ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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不甲斐ない
2025/02/13

今日はとても良いお天気となりました。昨日は夜遅くまで強風で荒れていたのですが、今朝は海も静かです。

今日から今年初の岩手クラス開催のため、盛岡へ行く予定にしていました‥が‥体調不良のため、遠方へ行く自信がなく、キャンセルさせていただくことになりました。

岩手クラスの皆様、ご迷惑をかけてしまい申し訳ありません。

体調不良を詳しく書くと長文になりそうなので省きますが、ちょっとずつ知らないうちに体調不良が積もっていったんだろうと思います。まあ、こういうときもあると受け入れつつ、見直しや、もっと自分を大切にすることを考えてみようと思っています。

こうして体調不良を体験すると、普通に生活ができるということがとてもありがたいことであることを知ります。2025年は、私にとっては不甲斐ないはじまりとなりましたが、これも次へ向かうことになるのだろうと…幽かに思います。

・・・・ということで、日記があいてしまうかもしれませんがどうぞよろしくお願いいたします。

2月の個人カウンセリングは予定通りに行いますのでどうぞいらしてください。

辛いときは
2025/02/12

人生色々なことが起きます。

本当に困ってしまうことや、理不尽なこと、思いもかけないこと、もう、嫌だ、無理だ、と思うこと、などなど。これは誰にとっても平等(‥と私は思っている)に起きます。

私は神様を信じているから、私は正しく生きているから、自分は守られて、自分にはそういうことは起こらないということはないです。なんで?なんでそういうことが起きるのか?…そういうふうに人ってできているし(そこに意味があり)それが人の人生であるからだと思います。

そしてその最中にいるときにはストレスマックス、心身を壊したり、先が見えない不安や怒りや悲しみが起こります。その最中はそれが自然だし、誰でもそうなります。その最中にも一切心身が乱れることなく、平静にいられるのはマスタークラスの人しかいないでしょう。だから、こんなに学んでいるのに自分はそうなれないなんて思わなくていいんです。普通は皆そうです(私も)。

しかし、この最中が和らいだり、少しだけ何かが変わったりしていくことで(必ず動くので)見えてくるものは、実は全部善きほうへ動いていたのか…ということです。

こんなつらいことが起きた、でも、それがあったから、新しい何かを得ることができたり、今までは知らなったことを知ったり、そして、何より今までの自分の考え方とか、在り方とかを見直すことにもつながっていたり。

こうしてみると、色々なことが起こるって「見直せ」ということなのかもしれません。しかし、それは罰ではなく、これからより善く生きられるように、それは、天とともにスムーズに生きられるように、そもそもの天の子としての人間の生き方っていうものがあるんだよ、ということを教えてくれているのだと思います。

ですから、辛い時にも頑張ろうではなく、辛い時は必ず動く、それは善きほうへ動いていくから…と、静観しつつ考えてみるといいかもしれません。そして、何を変えていくべきなのか、何を取り入れていくべきなのか、を考えてみる。こうして自分を創造していくことをしているんだろう…と思います。

神々しささえ…
2025/02/10

以前、何かの記事で読んだ方のこと。それは女性の方(40代)で、病気になられて歩くこともできないほど弱ってしまったご自分のことについてのものでした。

病気になる前のその方はとても丈夫で、健康で、スポーツが好きで、社交的で、快活に毎日をおくっていらしたのだそうです。疲れる、とか、しんどい、とかというものとは無縁であり、それがご自分にとっての普通だったのです。

しかし、40代に病気に罹り、体力が落ち、筋力も落ち、気力も落ち、気持ちも沈み、苦しみ、しばらくは外に出たくなくて、家の中で過ごしていたのだそうです。そうしながらも時間をかけながら少しずつ心身が落ち着いていくにつれて、外に出て歩いてみたいという気持ちがわいてきて、家の近所にある小さな階段を登ってみようと思ったのだそうです。

一段、また一段と手すりにつかまりながら登ったそうです。昔であれば駆け上がっていたその階段が、今は一段一段が自分にとってはとても大きな一段です、と話していらした。自分の横を歩く人達はどんどん自分を追い越して上がっていく。それでも、今、自分にできるこの一段を登ることはとても嬉しく、やりがいのあるものになっていますと‥‥。

これを読み、人間って尊いと思いました。今おかれているところで、自分が生きていくために、自分が自分にしてあげられることを見出す能力が人間には備わっているのだと思うのです。そういう状態になるまでの苦悶の時間もまた人間には与えられますが、この方はそれもそのまま受け入れた(諦めたのか、もう、昔の様にという期待を持たなくなったのか)のだと思います。

その苦悶の時間も永遠に続くことはなく、どこかで次へ動いていくために変化します。それに抵抗せず、時間をかけてそこにいたことが、階段を登ってみようという気持ちになったのではないだろうか、と思います。

多くの人は(私もです)早くよくなるようにしがちですが、もしかしたら、与えられている苦悶の時間は、人の能力を呼び覚ましてくれるものにもなるのかもしれません。以前と同じように階段を駆け上がることはできないけれど、今の自分に合ったものを自分に与えてあげているという姿は神々しささえ感じます。こうして自分を支え、自分を生かしていかれる人でありたいと思います。

自分自身への自負
2025/02/09

「自負とは、自分の能力や功績を人に誇れるくらいには立派であると信じることである。言い換えると、「自分はこのくらい凄いと自分で言ってしまえるだけの自信がある」ということである。主に「自負する」「自負がある」「自負心」といった言い方で用いられる。」(Weblio辞書より)

で、自負を持つことが大事といわれ、これが自分の自信にもつながるのだと思います。しかし、どうなのだろうか。

例えば自分は頭がいい。勉強ができる、クラスでもずっと1番だったと言う人が大学に入ったら、自分の周りは自分よりも頭のいい、勉強のよくできる人だらけだった、というのはよく聞きます。ということは、自分は頭がいい、自分は勉強ができるという自負はがらがらと崩れていく。又は、自分はこれだけの成功をした(これだけのことを今やっている)という自負を持つ人も、自分以上に成功をした人や活躍中の人が沢山いることを知って自信をなくすということもあるのかもしれません。

こうして他人との比較における自負においては自分よりも負けている人の前では使えるけれど、自分よりも勝っている人の前では使えずというものになります。これも自負の一つの意味づけで、これはこれでありです。

で、自負の新しい意味づけとして、自分の内側で自らが起こしたことへの自負というのはどうでしょうか。

例えば、なかなか行動に移せない自分があるとき勇気を持って行動する。それは他人から見たら小さな行動ではあるけれど、自分としては初めての勇気ある行動だった。それを行った自分自身への自負。誇り、自分はやった。できた。完璧ではなかったけれど、とにかく行動した…と言う体験を自分の自負にする。それは他人に話さなくていいと感じると思います。他人からの理解とか承認とかというところとは違うところにあるものだから。そして、それは自分の中でじんわりとした喜びとして感じられると思います。

こんなふうにして自分自身への自負を高めていかれるといいのでは?成長とか、意味づけを更新していくとかって、自分の内で起きていることでもあります。いや、そちらが先だと思います。これについても自分はそれが誰よりできている、と、他人が出るようであれば、それは、冒頭に出て来た自負と同じということになります。

理解し合う
2025/02/06

自分は正しいとほとんどの人は思っていると思います。

自分の考え、判断、言動、それらは正しいと。だからそれを受け入れない人や、それに反対する人がいると、腹が立ったり、相手を嫌いになったりします。

そこには、正しいということよりも自分をちゃんと理解してくれないことへの怒りがあるのだと思います。正しいから、というよりも、理解してくれないから、わかってくれないから、腹が立つ。

ということは、他人は(もしくは特定のあの人は)理解してくれるものだ、理解してもらって当然と思っているのかもしれません。そして、理解してくれる人がいないと自分は存在できないと思っているのかもしれません。

しかし、自分と全く同じように、自分が望むように自分を理解して、わかってくれる人っていません。家族であっても、親友であっても。自分も誰かにそうできないと思うんです。

理解し合うってなんだろう。相手が望むように理解することはできなくても、まず、大前提として相手も自分も人間である、という共通のものであるということです。ここが大きな理解となると思うんです。

人間だから、同じように、苦しみを味わったり、悩みをもったり、怖さや不安をもったり、怒ることも、悲しむことも、逃げることも、怯えることも、楽しいと思うことも、うれしさも、喜びも、人間だから自分と同じようにその人の心の中にはあって、それを感じて生きている人なんだ、ということ、それが大きな理解だと思います。

そこに自分がいられればいいと思います。そうだね、そういう気持ちにもなるかもしれない…、そんなふうに考えるかもしれない…、と相手を理解する。それで十分なんじゃないかと思います。

共感っていうのもそういうことです。「そうですか…苦しいんですか」という言葉のことではなく、自分もその人も人間。そうであるから感じ入ることのできるその人の苦しさ。それを感じている自分が心を開いて、その人の前にいること、それが、共感なんだと思います。

頭と心
2025/02/05

「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・・・・・・・・・・・・・・」

これをマントラとして、できるだけたくさん言っていくことをお勧めしています。歩きながら、食事の用意をしながら、一息ついたときに、お風呂の中で、時にはこのための時間を作ってあげて椅子に座って、空を見上げて。この単純な作業が脳を更新させていきます。

そして、今まで通りに白黒ワークも行ってください。マントラの様に手軽にできるものではないですが、時々はゆっくりと落ち着いてワークをします。

その時の白の部屋の最初の言葉はマントラで言っている言葉です。「もしかしたら…」。そして、そのあとに続く言葉は自分が今までに獲得した自分でも認識できるものを言います。それも優しく。たくさん言う必要はありません。

で、そこで感じる感覚と、マントラを言っているときの感覚とが違うのがわかるといいです。マントラは頭に対して行われている感じがあります。又、ワークの方は心の奥深くで感じ入る感覚があります。言葉をキャッチするところが違うということです。

この2つをやり続けるということになります。特にワークはとても大事なのでこちらは丁寧に行います。この2つを今の自分にはどのくらいの割合でやったらいいのかも自分で感じて決めてください。

頭と心が一致していくといいです。

カルマ
2025/02/04

先日お会いした方との話で、私って、今までにいろんな人から外見について普通に言われてきた…という話になりました…(笑)…結構言われているよね…とあらためて思い返しました。

どういうわけだか言われてしまう、私。肌が汚い、足が短い、背が低い、髪がきれいじゃない、体型がおかしい、歩き方が変、もっときれいな服を着ていたときの写真が見たい、などなどなど、高校生の頃から大人になっても言われていたなあ、と。

なんで?何でこんなに言われてきたんだろう、と思ったときに、私はきっと前世で他人の外見的なことを言っていたんじゃないだろうかと思いました。「可愛くないよねえ」とか「着てる服がださい」とか「スタイル悪い」とか(その当時にはそれなりに満足する外見の自分だったのかも)そのカルマの解消のための今世のこれなのかもしれないと思いました。

で、私に対してではなくて、他人の外見を普通にバカにしたり、見下したりして言う人を見るたびに、なんてひどい人なんだと思いますが、私も過去世でそうだったんじゃないかと思いました。

カルマの解消、って、与えられるものではなくて、自ら行うものらしい(私、やります…と)そうやって少しでも早く本来の自分として在りたいのだろう、と思います。もちろん、今の自分は他人の外見的なことを相手に言ったり、思ったりはしませんが、自分でも気付いていない(忘れている)カルマは当然あるのだろう。それを解消していきたがっている「私」。

セッティングって、大きな目で見ると、カルマの解消につながるものなのかもしれません。過去世の自分が作ったカルマを今の自分が解消していく。この流れを考えると、魂の長い旅路を思います。

できるだけ今世で、解消できるカルマは解消して、次の人へバトンタッチする。

自分のイメージ
2025/02/01

全てほどほどに。全てほどほどには心のやすらぎがあるから。

全て。仕事内容、仕事量、働き方、お金、お金の管理や使い方、健康、自分の持ち物、趣味、遊び、買い物、食事、時間の使い方、他人とのかかわり方、そして凄く大事な自分へのイメージ。

この自分へのイメージというのはきっと誰もが持っていると思います。自分ってこんなイメージと。しかし他人から見たら、全然そうではない、ということはよくあることだし、自分のイメージではない自分をあるとき見てしまい、ショックを受けるということもあります。「えーーー、私ってこんなだったの」と。

ハリーポッターの映画の中にこのシーンがあったのを思い出しました。ハリーとロンとハーマイオニーの3人組がいつも出てきますが、その中の女の子のハーマイオニーが自分の後ろ姿を見るというシーンがありました。そのときに言うんです「え?私ってあんなだったの?」と。それはイメージしている自分ってあんなんじゃない、ということ‥‥というように自分のイメージではない自分を知ってしまったときのショックってあると思います。

それは外見についても内面についても。で、ここについてはほどほどに、ということがなかなかできないということもあると思います。自分のことなので、もう少しこうなれるはずだ、自分ならできる、それに沿った自分を作ろう、と自分を追い詰めていきやすいところ。

でも、こここそ、ほどほどになんだと思います。それは自分の可能性を諦めるということではなく、自分がイメージしている自分になろうとしないということです。より自分と言う人間を客観的に見るということなんだと思う。そして、もしかしたら、ここが先にできてしまうと他の物事もほどほどにすることができるのかもしれないと思いました。

まずは自分から、ということでしょうか。自分のほどほどを作っていくということ。

一つの通過点
2025/01/31

・・・・・昨日、日記に書いたこととは反対のような今日の日記・・・・・時には自分を貫くことも大事です。

相手に自分を表明すること、自分の意見を言うこと、もっと分かり合いたいからと話しをすること(もっと自分をわかってもらいたいからではない)、自分の希望することを伝えることなどなども、時には必要ということです。

昨日書いた内容も必要。そして今日のこれも必要。あとは自分でその時その時で選択していくしかありません。

で、貫いた結果、相手とぎくしゃくすることもあるし、貫いたからこそ相手と良い関係が築けたということもあります。この結果は相手あってのものなのでどちらになるかはわかりませんし、良い結果だったのに、時間が経つにつれて、そこから又問題が出てくるということもあります。でも、それは貫いたからいけなかった、ということではありません。

結局すべて「塞翁が馬」。これが教えてくれていることは、一つの出来事に一喜一憂しないということだと思います。なぜならば、それは結果ではない(ずっとそれが続くのではない)結果ではなく、ひとつの通過点。一つの駅みたいなもの。なぜならば「私」が向かっている駅はもっと先にあるものだから。

しかし、一つ一つの駅に全てをかけてしまう、とか、それが結果だと決めてしまうことに、そうじゃないよ、と教えてくれる流れなんだと思います。

こうして見てみると人間って非力です。何かによって色々と動かされてしまっているようにも見えるからです。だから人間には自由意思はない、と一部のスピリチュアル系の人達は言うのだと思います。これを正しく理解し、自分にそれを活用できてしまえば、確かにマスター級ですがなかなか凡人には難しいところです。

そして、人間の本来のやすらぎとはそこにあるものだと思います。難しいことではあるけれど「私」を使い、大きくしていくことで、本当に少しずつ、数ミリ単位でそちらへ向かっていくことは確かです。でも、まだまだ、結果にこだわり、それを得るためにじゃあどうするか、というところで思考する昔のやり方にこだわっているのが私たちです。

これを、結果じゃない、通過点、という新な意味づけ、視点を選択していくことを継続できたら、自他や周りに起こる出来事なども見え方、捉え方も変わっていくのだと思います。

他人を見る、知る。
2025/01/30

自分が正直に誠実に他人と関わっても、理解されないことは多いです。

なぜならば相手がどこにいる人なのか、があるからです。相手が未熟(言動の真意が理解できないということ)であることのほうが多い。ですから、「私」の選んだ白パターンで言動したから相手も自分と同じようにわかるだろうということはないということです。

相手が未熟(これは、ばかにしているのではなくて)であるという現実があちこちにあります。これが現実です。そういう人であるということがわかったら、その時その時によるのでこれが絶対はありませんが、相手に合わせるということがひとつの知恵かも(これも自分の許容範囲があるものなので一概に言えませんが)。

もしかしたら、その場で謝るとか、わかりましたとか、時には以後気を付けます、と言う言葉が必要なときもある。自分に非がなくても、そういう事も他人と関わると必要になることがあります。特に職場は。

そういう言葉って重さがあるので言った=自分が間違っていた、自分のミスと思いがちだし、思われがちですが、心の中で、自分がその意味づけではないところのものであると捉えられていればいいんです。そうであれば、自分を責めたり、必要以上に落ち込んだり、傷つくこともありませんし、相手への理解というところも持てます。

この相手が未熟ということも身極めていくことが自分を守ることにもなると思うのです(もちろん、パターンが見極めるではなく)。相手をそんなふうに判断してはいけない、愛を持って接すれば相手はわかってくれる、というのもパターンだし、他人とは、そんなに単純なものでもありません。また、人によっては自分のパターンを満たしてもらうことが愛だと思っていることだってあります。

だから、他人を見る、知る。そして自分の許容範囲で相手に合わせる。でも、心は全く違う捉え方をしている。そうやって自分を守る、自分でいる、ということです。こうして自分自身へ誠実に接していくこともひとつです。

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