| こうして心は整っていく | - 2026/01/31
- 昨日の日記の補足になりますが。
パターンを赦すということは、如実知見、だと私は思っています。ただただ、ありのままに見て知る、又は聞く。何事も自然にそのものとしておいておくということで、抵抗しない、作為的にしない(そのものをパターンが納得するような意味づけや行動をしないということ)ということだと思います。
その在り方は意味づけワークの中間にある「ひとつの事象」と同じ感覚です。ここには、無機質な感じがあると思います。ひとつひとつのパターンもそうなんです。ただ、そのパターンの個性ゆえにひっかかりどころはそれぞれで、ひっかかれば自然と感情を生み出します。
そのようにできている。神からそれを与えられている。そのようにできているのだからそれを変えることはできないんです。そして、そうであるから「私」ではないパターンが「あっ、今動いた」と「私」がわかることができます。この「私」が「わかる」という事が大事なことでこの体験は「私」ならではのものなんです。
パターンがいるから、成長できた、パターンがずっと自分を支えてくれた、と、考えがちですが(そう思う時期もあるので、それはその時期ではモチベーションになってくれます)本来はそういう結果(利益)を「私」は欲しがらないんです。ただ「わかる」というところにいます。パターンに引っかかるとは、自分の内の「私」ではないものが動いた、という、ただ、それだけのことなんです。
「私」は観察者です(静謐な観察者とケン・ウィルバーが言っていたと思う)観察者ってかなりクールです。それが本当の自分です。そう聞くと、感情を感じないようにしよう、感じてはいけないと思うかもしれませんが「私」は正直に、歪みなくそれを察知します。察知するという立場にあります。どんな感情も自然に出るときは出る(ただ、ひっかかっているだけだから)それでいいんです。
昨日でてきた、パターンを嫌うパターンはとても思考し、分析します。それについてはこう考えればいい、こういうことだったんじゃないか、そう考えると落ち着く、こうしてみれば少し楽、こうしていこう、など。一見前向き、一見解決を出してきます。でも、その根底にあるのは、パターンが引っかかるのが嫌、その時のネガティブな感情が嫌(耐えられないから)というものです。思考、分析で対処をしているときはほぼほぼ、このパターンがやっています。そのときには、それは誰がやっているのか?と自分に問うといいです。
そして、こうしながら時間をかけて全てのパターンを赦していったときには、どういうわけだか引っかかることがあきらかに減っていきます(この不思議)そのときにはパターンを嫌うパターンも同じように引っかからなくなっていきます。こうして心は整っていくのだと思いました。
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