ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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誰が言っている?
2019/04/22

パターンたちの住んでいる卵型の部屋の少し上のところに「私」がいて、その「私」が本当の自分であるということを、はじめのうちは少々強引に意識して目を向けながら少しずつ少しずつ本当の自分はこれなんだと認識していきます。

今までは感情や思考や性格や記憶や身体が自分だと思っていたのにあるとき「私」という予想もしなかったものがあらわれて「今日からこれが自分だよ」と言われても今までの自分への認識を一気に変えることは難しいです。

しかし、ワークをしたり、熟考したり、対話をくりかえしていくうちにそのあらたな自分への認識はだんだんと定着していきます。どれだけそこへの定着があるかということが変容の鍵になります。

自分は「私」なんだとわかっていても時々聞く言葉に「私には「私」がいるから安心」というようなものがあります。これは、何かおかしいでしょう?ここでの「私には・・・」の私って誰?「私」がいるから安心と言っているのは誰なんだろう?

ここでの「私には・・」の私はパターンです。パターンが「私には「私」がいるから安心」と言っていることになります。だとしたら、そのように発言をするときに正しく言うことが大事です。

「私には「私」がいるから安心・・・とパターンが言っている」と。

頭ではわかっているからいちいち細かいことはいいじゃん、と思うかもしれませんが、自分の発した言葉は自分が聞きます。だから自分に正しい言葉を聞かせてあげるために、正しく言うことを心がけてみてください。そして頭で考えていることと、発言を一緒にすることで一致性もそこには生まれます。

ささいなこと、でも、すごく大事なこと。言葉の力は思っているよりも自他への強さと影響力があります。

誰もが怖い
2019/04/21

東大の入学式での、上野千鶴子氏(昭和23年7月12日 -70歳 日本のフェミニスト、社会学者。専攻は、家族社会学、ジェンダー論、女性学、東京大学名誉教授)の祝辞に賛否両論、という記事がありました。

私も全文を読んでみたのですが。

批判的な意見としては「入学式で話す内容ではない」「祝辞で言うことではない」「ジェンダーに結び付けすぎている」などありました。私の印象としては、入学式の祝辞で話たからこそ意味があるのではないかと思いました。「内容として、特に珍しい話ではない」という意見もありましたが、そんな特に珍しい話でもないことさえもこの国ではまだ成されていないことが浮き上がります。

例えば、女子の東大生は自分が東大生であることを隠す傾向にあると言います。それは東大といえば、相手が退くからだそうです(この場合、相手は男性がほとんどだと思われますが同性もそうだと思います)

なぜ、女子学生は自分の優秀さを隠すのか?ということに視点が移ります。それは女子は子供のときから「かわいい」ことを期待されているからだというのです。かわいいには、愛される、選ばれる、守ってもらえるという価値があってそれには相手を絶対におびやかさないという保証が含まれていると上野氏は話します。

この現代においても、今だにそうである事には驚きますが、確かに自分の周りを見ても、それは自然とあって、女性自身の中に深く存在しているのを感じます。そして女性同士でも優秀であることに対して足をひっぱりあうことも。

又、男性はそんな女子に比べ常に強く、女子より優秀で、上に立つ存在として子供のときからそれが男性だと期待されています。だとしたら、東大生ではない男子が東大生の女子に対して退くのはわかります(これは社会に出てからより顕著になるのだそうです)自分より優秀な人に自分がやり込められるのではないかと怖いので、退くことで自分を守ります。

誰もが怖いんです。

怖いから人の上に立とうとする場合と、怖いからかわいくいようとする場合とがある。これはあらゆることの元凶だと思います。

又、上野氏はこう続けています「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」

強がらず、自分の弱さを認め・・・・だから他人のそれも受け入れられ、だから支え合うことができる。

白を毎日選ぶ
2019/04/20

白パターンは毎日選ぶ。えーーーっ?毎日選ぶの?・・・白黒ワークの時だけ選べばいいんじゃないの?白黒ワークをやって、しばらく選んでいれば、自然にいつも白パターンで生きられるようになるんじゃないの?と思う方もいるかもしれません。これ・・・・なりません。

あるマスターが「自分がいつも意識的に選び続けていないと、すぐに元の自分に戻る」ということを話していました。ここでの元の自分というのは、エゴと思考の自分ということです(黒パターンです)マスターでさえそうなんです。だから私達は毎日選ぶ。

最初のうち、黒パターンに対して対極にある白パターンを選び、それを実践して、今まで黒パターンで生活していたものごとを白パターンで生活することで、新な生き方を知ります。「そうか、白パターンで生活することもできるんだ」という発見は自分の力でそうできた自分への感動と、新な生き方を得た喜びを感じられると思います。

しかし、白パターンを選ぶことは、ここがゴールなのではありません。だんだん、選ぶことの連続に慣れてくると、白パターンを「私」が選んだ瞬間、本当にその一瞬が今までとは全く違う心身になる体感(違う領域にいる感覚)を体験します。それは少々大袈裟に言えば、地獄から天国へ一気にうつるかんじです。

それは快であり、楽であり、軽く、明るく、何かに守られているような、そもそもの自分の在るべき所であることを思い出す感覚です。

つらいときは、そこへ行かれる、一瞬で。それが欲しくて、そのために白を選びたいというようになっていくと思います。無条件で選びたい。そうなれば毎日選ばなくてはいけないではなく、毎日選んでいたい、というように変わってくると思います。

かと言って、マスターのように一瞬一瞬を選び続けるというのは大変だと思います。そこで起きている間、4、5回選ぶようにすればいいのではないでしょうか。黒パターンにひっかからなくても、時々いまの自分を見て、白を選ぶ。やってみてください。

八重桜が散るころ・・・
2019/04/19

今年も、八重桜の時季がやってきました。

毎年、八重桜のことを書いていますが、私はソメイヨシノよりも好きです。

八重桜の木の下にいると、呼吸が苦しくなりそうな気分になります。ソメイヨシノの木の下は、清らかで、すがすがしいのに。なんででしょうね。

あのぽってりとした重い花のせいでしょうか。あの濃いピンク色のせいでしょうか。

ソメイヨシノが散って皆が「もう、桜も終わったね」と言うのを八重桜は聞いていて「これからよ」と言っているような気がします。そのくらい自己主張が強い(と思われる)から木の下にいると苦しいのかも。それでも、やっぱり好きです。八重桜がもっている毒の部分(と勝手に私が思っているだけですが)と自分の持っている毒の部分が同じようなものかもしれませんね。もう、しばらく、この桜を愛でたいです。

八重桜が散るころ、平成も終わる。

世界のために泣く
2019/04/18

先日読んだ「植物と叡智の守り人」(ロビン・ウォール・キマラ‐著)の中で著者が深く悲しむ場面があります。

それは、自分のことではなく、今、世界中に起きている、悲惨で先の見えない物事に対しての悲しみです。こんなに悲しいことが、こんなに大変な思いをしている人達がいるのに、自分には何もできないのだろうか・・・と。そんな著者がこのように書いています。

『「お泣き、お泣き」と水辺からヒキガエルの声がきこえる。そして私は泣く。もしも悲しみが愛への入り口なら、私たちがバラバラにしようとしている世界のためにみんなで泣こう。愛によってもう一度、それを一つにつなぎあわせることができるように』

涙を誘う一文です。そして、この皆が感じている悲しみは、きっと愛の入り口なのだと思います。愛の入り口が悲しみであることは、もっと悲しいことだけれども、それでもそれが愛につながるのであれば、それを有効に使えばいいと思います。

もし、皆が泣くことで、もう一度、一つにつなぎあわせられるのなら、私もたくさん泣きたいと思う。涙の一粒、一粒で、誰かが救われ、どこかが平安になるのであれば。傷ついた地球が癒されるのであれば。それを世界中の人がやれば、もう一度、一つにつなぎあわせることができるのかもしれません。

ここにあるように、ネガティブな感情というのは、愛につながるものです。自分の悲しみがあるから他の悲しみがわかる。他の悲しみを想像できる。そうやって自分の中のネガティブな感情を他のために使うこともできます。人にムダなものはひとつもないと思います。

人は自分が他に与えた愛を受け取る
2019/04/17

人は自分が他に与えた愛を受け取ります。これは本当にそうです。

このことを体験するには、自分が他に与えたいという純粋な行為を行ううちに、少しずつですが受けとるという体験をすることになります。

他に与えるということには、いろんなものごとがあると思います。わかりやすい所では寄付とか、ボランティアとか。道を歩いていて、困っているお年寄りがいたら、気になって、暫く様子を見て、何か手助けしたいと思って声をかけることがあると思います。又は、1人でいる小さな子供が目の前で転んでしまって、膝から血を流して泣いていたら、すぐにかけより、声をかけできることをします。こういう小さなことも他への手伝いという愛を他に与えています。

又、住んでいるマンションのエレベーターの中にゴミが落ちていたら、拾って家のゴミと一緒にしておくとか、洋服を買いにいってハンガーから服が下に落ちていたら、それを拾ってハンガーにかけておくとか(私はよくこれをやります。下に落ちている服がなんか寂しそうに見えるので)そのときそのときで「そうしたいから・・・」という与えるという純粋な愛に基づく行為が行われます。

こうして他に与えることで、自分が受け取るものってなんだろう?特別に何かいいことが起きるのかなあ、同じように誰かに助けてもらえるのかなあ、服を拾い上げている私を店員さんが見て「その服、さしあげます」と言われるのかなあ(それは…ないだろ)お金が入るのかなあ、今の悩みや問題が消えるのかなあ、震災になってもうちだけが残るのかなあ、いつも守られるのかなあ、などなど、何が与えられるのだろう・・・・と。

このときに私達が受け取る愛って?それは自分で感じてもらうのが一番だと思います。そのためにも生活の中で小さな親切を手助けしたい、というシンプルな動機で行動してみてください。きっときっと「人は自分が他に与えた愛を受け取る」という体験をするはずです。

知ることは大事
2019/04/16

TVで見た番組。「脱プラスチックへの挑戦 持続可能な地球をめざして」この副題の「持続可能な地球をめざして」という言葉には、怖いものを感じます。

世界規模で起きている地球の異変。もう、地球はぎりぎりのところなのだろうときっと多くの人が感じているはずです。

番組は「オーシャンクリーンアップ」というオランダのNPO団体(20代のボイヤン・スラット氏が立ち上げた)の活動の報告や、科学者、生物学者、又、プラスチックビジネスに関わる人のインタビューをまじえながら現在の海中にあるプラスチック問題についてのものでした。

海に流れついたプラスチックはゆっくりと時間をかけながら劣化し、小さくなり、0.5mm〜1.5mmのマイクロプラスチックといわれるものになり、海中をただよいます。それはなくなることがなく、今のまま使い捨てのプラスチックを使用していくことでその量はこれからも増えていくことになります。

魚がそのマイクロプラスチックをエサと間違えて食べてしまい、それは食物連鎖にのって人の体内にもやってくることになります。東京湾でとれたカタクチイワシ69匹のうちの49匹からマイクロプラスチックが出てきたそうです。東京湾だけでなく、日本はぐるりと汚染されています。

海中のプラスチックからは化学物質が流れ出し、温室効果ガス(特にメタンガス)も排出されていることがわかったという研究結果もありました。

どうしてプラ製品が海に入るの?と思うと思いますが、大方はアジア大陸のプラスチックを適切に管理していない地域からの海への放棄や川からの流入だということです。日本は、きちんと管理できているといっても、過去に流入させたものもあります。海はつながっているのでどの地域からのものであっても、海全体に問題をもたらします。

ある学者の方が「地球にも限界がある。今はもうぎりぎりのところにきている。だから今すぐの転換が必要」と話していました。この転換の時期を先に延ばしてしまうと、きっと人は耐えられない生活をしいられるようになるということでした。

子供たち、そのまた子供たちのことを考えていかなくてはいけないと考えます。私たちのせいではない、はなく、私たちの前時代の人達の結果を今私達は受け取り、また、私たちの結果を次世代が受け取るということを繰り返していきます。気付いた人から自分のできるところで何かを転換させていかなくてはいけないと思いました。

こうしてみると世界中、あちこちに問題が山積しています。それは憂鬱なことですが、知るということは大事なことです。

怒りを大切に
2019/04/15

「怒りを表現することで意識の領域があがる・・・」と言ったら、お会いしている方が「えっ?」と大変驚いていました。

この言葉はその方に向けて言った言葉なので、誰にでもそれがあてはまるということはありません(グループでのセッションにおいて私が一人一人言うことが違うのは、こういうことからです)怒りはよくないものだとパターンが思い込み、それとは縁を持つことなく生きてきた方にはこの部分を使ってバランスをとることも必要になります。

しかし、それはむやみやたらに誰に対しても怒りをぶつけるということではもちろんありません。自分の怒りをちゃんと伝えることが必要な人や場合には、それを行うことでひとつ意識の領域が上がります。

上がるというのはその怒りの表明によりそれが排出され実際、軽くなるというのと、新なことを自分が行ったことで、今までとは違う、新な領域へ行くというのとによります(領域は上にいけばいくほど軽さを増します)

そして、怒りという感情は、最初から生まれるのではなく、怒りの下には「寂しさ」「孤独感」「不安」「恐怖」などがあります。まず、この感情を感じていたのに、それをうまく相手に伝えられなかったり、自分自身で抑え込んでいくうちにそれが怒りになっていきます。その怒りをまた自分で抑え込んでいくと、恨みの感情に変り、それは自分の心身を攻撃するようになります。そうなってしまわないように、怒りは大事にしないといけません。

怒りを表現するというのは、黒パターンで行ってしまうと相手とトラブルになりますが「私」がその怒りの下にあるところから相手に伝えることで、それは落ち着いていきます。これが行えるためにも、自分の中に湧いてくる感情には繊細に正直に気付いてスルーしてはいけません。

そして、本来、「寂しさ」も「不安」も「恐怖」も「怒り」も「恨み」さえも、感情は神聖で、純粋なものなんです。ポジティブな感情にはそんなイメージがあるかもしれませんがそれはネガティブな感情も同じです。本質に持つ神聖さと純粋さはどの感情も同じです。ただ個性が違うだけです。「怒り」を大切にしてください。

図太く、図々しく
2019/04/14

自分の「正しさ」(・・というパターン)が大きくて強いと、自分を責め、苦しめることになります。

これはこうするべき、これはこうあるべき、他人からの要求には応えられる自分であるべき、こう考えるべき、こんな言い方はするべきではない、こんなことを言ってはいけない、思ってはいけない、決めたことはやらねばならない、もっと強くならなくてはいけない、もっと健康にならなくてはいけない、なぜならば、それは正しいことで、そうできることが正しさだから。

その人が正しいと信じていることは「正しさ」という(一見)善きこととして、自分を縛っていきます。しかし、ここでの「正しさ」はパターンであって(そこに伴っている感情からそれがわかります)自分が子供のころから両親に言われてきたことや、一般的な常識や、そのパターンを持ちながら大人になって自分自身でそのパターンを強めていったものに他なりません。

そうか…パターンなのか…と知ってほしい。

そして、動かせる(選び変える)ことができるのなら、自分の中で、まあいいか、とか、そんなに深刻にしなくていい、とか、そんなにいちいち気にしなくていい、とか、自分にはそれは合わない、自分にはもう、それはいらない、とか、全ては自分の個性、とか、そんなふうな白パターンを本当の自分「私」が考え、選ぶことをしてほしいと思います。

…そんなふうな図太く、図々しい自分中心の白…

そういう白もぜひ自分の選択肢に入れてほしいです。誰が作ったのかわからない完璧さに沿って生きるのではなく、図太く、図々しく生きよう。それができるようになってくると、怖いものも減ってきます。怖いものが減ってくればより自分らしく生きられます。

転生しているとはいえ、今生は1度きりです。もっともっと自分という個体を大事にしていいんです。誰とも比べられない尊い自分、その自分を生かしてあげるためのひとつの選択肢として図太く、図々しく、これもぜひ使ってみてください。

もう自分のことで泣かない
2019/04/13

人は自分の心を自分でおさめていかれるようになると、もう、自分のことで泣くことがなくなっていくんだなあと思います。

自分の心なのに、自分でそれをおさめられないうちは、他人の言葉に、抑えていたものがあふれ出し、泣いていたことを思い出します。その他人の言葉とは「大変だったね、よく頑張ったね、つらかったね」とか「大丈夫だよ、あなたは大丈夫だから」とか「あなたには素晴らしいところがあるんだよ。それを私はわかっているから」とか「あなたはすごい」など慰められたり、励まされたり、褒められたりするたびに、ぐっとこみあげてくるものが昔はありました。

それがだめなことと言っているのではありません。それは今の自分を知ることになります。

まだ、誰かにその言葉を言ってもらいたい、という自分の状態。誰かに自分の心をおさめてもらいたいという状態。そうか、そういうところに自分はいるんだと知ることができます。

何度も言いますが、それがだめなこと、とか、レベルが低いとか、他人にたよってはいけないと言っているのではありません。もっと、クールにちゃんと今の自分の在り方を知る、見るということに使えますということです。

しかし、だんだんと、自分で自分の心をおさめられていくうちに、他人に同じことを言われても、それで、ぐっときて泣くということがなくなります。時には自分を思って言ってくれている他人の言葉も、感謝をするものの、どこか他人事のようにさえ聞こえてくる気がします。

もう、私は自分の心に自分の言葉で声をかけ、それで心が落ち着くことを知っているという感じです。自分で自分の心をおさめていかれる。

そして、そうなってくると、だんだんと自分から離れていき、自分は今のままで、もう十分だという気持ちも芽生えてきます。そんなときに自分が流す涙は他のものに向けられていることも知りました。

ずっとおきざりにしてきた自分の心、時には他人からの優しい言葉でどうにか保ってきた自分の心。その心に自分が目を向け、おさめられるようになることで、もう、自分はいいと思えるようになります。そして目が自然と他にむくのでしょう。

ということは、心をおさめることは自分への執着が消えていくということだと思う。視野が広がること。心を自分でおさめられなかったから、自分という執着だけが大きくなってしまっていたのだと思います。そして、それが苦しい。

やはり、まず自分だと思います。自分の心を自分で満たしてあげることからのスタートになるのだと思います。

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