ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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それはない
2024/05/16

人生は思い通りにいかないのが大前提です。そもそもがそうです。

仕事のこと、人間関係、お金のこと、家族のこと、そして何より思い通りじゃない自分自身のこと、などなど。これら、何かから課題を与えられて(私は原因と結果に基づく「私」のむかいたいところへ行くためのセッティングと思うけど)次から次へと続くと思うかもしれません。

で、そういう思い通りにいかない人生をどのように過ごしていくのか、というところがきっと皆が知りたいところであり、欲しいスキルなんだろうと思います。ここで言うスキルとは、いかに、思い通りにいかないことに遭遇することなく、思い通りにいかないときにもそれをすぐに回避できて、思い通りに生きられる力という物だと思います‥が‥ないよ、それ。と言われてしまうととてもショックかもしれませんが、ないんです。

私もかつては、とにかく自分の思い通りにいかないことがものすごくストレスで、それに耐えられなくて、どうにかして思い通りにいくように闘っていたと思います。

いろんなセミナーに行ったのも、本をたくさん読んだのも、瞑想をしてみたり、パワーグッズにたよってみたり、ヒーリングを受けたり、自分(パターンなんだけど)が思い通りにいく生き方というものが存在していると信じていて、それが欲しかったから。そうできればストレスを感じずにいられて、だからこそ幸せを感じられると思っていたし、いわゆる上手くいっている人たちは、その力があるからそうなんだと信じていました。だからそれが自分も欲しかったんです。

しかし、たくさん学び(自分の思い通りに生きられるようになりますよ…というセミナーばかりでしたが)続けてもそれが手に入ることはありませんでした。で、見つけた答えが「それはない」でした(ここにいたるには、セミナーの先生たちにすっきり感がないということに気づいたことが大きいでした)自分なりの理解としてはとても単純な言い方ですが、そもそも、人生半分はよいこと、半分はよくないことでできているというものでした。

今日が全て順調によい気持ちでいることが続き、明日もこの感じで…と思っていると、明日は真逆な日にもなったりします。今日のよいことが明日も続くわけではない。また、その逆もある。

こうして一見安定性のない日々(とパターンが判断している)を送るうちに、気付いたことはこれらの動きを受け入れられるようになることのほうが、それを回避する力を得たり、思い通りにしようとすることよりも現実的だし、そちらの可能性のほうが信じられるという感覚でした。

よくないことがあるから人は成長できる、というのももちろんそうなんですが、それは思考的理解です。それはそれで使えます。しかし、心を動かすのははっきりとしていないけれど、どこかわかっているささやかなものです。そこにはそもそもがあると思うんです。自分を成長させていくってその、自分の内にあるどこかわかっているささやかなものを信じていくという事だとも思いました。続く。

大人だからこそ
2024/05/14

昨日の話の続きですが、子供の頃からクラシック音楽や絵画や各種舞台や、旅行や、動物や自然に触れることなどなど、あったら、それはきっとその子の心のどこかに残っているものなんだと思う…んです。

そういう意味ではいろんな体験(子供の興味のある、行きたいところ、やりたいことだけではなく)をさせてあげられたら、やはりいいと思います。

で、こう言うと、自分は子供の頃そんな体験をさせてもらわなかった、1度もそんなことがなかったから、自分には何もないと言う方がいます。自分はそういうことを親から与えられなかったから感受性もないし、表現力もないし、そんな自分は魅力的じゃない、と。

確かにそういう環境で育った人もいます。だからと言って自分はこうと決めつけてしまうことはないです。子供の頃そういう体験がなかったのなら、大人になった今やればいいのでは?と思う。大人になった今だからこそできるのでは?

やらないで、子供の頃にそういうものを与えてもらった人をうらやましいと思ったり、いつもそういう人と自分を比較してうじうじとしているって、何もやらない言い訳のようにも思えるときもあります。こういう理由だから私はこうなんです、だからやらない自分、出来ない自分でも認めてくださいというような。

そう生きたいという自分の意思があればそれはいいと思います。そのときにはそれをはっきりと表明できると逆にかっこいい。

この学びも同じです。あの人は頭がいいからできている、行動力があるから進んでいる、時間があるから、お金があるから、それに比べて自分は、ではない。あの人が持っていないものを自分は持っていることがざらです。

自分は勉強ができなかった、本も読んでこなかった、考えることもしてこなかった、行動する事にも慣れていない、だから、進めなくても認めてください、出来ない自分でも認めてください、ではない。大人になった今の自分が勉強して、本を読んで、考えて、行動して、そうやって自分を育てていかれるのは大人だからこそです。

子供の頃につまずいて、又は何も与えてもらわなくて(‥ということはないだろうと思いますが)そこで自分が決まってしまうのであれば、多分、全員、豊かな自分になることはなく、自分の人生を生きることはありません。結局、自分で全部決めているんです。

人間、いつからでも軌道修正ができます。あとはやりたいかどうかだけです。

フィンランディア
2024/05/13

昨日は、茅ヶ崎交響楽団の定期演奏会へ行きました。

今回はファミリーコンサート。ちびっこがいっぱいだろうと思っていたら、やはりそうでした。幼稚園生、小学生、中学生が家族と一緒に来場していて、いつもの演奏会とは違いました。

私は2階席から下を見ていたのですが…。子供のおもしろさをたくさん見ました。司会のおじちゃんが出てきて、子供たちへ話かけます。「拍手をたくさんしてくださいね、でも、大人の人たちが拍手したときだけですよーーー。走り回ったり、大きな声を上げたり、席を立ったりしないようにしましょうねーーー。前に座っている子は足をばたばたさせないでね、そうしちゃうとね、オーケストラの人たちが間違えちゃうんですよーーー」と。

しかし…演奏が始まったとたんに席から立ちあがり、指揮者のマネをする子、声を上げる子、リズムに合わせて体をくねらせて踊る子、そしてぐずったり、泣き出したりする子が続出。そうなれば、お母さん、お父さんは子供を抱えて走るようにして退場。

私はあちこちで繰り広げられる子供たちの様を見ていておもしろかった。こうして前半が終わり、休憩をはさみ、後半もばたばたとしていましたが、いよいよ最後の曲となりました。

最後はシベリウス作曲「フィンランディア」でした。この曲はフィンランドの第二の国家といわれているほど、フィンランドでは意味を持つ曲です。私は今回、これを楽しみにしていたのですが、子供にはそれこそこれはたいくつだろうし、ちっともおもしろくないだろうと思いました。

私の近くにいた女の子もそれまで「いつ終わるの?もう終わるの?」とお母さんに何度も聞いていたので「もう、嫌だ」と言い出すのではなかろうかと思いました。今までくねくね踊っていた子もさすがにこの重さのある曲では踊れないだろう。

そして曲が始まり、暫くすると、なぜだか、会場全体が静かです。子供たちも今までよりもじっとしています。私の近くにいた女の子もお父さんの膝の上から舞台をじっと見つめています。そして気付いたのはそのお父さんご自身が、聞き入っているということでした。それまでは子供を見ることで懸命だったお父さんが、子供のことをしばし忘れて聞いているように見えました。

お父さんが聞き入っているということを子供は感じとり、子供もそこに自然とひきつけられていくのだろうか?と、没頭して聞きたい反面、観察もしたい私。途中で泣き出す子もいましたが、最も子供にはうけないであろうこの曲に何故だか皆がひきつけられていたと思います。

このように、クラシック曲は、ずっとつまらなくても、どこか1部分だけでも、自分が引きつけられるように聞き入るところがあれば、その瞬間その曲の世界に接したことになると思います。それは子供も同じで、今日、体験したそれは、きっとその子のどこかに残るのだろうと思いました。大人も子供もそんなふうにクラシック曲に触れていかれると、敷居の高いものではないことがわかるのではないだろうかと思いました。やっぱり音楽っていい。

自ら飛び込んで
2024/05/12

5月の茅ヶ崎クラス、無事に終了いたしました。

今回は、私を含めて6人。いつも、古い狭い部屋で行なわれるクラスですが、皆さんの真剣さや探求心で部屋の中には充実した空気が満ちていました。

このように、何かを夢中になって没頭して学ぶって、尊いと思います。大人になってからは特に日々やるべきことがたくさんあって、まず、学ぶことって最初にカットされるものだと思います。

で、ここでの学びは一方的に知識を与えてもらう、というものではなく、私の(よくわからない)話を聞きながらもそれがどういうことであるのかを今の自分が受取り、考え、そこで今の自分は何をすべきなのかを模索し、また次のクラスのときまでに、具体的に行動を試みてみる、というものです。

で、ここにはいろんな能力が必要になると思います。聴く力、理解力、想像力、思考力、そして創造力、行動力、持続力、意志力、まとめていく力、感受性、表現力、などなど。特別に意識していなくてもそれら(もっとあると思います)を総動員しています。これって「私」を構成している資質です。それらを使うことで、クラスでの学びはいきてくると思います。

又、こうして使わざるを得なくなるから逆にそれらを育てていっていると言えます。人が生きていく上で「私」を構成している資質って使わざるを得なくなるようにできていると私は感じています。それは自己探求を望まない人であっても、いろんな出来事が起こることで、結果そこを使わなくてはならなくなるようにできていると思うんです。そのぐらいにそこをを使うことを「私」はやりたいと思っている。そんなふうにもともとがつくられているのだと思います(天の意思)

そこにあえて自ら飛び込んでそれらを使っていることをわたしたちはしているということです。出来事を通してそれらを使うのではなく、自発的にそこに飛び込んだわたしたちなのだと思います。

だからと言って偉い、すごいということではなく、やっぱり好きだからという事なんだと思います。好きである、ということが最も大事です。面白いから好き。願わくばここ(だけ)をどんどんふくらませていっていただけたらと思います。

他人が教えてくれる自分の成長
2024/05/09

「自分の成長の証は他人が教えてくれる」と昨日書いた、これですが。

これは、ある日、他人から「伊藤さん、成長しましたね。素晴らしい」と言われるということではありません。その人がどんなに社会的に成功している人であってもです。

「近頃、数人から成長したね、と言われるんです」と言う話も巷では聞きますが、それはほぼほぼ他人のパターンで言っていることです。ほとんどの人はパターンで生きているので誰かに対して「まだまだだね」「成長したね」と簡単に言います。いずれも自分のパターンが望むことを欲しての発言です。

ですから、それをそのまま、まだまだなのかあ(と落ち込み)成長したのかあ(と喜ぶ)と捉えないでください、という話です。

他人が教えてくれる自分の成長とは、自分が今まで嫌で嫌で仕方のなかった人に対して、これも自分の問題であると引き取り、自分で努力をして、その人に対しての思いを変えていくことです。その人との関係性を築き直していくことです。

それが出来ていく間に、少しずつ、自分自身の、その人への変化を自分が感じ、思考が変わりしていくことが他人が教えてくれる成長ということです。そう考えると、その嫌な相手が自分を育ててくれているとも思います。かと言って、だからその人に感謝しましょう、ではありません。自然と感謝に変わる日まで嫌いでいいんです。

でも、嫌いでありながらも、自分はどうありたいかなんです(この、微妙なところのスキルを育てる機会を他人が与えてくれているんです)それも、その人の全てを受け入れられる自分でありたい、という崇高なものでなくていいんです(これも自然とそれが湧き出る日まで待ちます)とすると、どんな自分でありたいのか。そこを考えてみてください。

今日から2日間の茅ヶ崎クラスです。今回も岩手クラスからおひとり参加されます。年内の茅ヶ崎クラスは毎回岩手クラスの方が参加されるので、楽しみです。また毎回違った風が吹き、違ったクラスが展開されるでしょう。クラスって参加している人によってその色が変わってくるところが大変おもしろいです。

体感という感覚
2024/05/08

何かわからないことがあっても今はすぐに何でも調べられて、それについてのたくさんの回答を見ることができます。そういう点はものすごく便利になりました。これからも加速してますますそうなっていくのだろうと思うのですが。

それと逆行するように「魂の道場」の学びは、わからないことがあっても調べようがなく、回答に近いものをみつけたとしてもわからず、これでいいのだろうか、と考えてもわからず、というものであるところが悩ましい。

自分の精神性をあげていく、その道は真理に近づいていく。それを悟りという言葉におきかえることもできるし、ミームを上げる、霊性を上げるという言い方もできると思います。

これらは知識でわかるものではなく、自分で体験していくものです。体験しないとわからないので当然時間がかかります。又、これらはなくても生きていかれるので、絶対必要なものでもないです。

で、体験していく、ということですが、その体験って頭でわかることではなく「体感という感覚」でわかるものです(…と私は思う←絶対ではないです)その感覚を察知しているものは「私」。

そして、そのときに今まで知らなった、体験をしています。それを言葉にすると「私、変わった」というものだろうか(私の場合)今まで知らない自分をその瞬間に体験していて、どこかでこれがこれからの自分の基盤になるのだろうということも同時にわかります。その感覚を失うことはないと、わかってもいる。思考する前にそういうものを体験し、そのあとにそれについて思考し、人に伝えるときにはこのように文章にする。しかし、その文章では体感の感覚って伝えられていないとも思います。

きっと皆さんも大なり、小なりそういう体験をしているはずです。ただ、そこを察知できていないのかもしれません。しかし、証拠となるものがあります。それは、以前よりも幸せに生きているという実感があることです(思考すれば幸せです。生活できているから。しかしそこではなく)そして、わかりやすいこととして、今までの複雑で煩わしい人間関係が緩和されていると思います。人とぶつからないようになっている、とか、人とのトラブルが減った、とか。

これは順調にいっている証だね、と言えます。何より自分が楽になれているのだから順調なんですが、なんと、自分の成長の証は他人が教えてくれるのです。

今の自分はまだそうではないと思う方もいるかもしれませんが、それはいつかやってきます。ただ、そう在りたいと決めていないとだめです。自分には無理と決めている人が多いのも現実。自分はどう在りたいか、に、ヤッパリ戻ってくる。

役割
2024/05/07

GWも終わり。私はこの連休中2日間「こまめ」でお手伝いでした。と言ってもひたすら器を洗う、洗う、拭く、拭く、片づけるでした。

この、もくもくと単調に動くときに「スイミー」のことを思いだしました。今、自分が置かれているところでの役割をちゃんとやって、全体がうまくいくようにするというところにいることが実感でき、こうしてチームで働くのもいいものだと思いました。

自分の役割、それは日々同じことでもあるかもしれないし、その時その時で自分の役割を察知してそれとして動く、というものでもあります。いずれにしても役割と言うところで見ると、それは1つの目的のためにあるものだと思います。

役割は自分が自分が、は、なくて、目的のため、誰かのため、何かのために今の自分にできるところでそこへ向かうものです。

で、これは、「私」に恥じないように生きることも同じだと思いました。「私」に恥じないように生きるという自分の役割をちゃんとやる。それが集まり、1つの目的が満たされる。誰かを助ける。何かを成す。一人一人が役割をもって生きることで何かが動いたり、作られたりするのだと思います。だから、役割をはたす小さな一匹でいたいと思います。個人でありながら、役割をはたす自分でもある。なんかいい。

私には到底無理
2024/05/05

今やいろんな情報を簡単に手にすることができて、それはカウンセリング(悩みの解決)の世界も同じです。

悩みや問題、苦しみは人にはつきものですが、それを解決するためにいろんな人のいろんな手法を見聞きすることが今は誰でもできます。私も、興味のあるものを時々見聞きしたりしますが、そこで気づいたことがありました。

それは、私はそこで紹介されているような手法、考え方で変われる魂のレベルじゃなかったんだということです。

例えば「過去に自分をいじめた人を何十年たっても今だに許せなくて、その人に悪いことが起きればいいと思ってしまいます。それがとてもつらいです」というような悩みに対して「もう、過去のことです。そんなことにあなたの貴重な時間を使うのはもったいないです」「相手にはあなたをいじめた結果がかえってくるのでそのままでいい」「そんな人もいる、と気持ちを切替えて。あなたがこれから生きるのにもうそのような人とは関わらないということを学んだのです」「憎しみは憎しみしか生まない、何の解決にもならない」などなど。そのような起きていることの視点を変えることを勧めるようなものが多いです。

それが理解できて、そのように自分を変えることが出来る人も確かにいるのだと思う。そこまでの魂レベルの人たちなんだろう。ちょっと何か一言でそこへ上がれる人たち。

しかし、私には到底無理でした(今はそれも使えるようになりましたが)もし、私がこの悩みを持つ人であれば、頭ではわかっている、でも、この許せない感情、そしてそれに飲み込まれてしまう苦しさ、これをその言葉で鎮火させられることはできない。というのが正直なところです。それは、そのレベルではなかったんだと思いました。

で、そんなふうに感じている自分を誤魔化して、いられるほどの体力も気力もない。そして、これは自分の性格ですが、解決するなら根底から、とか、やるなら真理に近づきたい、とか、自分を成長させたい、とかがあってのここでの手法だったのだろうと思いました。

自分自身があまりにうまくいかずにずっときての、自分の性格を含めて作った苦肉の策「魂の道場」。しかし、今、これをやってきて本当によかったと思えます。やはり自分の在り方に正直であることが大切なんだと思いました。

日々忙しい
2024/05/03

また、TV番組の話で恐縮ですが「正解の無いクイズ」という番組があります。(月〜水 17時30分〜17時45分 テレ東)

MCは、呂布カルマさん、山添寛(相席スタート)さん、加納(Aマッソ)さんの3人です。クイズ番組なんだけど、正解が無い。このMC3人の他に天才、奇才、変人の方達の正解もあり、その日のベスト1(カルマルアンサー)を3人で決めるというものです。

これが私、すごくおもしろくて。

クイズは「この世で一番無意味なこととはなんですか?」と、とても哲学的な問題もあれば「あなたは小学生です。授業中に思いっきりおならが出てしまった場合の一番良い誤魔化し方を教えてください」というようなタイプのものもあり、問題に枠なし、これがいい。私も一緒に考えています。おもしろいです。一応はっておきます。

https://www.tv-tokyo.co.jp/seikainonaiquiz/

こうしてみると、本当に正解ってなくて、その人その人の正解があるだけ。正解は下ネタあり、ありえないだろう、と、思わず吹き出すもあり、かと思うと、そうきたか、という意表をつくものもあり、とても知的で、ユーモアにとんだものもあり、で、どれもいいです。

このさっぱりといい感じって、きっとその正解をその人自身が「いい、オレ最高、これはいける」と思っているからだと思います。こんなこと言ってダメな奴と思われないだろうか…というものが一切ない。それがにじみ出ています。そういうところが好きだ。

このように「ちゅらさん」「正解の無いクイズ」と日々忙しいの。おまけに今月は大相撲もあり、ますます私は忙しいのです。

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