむ…と思うと思いますが、これもパターンがそう決めていることなんです。「私」はそうは思っていない。

パターンがネガティブな感情ってそういうものだよ、と決めていてそれがリーダーとなり心を支配している状態です。これは強ければ強いほど結果苦しくなります。

しかし、そもそも(←これが好き)あらゆる事象は意味がない状態で存在しています。だからネガティブな感情に対しても同じはずです。それなのに、どうしてこうも良くないものとしてネガティブが存在してしまっているのか。それは、そう決めているパターンを信じているから。「私」が機能していないから。ポジティブはいいもの、ネガティブは悪いもの、というパターンの判断を自然に当然に信じているからです。

でも、ここに新な意味づけを持ってくることはできるんです。ネガティブな感情への意味づけ。マイナスの意味づけから出て来るものですが、ここにもプラスの意味づけは出せます。それを自分でみつけてみます。けっこうあるのではないでしょうか。意味づけは思考的作業です。

では、感覚的(心身として。思考的より実は大事)にはどう捉えるのか、というと、ネガティブな感情をライトに、カラっと、捉えることをやってみます。嫌い、苦しい、つらい、大変、くやしい、さびしい…などなどのネガティブ感情はあってあたりまえです。それを大袈裟に重く、深く、固定化しているのがパターンなので、本来の在り方に近い捉え方をします。

具体的には、健全に人を嫌いと思う、軽く堂々とつらいと思う、オーソレ・ミオでくやしいを感じる、気楽に苦しいと思う、カラっとさびしいと思う。などなどです。これも練習です(頭で理解してもできないから)この心意気を自分の内に持つということです。そしてそれを繰り返すことです。だんだん、これに慣れていかれるように。この感覚があれば、もっと自然にネガティブな感情について自分自身でも受け入れられるし、開示することもできます。そうであれば、ネガティブな感情はその個性が違うだけで、ポジティブな感情と同じとも言えます。ここへの差別もなくなる。これってよくないですか?

健全にネガティブな感情を感じよう。それは自分を必要以上に傷つけたり、自分をそこで停滞させたりするパターンが入り込めないところのものです。「私」の領域のものだからです。この感覚が少しずつわかっていくといいです。

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