ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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欲望
2024/11/06

今、お世話になっている鍼の先生が話されたこと「欲望のままに生きていると体調は悪くなります。欲望に支配されないで、自分で食べるものを選べば、本来のその人の身体に戻ります。」

先生は身体についての話をされているので、ここでの欲望は、食べる事、動くこと、寝ることについての話だと思います。

例えば、もっともっとと食べる、好きな物ばかりを食べる、がつがつお腹いっぱい食べる、甘いもの、あぶらっぽいものをたくさん食べる、食事の用意が面倒なのでいつもできあいのものですませるなど。もっともっと、好き、めんどくさい、という欲望。

食べる事の他にも、例えば、TVやスマホを見続ける、ごろごろしている、座り続ける、お風呂はめんどうなのでシャワーだけでいい、疲れていても頑張る、より効率よく、より合理的に、もっときれいに、もっと健康になるため…と行っていることも欲望。

そういうことをちょっとずつ辞めてみる。自分の身体に入れるもの、自分の身体に関する行為を自分にとって必要なものにしていく、ということなんだろうと思いました。

で、これは心にも言えることでもっと成長したい、早く変わりたい、自分の思う自分になりたい、ネガティブから離れたい、他人に勝ちたい、認められたい、理解されたい、褒められたいなどなどあります。これも欲望。

又は自分はだめだ、自分はできない、自分には無理なども。これらは欲望とは言えないもののようにも見えますが、その在り方への執着は欲望だと思えます。欲望って今までのことへの執着なんだと思いました。ここでは黒パターンと言いますが。

それらの欲望を見定めて、それを選ばず、新しいものを選び、心を整える。そうすれば本来の心に(心身に)戻る・・・・・と言われてもねえ、を選ぶのか、自分の心身を健やかにしてあげるために、確かにこれはやめたほうがいいなというものは辞めるのか。それも本人が選ぶしかありません。

人間はこの宇宙のルールの中で生かされています。そのルールは、本当は人にとって健やかで優しいものだと思います。そして、本来、そのルールが人を守っているのに、そこから離れることばかり、黒パターン主体でやってしまうから苦しくなるし、身体も不調になる。と言うことでしょう。

そう言いながらも、私もまだ欲望に負けております…が…自分にとって何を選ぶと、又は選ばないと心身に出やすいのか、心身の感覚がどうなるのか、ということもこの4か月ほどで少しずつ感じられるようになってきました。その結果を見れば、もう、これも辞めていいか、とか、新しくこれを選ぼうと思えます。人って慣れ親しんできたものへ知らず知らずのうちに執着しているんだと思いました。今、私はこのことを学ぶときなんだと思います。

楽しい
2024/11/05

先日、トミーの携帯に付いているストラップに気付き、それをを手にとって見ました(うちは今だに2人ともガラ系)まあるい目をして、両方の翼の部分をちょっと広げて立っているペンギンの可愛いストラップ。

「かわいいーーー」と見ている私にトミーが「100均で買った」と言いました。これに似た(というかこちらが真似したのだろう)ものを有名店で売っているけれど、そこでは1000円以上するということでした。

で、よくよく100均ペンギンを見てみると・・・・・あれ?・・・・・まあるい目は目玉が両方ともそろっていない、ガチャ目になっている。翼もちぐはぐについていて、片方は開きすぎているし、もう片方は開きが悪いと、かなり雑。

その姿は、もう、可愛いというよりは、笑える、というものでした。そう思ったら、もう、可笑しくて可笑しくて、ずっとその姿にへらへらと笑い続ける私。「不細工すぎて可愛い」「なんでーー、こんなに可愛くないの」と言いながら。で、そういう自分を客観的に見ている自分もいて「私って、お気楽だ」と思いました。

そんなことにそこまで可笑しいと笑い続けられるのだろうか、と思う。これこそが私とさえ思える。

私はこういうことがよくあります。きっと他の人にすればそこまで可笑しくはないことでも、可笑しく思えると心の底から笑える。そしてその最中の私は、これが自分だ、と感じられていて、その最中は楽しい。

で、思ったのは、自分らしくいるって楽しいんだな、ということです。自分がもともと持って生まれてきた自分の個性、とか、性格とか。それを表現しているときって楽しいんだと思いました。

そして、この楽しいとは質が違うけれど、知的好奇心が強いのでそこに関わることをやっているときも楽しい。さすがに笑いませんが、やっぱり楽しい。ピアノもバレエも楽しい(おうちでですが)この両方に共通してあるのは「音楽」で音楽に心身をゆだねるって本当に楽しい。これも自分だと思います。

楽しいって〇〇のために、〇〇を得るためにとしているときにはないもので(楽しいと思いこもうとしていたり、大人になると、思考で、楽しいってこういうこと、と思っている場合もある)本当は、自分が最も感じられるものなんだとも思います。それを大事にするといいと思う。楽しい、と思えること。そこにはその人が表現されていて、そうやって生きるってそれこそ楽しいことなんだと感じられると思います。

満足と幸せ
2024/11/03

人は今の自分の在り方に満足したり、幸せを感じる。

この意味が心身で感じられるといいなあと思います。そして、今の私が思うことですが、今の自分の在り方というこの一瞬にしか、満足も幸せもないと思っています。

一般的には、満足、幸せというのは他人や物によってもたらされると思っています。自分を愛してくれる人、理解してくれる人が隣にいる、家族がいる、お金がある、健康である、レベルの高い仕事をしている、いい生活をしている、特別な人だと評価されている、すごい人だと思われている、家、車、あらゆる持ち物…それらが十分に安定してあるときに満足し、幸せであると思える、ということ。

だからそこへ向かおうと頑張るし、手にしたものは決して離すまいと頑張ります。しかし、死ぬまでそれらが確保されることはありません。他人も(自分も)物事も全ては変化しているのが自然なことであり、そこは誰も避けられないことなんです。又、魂の学びとして、一気に失うことがセッティングされることもあります。一時的なものを信じないように、という学びなのかもしれません。

このように、多くの人が思う、満足や幸せは、そんな、不安定な、一時の満足と幸せなんです。

今の自分の在り方というのは、そのときそのときの自分の在り方であり、自由に形を変えてそのときに使いこなしていくことのできるものです。それは自分の内にしかないもので、それがなくなるということはありません。自分の血肉になっていくということでしょう。

本来、人はそういう状態の自分の在り方自体に満足や幸せを感じるということです。何かを失ったとき、理不尽にも何かが起きたとき、ピンチを迎えたとき、などなど、人生にはそういうことは誰にでも起こります。そんなときに自分の内にあるその力を使う。それを使える自分への満足と幸せ。自分はどうにかやっていかれるという信頼。何故だか湧きだす活力感、躍動感、積極性、勇気、元気、思慮深さ…満足と幸せはいろんなものをつれてきてくれるのだと思います。

それらは自分の内から消えることなく、変わることなく居続けます。だから、私はそうありたい。

PieceでありPeace.
2024/11/02

『「私」>「黒パターン王」』だから「私」が管理できるということ。

管理してもらうことが黒パターン王にとっても本来の在り方なので安心すると思います。黒パターンが安心してくれれば心は平和です。そして、彼がいてくれるから私たちは本来の自分へ戻る努力ができているということです。

黒パターンはこういう風にして私たちに協力してくれています。

私は、誰でもが、本来の自分へ戻りたがっていると思っています。それは今までのカウンセリングを通して感じ得たものです。何度も転生してきた魂としての自分は本来の自分を知っているし、そこにしかやすらぎがないことも知っている。だから、そこへ戻ろうとします。

しかし、パターンは恐怖と不安からそこへ向かうことを留めてしまったり、パターンの信じるところへ向かわせようとします。何より、全員、まずは黒パターンで生きるので、それに慣れています。そこで、本来の自分と現在の自分の間にギャップがあり、苦しくなるし、悩むのだと思います。

本来、人は今の自分の在り方というところに満足したり、幸せを感じたりします。そして、それは「私」を中心として成り立つものです。そこを自分で構築していく。そして「私」の元でパターン王や小枝のパターンたちが安心して存在できるようにしてあげる。そのためには自分の内にある「私」を使い、パターンとの関係を築いていくことだと思います。

…と書くとややこしいか。とてもシンプルに言えば「私」がどのパターンのことも(黒パターンの王ももちろん)そのままに存在させてあげるということです。それを変えようとか、抑えようとか、出てこないようにしようとしないということです。しかし、多くの場合、それを許さないパターンやそれに耐えられないパターンが間に入ってくるので、複雑になってしまうのです。

「私」は自分の内にいる全てのパターンや自分の性格や個性をそのままに大事にしている。だってそれが自分であり、それは宇宙にたったひとつだから。そのたったひとつの私たちはひとりひとりが宇宙を構成している小さなピースです。その自分が宇宙を豊かにしている。

・・・・・PieceでありPeace.・・・・・である私たち。

自分への執着
2024/11/01

以前に言った「パターンの王」それは「全てを自分の思い通りにしたい」です。大木の深い根と幹の部分がパターンの王です。そしてその「王」から枝が四方八方に伸びていてそれがパターンひとつひとつ。

そのひとつひとつの枝のようなパターンに語りかけをしています。枝だからどうでもいいわけではなく、ここを接点にしながらだんだんと「王」の姿が見えてくると思います。

全てを自分の思い通りにしたい…って一般的に言っても、あり得ないと言われたり、我儘と思われたりしますが(思考的にも常識的にも)ここでのそれはもっと意味が深いものを言っています。

それは、結局、自分を苦しめるために使われているということ。

特に自分に対してのそれ(他人に対してのそれよりもそちらのほうが強いと思います)あの人が嫌、この人が苦手など、小枝のパターンは言うのですが、大元は、自分の思い通りではないその人を受け入れることができない自分が(自分の思い通りの自分ではないことが)嫌なのです。それができてしまえば小枝もないので。

というくらい、自分に対してのパターンの執着は強いものです。「こういう自分」というものがあると「王」は思っているので、どうにかそこへ向かわせようとします。そして時には、もう、すでに自分はそうだと思うこともあります。そのくらい、自分を思い通りの自分にしたいんです。それができないので、苦しむ。

しかし「王」もパターンです。力を持ってはいますが、パターンです。そしてパターンなのでそのまま、そこに居続ける存在です。しかしそこを超える=「王」と共存していく。では、具体的にどうしていくのか、思い出してみてください。そのやり方で小枝にも向かう。

考え方しだい
2024/10/30

昨日は、妹と従妹と3人で食事をしました。

3人が揃ってというのは久しぶりです。赤ちゃんのときから見てきていた従妹。それがなんと今や53歳だそう。人の一生は早いと思いました。

私自身もいつのまにか60代で、70代突入も近い。今までは長かったような、あっという間であったような、と、両方ありますが、あっという間、というほうへ視線を向けていたほうが何を自分がやっていきたいのか、というところへ行きやすいと思います。

人生長いから〜というほうへ視線を向けていると、これから先、いつか、できるときにやればいい、となり、結局、今世としてはタイムアウト。だからと言って失敗の人生だったわけではありませんが「私」のことを考えると、そして、自分の可能性の事を考えると、もったいないかも。

要は、その人の人生はその人のものであり、その人の責任のもとに創っていくもの(創られているもの)ということです。誰のせいでもない、何のせいでもない。

よく「考え方しだい」と言われます。これ、とても分かりやすい言葉だと思います。自他に対して、あらゆる出来事に対して、考え方しだいで、それ自体に対する思いが変わります。嫌だな、しんどいな、とパターンは思いますが、それに対してどう考えるのか、ということ(新な意味づけを選ぶ)です。そこを後押しするために、全てのワークがあり、浅くではありますが学んだ量子力学の考え方がかなり力を貸してくれていると思います。

人は意識でできていて、どんな意識を持っているか、で自分自身が出来上がり、その自分が人生を創造していきます。

そして、少しずつ、自分でも気付かないうちに「私」の立ち位置に立っている自分に気付き、そのときにはマスターのようにただ起きることに意味づけをすることもなく、ただ、受け入れ、どうすべきかも知っているというところで生きるのだろうと思います。ここの在り方は霊性が関わってくるところで、よって、自分の努力でというよりもあちらが決めるように今の私は感じています。

自然とそこへ向かう1つの段階として、考え方しだい=意味づけがあります。ワークと共に意味づけを増やしていかれますように。

昨日の続き
2024/10/29

昨日の続き。何かがない、は、何かがある。それは自分の成長を促し、可能性を拡げる自分の内に在る何か。ということでした。

で、これは、これがない。でも、おかげでこうできた、ということです。何かはないけれど、おかげでが在る。それに気付くことです。そして行動すること。

で、下北沢での話。ある日、店の近所にものすごくおしゃれなお店が出来ました。当時としては珍しい打ちっぱなしの、ロフトっぽい店でした。やはり洋服、アクセサリー、雑貨などを置いている店。そしてスタッフは男性3人。それもそれぞれかっこいい。上から下まで当時のおしゃれの最先端をいく服に身をつつみ、すきがない。ファッション雑誌から抜け出たような3人でした。彼らに会いたい女性のお客さんもどんどん増えていたようです。

近所だったのでだんだん話をするようになり、私と一緒に働いていた女の子がそのうちの一人を好きになり…とちょっとドラマっぽい日々がありました。

で、ある日、そのうちのひとりの男性と挨拶を交わしたときに「洋子さんって着ている服が変だよ。うちの店では皆言ってる」と言われました。しかし、そのときに、不快ではあったものの、自分が恥ずかしいとか、みっともない、とか、どうにかしなくてはとは思わなかった。なんか、それはそれ、という感じで当時は終わりました。

そして、今になってその時のことを思うと、店長の言葉に従い、自分なりに頑張って服を考え、生み出し、自分でやったことにあの時の私は満足していたからかもしれないと思いました。自分で、ひとりで、やったという満足感。そして、その行為自体が楽しかった。だから、自分のやったことに対して「変」と言われても落ち込むことがなかったんだろうと思います。その後も自分の路線でいきました(お金は相変わらずなかったし)

これはこの学びも一緒(…といつものフレーズ)私にやれやれと言われているうちはまだ満足感はないと思うし、第一楽しくない。しかし、自ら考え、自ら選んで、自ら動くことをこの学びで行うことで、いろんなことに気づいていくと思うんです。そうなってくると、その行為自体がおもしろく、楽しくなってくる。そして、そうしている自分への満足感というものが出てきます。

そうして気付けば自分の在り方が変わっている。そして、その新な在り方がまた量子を動かす。そうなると自然と自分をとりまく状況が変わる。結局、自分の毎日の思考、行動に満足する(もちろんパターンがではなく「私」が)という事だと思う。満足を感じる結果ではなくて、プロセス自体に満足しているかどうか。ここが大事なんだろうと思います。

だから、楽しいと思うことをやるということです。楽しくないことを〇〇のためにとやる必要は全くないです。そういう意味でもここでの学びを修行のようにしないということが大事です。修行は楽しくはないから。

「ない」は「ある」
2024/10/28

他人と自分を比べて、自分にはこれがない、自分はあの人のようにこれを持っていない、と思う時はあると思います。

しかし、何かがない、ということは、何かがあるということなんです。何かがある、というのは他人に勝つ何か、自信を持てる何か、ではなくて、内的な資質に関わるもの(結果、物も生まれる)です。

だから、自分にはあれがない、これがない、と、ない物事に注視するのではなく、在るものを見つけていかれるといいです(すぐにみつからなくても、セッティングされたり、あとからわかることもあります)

まず、この、これない、あれないでは、その意識が現実化していくように動きます。そして、ちゃんと「ない」状態になります。このこともよく考えます。

昔、私が体験したことです。29歳か30歳の頃、私は下北沢にある小さな洋服やで働いていました。一人住まいをしていて、ここでいただく給料は決して多くはなかったので、毎月、きちきちの生活をしていました。洋服やに勤めながら、お金がなくて服が買えなかった…これはまずい、と思いました。わずかな貯金から時々買ってはいましたが、皆のようには買えない。

このことを店長に話したとき「ようこちゃん、チャンスよ」と言われました。「お金がなくて洋服が買えないからこそ、自分が今持っているものをうまく組み合わせて着ることができる。これはおしゃれになれるチャンスよ」と。このままの言葉ではなかったと思いますが、このようなことを言われて、なんだか、妙に納得したのを覚えています。「いつでも好きなだけ服を買える人がおしゃれな人ではない」と言われました。

この時に服に対する考え方を一つ教わった気がします。おしゃれな人って流行のものをいつも着ている、毎日着るものを変えている、たくさん服を持っている、ということよりも、自分に合うものを知るということなんだろうと今は思います。今も残っている店長のこの言葉。

服がない、でも、持っているもので(時には買えるくらい安いもので)自分なりにいいと思うものを作ってみる、という、チャンス(機会)が私には在ったということです。お金があっていつでも好きなものを買える状態であったら、この機会を使うことはなかった=そこからは何も生まれなかった。そのために考え、下北沢中の(下北沢には安価なお店、古着やはたくさんあった)洋服やアクセサリーをほぼほぼ知ることもなかった。このときの行動力も、楽しさも、発見も、おしゃれな人と出会うこともなかった。

「ない」がこんなに豊かなことを与えてくれた「ある」だった。これは、この学びも同じです。他人と比べて、私はできてない、遅れている、だめだ、ではなく、在るもの(精神的に自分が成長できる、可能性を拡げるもの)を探すことです。必ずあるから。それは他人にはないものです。自分の心の中に在るそれを掘り起こしていきます。

こう、見てみると、他人と自分を比べて「ない、ない」と言うパターンが自分を大きくする機会を与えてくれているとも言えます。

大事なところ
2024/10/26

ココでの学びが目指しているものは、精神性と霊性の成長と進化です。

と言うと、えらく崇高な、真理に向かうための、特別なことのように思うかもしれません。しかし、そうではないんです。では、成長と進化をした暁には何が待っているのか?それは、今の(その時その時の)そのままのありのままの自分を信じ、自分をリードし、自分を愛せるようになる・・・ということが、です(これは、ゴールと言ってもいいのかもしれない)

そうやって自分を信じ、リードし、愛せるようになるためには、精神性と霊性(こちらはあちらにおまかせです)を上げていくことが必要になります。今の自分のそれではできないからです。この、とっても基本の部分を成就するためには、能力が必要になるんです。

今いる所での自分でできていれば、すでに幸せに、のびのびと、すっきりと生きているという結果を出しているはずです(こういう学びも必要ない状態)だから、ミームアップ、階段を上がる(そこで見つける新な意味づけ)次の領域へ行く、という事について、知識や情報を伝えるだけではなく(身につくように)具体的にやっています。今のそのままの自分を信じ、リードし、愛するようになっていくために、成長、進化を通して、新な能力を自分の中に育てていくということです。その能力が必須となります。だから成長してほしいし、進化してほしい。

間違えてはいけないのは、成長・進化すれば、違う自分になれるんじゃなくて、ネガティブなことが起こらなくなるんじゃなくて、納得できる自分になれるんじゃなくて、強く、ぶれない自分になれるんじゃなくて、他人から認められる自分になれるんじゃないということです。

ここを目指すと、修行のようになってしまいます。こうなるためにこれをやらなくてはいけない、大変だけどやらなくてはいけない、面倒だけど自分を成長(変容)させるためにやるしかない、というものではありません。どういう心持で取り組んでいるのかも反映されていきます。

そもそもそのままのありのままの自分を信じ、リードし、愛して生きるから、その人は自分を発揮できるのに、そこを変えようとしてしまうことに時間とエネルギーを使ってしまうので、自分を発揮できずに一生を終えます。そこよりも自分を変える方(自分の外)に向いているので。そこではもしかしたら自分にはふさわしくないものを自分が発揮するべきことと思っているかもしれません。

こう見てみると、成長・進化とはそもそもの在り方にかえる事とも言えます。これが私はしっくりきています。そもそも、その状態で生まれてきたのだから、そこに戻る努力をしていく。そうであれば、こうならなくては、こういう自分になるために、というところからは離れていかれるんじゃないかと思います。戻る、ということは戻る場所はすでにあるということですから。自分で気づいたこと、考えてわかったことのひとつひとつが戻る場所に近づいていると思うといいです。だから積極的に自分で考えてほしいです。

今日書いたこのことはとても大事なところです。わからないことがありましたら、また聞いてください。

いい人間関係
2024/10/25

「団地のふたり」というTV番組がおもしろい。

「50代、独身、幼なじみ。イラストレーターなのに現在はフリマアプリで生計を立てる桜井奈津子(なっちゃん)と、非常勤講師の仕事で日々ストレスを抱えている太田野枝(ノエチ)。生家の団地に戻ってきた2人の友情を描いた作品。2024年9月1日よりNHK BSでテレビドラマを放送中」(Wikipediaより)というものです。

私は、ふたりの女優さんが好きなので見ていました(小林聡美さんと小泉今日子さん)

そして、先日、この番組が人気があるらしいと聞きました。なんか、わかる気がします。私も見ながら微笑んでいる自分に気付き、ちょっとびっくりします。

団地に住む親友2人のまるで家族のような関係や、なっちゃん手づくりのご飯を食べるシーンや、団地に住んでいる人々との関係とそこに起こる人間ドラマ。

ちょっと昔の日本の生活っぽいものがただよい、それらに惹きつけられたり、憧れたりする人が多いのだと推測します。あまりに個人主義になってしまった近頃、もう手にすることのできないものがそこにはあり、温かい気持ちになります。(ものすごく嫌な人が出てこないところはやっぱりドラマだねえ、なんですが)

で、人っていい人間関係を体験したいんだと思いました。私が子供の頃はまだそういうものがあったと思うのですが、今や、そこは希薄です。人間関係を体験するより、いかに無駄なく、損なく、成果をあげるかのほうが大事になってしまった。たとえ、この主人公のふたりのように幼稚園からの幼馴染であったとしてもそれが続くということはきわめてまれです(…だからドラマなんだけど)

で、思った。道場での人間関係って大人が(もしかしたら子供も)忘れてしまった人間関係を体験しているんじゃないだろうかと。同じメンバーで何年も関わるわけですが、それは家族ではなく、職場の同僚や上司でもなく、いわゆる友達でもない。そして、そこでは、自他を知るために深い関わりを求められる。

で、いい人間関係って、嫌なことや、合わないことや、違いや、自分が努力することで築かれていくものだと思うんです。お互いに忍耐が必要。お互いに積極性が必要。そういうことを経て、今まで感じたことのない人間関係を体験することになるんだと思います。このドラマに出てくる人達のような。

それって、すごく尊いことだと私は思います。そしてとても稀なことだと思います。個人主義になったことの良さもありますが、なんだか、カラカラしたような関係が普通になっています。ここのバランスが悪い。人と共に生きる体験の場としてグループを大事にしてください。

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