ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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導かれていた
2026/03/17

ブーニンが去年、サントリーホールでのコンサートで最後に弾いた曲は、メンデルスゾーンの無言歌集第1巻の「甘い思い出」でした。この曲は私にとって特別な曲です。

この曲を知ったのは、多分7年前頃か。ピアニストの清塚信也さんがTV番組で弾いていて、それを聞きながら私は眠ってしまいました。それぐらいやすらかで心身に安心感を与えてくれる曲(音)だったのだと思います(もちろん清塚さんの演奏もよかったわけですが)そしてその曲の最後の音で目をさまし、たいして聞いてもいなかったのに、そして、自分のピアノレベルを度外視して「弾きたい!」という気持ちがむくむくとわいてきました。

で、すぐに楽譜を買いました。しかし、その後、数年はその楽譜を持ったままでした。この頃、稲垣えみ子さんの「老後とピアノ」を読み、またここでピアノ弾きたいと衝動がわきました。

当時はピアノを持っていなかったので、楽譜を持って近所の楽器店のレンタル室のピアノで自主練をすることにしました。ここで45年ぶりにピアノにさわりました(もう二度とないと思っていたし、もう、嫌だとも思っていた)こうしてレンタル室での練習が続き、そのうちに弾きたい曲が増え、ピアノを購入することになり今にいたります。

この「甘い思い出」を聞くことがなかったら、ピアノを再開することは無かったと思います。そうであれば若い頃に接していたクラシックは知識のひとつとしてのそのままであり、私自身と私の人生が広がることもなかったと思うし、音楽が自己探求によき影響を与えることも知らないままだったと思います。

映画の中で「甘い思い出」を弾くブーニン。その曲をとても楽しんで弾いていることがその表情や体の動きから感じられました。その曲を弾くブーニンは自分のために、自分に与えてあげるように弾いているように見えました。他の曲も、もちろん、その人となりが現れるようなものでしたが、ピアニストブーニンを感じさせます。

しかし、この曲を弾くブーニンはピアニストからも解放されているように見えて、とても嬉しい気持ちになりました。このラストのカットが最も私の心に残ったものです。

今回この映画をみて、自分とピアノ(クラシック)との再会と関わりを思い出し、自分の魂にとってちょうどいいそこへ導かれていたことをあらためて思いました。そしてブーニンもきっとそうなのだろうと思いました。

それは誰でもがそうです。その人が心底からゆるぎなく望む自分の在り方に、又は、無意識で信じているところへ、人は導かれていきます。自分の力だけでは成し得ないことを知って、そこからどう生きるかなんだと思いました。

スタニスラフ・ブーニン
2026/03/16

昨日は、映画を見てきました。

「ブーニン 天才ピアニストの沈黙と再生」小さなシアターに観客は10人ほどでした。

映画はインタビュー形式で構成されていました。天才ピアニストとしての活動が始まったときからのこと、ソ連の国家権力に抑え込まれていたことから自由になるために亡命したときのこと、2013年に突如として表舞台から姿を消し、活動をやめたときのこと、その後の病、ケガ、片足を8センチ切除しなければならず、人前に出ることはできないと思っていたときのこと、そして、10年後、再びピアニストとして復帰したことなど、現在60歳になったブーニンがおだやかに自分自身について語ってくれました。

そして、去年の12月にサントリーホールで行われたコンサートの全曲を聞くことができました。

私がブーニンを初めて知ったのは、たまたま見たショパンのポロネーズ「英雄」の動画でした。それは1985年のショパン国際ピアノコンクールで優勝したときのもので、若干19歳。そのポロネーズにざわっ、ぞぞっと心が動きました。

ショパンのポロネーズは多くのピアニストが弾いていますが、私にはブーニンのポロネーズが1番なのです。力強く、粘り強く、キレがよく、躍動感があります。しかし、柔らかいフレーズでは、まるで水が流れるようになめらかであり、清潔感があります。

動画なので演奏中のブーニンの姿も見られるわけですが、こんなにもポロネーズを楽しそうに演奏しているピアニストは初めて見ました。ピアノとブーニンには一体感があり、演奏する側と演奏される側の区別がつかないような感じです。その在り方に、私の心はつかまれたのだと思います。後々、彼は異端であると批判されることもあったようですが、その人にしかできないことは批判の対象になります。

で、今でも、ブーニンのポロネーズはその在り方とともに私の活性剤になってくれています(その動画です。よろしければ)

https://www.youtube.com/watch?v=fUCFQlXeTuc&list=RDfUCFQlXeTuc&start_radio=1

続く。

浮世絵
2026/03/15

朝起きてきて、リビングの窓から海を見たら、見慣れている風景が違うように見えました。

海の色が全体にぼんやりとした淡い水色で、そこに浮かんでいる小さな漁船も、帆掛け船のように見えます。波はなく、おだやかな海。そして曇り空。この風景はどこかで見たことがある。どこで見た?子供の頃に見た?ああそうか、昨日見た「浮世絵」の一場面か、と気付く。

その浮世絵の海はまさにこのような色だったので、それで思い出したのでしょう。「浮世絵」…と思いながらみていくと、目の前にあるマンションもないものとして見ていて、周りにある家々もないものとして見ていて、海までは開け、海も開けて見えます。

もしかしたら江戸時代の人たちも同じような風景を目にしていたのかもしれないと思いました。当時、海を見た人々は、今よりゆったりとした気持ちで見ていただろうと思いました。そう思いながら見ていると、本当に、今、自分がその時代のそこにいるような気さえしてきて、時間の感覚もスローになります。しばらくそんなところへ気持ちがいっていました。そして、いつもの生活に戻りました。

意識というものは、不思議なもので、自由にあちこちに飛ぶことができます。時代を超えて、世界中にも、きっと宇宙にも。その時に味わう、そこに入りこんでしまうような感覚は今、ここに生きている自分をゆるめてくれます。もちろん、今に生きているのですが、意識の二拠点生活はいいと思います。

この世で二拠点生活をすることは、誰でもできることではないし、そこにはエネルギーが必要になります。何より物質のそれらは劣化していきます。しかし、意識の二拠点生活は、お金がかからず、余計なエネルギーも必要なく、おだやかで、軽やかで、一瞬にして心身によい影響を与えてくれます。

これの最たるものは肉体を持っての現実生活と、意識である「私」との二拠点生活です。疲れたら、わからなくなったら「私」の居場所へいく。そしてまた現実生活に戻る。この行き来で十分に心身は軽やかにになっていきます。そして、段々と、気付いたら、「私」のほうにいることが多くなり、そちらが本拠地のようになっていく。意識のおもしろさです。

自画自賛2
2026/03/14

‥‥で、又、昨日の自画自賛についてですが‥‥。

これは、あくまでもパターンでの自画自賛ではないということ。そこは十分理解されていると思いますが、一応。

パターンでの自画自賛には、他人が関わってきます。あの人にすごいと言われた自分、なんてすごいんだ、とか、皆から高評価をいただいている自分、自分は優秀なんだ、とか、多くの人ができないことを成し遂げている自分、最高だ、天才だ、とか、周りの人から承認されている自分、自分には力がある、というような。

ここを自画自賛して、それを自信にしていくと、自分は出来ている人、わかっている人、信頼されている人、というパターンの自信で立っていくしかなくなります。そうなると、それがいっさいなくなったとき、自分を見失うことになります。パターンはそれがわかっているから、そこを壊さないようにして、次から次へとそれを欲しがるのです。

で、自分だけの自画自賛は、他人が出てこない。例えば、今までできなかったことができるようになった、とか、今まで気づけなかったことに気づいた、とか、自分なりのものごとを再定義して、再構築して、自分の日々に取り入れられるようになった、とか。そのように、今まで知らなったものを自分が表現できているときに(ここ、表現していないとだめなんです。ただ、頭の中でそう思っているだけでは)「おお!」と思うと思う。それってすごくないですか?だから自画自賛。自分で創り、自分で褒めて、そこで完結なんです。

こうして生きることに慣れていけば、もう他人を自分のパターンのために使おうとは思わなくなります。これがパターンにひっかからなくなっていくということです。これは、どんなにひっかかってもいいくらい、もう、自分のものが出来ているとも言えます(それがパターンを上回っているから)。その状態が、ひっかからなくなっていると感じられているのかもしれません。これこそ自画自賛だと思います。

自画自賛
2026/03/13

昨日出て来た「自画自賛」(この頃、このように前日のことについて書くことが増えました)。

自画自賛なんて…みっともない、とか、恥ずかしいことだ、とか、上から目線、とか、謙虚であるべきだ、とか、一般的にあるのかもしれません。そこは意味づけなので、今の自分にとってふさわしいものを選べばいいんだと思います。

で、もうひとつ、考えられることとして、自画自賛できるようなものを持っていていいね…自分には自画自賛できるようなものが無いから…ということです。これは誰もが認める物事を持っている人にしかそれはできないということからきていると思います。

私が選んでいる自画自賛は自分にとって、というものです。例えば昨日のような自分としてはいいね、と思うフレーズ。これに対して、他人は、そうは思っていなかったり、それほどまででもないと思っていたり、「は?だから?」と思うかもしれません。

それでいいということです。自分への(だけの)自画自賛だからです。なかなかいいね、このフレーズにはこんな意味合いも含められていて、それがうまく表現できている、すごいよ自分。というものです(時には私、天才とも思う、このあたりが私はとにかく単純。あきれるくらいに単純。BGMにはオーソレ・ミオが流れる)

それによって誰かに褒めてもらおうとか、一目おかれたいとかではないからそれでいいわけです。自己満足、それでいいわけです。

そして、これが、自分の流れを変えていくことにも気づいています。だからそのために自画自賛しよう、となると、どんより感が伴うのでそれは選ばないほうがいいと思いますが、自画自賛は流れを変えるというパワーを持っています。

自分で「おお!」と感じたときにはそれがどんな小さなものであっても自画自賛してください(単純に)これも自分を肯定していく、今の自分の力を知る、自分の立ち位置を知る、自分を後押しする、量子的にもいい、天のルールを垣間見る、と言えます。

人間って、こんなふうに自分で自分を押し上げる力があるんです。自画自賛もその一つ。お勧めです。

あたかも、その時間が止まったような…
2026/03/12

「あたかも、その時間が止まったような丁寧さが、ワークを澱みがなく、水が澄むようなものにしていきます。」と昨日の日記に書きました。

このフレーズ、久しぶりに自分としては「いいね」と思った(相変わらずの自画自賛。大好きな自画自賛)

「あたかも、その時間が止まったような丁寧さ‥‥」(ここで言う、丁寧さとは、意識(気)が分散していない状態です)が、人間には必要だと思います。それは自分自身の魂と身体にとって。そして、日々の生活そのものにも。そして、その在り方が自然と他人に対して行われると思っています。

特に、ワークを行う(自分に向き合う)ときに、この、あたかも時間が止まったような丁寧さは、そうすることで、自分が感じるその一瞬一瞬が淀みなく、澄んだものになっていきます。それはまっすぐで、純粋で、強い光のようになっている状態です。

「もしかしたら…〇〇と、もう‥決めつけなくてもいいのかもしれない…」という言葉(白パターンの名前、マントラ)は、それを丁寧に言っていくことで、そこには丁寧なスペース(空間、間)が生まれます。その言葉を言い終わったときに、心身の力が抜け、それにより自分の周りには今までとは違う空間を生み出しているのです。そういう自分が創っているんですよ。自然に。

それは「あたかも、その時間が止まったような」心身であり、空間であり、そこにいる自分です。そして、それはいつの日か「「私」として在る」というところへ続いていきます。このプロセスを通らないと「私」として在るという感覚は感じられないのではないだろうか、と、私は思います。思考してそうあろう、とするのが違うということがこれによりわかるのではないだろうかと思います。

ワークは言葉を使っていますが、頭でやらない、こなさない、言葉に囚われない、ハウツーにしない、苦しいからやるの動機で行わない、などなどに気をつけて、行ってください。

そことは真反対にある「あたかも、その時間が止まったような丁寧さ…」を心身で覚えていきます。それが日々の生活にもよき影響を与えていきます。

意図を持たないように…
2026/03/11

半年くらい前に整体の先生から「意図を持たないようにしてください」と言われました。

日々行うことを勧められたセルフケアをするときに、身体が調子よくなるために、眠れるようになるために、と意図を持ちがちですが、そうしないように‥ということでした。

これはわかっていたつもりでしたが、実はわかっていなかったことが今になりわかりました。わかっていたつもりは頭でわかっていて、セルフケアを行うときに意図を持たず、ただ行なおう、と意図していました。これって、言葉の表面しか理解していないということです。

もちろん、何かを行うときには、そうしようという意図はあるのですが、それが違うものになってしまわないように…と、先生は言いたかったのだと思いました。そのセルフケアもいつの日からか、やらなくなってしまい「意図を持たない」ということも消えていっていました。

で、1か月くらい前に、急に、このことがわかったんです。何かきっかけがあったのか覚えていないのですが。先生のおっしゃった、ここでの意図を持たないで何かを行うときって、そのプロセス自体に澱みがなく、水が澄んでいくようなものだと感じられました。

それと同時に人は結果が欲しくて、何かを行うんだということも思いました。そうであると、その欲しい結果を得るためにという違った意図がそこで働きます。

その時にはいつかそれを得るだろう、と、未来に意識がいっています。未来だから、そこへの視線と計画がある。それが違っている意図です。これを、結果ではなく、行動そのものを選んだとしたら。

それは行動している今に意識があり、今にいるところには違っている意図は必要なくなります。

これはまさに語りかけや白黒ワークをやっている時の心そのものです。そのときには、未来への思いはなく、目指すものはなく、目指すところへの計画や、やり方もなく、ただ、今行うワークがあるだけです。あたかも、その時間が止まったような丁寧さが、ワークを澱みがなく、水が澄むようなものにしていきます。

セルフケアもワークと同じに行えばよかったのだと気づきました。そして、日々の暮らしも同じようにということだった。半年たってやっとわかった。先生に感謝です。

守破離
2026/03/10

「守破離」とは。以下、Wikipediaより。

「日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したもの。修業に際して、まずは師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とその技についてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのである。」

と説明されています。

そして続いて「落語」での例が書いてありました。以下です。

守:古典落語を忠実に表現することができる。

破:古典落語をより面白くアレンジすることができる、 あるいはよりわかりやすく表現することができる。

離:経験を活かし新作落語を作ることができる。あるいは、落語から進化した新たな芸風を作ることができる。

こちらはわかりやすいですね。で、このようにオリジナルを創っていくということなんです。これは人生そのものをオリジナルなものにしていくということです。誰のものでもない自分の人生を自分が創るということです。カウンセラーとして、というのはその一部でしかありません。

その土台が「守」の部分。だから「言われた通りにやって」と私は言い続けています。スキップしないで、ちゃんと言われた通りにやってください…と。それが自分のものになったときに「破」「離」は自然とやってくる(自分で生み出せることがわかってくるので、「破」「離」になる)

守破離は芸事においてだけではなく、自分自身と自分の人生にも当てはまると私は思います。道場でやっていることは「守破離」の人生版。ここでのやり方はねらって作ってきたわけではないのですが、気付いたらひとつの道になっていました。「創る」ところへ向かうためのものです。

ネガティブな感情が嫌
2026/03/09

3月の茅ヶ崎クラスも無事に終わりました。

今回はゲストがお二人。いつものように、やっていることは同じなので、ゲスト感はどなたが参加されてももうすでになく、いつものメンバーの気がする。遠いところ、ありがとうございました。

で、今回思ったこと。パターンは悪者ではない、ということはきっと皆、もう、わかっています。それでもパターンにひっかかりたくないというのは、パターンにひっかかったときにわきだすネガティブな感情が嫌なのだろうと思いました。

だから、厳密には、パターンにひっかかることが嫌なのではなく、そこから湧き出るネガティブな感情に飲み込まれ、それが何日も続く、それについてぐるぐる考えることが嫌なのだろう…と思いました。

しかし、生きている限り、パターンが嫌だと思うことはこれからも普通にあります(それがあるから成長できるんじゃなくて、そもそもそういうものだから)で、そのたびに不快な感情はわきあがります。

だから、一般的には、この不快な感情がわきあがらないようにしようとする。無視したり、感じないようにしたり、違う考え方を持ってきたり、その原因を探ったり、時には退行催眠、エネルギーワーク、パワースポットへ行くとかとか。しかしこれらは対処療法としか私は思えません。常に対処療法を使い続けてそれでいいという人もいると思うのでそれはそれでありなのかもしれませんが。私はそれを選んではいないです。

本当に望んでいることはなんなんだろう?と自分に問えば、どんな感情(感覚)も受け入れられる自分になることだからです。どんな感情にも慣れる。それはよいと思う感情でも。慣れるというのは包み込めるようになるということで、鈍感になることでも、それを省いたり、変えようとしたりすることでもありません。

感情そのものを自由にしてあげるというもので、それを見守れる「私」であればいいのです。そして何より、そもそも、感情ひとつひとつもただひとつの事象です。それがそのものとして在るだけ。

そんなような感情(特に自分にとって嫌な感情)への新な視点を少しずつ持っていきます。そして、不思議なことにそうなっていくうちに自分の心は穏やかに、すがすがしく、活力や楽しさや明るさで満たされていくようになります。

という事は‥やはりあるものをないものにしようとしないということだと思う。それが天のルールなのだと思います。で、やっぱり、そのルールに乗って生きていれば、自然といいかんじで、いいあんばいで、生きる方へ導かれていきます。道場で学んでいることは、このルールに乗ること。あとは、天にひっぱってっていただこう。こうして天の一員でありたいと願う。

夜ご飯って…
2026/03/05

夜ご飯って…なんでこんなに面倒くさいのだろうか。

我が家は、朝食は別々にそれぞれが用意して食べる。昼食もほぼほぼ別々。ちゃんと(私としては)作るのは夜ご飯だけなのに(それも週5日/6日)それでも、私には、荷が重いのです。

トミーが夜ご飯を食べない日もあったりすると、朝からものすごく解放感を感じます。そんな日は自分の食べる分だけでいいので、すごく楽。

…ということは、トミーがいるからよりちゃんとしたものを作らなくてはと思っているのだろう。(妻だからはない)そこには、一応、バランスよく、があるのだろう。それにより自分も恩恵を受けてはいるのですが、この食事にまつわるところのパターンは今だによくわからなくて宙ぶらりんの状態です。

だから今日から茅ヶ崎クラスのセミナーが2日間あるので、ご飯を作らなくていい、ということで気持ちも晴れやか。こんなにも違うものなのか、と思います。そもそも料理が苦手なので、夜ご飯作りは私には苦行なのです。

経済的に許すなら、1週間分作ってくれる方にお願いしたいところです。

今月は大相撲もあり、WBCもあり(ずっと見続けているわけでもないのに)大忙しです。それこそ夜ご飯のための買い物や作ることに時間を使いたくない。挑戦の1か月となります。

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