ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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2017/04/23

そういえば・・・今年は桜を愛でるということを忘れていたことに気が付きました。

桜の花が目に入っていても、愛でるという事はまた違います。意識的でないかぎり、見ているようでも見えてはいませんし、感じられていません。年始から父のことがありこの4か月突っ走ってきたからだと思います。

そんな私でしたが、今回の山形では満開の桜をたくさん愛でることができました。鶴岡公園の桜、そして酒田市にある日和山公園の夜桜、1日でこの2つの桜の様を見られてとてもうれしかったです。

どちらも大木の桜群で、公園内はさながら大きなピンク色のカプセルのようでした。そのカプセルの中を歩く私達もピンク色に染まっていきそうです。桜は大変美しいですが、あのむせかえるような重圧感は私にはちょっと怖く感じるものでもあります。その怖さも味わいたいと思わせるのが私にとっての桜です。限られた時期だけに体験できる桜とのそれを今年もできたことに感謝です。

桜が散ってしまった後は、いよいよ新緑の季節を迎えます。私はここが1年のスタートにいつも思えていて、桜は「用意はいい?いよいよスタートのときだよ」と言ってくれているようにも思えます。「いいよ、用意はできているよ」と桜にこたえて、また今年もスタートを切っていきたいです。

フレッシュでいたい
2017/04/20

この時期、あちこちでフレッシュマンをみかけます。

茅ヶ崎駅ビルの各店舗にもフレッシュマンが勢ぞろい。皆、名札に研修中と書いてあります。先輩に教えてもらいながらの接客です。どこかぎこちなかったり、とても緊張していたり、何かを聞いても答えられなかったりですが、いいなあと思うのはとても一生懸命なことです。仕事ができる/できないに関係なく、一生懸命です。

自分のときのことを思い出しても、希望と緊張感をもって社会へのスタートを切っていたと覚えています。

こうしていきいきとスタートした私達なのに、年々この一生懸命というフレッシュさを失っていきます。仕事に慣れるというのは、どこか、垢がついていったり、鎧をまとったり、希望を捨てていくことも並行しておこってきます。

いつまでも一生懸命なのはばからしい、損する、そんなに仕事は甘くないし、楽しくないことが仕事、ということのほうが上回ってくる。で、しょせんこんなもんでしょう、という気持ちで仕事をするようになっていく。慣れの仕事。

あんなにきらきらとスタートしていたのに。

で・・・・大人になってもフレッシュでいたい。いい年してと周りから笑われても。フレッシュでいたい。外見はフレッシュさをなくしていきますが、心は。

そのためにはやはり自己観察です。今この瞬間の自分の心ははよどんでいるのか、フレッシュさをもっているのか、そこの観察と選択の継続だと思います。

今日はこれから山形庄内です。2月は大雪のため、庄内空港に着陸できずに羽田へ引き返すということがありました。今日は大丈夫でしょう。では、行ってきます。

限界をもうけない
2017/04/19

自分に限界をもうけないということ。

自分はどうせだめ、自分にはできない、自分には無理など、自分に限界をもうけてしまうことをしなくていいということです。

自分への限界は、もちろんこれもパターンであって本当の自分「私」のものではありません。

このパターンが威力をもっているのは、とても納得することを言うからです。それは「だって今までもずっとだめだったじゃない、できなかったじゃない、無理だったじゃない、だから今度もできないに決まっている」という言葉です。これは、ごもっともです、という感じがします。それをつきつけられてしまったら、やっぱり自分はどうせ何をやってもできなくてだめだ、を強めていくことになります。

この過去の体験により自分を決めつけてしまうのがパターンです。そして、それをもとにこれからのことも全て決めていきます。そこに限界が生じます。

過去の体験というのは、これからを決めるときの指針になるものではなく、あくまでも、自分がやったことへのこたえであったというものです。そのこたえが自分の望むものでないのであれば、その自分がやったことが何か違っていたのではないだろうか、やり方が違っていたのではないだろうか・・と自分を省みるものになるものです。

それがわかれば、では、何をどう変えていけば自分の望むようになっていかれるのかがわかってきます。わかったら、それを実行する、そしてそれの反映があります。

限界をもうけてしまうのは、とてももったいないことです。過去のことにとらわれず、それを、これからの為に使っていこう、と新な視点をもってみてください。

私は幸せだ
2017/04/17

お会いしている方が「私は幸せだ、という気持ちが内側から湧き出るときがあります」とおっしゃいました。

それは全てがうまくいっていて、ストレスがないから・・ではなく、大変なとき、つらいときにも、時々、ふっと、それが湧き出るということでした。

この感覚は不思議なものですが「私」の発しているものです。それは白黒ワークでの白の部屋で察知するものとは質が違います。もっと本質的なものと私は感じています。

大変だったり、つらかったりなのに、こういうことが時々あるという方はぜひ、この感覚を覚えておいてください。覚えてというのが違う感じがする方は、その時の感覚を導き出してみようと思ってみてください。きっと「私」がそれをサポートしてくれます。「私」はそれを望んでいるからです。

「私は幸せだ、だって家族がいるから」とか「よく考えてみたら普通に生活できているから」とか「人より多く持っているから」・・・ということではないです。これは思考から導き出した幸せです。思考での幸せでは「私」は納得しません。

そこではなく、自然と湧き出てくる幸せ。湧き出たことを感じられる幸せ。それを味わえる幸せ。それがあることの幸せ。大変なとき、つらいときなのにそうできる幸せ。「私」の幸せ。

・・・・・ぜひ・・・・・

何故?どうして?
2017/04/16

きのう書いた日記のこの部分→「見た目は同じでも、そのそれぞれにある動機そのものがその人を表しています。ですからそこを聞くことはその人を知ることになります。「シンプル、いいですよね」だけではなく、どうしてシンプルなのか?がわかるとその人がわかりますね」←これはカウンセリングの基本になっています。

「私、シンプルな服が好きなんです」と言ったことに対して「そうですか、シンプルな服が好きなんですね」とレスポンスをします。ここは一般的なかえしかたです。

このレスポンスをしたカウンセラーが≪そうか、シンプルな服が好きなんだ、わかる、わかる、私もそうだから≫ではないということ。これではカウンセラーの思い描くシンプルと相手のそれとが同じであると決めてしまっています。

そもそもシンプルってその人にとって何なのか、それを服に当てはめた場合どういうものを指すのか、そして、どうしてシンプルな服が好きなのか、選んでいるのか、を聞かないと、自分の思い描くシンプルをイメージしながらの話になり、そこにずれが生じます。こうして聴くことでその人の世界を知っていくことができます。

ですから「なぜ(どうして)シンプルな服が好きなんですか?」とか「〇〇さんにとってシンプルな服ってどういうものなんですか?」などのレスポンスが必要になります。それを聞くことでその人がわかります。それは自分のシンプルとは全く違うこともあります。そうやって相手との溝を埋めていく作業により、カウンセリングはより深く、親密さを増していきます。

カウンセリングに「何故?」「どうして?」が必要なのはここをやりたいからです。ただ、この言葉は下手をすると相手を責めているようにとられることもあります。この「何故?」「どうして?」を純粋に言えるようになるためにカウンセラーは自分を成長させていかなければなりません。

見た目は同じでも
2017/04/15

きのう、ふと、ある方のことを思い出しました。

その方は、ショップの店員さん(男性)の方で、当時、私はそこの服が好きで時々顔を出していました。買うために行くというより、店に置いてある服や雑貨を見に行くのが楽しみでした。その店で働いている方です。年齢は・・たぶん、30代中ごろでしょうか。いつからか、話をするようになりました。そのたわいない話も楽しかったです。

で、あるとき気付いたのですが、その方、いつも着ているものが同じなんです。白いシャツと、黒のコッパン。黒の革靴。

たまたまなのかなと思っていましたが、とにかく、いつもそうなので、あるとき聞いてみたんです。「いつも同じものを着ているようですが・・・?」と。するとその方が言ったことは「同じなんです。今はこれでいいと思っているんです。それまではあらゆる服を着ていました。流行のものを。その服の数もすごかったです。でも、それらにも飽きてしまって今はこれが好きなんです」と。「いろんなものを着つくしてのこのシンプルさなんですね」と言うと「そうですね」と言って笑っていました。私も似たところがあるのでわかる気がしました。

スティーブ・ジョブズがいつも黒のハイネックにジーンズだったというのは、何を着ようか考えることに時間やエネルギーを使うことの必要性がない(決断をひとつ減らすことになる)と考えていたからだと聞いたことがあります。

これもまた見た目はシンプルです。しかし、その店員さんのように、やりつくしてシンプルになるというのとは違います。どちらがいいということではなくて、シンプルになっていく動機がそれぞれあるということです。

見た目は同じでも、そのそれぞれにある動機そのものがその人を表しています。ですからそこを聞くことはその人を知ることになります。「シンプル、いいですよね」だけではなく、どうしてシンプルなのか?がわかるとその人がわかりますね。そうやって人を知るということも大切だと思います。

そんな統合
2017/04/14

先日、日記に書いた「一汁一菜でよいという提案」(土井善晴・著)まだ読み終わっていません。

というのが、文章がきれいでそれが私にとって染み込む感があり、それをゆっくり味わいながら読んでいるからです。そこに土井善晴氏の魂を感じるようです。魂のレベルを・・と言ったほうがいいと思います。

レベル=領域はそれぞれのレベル=領域において、見ているものが変わります。外側にあるものから内側にあるものへ。そしてそこから本質にあるものへ。その視線は深く、広がりを持ち、普遍性をそなえていきます。

料理を作る、出来上がったものを、それが映えるような器に美しくかざりつける、それを食して、味わう。という一連の作業の中に、ひっそりと潜むようにしてある行為と状態に気付く目とそれを受け取れる心。それをあちこちに土井晴氏は表現されています。

そこからわかったことは、統合ということです。例えば、魂のレベルは全てにおいて同じなのではなくて、お金に対してはこのレベル、仕事に対してはこのレベル、人間関係に関してはこのレベル、死生観に関してはこのレベルというようにばらばらです。全てが同じ領域にいるわけではなく、何かは下にあり、何かは上にありと、でこぼこしているものです。このでこぼこを最も高いレベルにあわせていくことが統合するということなんだろうと思いました。

土井善晴氏は料理を通して、ご自分の魂のレベルをひきあげていき、それが他のものもひきあげていく、という体験をされているのだろうと感じました。そんな統合。

共感できることが色々と書いてあります。ということは本質をみていく作業はいろんなところから入ることができるということ。あとはその人によるということです。

人生っておもしろい
2017/04/13

「人生っておもしろいんですね」と」お会いした方がおっしゃいました。

そして「おもしろいって、楽しい〜〜わはは、みたいなのじゃなくて、挑戦するおもしろさ、冒険するおもしろさです」と言われました。その言葉にその方が今どんな領域を歩み出しているのかがとてもよく感じられました。

きっと以前は「おもしろい」は「あーーー楽しい!いいよねーーー楽しいって」みたいなそれだったと思います。しかし、今は、それではないことに「おもしろい」という質をみいだしています。ここに人の精神性の成長と進化があります。

人生っていろんなことが起こります。良いことばかりではなく、嫌なことも、苦しいことも、つらいことも。それにどっぷりとつかってしまっているとき=それ自体が自分だと思ってしまっているときはただただそれは悩みと問題でしかありません。

しかし、自分の精神性が上がってくると、悩みと問題ではない捉え方を少しずつしていくようになります。ここはとても感動的な一場面だと思います。悩みと問題という暗黒の世界の中に光が差し込む・・というような。そこに希望の光を見出し、だからこそそこへ向かおうとする・・というような。

しかし、これも、思考でそうしようとするものではありません。悩みや問題をおもしろく考えてみようとか、そういえば、それほど深刻にならなくていいよね、とか、この悩みと問題にも意味があるから考えてみようとか、大丈夫大丈夫どうにかなるから、など、そうやって思考で導き出す「おもしろい」=ポジティブシンキングではなくて、悩みと問題に対峙することで超えていき、そこに現れる「おもしろい」なんです。

対峙の最中はいろんなパターンもさわぐだろうし、いつまでも光の見えない世界にいることに不安や焦りをきっと感じると思います。でも、そこに向き合う。向き合って向き合って、悩みと問題を理解し、許したときに、そこを超えていきます。そのときには、今まであんなに嫌がっていた悩み、問題に挑戦したいという気持ち、冒険したいという気持ちになっています。挑戦、冒険へのわくわく感や、おもしろさを感じます。従って人生っておもしろい。

そんなふうに人は柔軟にたくましくなっていきます。

どうやって?
2017/04/12

不平、不満、愚痴があること、それを口にしたり、それについて考えることはいけないことではありません。

それは、実際自分の中にあるのだから。

それらがないものとすること、それらを悪もの扱いするほうがいけないことです。それは、自分への責任を放棄しているし、そこには大きな差別があるから。

で、不平、不満、愚痴がなぜ起こるのかという思考的な話ですが、それは「私」を構成している能力を使っていないからです。「私」として生きていないとも言えます(=黒パターンで生きているから)「私」として生きるということはその「私」を構成している普遍的能力(神の資質)を使って存在しているときです。普遍的能力に不平、不満、愚痴はありません。

3次元で現れているそれらを違う次元でとらえている「私」はそこへの理解や許しや、選択や、理性や、観察、継続などあらゆる能力を使い、それらを落ち着かせるということを行います。従って、それらは落ち着き、減っていくということです。

・・・というのが思考的な話です。だいたい、セミナーとか、スピ系な学びではここで終わります。「ですから、ぜひ皆さん「私」として生きていきましょう」と。そこで「そうか、じゃあ「私」として存在しよう」と思考します。でも、どうやって?がわからない。このどうやって?がわからないということに気付いているということすらないという人も多いです。

「私」として生きるとマントラとして言い続けることがそうだと理解したり、なんとなく「私」の雰囲気(やさしくて天使的な私)で居続けることがそうだと理解したり、紙に書いて貼っておくとか、「私」に成れるように瞑想したり、パワースポットに行くことだと理解したり、自己分析することが「私」としてあることだとか・・。これはミームによるものです。ミームはそれぞれが正しいと思いこんでいます。正しい理解というところとかけ離れてしまえば違うことを信じて行います。

それがだめだということではなく、具体的なやり方を教えていないところがほとんどだということです。かと言って「魂の道場」でのメソッドが絶対だということではありません。いろんなそこへの具体的やり方はあります。いずれにしても、自己探求の道は(道も)修練、トレーニングの世界なんです。修練、トレーニングなくしてその体験はできません。「私」として存在するためには。

そして修練、トレーニングを自分がやってきた先生や、ナビや、サポーターには自分の体験を通してのどうやって?があります。そういう方なら必ず具体的やり方を教えてくれます。どうやって?に気付き、それを必要とする方は、ぜひ、自分に合うそういう方をみつけてください。

ピアノを習うのに先生につくように、料理を習うのに先生につくように。そういうことと全く同じです。あとは、自分に合う方をみつけるだけです。

ご飯作りのストレス
2017/04/11

今「一汁一菜でよいという提案」(土井善晴・著)という本を読んでいます。

本屋さんでこの本を開いてみたら「この本は、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んで欲しいのです」とありました。これは・・・・私のための本だ!と思い即購入しました。

で、まだ読み終わってはいないのですが、内容は、料理というところから、生き方とか、哲学とかにまで話がおよんでいます。

食べるものはとても大事、でも、口に入れたとたんに「おいしい!!」というパンチのあるものは外食で楽しめばいい。毎日の家でのご飯は食べ終わったあとに、ほっとするような、心地よさや体がきれいになったような気がするものを・・・と言っています。それはシンプルな「一汁一菜」にあるということ。

私達は食べ物についての情報や刺激をたくさん受けていて、手をかけること、品数が多いこと、まるで外食で食べるような味つけのものを作ることが家族への愛情だとか、ちゃんとご飯を作っていることだと思い込んでいるといいます(確かに)そのために時間をかけそれがストレスにもなっている。そこで日々の家でのご飯は、手間をかけずに、でも、汁もの(味噌汁)は具たくさんのものにしてのご飯にすれば、いままでそこに使われていた時間が自分のために使える、と言います(確かに)

毎日ご飯を作るって本当に大変です。

でも、この提案なら私もストレスなくできそう。ということで、今のところ、昼ご飯をこれにしています。ご飯とお味噌汁(煮干し、干しえび、野菜、肉、海藻など冷蔵庫にあるものを入れて)とお漬物。味噌汁の具が少ないときは、前日の残りのおかずとかもプラスして食べています。これは私にはとても合っています。おなべひとつでできるので洗いも簡単。おなかのもちもいいし、体がきれいになっていくような気がする、ということを実感し、それはこういう感覚なんだと思えます。

食べることについてはいろんな説があります。これには個体の違いや、年齢の違い、環境の違いなど色々あるので一概には言えませんが、土井さんと私は同年なので、年齢的に、こういうご飯を体が欲しているのかもしれません。私としては、ご飯へのストレスが緩和された気がしていて、この本にであってよかったと思っています。

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