ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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そういうカラクリ
2025/04/02

「そういうカラクリでできているんだ…この宇宙は」と私は思っています。

そして、それを指針にして物事を見極め、決めるようにしています(時々、パターンのほうを選んでしまうこともあるけれど←この場合、ちゃんとその結果が来るので、後から後悔することになる)

スピの世界で言われている「自分の思いが現実を創る」から「心がすべてである。あなたはあなたの考えたとおりになる。あなたはあなたが感じたものを引き寄せる。あなたはあなたが想像したものを生み出す」という仏陀の言葉まで。もちろん、これだけではなく、それを伝えている人たちはたくさんいます。

そこには「そういうカラクリ」がある。そして、それが科学的にも解明されつつあることも嬉しいところです。

人という意識。どんな意識の自分でいるか、何を選択するのかということがどれだけ大事なことか。これは今までの自分と今の自分を比べてみたときに、歴然とわかることです。それはきっとこの道を歩んでいる方達も体験していることと思います。自分が体験したことだから信じられる。

で、そういう宇宙をもっと信頼していいんだと思うんです。信頼すれば宇宙が良く計らってくれるからというご利益を求めるのではなく、現実として、自分の思いを変えることで、確かに変わってきた、自分自身が、自分の生活が、生き方が、仕事や他人に対する思いが、人生が。ということ。これは確かなことになると思います。

どんな意識の自分でいるか、何を選択するか、というときに「頑張る」ということが浮かびやすいかもしれませんが、この「頑張る」は曖昧過ぎます。ここはその時々でより具体的なものを選んでいったほうがいいです。この場において、この一瞬において、今の自分にとっての具体的なものごととは?と考えてみるといいです。

どんな種を蒔くのか
2025/04/01

昨日は寒い中(気温7〜8度。曇り)中央公園にお花見に行ってきました。というか、いつもの散歩コースにお花見が加わっただけですが。

公園の外側にある歩道は左右に桜の樹が植えられていて、ほぼ満開でした。そこはまるで桜のトンネルのようでした。茅ヶ崎は桜の名所と言われるようなところがなく、駅近で桜を見るとしたらここくらいかもしれません。特別なところがない茅ヶ崎にはふさわしい位の桜の道。

で、桜のトンネルの出口付近で、その歩道の測量をしている人達がいました。男性ばかり、7、8人ほど。人が行き来しているところで測量をするというのは大変そうでした。

歩いていた私は、このまま通っていいのか、ちょっと待ったほうがいいのかわからずにそこで立ち止まってしまいました。すると、親方のような方が、近くにいた測量員の男性たち3人に「バカみたいにつったってんじゃぁねえよ。ちゃんと通る人の誘導をしなきゃだめだろう」と大きな声で言いました。

言われた男性たちは若い人たちで、新入社員なのか、バイトなのか、その言葉に困った様子でした(初仕事だったかも)結局、他の測量員の方が誘導してくれて、私はじめ、立ち止まっていた数人はそこを抜けることができました。

さて、親方に注意された3人の若者が、ここで、どんな種を蒔くかです。

親方の注意に対して「そうか、自分ができることは何だろう。考えてみよう、わからなければ聞いてみよう」という種を蒔くのか「そんなこと言われたってわかんないよ、だったらちゃんと指示しろよ」という種を蒔くのか「ほら、やっぱり注意された。自分はいつでも注意されるんだ」という種を蒔くのか。

人間なので、こんなふうに単純な気持ちだけではないですが、ざっくり言って、どう自分に起きたことを受け取るのかです。その受け取りがそもそもの種になると私は思う。ネガティブに受け取り(黒パターンで受け取っている)それを決める。又は、ポジティブに受け取り(白パターンで受け取っている)それを決める。それによって結果は変わってきます。

と言っても、そういうカラクリでできているんだ、この宇宙は…と気付くまでに時間がかかるし、気付いてからそれを自分が試しながら実践して練習していくことでそれは活きたものになるので、ここも時間がかかります。

でも、いつか、そういう体験をしてくれるといいなあと思いました。近頃は、若い人を見ると特にそういう気持ちが湧いてくる。老婆心であろうか。

こうして、今日、この桜の道を通り、この場面に出くわしたのも私に起きたこと、与えられたことです(全てが与えられていることだと前に話したと思います)そこで自分はどんな種を蒔くのか…です。

親切心
2025/03/30

先日、ある商業施設のエスカレーターでのできごと。

1階下へエスカレーターで降りようとしたら、私の前の前に大柄なおじいちゃんがエスカレーターに乗れずに立ち往生していました。片手には大きな袋を2つ持ち、もう片方の手には杖。バランスが取れずにエスカレーターに乗る事ができないでいたんです。

後ろには人がどんどんたまってしまい。私の前にいた女性がおじいちゃんの腕を支えて「大丈夫ですか?お手伝いしますよ」と声をかけました。するとおじいちゃん「よけいなことしないで!」と言い、再びエスカレーターに乗ろうと挑戦します‥が‥乗れず。後ろにはますます人がたまります。声をかけた女性が振り返って、私に「よけいなことしないで…っていわれちゃったのよ…」と何とも言えない顔で言いました。

でーーーダメ元で私も声をかけてみました。「お荷物を私が持ちましょうか?」と。すると「ありがとう、お願いします」と言って大きな荷物2つが渡されました。これで片手があいたのでエスカレーターのベルトを握ることができるため、おじいちゃんはエスカレーターに乗ることができました。そして1階下のフロアーへ到着。「この階でいいんですか?」と荷物を渡しながら、おじいちゃんに聞くと「はい。本当にありがとう、お世話になりました」とおっしゃる。

よかった、よかった、と思ったのですが、なんか、視線を感じる。すると「よけいなことしないで」と言われた女性がじっとこちらを見ていました。

そりゃそうだろうと思う。自分にはあんなこと言っておいて何でこの人にはお礼を言っているのよ…と思うよな。親切心から最初に声をかけたのは自分なのに、とも思うよな。もし、逆の立場だったら私もそう思うだろうな。‥‥と。

こういう事も現実には起きる。しかし、現実に起きていること自体だけが見るべきところでもない。あの女性が心に持った親切心は本当だったと思う。それに従ったのだから、その親切心はあの女性自身にかえってくる。今すぐではなくても、きっとかえってくる。

後から、なんですぐ横にあるエレベーターを教えてあげなかったのだろうと…エスカレーターに乗ることだけに目が向いてしまっていた自分の思い込みに反省。

強いメンタル
2025/03/28

自分の精神性を上げていけば、強いメンタルの持ち主になれると思われがちなんですが。

強いメンタル…何があってもそれに飲み込まれることなく、平穏な心のままでいる。いつも平常心。嫌なことや心配事や、問題にも理性的に立ち向かうことができる。そして、超強いメンタルであれば、嫌なこと、心配事、問題さえも持たない…という感じでしょうか。

ミームが上がれば、領域が上がれば、そうなれると思っている人は多いのかもしれません。ということは、現状が嫌、つらいのだと思います。

いろんなことに飲み込まれて右往左往したり、一喜一憂したりする現状が嫌なんだと思います。揺れ動くことでのストレスやプレッシャーを感じながら生きることがつらいので、確固たる、保証された、そうではないものを手に入れたい。

それは、自分のメンタルを強くすること。そのためにはミームを上げること、領域を変えること、それできっとそれは手に入れられると思います。人によってはミームだの領域だのわかりにくいものよりも、空手を習う、滝行をする、仕事をガンガンする、放浪の旅に出る、などを選択する人達も大勢います。ここも、何故?と問いてみれば、メンタルを強くしたい、というものが出てくるかも。元は同じな気がします。

というように、強いメンタルっていうものがあり、それが手に入れば、わずらわしい自分の感情に振り回されて生きなくていい、と思う。

で、本当に強いメンタルとは、わずらわしい自分の感情に振り回されて生きられるメンタルだと私は思います。そういうメンタルを自分で作っていくことが自然とミームや領域を上げていたということで、ミームや領域が上がったからそうなるのではありません。いつも言うようにそこを与えるのはあちらなので。

この在り方をよくよく見てみると、ただ強いだけではなく、多くの知恵を含んでいる。だから、わずらわしさを持ちながらも、平和を感じたり、感謝を感じたりするのだと思います。

道場として目指しているのはここです。わずらわしさが一切ありません、という極端な在り方はパターンとしては楽だけど人としては無味乾燥。いろんなものを持っているから魅力的な人になる・・・・と思う。

一体、となりの奴って?
2025/03/27

椎名誠氏の「ぼくがいま、死について思うこと」を読んだ。

そこに、ロシアのニジニ・ノブゴロドにある古いホテルに泊まったときのことが書かれていた(以下)

「事件は夜中に起きた。ぼくの隣の部屋にいた奴が午前2時ぐらいにいきなり暴れはじめたのだ。その暴れかたが尋常ではない。机か椅子などを部屋中にぶん投げているというような暴れ方なのだ。さらにぼくの寝ているベッドのすぐそばの壁を向こうから鉄の棒のようなもので激しく叩きまくる。・・・・・(中略)・・・・・ついに隣の騒ぎはだんだん間遠くになりぼくも疲労が加勢して眠ってしまった。やがてぼくは非常に不快でいまいましい朝を迎えた。レストランに行く前にさわぎまくっていた男の部屋の番号を調べておこうと思い、隣の部屋を見に行ったとたん、ぼくの頭は「真っ白」になった。隣には部屋などなかったのだ。」(ぼくがいま、死について思うこと より抜粋)。

そうそうそうそう‥‥と言ってしまいました。私も同じ体験をした。あるホテルの〇〇〇号室。

24時頃、うとうとし始めていたときに、ベッドの横の壁を隣の人が拳で叩いている音が聞こえてきました。その音の強さから、酔っぱらってベッドに倒れ込んで足で壁をけっているのだろうと思いました。まるで何かに腹を立てて蹴っているような。それがどんどん激しくなる。

も――我慢できない。そこでフロントに電話をすると「すぐ行きます」ということで男性の方が来ました。

電話をかけているときには音はしていたのに、その人が部屋に入ると音はしなくなりました。男性は「今は何も聞こえませんが、もしかしたらどこからかの音が響いてきていたのかもしれません」と言います。「さっきまですごかったんです。電話をしたときも」と言っても伝わらず。「とにかくここでは眠れないので他の部屋へ移してください」と言って午前1時に荷物をまとめ移動。そして、移動する際、一体、となりの奴って?と思い、隣の部屋を確かめようとしたら…‥隣に部屋はなかった。

この時、ぞわっとしました。そもそも部屋はないわけだからホテルスタッフとしては「隣から」と言われても…と思っただろう。はたまた、やっぱり出たか…と思ったか。

椎名さんの驚愕がわかります。きっと隣に部屋がないと分ったとたんに怖かったのではないでしょうか。なんだかわからないものっている。そして、わからないものは、やっぱり怖い。

ほどけていく
2025/03/26

去年から、新な白パターンということで「もしかしたら…」をお勧めしています。

この言葉に浸ることで、今まで決めつけていたものがほどけていくような感覚を持っていただけたらいいと思っています。

決めつけている物事に縛られ、それに価値があると信じ、それを得ようと誰もがするのですが、その決めつけていることでの選択が、今のその人にとって違っていればシンプルに苦しい。

ここからの解放が「もしかしたら・・・・・〇〇と、もう、決めつけなくても、いいのかもしれない・・・・・・・・・」です。「もう、決めつけなくても、いいのかもしれない」という言葉には、今まで、決めつけていたそれは違うんじゃないの?(間違っているんじゃないの?ではなく違うんじゃないの?です)今の自分にはふさわしくないんじゃないの?という感覚も含まれています。

物事ってひとつの解釈、意味づけ、だけではないんだということも心身に覚えさせている感じです。選択肢はたくさんある。今の自分に合うものをそのときそのときで選べばいい。選んでいい。自分は選べる。ということです。

こうして今まで自分の心身にはびこっていた、クセのような、根拠のない、決めつけをひとつひとつほどいていきます。ほどけたときの感覚も感じてみてください。これがとても大事です。なぜならば、自分がほどけていく感覚を実感できるとそれを再現することができて、それを他人に渡すこともできるからです。相手の人もなんだかほどけていく。

ワークって自分だけのものではないです。自分ができるようになることで他人にそれを渡している(自然に)という事も知らないうちに起こしています。

これは言葉を超えたところのものです。言葉で伝えようとしても限界があります。しかし、こういう世界で伝えることができます。というか、こっちが先の気もします。まずは自分で自分をほどいてあげよう。

2回目からは…
2025/03/25

皆誰でも、心の底ではわかっている。今の自分がどうしていけばより、よい自分になれて、よりよい人生を歩めるのか。本当はわかっている、ということが、今までのカウンセリング人生で皆さんから感じられたことです。

そして、それがあるのに、そうできないことで人は苦しむということも。それが不一致だからです。人って自分を騙して生きていかれないんです。

この、わかっているのにできない(変わらない)…を多くの人が体験していると思います。

で、これについて、以前、どなたが言っていたことなのか忘れてしまったのですが、印象的だった言葉があります。

それは、1回目に受け取ったもので、2回目を受け取らなくてもいい‥というようなものです。例えば、誰かが自分に向けて言った言葉に傷ついた。腹もたったし、悲しくもなった、という体験をしたとします。1回目のそれへの反応はきっと誰でもそうだと思います。

それが2回目にまたやってきたとき、1回目のときと同じ反応をしなくてもいい、ということです。1回目と同じように傷つき、腹を立て、悲しまなくてもいい、ということ。2回目以降、あなたはそれに対してどんな反応をしたいのか(選ぶのか)。それはあなたが好きなようにしていい、それによりあなたは自分を平和に保つことができる、ということだと思いました。

で、変わらないというのは、1回目の反応をずっと選んでいるということになります。2回目からを変えていけばいい。これはレベル的にはマスター級なので、なかなか難しいところですが、云わんとしていることはよくわかりますし、道場での白を選ぶ、そして実践するという作業は、2回目からすぐに、は無理でも、時間をかけながらそちらへの反応を身につけていくことはできます。

マスター級であろうと(マスターって2回目で違うものごとを選べる人なんだね。超マスターは1回目で選べる人)平凡級であろうと、やることは同じです。他からのそれに対して自分はどうありたいのか、を選び続けるということです。そう言ってしまうと外側だけを在りたい自分として振舞ってしまいやすいので、それを避けるために(心底そうなれるように)黒パターンへの語りかけがあるとも言えます。

地道なこつこつと続けていく作業ではありますが、少しずつその結果を受け取っている方はいらっしゃると思います。

あきらめる
2025/03/24

昨日書いたセネカの言葉「生きている限り、生き方を学び続けなさい」。

この言葉から思い出したのが「悟りのプロセスとは、移ろいやすい人生に影響されない能力を増すことです」というデヴィッド・R・ホーキンズ博士の言葉です。生き方を学び続ける、ということは、正に、移ろいやすい人生に影響されない能力を増す、ということです。

そう…人生って、心が移ろってしまうようなことがたくさん起きるんです。そういうときには影響されない能力が自分を助けるということになります。それはその事象に合わせて、生き方を選択することであり、今までのやり方ではないものを選ぶことでもあるでしょう。これが影響されない能力のことです。

では、影響されない能力とは具体的に何か。ここには色々なものが在ると思いますし、それは、それを選ぶ個性にもより変わってくるとは思うのですが、共通する能力として「あきらめる」という能力があるんじゃないかと思います。

今起きているということをあきらめる。起きていることの意味を知る、みつける。そして、それといられている自分を感じてみる(ここは少しずつ)あきらめるというと、ひたすら自分を抑え、我慢して、心はもんもんとしながらしぶしぶといるという事をイメージしますが、それではありません。「あきらめる」は、あきらめることの意味を理解した自発的行為だと思います。

例えば、今、こうなっている(結果)ということは、その種を自分がどこかで蒔き、それを刈り取ることが今起きていて、ここは勇気を持って、自発的に刈り取ろうとするのもひとつのあきらめ。私は、刈り取った(終わらせた)ということ自体が新な種にもなるんじゃないかと思います。

又、悟りのプロセス(悟りへのプロセスというほうがわかりやすいかも)とは…という言葉もあり、悟りというものもとても人間的な現実的なことだと感じます。自分自身がどれだけ、生き方を学ぶのか、影響されない能力を増していくのか、という地に足をつけて行うことの必要性がここでは語られています。

このためにも、意味づけワークをたくさん行ってみるといいと思います。そこで出てくる新な意味づけが、きっと新な生き方、影響されない能力になり、それからの自分を支え、よりよき道を歩んでいくことになるからです。

で、そういう生き方をしている人にサポートをしてくれる何かが、そういうルールがこの宇宙にはあるということです。生きるってこことの二人三脚。

生き方を学び続ける
2025/03/23

日記が止まってからなんと1か月以上たってしまいました。今まで、こんなに長い間書かなかったことはありませんでした。ご心配をおかけしました。

で「元に戻りました」…と以前なら言っていましたが、今回の日記休み(いや、去年後半から今年に入って自分に起きたことの数々、自分の選択、言動、その結果)から学んだことがあります。それは、もう…私は元には戻らない…ということです。

元に戻ったらまたきっと同じことを繰り返し、今回起きたことから何も学ばなかったことにもなります。何かが起こるのは、より善い方へ動くため。だから、そこから学ぶべきものごとを知る、そしてそちらへ自分で動く、ということがない限り、人は同じことを繰り返し続ける。

なんて、偉そうに言ってますが、ここに至るまでの間には、戻らずに、次へ進むところへ誘うような他人との関わりがあったり、誰かの言葉にそこへのヒントがあったり、と、自分について考えるありがたいこの1か月ちょっとでした。

で、思い出したのが「生きている限り、生き方を学び続けなさい」という古代ローマ哲学者セネカの言葉です(55の魂に響く…のどこかにあった)。

生き方を学び続ける、とは、その時々の自分の生き方があるのだから、それを学べということなんだと思います。私はここがわかっていなかった。

それは、今までの生き方に執着することなく、その時々の自分にとって、必要な生き方とはどういうもので、それを生きるために何をどう変えたらよいのか、を「私」に沿って考えるということだと思いました。それを生きている限り続けなさいと賢人は言っている。

ということは、そういうふうにして生き方は変化していくものであり、そこへの柔軟性と知恵とフットワークの軽さが自分を新な生き方へ連れていくのだろうと思いました。

そして、そこにはネガティブ(これがないと人は動かないから)な物事とそれを手放すことが伴います。今までの生き方で使ってきたものごとを手放して、新な生き方をする。

手放すというと、怖い気がするかもしれませんが、今回体験したことは、手放すって、誘われていく、導かれていくということなんだなと思いました。こうして次へ向かうことなんだと。それは怖いことでも不安なことでもなく、ごく自然なことだったのだと思いました。

人ってこうやって生きていくのか…という体験をしたこの期間でした。なんだか、新な年を迎えたような気がします。

不甲斐ない
2025/02/13

今日はとても良いお天気となりました。昨日は夜遅くまで強風で荒れていたのですが、今朝は海も静かです。

今日から今年初の岩手クラス開催のため、盛岡へ行く予定にしていました‥が‥体調不良のため、遠方へ行く自信がなく、キャンセルさせていただくことになりました。

岩手クラスの皆様、ご迷惑をかけてしまい申し訳ありません。

体調不良を詳しく書くと長文になりそうなので省きますが、ちょっとずつ知らないうちに体調不良が積もっていったんだろうと思います。まあ、こういうときもあると受け入れつつ、見直しや、もっと自分を大切にすることを考えてみようと思っています。

こうして体調不良を体験すると、普通に生活ができるということがとてもありがたいことであることを知ります。2025年は、私にとっては不甲斐ないはじまりとなりましたが、これも次へ向かうことになるのだろうと…幽かに思います。

・・・・ということで、日記があいてしまうかもしれませんがどうぞよろしくお願いいたします。

2月の個人カウンセリングは予定通りに行いますのでどうぞいらしてください。

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