ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自分の個性に合った哲学を
2026/02/25

自分=「私」。そして「私」は神の子。だから「私」には神と同じ資質がもともとある。それを使って(…というよりも使わざるを得ない状況を与えられると思っている)生きることが私のやるべきことだと思っています。

何故か?神はそれを望んでいるから(‥と信じている)そうやってこの宇宙のルールに乗って生きて欲しいと思っているから(‥と信じている)というように、私は生きることの焦点をそこだけに決めていて、だから、やるべきことはとてもシンプルなことになります。

これは自分の個性に合った哲学であり、これが正しいということではありません。そして、その哲学を思うとき、私の本質である「私」は安堵感や懐かしさを感じているのもわかります。そうだね、今世はそれをやりにきたんだね、やりたいんだね、と自分が自分に言う。だから、今日もやっていこう、と思う。

やりたいことをやるってこういうことでもあるのだとも思います。決して、やりたいこと=好きな仕事につく、旅行に行く、結婚する、家を買う、財産を成す、などなどだけではないということです。もちろん、それを得ることが生きる目的でありそこへ邁進していくというその人の個性に合った哲学もあっていいんです。そこにはどれがレベルが高いとか低いとかは一切ないです。私の場合はこの単純な個性に沿ったものがこれでした、ということです。

こうして、それぞれの哲学を意識していないくても持つのは何故かというと、皆、心のやすらぎや幸せを感じて生きたいからだと思います。人はやはりそこへ戻りたいのだと思います。だから自分の個性に合った哲学を、自分の生きる指針になるものを持つことは大事だと思います。

決して誰か偉い人がこう言っていたからそうなんだ、ではないということです。自分の個性に合った哲学を作り、それに色を添えていくのはそれぞれの「私」にしかできません。パターンはやりたがってもできないのです。だから「私」を育てる=あらゆる資質を使うということが大事になっていきます。

自分はうまくいくだろう
2026/02/24

自分の心の底にある思いが、自分自身なんだと思います。それは、心の一番底にある信念のようなものです。

そして、その信念は、ざっくりと言ってしまうと根拠がないところの「自分はうまくいくだろう」というものと「自分はうまくいかないだろう」という2つです。両方とも、心の底にあるので、日常、それを選んでいる、という意識が持てないもののような気がします。それでも、その2つのうちのどちらかを自分は決めていて、それが自分自身になっていくのだろうと思います。

そしてその決断は、心の底にあるということから(多分思考が入り込めないから?)物事を動かす力が強いだろうと思う(純粋に量子を動かすのだろうか)そこも意識することなく自動的にそうなるのだろうと思います。

そんな、意識できない心の底にあるものに、アクセスできるのだろうかと思う方もいるかもしれません。一般的には、退行催眠や、深く瞑想すること、エネルギーワークなどでアクセスすると言われていますが、私は、日々の感情の動きやパターンの動きなどを総合してみていくと、自然とわかるのではないだろうかと思っています。そこは特別なことをしなくても、誰にでももともと与えられているものだからです。

で、パターンを総合的に見ていったときに、自分はどちらを選んでいるのかがうっすらとわかると思います。そこがきっと心の底にあるものです。そこに直接アクセスできないというのは意識的にそこを動かすことができないということです。

しかし、パターンというそれの上に層のようになっている部分へのアクセスはできます。そしてそのパターンが少しずつ落ち着いて(落ちついてというのはひっかからなくなるではないです)くればその層の変化は自然と心の底に落ちていくと思うのです。もし「自分はうまくいかないだろう」をずっと決めてきたとしても、そこへの影響は必ずあると思っています。そうして、ここも自然に「自分はうまくいくだろう」に変わっていく。それが根底になり、その上に落ち着いたパターンたちがいる、というイメージです。

根底を変えるために「自分はうまくいくだろう」と強く思う、願う、言い続ける、ということではないです。これらは思考で行っていることでそれが根底に届くことはありません。そう思うだけで変化できるのなら、きっと全世界の人たちはそれを行い、全ての人がうまくいっているはずです。

根底にあるものを変えようとするのではなく、パターンたちに協力してもらえるように、一つ一つのパターンを大事にする「王」でいてください。

耐久力
2026/02/22

耐久力という資質。耐久力とは…長くもちこたえられる力。(コトバンクより)とあります。

耐久力というと、我慢する、自分を抑える、自分を犠牲にする、感じなくしようとする、ひたすら耐える、自分を強くしなければならない、というようなイメージがあると思いますが、ここで言われているように、長く持ちこたえられる力が耐久力なんだと思います。

私は以前、人一倍、耐久力がなく、すぐにへなへなになっていました。今でもこの資質はしっかり育ちました!とは言えないのですが、昔に比べれば、育ったと思います。

それは特別なことをしたのではなく、パターンへの語りかけや白黒ワークなどを続けたことで気づいたら育っていたということです。語りかけや白黒ワークって「私」の資質を底上げするのだと思います。ピンポイントで育てようとしなくても全体に上がってくる気がします。

で、そうやって少しずつ育ていっていた今の耐久力とは、昔イメージしていたそれではなく、ネガティブな感情や物事などに対しての意味づけや、選択肢が増えることなんだと思いました。

昔イメージしていたそれ(パターンが決めている耐久力)は、ひとつの選択肢しかないんです。起きていることは不快で自分を悩ませる物事、だからそれを排除したいけれど、できない。だったら我慢する。ひたすら耐える、それが強さだ、というものです。そこに変なスピリチュアルをくっつけて、自分は愛の人だからこれを見守れる、というようなことも言います。

しかし、そう思いながらも苦しさや無理があるのはそれが今の自分にふさわしくないということです。

自然に育てた耐久力は、起きていることに対していくつかの視点を持つことや、それへの新な意味づけを作ることや、そもそもに立ち返ったり、人生を宇宙的な長い目でみたり、「私」はどうありたいのか、というところで作られて行くのだと思います。

そして、そこには、勇気や強さや柔軟さといういい感覚があり、それは今の自分にふさわしいということもわかります。こうであれば、長くもちこたえられる力として働くことができるのだと思います。

耐久力にはこの世を生きるスキルがいくつもあると感じます。これはどの資質においてもそうだと思っています。資質を育てることは大事です。ひとつひとつの資質の中に宝が眠っています。宝の持ち腐れにしてしまわないように。それには基本の丁寧なワークです。

夜の女王のアリア
2026/02/19

先日、初めて「湘南フィルハーモニー管弦楽団」のコンサートに行きました。

曲目はモーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ベートーベン「ピアノ協奏曲第4番」、最後はベートーベン「交響曲第7番」の3作品でした。曲目プログラムによると、この、最後の曲(ベートーベン交響曲第4番)は演奏者が疲労困憊する曲なのだそうです(演奏者の体力や技量を全く気遣ってくれないベートーベンと書かれていた)

プログラムにそのように書かれているのを読んだからか、第4楽章を演奏している方達が、ゴールに向かって最後の力を振り絞るアスリートのように見えました(最終楽章はどの曲もそんな感じがしますが)体力と気力、何よりそれを上回る音楽への熱い思いがないと演奏家にはなれないな。

こちらの楽団も茅ヶ崎交響楽団と同じで、それぞれに仕事を持っている方達で編成されていて、年に1回のコンサートを行っています。月に2回の練習日があるのだそうですが、練習だけ出ればいいわけではなく、仕事の後や、休日も練習していると思います。それって大変なことだと思う。ある意味、プロよりも大変かもしれません。

しかし、このような形で音楽と関われていることが羨ましいです。音楽に触れることで自分の内で浄化が起きているように感じるこの頃です。本当の自分の個性を思い出すとか、この個性で生きていいとか、なんか、今までとはまた違うところにいるような気持ちになる。これが何なのかはっきりと言語化できないので、まだ潜在意識にうずもれているのだろうと思います。続、体験。

で、今朝はひとつ、私のカンフル剤のような‥「よし!」と毎回思える、好きな曲をはっておきます。モーツアルトのオペラ「魔笛」の中で歌われている「夜の女王のアリア」です。私はこの曲を聞くと「よし!」という気持ちになるのですが「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」という激しい怒りと狂気の内容です。夜の女王が憎む相手を娘に亡き者にするようにと短剣を渡し、それができなければおまえは私の娘ではない、と脅す。なかなかです。

それでも「よし!」となるのは何と言ってもこの高音でうたいあげる、ディアナ・ダムラウさんの高度なテクニックに裏付けされた「復讐と狂気」が圧倒的は迫力で表現されているからだろう、と、思います。ここまで表現できるって、これもまた羨ましい。よろしければ…。

https://www.youtube.com/watch?v=YuBeBjqKSGQ

人生とは…
2026/02/17

昨日書いた「本屋さん」で見かけた本。「人生とは長い時間をかけて自分を愛する旅である」(樋口耕太郎 著)。

なんて、素敵な言葉なんだろうと思いました。副題に「こころの資本の経済学」とあります。

著者は1965年生、盛岡市出身の方です「沖縄のサンマリーナホテルを取得し、愛を経営理念とする独特の手法で再生。」と書いてありました。結局、購入はしなかったので、内容はわからないのですが、この言葉を見たとたんに、心の中がさっぱりとしました。

「人生とは?」という問いはよく聞きます。それに対していろんな意味づけがあると思います。意味づけなのでどれが正しいというものはありませんが、私には、この言葉がベストの答えです。

ほんとに、人生とはこれだけだと思います。自分を愛すること、それが人生なんだと思います。それも、条件がそろって、目指す自分になったときに、何かを手にしたときに、何かを成したときに、そうして他人が自分を認めたときに、自分を愛せるようになるのではなく、今の自分、一瞬一瞬動き続ける心を持つこの自分を愛せるようになることなんだと思います。それが人生であり、最高の幸せなんじゃないかとも思います。自分を愛する事は、いろんな執着を手放していくことになるからです。

そして、そこへ向かって実は誰もが歩んでいるのだと思います。そのことに気づいていないだけで。あらゆる体験のひとつひとつが自分を愛することへつながっているのだと思う。人がやりたいこと、天が望むことは、このことだけだと思うし、そのために何度も転生しているし、次々とセッティングもするのだとも思います。

自分を愛するには時間がかかります。それは、自分を愛するものは自分の内にすでにあるのに、外にそれを探し、外にそれを求めるからです。そこではなかったんだ、とわかるまでに時間がかかってしまうのです。

そして、自分の内にあるネガティブなものたちのことも。一般的にはそれらは良くないものと言われ、思われているので、そこをどうにかしようとするところにも時間をかけてしまいます。自分が持っているもので闘かうものはひとつもありません。それが自分を赦すということであり、それが自分を愛するということだと思います。こうして、人の持つ最も大きな執着(自分自身への執着)を手放していくのです。

この本に書かれていることはそういうことではないと思いますが、今回、この、素敵な言葉を目にすることができました。本もいつか読んでみたいと思います。

新店舗
2026/02/16

駅ビルにて、長いこと書籍と文具を販売していたお店が先月で閉店となりました。私がそのことを知ったのは閉店2日前でした。必要なものがあってその店に行ったら、閉店のお知らせが貼られていてびっくり。会計の際に顔見知りの男性スタッフの方に「閉店されるんですか…ショック」と声をかけました。

すると、その方は「長い間、来てくださりありがとうございました。本当はもう少し頑張りたかったんですが、できませんでした。」と目に涙を浮かべながら話されました(この状況がすごく弱い私。一緒にうるっとくる)

「こちらこそです。私の両親もずっとお世話になっていました。長い間、ありがとうございました」と応えました。この日は多くの方が訪れたようで、レジは今までにない混み具合でした。皆さんの気持ちの表れだな。

帰る道中、さて、これから書籍と文具は何処で買うか…困ったな、と思いました。茅ヶ崎の個人商店では、欲しいものが無いことが多いのです。特にお気に入りで使ってきたノートはここにしかなかった。

こうして寂しさとともに閉店した数日後。なんと、駅ビル入り口に「書籍と文具の店がオープン」と貼ってあるのを見つけました。それも、茅ヶ崎には今迄ない大手です。ずっとお世話になっていた店舗の閉店にうるっと来ていた私なのに、この、告知に喜ぶ.。

早速、オープンの日、行ってみる。すると、今までの店内のレイアウトをそのまま利用して書籍は配置されていました。従って、どこにどんな本が並んでいるかがわかり、あたかも閉店はなかったかのように慣れ親しんだ「本屋さん」がそこにはありました。おまけに文具は今までよりも増えている。

いやーーーよかったーーーー、と思った薄情な私。まあ、これもありだな、と自分に都合よく理解して、早速、お世話になっています。

1年計画
2026/02/14

今回の岩手クラスで、私が1年計画でやっていることの話になりました。それについて「それを聞いたとき、1年も時間をかけるのか、と思った」というレスポンスがあり、その続きを話ました。

1年計画は今年の5月で終わるのです(とりあえず)。しかし、それは、5月までに計画したことができるようになることを目指しているのではなくて…という話をしたら「そうなんですか?」と反応が…。

そうだね、普通は、これこれができるようになるための1年計画なんだから、1年たったらそれができるようになっていようと思うし、出来るようになる努力を1年するというイメージだと思います。

でも、私は、そうは思っていなんです。できないことが、できるようになるためにやる、ということではなく、まず、継続してみる。私にはそれは1年やってみようなんです。そして、やり続けて自分の内がどんな風に変化したか、または、全く変化しなかったのかを見るというものです。

それにより、1年計画の中にあったもので今後も継続したい、継続するべき、というものはこれからも続けることになります。

又は、1年やって「自分にはこれはいらない」と気づいたり「自分には合わない」「このやり方に偏りすぎなんだ」とわかったりするかもしれません。それは、自分をより知ることになります。これもあくまでも今の私にとってということです。

自分を知る1年計画ということなんだと思います。1年は短いほうで、場合によっては2年、3年とかけることだってあります。何より、この学びはもうすでに30年以上続けているわけだし。これは個人的にはこれからも続けたいし、続けるべきだとも思っています。

で、そこまでかけてくると、できる、できない、できている、できていないという視点をもちながら行うことじゃないんだなと気付く。そもそも、道場で行っていることは、できる、できない、できている、できていないと、判断できるものではないです。長く続けられるものとはそういうものなのかもしれません。そこがないとしたら、何があるのでしょうか。

魂の大欲
2026/02/12

「考えるな、感じろ!」…ブルース・リー先生の端的にして、深い名言。

「考えるな」と言われると「考えるなって?こういうことかな?どういうこと?考えないようにすればいいんだ」と考える。「感じろ」と言われると「感じるってこういうことかな?感じてみよう」と考える…と私たちはやりがちです。

で、昨日の「私」はどうありたいか、も、考えるんです。「どうありたいかなあ?」と。でも、ここも「感じろ」なんです。ここは、思考で導き出せてしまうものなので、そちらへいきがちだし、そこで出たものは「確かに、そうだ」と思えるものなのですが、そこに息づいたものが無い場合には、思考で生み出したのだと思います。

「私」はどうありたいかは魂の大欲です。すぐにそうなれなくとも(なれないからこそ)そこへ向かいたいという魂の叫び、大欲。それは思考とは離れたところにあるものです。で、それを「私」にとっていい感じの言葉にしていく、ここは、どんな言葉がいいのか考えることになります。

で、息づいた魂の大欲を感じられるようになるのに、今、自分の内に起きている、感情・感覚を感じるという最もシンプルなことが必要になります。ここがなくて、魂の大欲を感じよう、は無理です(思考して作れるけれど)やはり土台あってのものなんです。

「考えるな、感じろ!」って、このことにもあてはまります。今、自分の内に起きている感情・感覚を考えずに、感じること。この積み重ねだと思う。いたって簡単なことなんです。だからいつも自分に問う「今、何を感じている?」と。それが魂の大欲につながっていくのだと思います。

極寒
2026/02/11

今年初めての盛岡はとても寒かった。初めて体験した寒さ。風が強く、冷たく、しっかり歩かないと身体が持っていかれそうでした。

ホテルから会場へ向かう道を気をはって歩きました。まずは足元注意。転ばないようにゆっくりと。そして、顔の肌がぴりぴりしないようにと、マスク+マフラーを顔にぐるぐる巻き+ニットキャップで耳をしっかり覆い、目だけしか出ていない状態でかなり怪しかったですが、これでちょうどよかった。

皆がこの寒さの中、集まり、2日間のセミナーを無事に終えることができて本当によかったでした。

で、今回(も)色々と話しをしたのですが、基本の大切さを再度確認しました。

この学びでまずやったことは「今、何を感じましたか?」「今、どんな気持ち?」と、自分の感情を感じる、感覚を感じることでした。最初の頃は、感情を聞いても、思考していることが感情だと思っていたり、感情がよくわからない、という事もあったと思います。しかし、それを何度も繰り返していくうちに、自分の内に今湧いてきている感情を感じることが少しずつできるようになっていったと思います。

そして、それができて、初めてそれを生み出しているパターンは何なのか?と次へ進む。そして、語りかけに進みました。

この、今湧いている感情・感覚から必ず自分の内へはいるということです(この形が綺麗でしょう?)感情・感覚という、人であればだれもが持っているものから入り、進んでいく、この在り方は自然だし、無理がないし、何ものも置き去りにしていないです。

しかし、語りかけに慣れることや、白黒ワークに慣れることや、「私」はどうありたいか、というように先へ進んでいくうちにこの最初の最も大事な部分が抜け落ちてしまい、すぐにパターンをみつけ、語りかけをし、白パターンに移行し、「私」はどうありたいか、に移してしまうことをやってしまいがちです。

「私」はどうありたいかはとても大事なところではありますが、土台あってのこれです。そして思考で、できてしまうところなので、そちらのほうが早いし、慣れています。しかし、この「私」はどうありたいか、も、思考で導き出すものではないのです。ある感覚を伴って息づいているはずです。

基礎の部分を丁寧に扱う。この流れを崩さない。ここはとても大事なところ。だから「今、何を感じている?」「今、どんな気持ちでいる?」と自分に問うことを継続してください。

自分に戻る
2026/02/05

いつも食材を買う近所のスーパーに行ったら、店内には、近隣の小学校の1年生、2年生、3年生の子どもたちの絵が飾ってありました。

各通路の上部にびっしりとです。必要な食材を買い物かごの中に入れ、レジに行く前に、その絵を見て店内を歩きました。

1年生、2年生、3年生ってとても子供のイメージがあるのですが、力作が並んでいました。きっと一生懸命に描いたのだろうと思わせるものばかりでした。

自分の描きたいものを素直に描いている、自分の思いや、自分の大切なもの、自分の夢、あこがれ、未来、自分が感動したもの、そして、悲しかった出来事も。その悲しみも昇華されて。それらがひとりひとりの物語として描かれていて、ひとりひとりと対話しているようでした。こんなふうに子供の絵を見たことはありませんでした。

上手く描こう、先生に褒められるように描こう、という、大人になるにつれて持ってしまうものがまだない年代なのでしょうか。余計なものがなく、そうだからか、あちらからまっすぐにやって来てくれるように思えました。

結局、全てを見て回り、やっとレジへ。そして、レジの女性と飾られている絵について話もして、ちょっとした美術館での鑑賞のひとときでした。

横尾忠則さんが、これからの自分の課題は、子供になることだと話されていたことを思い出しました。子供の描く絵のような絵を残りの人生でどれだけ描けるか、そこへの挑戦と。ちょっとそれが分った気がしました。

子供たちの絵が私に教えてくれたこと、それは自分に戻るということでした。私の心の奥にひっそりとあったそれが、子供たちの絵を通して、浮かび上がってきたようでした。この数年、ずっと思っていたことはそれだった気がします。そうか、そうしたかったんだね‥自分に戻る。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。キーンとした寒さを味わってきます。今年初めての岩手クラスです。今年1年は新な領域へ少しずつ入っていかれるように、善きナビでいられるように、と思います。

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