ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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川、帯に乗る
2025/10/15

10月の盛岡クラスも無事に終了いたしました。今回は茅ヶ崎クラスからもお一人ご参加いただき、皆で善い時間を創ることができたと思います。

で、帰りの新幹線の中で、人が肉体を持ってこの世界で生きるときに、いい塩梅で生きることができるようにと、宗教も哲学も作られていると思いました。

それらは、この宇宙にある「川」「帯」へ私たちを誘っているからです(川とか帯とか言っていますが、この宇宙の中で生きる全ての命をよりよく生かすためのエネルギーシステムと言えばいいのか)それに乗る、そこに入る、そこと調和するなど、言葉は色々ですが、それによって人はいい塩梅で生きることができる…というものです。

仏陀やイエスの言葉。古代ローマの哲学者たち、宗教家。マスターたち。芸術家たち、それぞれの言葉。それは言葉は違えど、またはアプローチの仕方は違えど、この宇宙のルールである(川、帯)に乗ることを勧め、そこが本来私たちが生きる場所なんだよ、と思い出させ、そうなるために必要なことを語っています。

「そのためにはこのように生きよ」とそれぞれの立場で、人の元々の生き方を伝えようとしてくれています。「宇宙には、そうやって、人を生かそうとするシステムがそもそもあるんだよ。だからその流れに乗ればいいんだよ。後はこちらに任せて」と言うことなんだろうと思いました(聖書にある父に養っていただくというのは、この、後はこちらに任せてということ)。

そのためには…黒パターンで生きないということです。その川、帯と同じような波動で生きるということです。黒パターンの持つ波動はその川、帯とは反対にあるものです。ですから、黒パターンで生きれば生きるほどその川、帯からは自ら離れていくことになります。そして離れてしまうほどに人は苦しくなるのです。

きっと誰もがその流れに乗っていきたい、と思うと思いますが、そういう思い(思考)だけではそこには乗れず。自分という意識の変容が必要になります。変容のためには自分の内側を見ていかなくてはいけないのです。それを継続していくことが必要になります。そのためには、修行のようにしないことです。又は、早くそこに乗りたいから自分を見ようとしないことです。自分を見るということは、今の苦しさから逃れるためではなく、未来のためでもなく、ひたすら今、だけです。今、自分は何を感じているのか、どんな感情が湧いているのか、そこを見ていきます。それだけ。ものすごくシンプル。

外側が変わっても…
2025/10/09

今朝は台風の影響か、涼しく感じますが。きのうまでの茅ヶ崎は暑かった。

日中の部屋の温度が29度。外に出れば、風が吹いてはいるけれど、陽射しは強いです。街を歩く人々も半袖が多いし、若い人はタンクトップに短パン姿の人もいます。

本当に、季節がのびのびになっているというのか、あいまいになっているというのか、四季のある日本だったけど、これからはニ季だね、となりかねないような、昨今。こんなふうに自分の外側はいろんな物事が変わっていきます。

物事の変化により影響を受けることがこれから増えていくのだと思います。そんな中にありながら、自分が決して手放すことのない、自分にとっての大切なもの、それを忘れずに、その在り方を大事にしていこう。それがあれば、揺さぶられても、そこに戻ることができます。揺れても、ブレても、人間戻るところを持っているのは強いです。

そして、人間、最後に残るのは「魂」これのみ。そしてそれが本当の自分。これはあちらの世界へ行ってからも生き続けます(と私は信じています)その「魂」には今世どんな体験をして、どんなことをそこから学んだかが記録され、また次へとつなげていきます。

その魂の核となる部分にあるのは「私」はどう在りたいか、です。その思いを体現するために肉体を持って生きるということをここでやっている。「魂」である「私」が目指している最終的などうありたいか、は、「神との合一」。神の子である「私」は神とひとつになりたいんです。そんな壮大な意志を持ち、そのために何度も転生しているそれぞれの「私」です(だから皆チャレンジャー)

そのことも思い出しながら「私」はどうありたいのか。肉体を持っているのでそこを具体的に考えて行動していきます。行動せずに精神論だけではここは突破できないです。それが肉体があるがゆえのわずらわしさであり、ありがたさであり、おもしろさです。

さて、今日から盛岡へGO!台風も大丈夫そうでよかったです。皆で集まり、善いクラスになりますように…。

ピアノが来て丸3年
2025/10/08

ピアノが来て丸3年がたちました。当時、弾いてみたい曲があって、やや、衝動的に購入した電子ピアノでした。もしかしたら、その曲が弾けるようになればそれで満足してしまって、弾かなくなってしまうかも…もありましたが、今も、それなりに続いています。

と言っても、気付いたら1週間ピアノに触らなかったということもあります。それでもぼちぼちとやれるのがありがたいです。

そして、3年やってくると以前より成長をしているのがわかります。指の機能は落ちていますが、若い頃よりも、音楽への気持ちが育っています。

10代の頃はとにかく先生が怖くて、間違えないようにとがむしゃらに弾いていたピアノでしたが、今は、少し頭を使い自分としては効率よく弾くことも覚え、これはまさに大人のピアノです。ピアノって大人になってからでも十分できるし、大人になってからのほうがやりやすい面もあると思いました。

私は、それぞれの曲の中にここが特に弾きたいところ、というのがあり、それは私の感性が求めている部分です。だからその部分を弾くと心身がキュッとなります。言葉にするとそれは「美しさ」とか「エネルギーが凝縮されている部分」なんですが、なんかその言葉では言い表せないのです。

で「これがあれば私は生きていかれる」という言葉が最もそのキュッとなる感覚を言い表しているのかも。

又、ピアノでのその体験のおかげだと思いますが、本を読むときも、絵を見るときも、色を見るときも、踊りや、建物や、風景や、日々の生活の中で見聞きするもの、はたまた、クラスやカウンセリングの場においても、それは知らぬ間に使われていて、そこにあるものが、瞬時に自分に入ってくることも知りました。こうして感性が全体に上がってくることは予想外のことでした。

そして、気付いたことはその人の作品に触れるのは、それを作った人に触れているということです。会ったこともないその人。でも、その人が生み出したもの。それをとおしてその人とその瞬間、触れていると思うと感動です。この本の著者、この作品の作者、と接している、触れている、ということで、それが昔の人であればあるほど感動です。そういう事も教えてくれたピアノです。

で、今はベートーベン。「はあーー、なに、この、和音」と心身がキュッとなりながら練習するその時間は私の至福のときとなっています。

虫との戦い
2025/10/07

今年、我が家は「ダニ」の大量発生で大変でした。どういうわけか「虫」にすぐ刺される私なので、ダニの餌食にもなりやすいんだと思います。

私は1か月ちょっとの間に30か所くらい刺されて、本気で、ダ二対策をしました。毎日、パジャマ、シーツ、枕カバー、ベッドパッドをできるだけ洗う。換気をよくして、湿度の調整を行う。ダニパットを入れる。布団クリーナーで掃除をする。

かいあって少しずつ刺されなくなっていきました。ダニに刺されるととにかく痒みが長く続くのでこれもストレスになります。

で、トミーは…やはり刺されていましたが私ほどではなく、よかったと話していたところ。ある日の夜、なんか首から後頭部が痒いと言い出して、見てみると、ぶつぶつと出ています。それは背中や腕のほうまで広がっていて見るからに痒そう。何より不気味。これは病院に行ったほうがいいよということで次の日に行きました。

病院から帰ってきて「毛虫だって‥‥」と言う。どうも「茶毒蛾」という毛虫らしい。で、思いつくのは毎日行っている公園です。「茶毒蛾の被害が出ています」と公園内に看板があったということでした。(約0.1mmほどの毒針毛をもち、接触や飛散で皮膚や粘膜に付着すると、炎症をおこして痒くなる。Wikipedia)これからは、春から夏にかけて(もしかしたら秋も)猛暑が続くと思うので、樹々が生い茂っているところにはむやみに近づかないほうがいいのかもしれません。すごい状態になるので皆さまもどうぞ気を付けて。

虫との戦いの今年の夏。この戦いは身体を守るために仕方ないものの、疲れました。

ただ、今、ここに、あるだけ
2025/10/06

ついこの間、気付いたことがあり。

それは、私はこの頃、持ち続けるということがなくなった、ということです。若い頃は、自分が失敗したことや、人に迷惑をかけてしまったことや、嫌なことを長い間持ち続けていたと思います。10代、20代、30代、40代は特にそれが強かった気がします。そのころは頭痛持ちで、特にそういうことがあると必ず頭が痛くなっていました(痛み止めの薬をよく飲んでいました)

これは、うまくいったこととか、褒められたこととか、認められたことについても同じで、当時はそれが自分の自信になると思っていたし、その時のことはずっと自分を支え、他人を納得させるために持ち続けていた気がします。これをやってきた、あれは私がやった、感謝された、自力で頑張った、自分でやってきた…と…私、自負しております…というようなものです。

ところが、この頃は、そういうものがないという事に気が付いたのです。今でももちろん、あれはまずかった、と思い、反省し、謝ることはあるし、自分が行動したことでよかったと思うこと、感謝されることもあります。しかし、どちらも、その時にそれを感じて終わる、というものに変わっていることに気が付きました。一体いつからかはわかりません。一気にそうなったのではなく少しずつ気づかないうちにそうなっていたのだろうと思います。

そこで終わるというのはその日で終わっていて、それをこれからの自分を律していくために、支えていくために、使わなくても大丈夫という感じです。もちろん、かなりハードなことであれば数日、それが心を支配しますが、若い頃とはあきらかに違うことがわかります。

自分が日々体験する、ネガティブな体験もポジティブな体験も、抵抗したり、過剰に握りしめたりしなければ、もともとは自然と流れていくもので、両方とも持ち続けなくてもいいものなのだと思いました。一般的には、良き体験は、それを自信として、そういう成功体験を増やしていこう、と考えがちですが、これもまた持ち続けることで執着になります。そして、こっちのほうが厄介。良き体験こそしがみつきます。

毎日同じ日ではないように、人も毎日同じではなく、朝が来たときに新しい自分として1日を過ごしていくのが自然なのだと思います。そして、そのためには身軽なほうがいいです。だから過去のあらゆる良き体験も、良くない体験も、そこに置いていけばいいんだと思いました。

「ただ、今、ここに、あるだけ」という昔使っていたフレーズを久しぶりに思い出しました。今だけだと軽い。

自分は正直にパターンを見ているか
2025/10/04

道場でやっていることはとにかくシンプルなこと。

感情・感覚を感じたら、それを生み出しているパターンをみつける。みつけたら「私」が語りかけをする。これが基本です。その後に白黒ワークや意味づけワークがありますが、基本は先ほどのものです。

この基本はすごくシンプルなものなんです。ただ、どうしてもそこにパターンの思考が入り込んで複雑に難しくしていってしまいます。そうなると、重くなるし、なんだかうつうつとしてきます。

で、この本来のシンプルなワークをやれない原因に、正直に自分を見ていないということがあります。正直さとはあるものをありのままにただ観て知るという、まさに「如実知見」の状態です。この状態で自分を見られるようになってほしいです。それにより、シンプルなワークに(だけではなくシンプルな生き方にも)つながります。

感情は、以前からみたら、かなり感じられるようになっていると思います。そのパターンは?というときに、オブラートにかかったような(もっとストレートなものがあるのに)パターンをみつけようとしていないだろうかということです。だとすると(「私」はありのままでOKなので)そこにも何かのパターンが働いているのだと思う。こんな自分ではないはず、とか、自分はそこまで落ちてないとか、そのパターンを認めたくない、とか。そういう類のパターンが動けば、オブラートにかけたようなパターンを出してきます。そこに語りかけをしていても実はしょうがなく。違う所に語っているので。本当のパターンはより、もやもやしていきます。

語りかけはカラっと、というのはこういう事を含んでいます。いいじゃないですか、どんなパターンだって。それより、何故それを大事にしないのか。愛の人になりたいと思っているのでは?自分の内に天国をつくりたいと思っているのでは?そうして天の流れに乗りたいと思っているのでは?だったら、自分の内に差別を作ってはいけません。全てあるがままに。そのひとつひとつが生きているのだから…というカラっとした気持ち。ここはとってもとっても大事なところです。

如実知見は他人に対してではないです。これも、まずは自分にです。こうして、カラっとした、太陽の光いっぱいの、オーソレ・ミオの心を作っていってください。「私」は太陽ですから。

自分は正直にパターンを見ているか?ここをいつも問うといいと思います。オブラートで見るクセがついてしまうと、分からない、気付けないという事も起きますが、これも練習です。それにより正直に見るという感覚は戻ってきます(そもそもは誰でも持っているものなので)ここも焦らずに自分を見てあげてください。

前例がないというもの
2025/10/03

新なものとは、自分の今までの過去には、前例がないというもの。これは、新たな道を歩んでいくために、避けられないものです。

人は前例での(今までの)体験、そこでの結果などを頭の中に記憶として留め、それらをもとにして、これからのことのあらゆることを考え決めていきます。このやり方が使える所は確かにありますが、新な世界に分け入っていくときには、前例(今まで)というものがかえって邪魔になります。

前はこうした、前ではこれがあたりまえだった、前のやり方でうまくいっていた、前のやり方には自信がある、前に私はやってきた自負がある。それが普通になっていますが、それはそれを使える領域での話です。それは過去なのだ、という事に気づいていますか。

そして、そこしか知らないから多くの人たちはそこで少しでも上にいくための、又は、今いるところから落ちてしまわないための闘いをしているのだろうと思います。そこでは、自分がどうありたいかではなく、他人から幸せに見える、成功しているように見えることが意味のあることです。

で、多くの人はそこで一生を終えます。でも、いつも言うとおり、それが間違っているわけではなく、そこはひとりひとりの意思によるので何を選んでもいいのです。

で、前例がないものというのは、前例で使ってきたもの、それは損か得か、危険か安全か、合理的か、正しいか、他人から認められるか、稼げているか、などなどではないものということです。それが新に獲得していくものとなります。でも、以前のものは捨てるということではありません。それとも一緒に生きていきます。ミームの上昇が全てを含んでいくように。人が捨てるべきものはないんです。

でも、持っていくということと、今まで通りに前例にのっとって物事を決めていくと言うのとでは違います。ここで昨日書いたように心の望む所へ、望むやり方で…が新しいものとなります。

最初はよくわからなくて戸惑うと思います。でも、少しずつ練習です。すると、そこに流れているものを感じられていくと思います。それ自体が今まで知らなかった自分の新しいもの。それを体験したことだけでもすごく嬉しいと思います。成長って、嬉しさが伴うものなんです。

自分の次を生きたい
2025/10/02

死後の世界はあるのか。これは、わからないです。その世界があるということは人は死から先の世界でも生き続けるということなので、死はないということですが、これも、わからないです。

ただ、私は、死後の世界があるというほうが(ずっと生き続けるというほうが)今世の自分がより自分らしく生きられるように思います。死をむかえたら、そこで全て終わり、ということであると、現在のような生き方はしていないと思います。

その様に、根拠がないのに、リスクもあるかもしれないのに、その考え方に、在り方に惹かれるという時が人にはあります。その際に起きていることは、よく考えて、その根拠も探して、そうして納得し、だからそれは信じられると結論を出すというものとは全く違い「何か、そうなのだろう」「そうであったらいいだろうなあ」と感じられるもののような気がします。

考えてもわからないけれど、そうであることが自分にはしっくりくる、あっている、これかも…というような。又は、有無を言わさずに、納得させられてしまうというようなことが起きることもあります。このような、はっきりとはしないものごとなのに、でも、それを感じるのが人だと思います。

で、この出来事が実はとても大事なんじゃないかとこの頃思います。自分のことを振り返ってみたときに、大きな分岐点になったものは全部これだったと、今だから気づく。しっかりと考えて選んだのではなく、なんか、そうかもというものごとで選んでいました。というか、選ばされてきたというか、そっちへ流れたというか。

そこには、今までだったら選ばない選択肢がありました。最も大きいそれは、自分の過去において前例がないというもの。体験がないんです。それゆえ、損得で考えたら、明らかに損なのはわかる。だから躊躇しつつも、でも、そんな損が嫌ではない、損する自分でもいられる気がする、というような気持ちが優先していたのだと思う。頭は納得していないのに、心の奥底では、そうしてみたいというものがあって、そちらを選んだ…ということの繰り返しできていたなあと思います。

根拠がない、リスクがあるかも、損するかも、それでも選びたいというのは「私」にはそれらはどうでもいいものなので、もう、そういう選択からは離れて自分の次を生きたいと思ったのかも。大事なことこそ、心が望むことを選んでください。でも、そうしなくちゃではないのでそこは注意です。心が望むものを選ぶ、そこに従う、そうしていくほうが結果よきものへ向かいます。

それが一番難しい
2025/10/01

昨日書いた人間関係=自他関係。

自他関係とは、自分と他人の2つの関係。その最初に来る自分との関係を築くこと、実はそれが一番難しいと言われています。「自分との関係が築けたら、次に他人との関係が築けます。そしてそれが築けるようになっていったら、自然界との関係。そしてそれが築けるようになっていたら、霊界との関係なんです」と昔教えていただきました。そして、その通りだと思うし、それが安全な人の成長の進み方です。だから、自分との関係が危ういときに霊界にアクセスすることは怖いです。これも、今の自分が苦しいから、一気にそこにいってしまえれば楽になれると思うのだと思いますが…。

人はずっとずっと昔から、現代の私たち同様に、心にモヤモヤを抱えながら生きてきたのだと思います。そこを超えて、やすらぎを心に持ちたいという思いから、宗教も、哲学も、科学も、医療も、生活全般が発展していったのだと思います。

それらを自分で上手に使えるようになることと共に、最も必要なことは自分との関係をよくしていくことだと思います。ダメな人は誰もいないのに、自分で自分をそのように決めてしまい、自分で自分を苦しめています。パターンが…。

だから、天の子どもである「私」が心の奥底に入っていこう。そこにいるどんなパターンも、パターンが生み出すどんな感情も、スルーせずに、そこに目を向け、そこに風を通し、光をあてていってあげよう。パターンも感情も、そうされることで落ち着いていくのです。その積み重ねで心は整い、そこに少しずつやすらぎが生まれてきます。

又、スルーしないというのは「見張る」ということではありません。彼らをそのままにしておいてあげれば、必要なときに、パターンにひっかかり感情がわきます。それをスルーしないということです。この絶妙なタイミングで私たちひとりひとりは生かされているんです。人智を超えた大きな存在がその人を生かそうとしてくれています。だから、安心して、焦らずに、自分に向き合っていってください。その大きな存在のことも、少しずつ、気付いたり、理解できたりしていくはずです。あちらは常にラブコールを送ってくれていますから。

良い人間関係
2025/09/30

自分が体験したことしか、他人にはシェアできない…これはきっとあらゆることがそうだと思います。このことを違う言い方をするとしたら、人は自分にしていることしか他人にできない、です。

自分のことが好きでなければ他人を好きになることはできない。自分を赦していなければ他人を赦すことはできない。自分を待ってあげられなければ他人を待つことはできない。自分が自分の力で自分を楽にしていくことができなければ他人が楽に向かうことをサポートできない。

こう次々と書かれると、そこまででもないだろうと思われるかもしれません。確かにそこまで自分の変容がなくても他人にそういうことだってできると思うし、実際行っている人もたくさんいます。それが普通かも。実際、自己変容の体験をせずにカウンセラーに成ることがほとんどです。ここは人間の頭脳でできる。しかし、この頭脳のところだけで人と関わると(それが長く続くと)いずれ頭打ちになってしまうような苦しさを感じることになります。どうしたらいいのかわからなくなる(ここがすでに違うと思う)

自分自身の変容がないのに、他人を赦し、好きになり、待って、その人が楽になるようにサポートしようとしてもどうしていいのかわからなくなる。自分で体験していないから。それが自分を苦しめてしまいます。ここで、苦しむということはセンサーがちゃんと動いていることなのでいいことだと思いますが。

これはカウンセラーとしては必須(これは決して100%そうなっていないとカウンセラーにはなれないということではありません。そこに向かう努力をし続けることを自分が望んでいるかというところです)ですが、そうではなくても、人と関わるときには多かれ少なかれあることだと思います。

生きるということは他人と関わるということだからです。で、そういう意味でも良い人間関係が必要になるのですが、良い人間関係とは、自他関係と言われます。まず、自分自身との関係を良くする。それが自分の体験を通しての自分の変容です。そして、他人との関係にそれが自然と広がっていく。その通りだと思います。そのような人間関係であれば、自分が苦しむようなことにはならないと思う。そうであれば純粋に他人に向かうことができます。

だから、まず、自分。他人のためにそうなろう、ではなく、まず、自分なんです。自分を慈しみ、育てていく。誰の魂もまずこれをやりたくて来ていると思います。

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