ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ひっぱっていく「私」
2018/06/07

先日、朝から気持ちがわさわさしていて、何故だかやること、やること、後手後手になってしまい、うまくことが運ばず、なんとも気持ちの悪い日がありました。

そんな感情や感覚をかかえながら、何が起きているのか、自分をよく観察してみることにしました。特に何かがあったわけではないし、その日はカウンセリングにいらっしゃる方もいなかったので、時間はたっぷりあったし、何かやるべきことがあったわけでもないのに、どんよりと停滞している感じでした。

自分の中を観察してもよくわからず、このまま後手後手停滞でもいいか、とも思いましたが、それもなんだか選びたくなくて、自分で自分を上げてみたらどうだろうと思いました。上げるというのはテンションが上がるように、楽しいことをする、とか、笑える番組を見る、とか、おしゃれなカフェに出向いて自分をゆっくりさせてあげる、とか、ということではなくて、この停滞を、ひとつひとつこれからやることにリズムをつけて突破してみようということでした。

例えば、夜ご飯の用意をしながら、停滞ムードでニンジンを切るのではなく、切るということに集中して「はい、はい、いいよーーー」と声をかけながら、丁寧に行う。そこまでできたら、それをフライパンに入れて炒める。炒めるときも集中して行う。それができたら味付けをする。「さあ、ここまでできたよーーー。次は?お皿に入れよう」というように、自分で自分にやることを少々オーバーに与えてみるということです。こうすることで、そこにリズムができる、そのリズムにひっぱられて次から次へと動くということになり、結果、あの停滞どんよりは消えていました。

ただただ時間がすぎていっていたこの日の前半とはうってかわって自分で時間を使っている感もありました。

こんなふうにすればいいんだなあとつくづく思いました。ひっぱっていく「私」。

レスキューできるのは「私」だけ
2018/06/06

そもそも、理想の自分でありたい、ということは、今の自分では(昨日書いたような自分ではないので)だめだと思っているからです。

そして、そんな、だめだと思っているパターンが存在するときには、それを認めたくない、そんなわけない、というパターンも同時に働く方が多いです。この認めたくない、のパターンがほぼない、極小という方もいます。こちらのほうが、シンプルなのでワークはしやすいかも。しかし、それは精神性や霊性が高い人ということではありません。ただの個性。

又、認めたくないパターンは、だめだパターンが大きくなりすぎて不都合がおこらないように、というレスキューの役目もかっていると思います。そのパターンがいてくれることで、だめだ、だめだと自分を追い込んでしまうことから逃れてこられたのかもしれません。

認めたくないパターンは、どれだけ自分がだめではないかを、だめだパターンに聞かせ、自分も納得しながらパワーをつけます。そうやって、だめだと思っているパターンをうまく抑えつつ、だめではない自分を確認しながら、そのように言動します。しかし、いつも言うように小学生レベルのパターンです。レスキューしているつもりでも、それは心もとなく、結果は思い望んでいるものとは違います。

しかし、パターンが悪いのではない。小さなことも自分の中に起きていることをスルーしないで、大事にしてあげていけば、パターンたちは落ち着き、整っていきます。もう、自分が頑張らなくてもいいんだ、と思うのでしょうね。ですからどのパターンとも仲良しになってあげてください。本当の意味でレスキューできるのは「私」だけです。

理想の自分でありたい
2018/06/05

理想の自分でありたいというパターンがきっと誰にもあると思います。

黒パターンが考える理想の自分なので、自他からこう見られたい(こうでありたい)自分像、自他からこのように評価されたい(こうであると評価したい)自分像、で作られているものです。

優秀で、才能豊かであり、聡明で、博識で、穏やかで、愛にあふれ、幸せ感をかもしだし、理知的で、情け深く、元気で明るく、毎日健康で、だれからも信頼され、感情の浮き沈みがなく、くよくよすることなく、ネガティブな感情がなく、他人から羨ましがられる自分、でも、謙虚、マスターのような存在・・・・とまだまだ黒パターンは出してきます。

そう見られたい、思われたい、そしてそうなりたい、と黒パターンは私たちを突き動かします。そうなれれば楽だよ、幸せだよ、自由だよ、そしてそんな自分は皆から注目されるよ、だからそうなろう、そうなるためにはどうする?どんなふうに振る舞えばそう見える?どんな言動をとればそう見える?と考えます。このあたり黒パターンです。黒パターンは小学生なみなのでそこのやり方しかしらず、従ってその中で模索していくしかありません。こうして自分の一生をここにかけて今世を終わるという人がほとんどだと言われるのもわかります。

特にスピリチュアル好きな人が落ち込みやすい「愛」というもの。どんな人でも受け入れられて、優しく接し、どんな人も許せる、それが「愛」と思っている人が多いです。だからそういう人は「愛」のイメージとしていつも微笑んでいるんです。明るく元気に笑うとか。でも、それ、黒パターンです。だからそこへの結果というものがいつもついてまわり、こんなに頑張っているのに、悲しい、むなしい、さびしい、わかってもらえないなどの結果が生み出されてきます。ここで、思うような結果に結びつかないのは、愛が足りないからだ、もっと愛さなきゃ、ではないんです。それは間違っていたんだということに気づくことなんです。

このことを素直に受け入れたときから理想の自分でありたいという黒パターンを客観的にみていくことができるようになります。少しずつそことの距離がとれていきます。

感謝の息吹きを入れる
2018/06/04

ここのところ手の平が気になっていて、よく手の平をみています。

これは手相を見ているのではなくて(手相の知識はないので)手の平って自分の中の仏性があらわれやすいところなんだろうなあと近頃思えてしかたありません。あと、目もそうですね。

祈るときにはそんな手の平を合わせます(合掌)右と左という2極をあわせてひとつにします。そうするとここにこの宇宙の全てがおさまっているように感じます。この頃は、その合わさった手の平を少しふっくらとさせて、そこに祈りの言葉を吹き込むようにして祈っています。感謝の息吹きを入れている感じです。この感じが祈りを創造につなげているような気がしています。

この祈り方は誰かから教えてもらったものではありませんが、自分の中の「私」という神のコピーの部分が今はそれをやりたがっています。だからそうしています。

祈りもこのように、そのときそのときでフレッシュなものを選んで続けてきました。

祈りの力はパワフルです。これも継続しないと感じられないものですが、私はぜひおすすめしたいです。祈っている途中で色々考えてしまう、集中できない、と言われる方が多いですが、それでもいいんです。続けていくうちに、だんだんとそれが変わっていきます。

祈りを通して「ほらね、継続していくとできてくるでしょう?全てがそうだよ、だから頑張って」と教えてもらっているようにです。

引き受けられる自分になる
2018/06/03

日々湧きあがる感情と感覚から「私」がそれを生み出しているパターンをみつけて、それに「私」が語りかけをする、というごくごくシンプルなことなんですが。

これが最初のうちはなかなか難しい。

これだけに意識を向けるということはわかっていても知らず知らずのうちに思考していて、どんな感情、感覚だったかはわからなくなり、そうなると「もう、感情はないので大丈夫」と思考しています。

この慣れてしまっている今までのやり方を、新なものに変えていくのには、時間がかかります。なんせ誰でも何十年とやってきたことなので、早々簡単には変わりません。

しかし、うまくできたり、できなかったりを繰り返しながら、だんだんとその新しいやり方を自分のものにしていきます。これは継続すれば必ず身につきます。そうなると、逆に思考でおさめてしまうことが気持ち悪くなってきます。それは自分の中に起きていることをそのままにしてしまうからだと思います。

自分の中に起きていることを全て自分で引き受けるというと、そんな、つらいこと、と思うかもしれませんが、その力がついていくと実はこんなに生きることは楽だったんだということがわかります。どれだけ自分が自他やものごとを思い通りにすることに執着し、エネルギーを使ってきたのかがわかるからです。それが最も自分を苦しめていたということがわかるからです。

引き受けられる自分になるために、日々湧きあがる感情と感覚から「私」がそれを生み出しているパターンをみつけて、それに「私」が語りかけをする、を続けてください。自分のために。自分の人生のために。

戸惑っていたら、悪いなあ
2018/06/02

亡くなった父が与えてくれたこと、というので先日日記に書いたこと。それは先祖との結びつきです。これはファンタジーだと思って読んでください。

あれから両親の曾祖父母の名前を調べ、祈りの中にその名前を入れて(だから時間がかかる)からとても近しい気持ちを感じるようになりました。

曾祖父母はもちろん祖父母よりも私の父母よりも早くにあちらへ帰った人達です。ですから、あちらの生活が長い分、きっと、人というものを、その在り方をわかっていると思います。

私の両親から与え、教えてもらうことより、曾祖父母から与え、教えてもらうことは宇宙的というのか、根源的というのか、私個人へと限定されているものではないように思います。

父母はまだ私の生活とか、健康を心配していたり、応援していてくれたりする気がするんですが、曾祖父母ともなると人というものを達観している感じを受けます。ひとりの人としての大事さはありながらも、私は宇宙を構成しているピースのひとつでしかなくて、それもルールにのっとって存在している、ということなんだ、ということが伝わってきて安心感とともに納得できるという気持ちになります。私は素材でいたいとここのところ強く思っているので、曾祖父母との結びつきはそれを強めてくれている気がします。

では、祖父母はどうなのかというと、曾祖父母と父母の間にいて、まだ少し人間臭くもあり、人間臭さが抜けていくところでもありで、可愛い初孫である私のことよりも、自分のことに気持ちが向いている気がします。でも、それもとても大事なことなんだろうと思うので、変な話ですが、応援したいです。いずれ父母もそうなっていくんだろうなあと思います。

それがこの宇宙のルールなのかもしれません。全てのものは流れ、変化し、形をかえてまた現れ、と動き続けています。時が来れば、全てはひとつの体験でしかなかったことへの気付きがあり、それを懐かしむときもあるのだと思います。そう思えると生きることに過度に重きをおくこともなくなっていきます。

ただ、曾祖父母はだんだん自分というものを消していっていたのに、私が名前を呼ぶものだから、戸惑っていたら悪いなあというのもあります。

問われている
2018/06/01

日本大学アメフト部の話が連日です。

前監督とコーチの会見が虚偽に満ちたものであったということ、前監督には誰も何も言えず、絶対服従であったこと、大学として古い体制のままきてしまっていること、そして、新たな事実が判明しました・・・とまだしばらくはこの話が続きそうです。

この2人についてほとんどの人が不快感や怒りを持ったと思います。しらーーーっと虚偽の発言をしてしまう、タックルをした学生を自分の保身のために使っている、というところへの抵抗なのだと思います。

でも、こういうことって私たちにもあるんじゃないの?と私は思います。ここまでおおごとではなくても、又は今はそうではなくても、ある、あったということがあるのでは?と。自分はあったとしてもこんなにひどいことではないから、ここまでの虚偽は私はしない、というのも、事の大小の違いだけで、同じと言えば同じです。

私は彼らを弁護しているのではなくて、でも、あんなふうに虚偽の発言をしてしまう人のもつひ弱さというところは理解できます。結局、皆がパターンで生きているので、こういうことはあらゆるところで起こります。この手の話は、他のスポーツ界でも、政界でも、教育界でも、医療界でも、宗教界でも、職場の中でも、家庭の中でも起きています。だから、ひとりひとりが自分を観ていかなくてはいけないんです。

後味の悪いできごとではありましたが、タックルをした選手が個人の会見で「監督から指示されたことであってもそれを断れなかった自分の弱さを感じます」というむねのことを話していたこと、そして、彼がタックル後にテントの中で泣いていたということを聞いたことが救いでした。それは、彼の中の「私」の言葉であり、衝動だったと思います。そのセンサーを大事にしてこれから生きてほしいと思いました。

大きな目で見れば、今回の出来事を通して、その人の中の「私」が動きだした人もいたのではないかと思います。それは当事者だけではなく、それを外から見ている私たちもそうです。あらゆるところでこのようなことが起きているということは、私たちひとりひとりの在り方の反映であり、そこへの責任と、それを修復していくために、まず、自分がどうしていくのかということが問われていると思います。

あこがれのショパン
2018/05/31

きのうは時々会う、音大のときの友人と会いました。2人とも16時〜なら会えるので、いつもその時間からのお茶会となります。

今回は、ピアノ科だった彼女にぜひ聞きたかったことがありました。それは学生時代にショパンを弾いたことがあったか?ということ。

「弾いたわよ」という彼女の応えを聞いて、ピアノ科の人になんて愚問を…と気付きました。「ショパンの幻想即興曲も?」と聞くと「弾いたよーー」というのを聞いて「いいなあーーー」と言う私。「でも、どうして?」と聞かれ「私、弾けるようになりたいなぁと思うんだけど、高度でしょうか?」と聞くとかなり高度らしい(だろうなあ)

私は学生の頃にショパンを弾いたことがなく(・・・ということはそれだけのテクニックがないということ。自慢じゃないけど「あなたにはいい感性があるけれどそれを表現するテクニックがない」と数人の先生に言われたくらい)しかし、TVの「空港ピアノ」でこの曲を弾く人たちを見ていて、私も弾いてみたいなぁと思った・・・という話をしました。

ショパンは憧れます。ピアノと言ったらショパンでしょう。

彼女曰く「その弾けるようになりたいなぁという気持ちがあればきっとできると思う」ということ。そうかなぁ・・・そうかも・・・できるかも、と単純な私は自分の心がうきうきしてくるのを感じました。「70歳で弾けたらかっこいいわよ」と彼女に言われ、そんな自分を想像するとうれしくなる。

彼女もちょうどピアノを再開しようと思っていて何を弾こうかと考えていたそう。そこで「幻想即興曲」を弾くことにするということだったので、弾けるようになったら、聞かせてもらうことになりました。そして新幹線の「浜松駅」に誰が弾いてもいいピアノがあるそうなので、そこで2人で弾いちゃう?という話にまでもりあがり。いやいや、これもただの夢話ではなく、本当にそうなるかもと思いました。

ピアノはボケ防止にもいいらしい。バレエで体を鍛え、ピアノでボケ防止ができれば、元気に暮らせそうです。Nありがとう!

その時になったらどうにかするから
2018/05/30

嫌なこととは向き合わない、怖いことからは目をそむける(見なければなかったことにできる)ということで逃れようとする、という方は多いです。

これももちろんパターンです。そのパターンの言い分は理解できますが、これはなんの解決にもならず、なおかつ、事を大きくしていくので、後々すごく大変になります。嫌なこと、怖いこと、面倒なことには勇気を持って対峙することをお勧めします。

「そのときになったらどうにかするから」という言葉もよく聞かれますが、その言葉が出るときには、すでにどうにもならないだろうなあというものが含まれている気がします。すでに自分でうすうすわかっているのだと思います。

そういうよい危機感で察知をするセンサーは誰でもあるはずなので、その声は大事にしたほうがいいです。「その時になったらどうにかするから」という言葉が出てくるときには注意です。

対峙するというのは、恐怖と不安からそれを捉え、それに向き合うことではありません。要は、この行為をパターンにやらせてはいけないということです。現実として(あるものはあるものとして)直視して向き合えるのは「私」だけです。「私」はその嫌なこと、怖さ、面倒さの後ろにある問題をどういうふうにすれば、健全に回避していかれるか、対処できるかを考え、早め早めに行動します。

この早め早めに対処していくことはとても大事です。

毎日祈っているから、自分を観察してワークをしているから、いよいよのときには誰かが助けてくれるだろう、どうにかなるだろうはありません。

自分の人生がかかっている、だから自分のことは後回しにしないでやっていきましょう。

探求の道は続く
2018/05/29

きのうは茅ヶ崎のグループの日でした。

だんだんと内容的にいろんなことを求められていきますが、それゆえの楽しさを感じていただけたらと思います。私自身も思っていますが、自己探求は、ここまでやればいいということはなく、ひとつがわかってくると、用意されている次がみえてきます。それは、あたかも何者かが導いていこうとするように・・・・です。

それがうっすらと見えると、私の探求心が燃える(ぼぉーーーー)そして、そこを追っていきたくなります。それの繰り返しです。その道中には、待つこと、忍耐、努力、継続力、意志力などが必要になりますが、それでもやりたいのは、やっぱり楽しいからです。

最終的には楽しいかどうかです。ただ、この楽しいというのが、黒パターンが楽しいのかそれとも「私」が楽しいのかというのはあります。そこは自分で自分を観察して見極めていかなくてはなりません。それらすべてをひっくるめての楽しさ、それを堪能してほしいと思います。

人の人生はやもすると、生活だけになっていきやすいです。それだけでも生き抜くことは大変なことですが、そこに「私」の楽しさががあるということは幸せなことだと思います。

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