本来へ戻る | - 2024/05/24
- 人は、本来のところへ戻る、本来の姿でいる、本来のおさまるべきところにおさまったときにほっとするんじゃないだろうか、と、近頃、とても思うようになりました。
それは、以前より、より自分の感覚を指針にしているからじゃないかと思います。
直感、直観に従うことをお勧めしていますが、なかなかそこを使うことは怖いと思うかもしれません。そんなことで大きなミスをしたら、もし、うまくいかなかったら今まで以上に大変になると考えるからだと思います…が…考えて考えてのときのほうが、よくないということは体験ずみなので(そして大先輩方はそう言われているように)私はやはりこちらをお勧めです。
ただ、練習は必要なので、以前お教えした、リスクの低いところでこれを使って、自分のそのスキルを育てることをするといいと思います。今日のお昼は「パスタ」か「そば」かというような。明日の休日は「映画」か「美術館」というような。軽く部屋に入り、一瞬の感覚で決め、決めたことは必ず実行する、がスキルアップの練習になります。
でーーー、これを2,3回やりました、では練習ではありません。練習ってそこでのこつ、とか、うまくいく感覚をつかむところまでやるのが練習ですのでそこは間違えないでください。
で、本来のところへ戻る、本来の姿でいる、本来のおさまるべきところにおさまるということですが。本来=そもそもです。自分とはそもそもなんなのか、とか、事象とはそもそも何なのか、とか、生きるとはそもそも何なのか、とか。それを頭を使って導き出すのは言葉ゲームのようでおもしろいですが、それを、直感で、直観で捉えられるようになっていくと、それは自然と腑に落ちていくので自分の血肉になると思います。
例えば、中立ワークで「ただひとつの体験」というプラス意味づけでもマイナス意味づけでもない部分があります。これは、全ての事象には本来、意味がないという根源的な在り方を表す言葉です。この言葉を言ったり、この言葉を感じたときに、自分の中に安堵感があるんです。そもそも、全ての事象はそうなので、その言葉は本来のところへ戻る言葉であるからだと思います。本来あるべきところへ戻ると人ってほっとするんじゃないのだろうかと思うんです。
本来あるべき姿、自分は「私」、おさまるべきところにおさまっている、宇宙のルールの中で生きている、とか、それを信じて生きている、とか。「本来」というものによって私たちは、心の安堵感というものが体験できて、そのよき感覚は、それは真理ですよ、と教えくれていると思います。
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