ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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ある方のお話 T
2019/02/26

今朝の日記はお会いしている方のお話です(承諾を得て書かせていただいています)

その方Aさんは、職場で、同僚のBさんから、あるとき、とても感情的なきつい言い方で注意(その人が正しいと思っていて、そうしなかったAさんを正したいというもの)をされました。

Aさんにしてみれば、自分としての言い分もあるし、今まではうまくいっている関係だと思っていたBさんのそんな仕打ちにとてもショックだったそうです。うまくいっている関係と思っていたのでその分ショックは大きかったと思います(ここでのうまくいっている関係というのは自分のことをわかってくれているだろう・・ということだと思います)

そして、そのときには「わかりました」と(わかってはいなかったけれど)言ってその場をおさめたそうです。Aさんは今までだったら「いや、そうじゃなくて・・・」と必ずやり返していたのを今回はぐっとこらえて「わかりました」と言った。「どんなふうに、わかりました、と言ったの?」と聞いてみると「こんな感じで・・・」とそのときの言い方で顔付きで再現してくれました。

思わず笑ってしまうくらい(失礼)納得していない感じでした。しかし、初めて自分の言い分をぐっとおさえての「わかりました」はAさんにとってはひとつのチャレンジであったと思います。それができたことはとてもよかったと思います。

私はそのBさんについて(感情的になりやすく、その時の感情で人にきつく言ってしまう人のようです)の話から、多分その後も、BさんはAさんにきつくあたったり、無視したり、ぎくしゃくとした態度をとっているのではないかと想像していたのですが、次の日、BさんはAさんにとても気を使いながら「Aさん、これやっておきましたから」と話かけてきたそうです。ちょっととまどいながらもAさんは「ありがとうございます」と言います。

「そうだったの?私、てっきりBさんはつんけんしているんだと思ってた」と私が言うと「そうではないんです」とのこと・・・・・ということはBさんもAさんに感情的にきつく言ってしまったあとに「言い過ぎた」「あんな言い方して悪かった」と思ったのだと思います。もしかしたらそれ以上に「私っていつもこうだ、気をつけようとしているのに、なんでいつもこうなってしまうんだろう」と悩んでいることなのかもしれません。又、もしかしたらそこまでのものではなく、ただ、ぎくしゃくしたくないからとりあえず自分から声をかけておこう、という動機のものかもしれません。しかし、いずれにしても、大事なことはそんなBさんに対してAさんはどうしたか・・・・というところです。明日に続く。

もうすでに動いている
2019/02/25

昨日行われた「天皇陛下御在位三十年記念式典」での天皇陛下のお言葉を読みました。

そこには、常に国と国民の安寧を祈り、象徴としていかにあるべきかを考え続けていらしたことが書かれていました。そのお言葉から私達は天皇に愛されてきたことを思います。国民に愛される天皇であるよりも、実は私達が天皇に愛されているというほうが勝っていたことを思いました。世界中をさがしても、このような国はないのではないかと思います。

「平成」の時代に入ったときに「そのころ、全国各地より寄せられた「私達も皇室とともに平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」と話されていました。

また「私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」ともありました。

このお言葉に私たちは応えられる自分としていたのだろうか、と思います。あらためてこの日本の国に生まれたことへの感謝と、平和な日本にしていくことへの思いと、天皇陛下、皇后陛下への感謝を祈ります。

そして、今朝、いつも通りに窓の外を見て「今日は雨か・・」と言ってベランダに出ました。しかし、きのうとは何かが違う気がします。いつもの朝の風景なのに、何かが違います。で、気付いたのは天が静か、であるということでした。何かをくるみ込むようにそれはあって、そこには天の意思があるのだと思います。天皇皇后両陛下への思いと、これからの新な時代への思い。もうすでに天は動いているのだと思います。その動きが安泰なものであることを願います。

新な時代もまた天に愛される日本としてあられますように。そして、それは私達ひとりひとりがつくっていかなくてはなりません。

歌いたい曲があるの?
2019/02/22

きのうは、カウンセリングも、特別な用事もない日だったので、またまたまた「ボヘミアン・ラプソディ」を見にいきました。

約100席ほどの会場でしたが、満席でした。座っている人達をぐるりと見まわしてみると、今まで見たことないくらい、年配(60、70代)の方が多いです。若い頃、クイーンファンだった方達なのだと思います。お一人で来ている方、ご夫婦で来ている方、多分、息子さん(?)に手をひかれるようにしていらしている方。それぞれがゆっくりとした動作なので全体にのんびりとした会場でした。

11月から上映になったこの映画、まだやっているというのは驚きです。きっと私のように何度も見る人がたくさんいるのでしょう。ストーリーも、流れる曲も全部わかっているのに、ラストのコンサート場面は何度みても楽しくて〜〜〜。

帰り道、ずいぶん前に亡くなった祖母のことを思いだしました。施設に入所していましたが、皆で一緒に歌を歌う時間を嫌がってそこに参加しませんでした。「どうして?」と聞くと「童謡がほとんどだから。時々そこに振りまでついたりして、子供じゃあるまいし。楽しくない」と言っていました。

「歌いたい曲があるの?」と聞いたら「あるよ」と言っていくつかあげていました。ゴダイゴの「ガンダーラ」が歌いたいらしい。「♪〜ガンダーラ、ガンダーラ〜♪」と(笑)そのほかにも、これは皆では歌わないわなぁ・・・という曲を言っていました。

で、思いました。私がおばあさんになって入所したところでは「ロック」の日とか「演歌」の日とか「童謡」の日とか、色々あるといいなあと。そこで皆で「♪〜We Are The Champions〜♪」と歌えれば、楽しい日々を送れそうです。Love Queen

だから、知りたい
2019/02/21

この頃、気付いたことがあります。

誰かに感謝されたとき、うれしいと思う気持ちは自分に対してではなくて、相手の人がうれしさや、安堵を感じているからなんだ・・・ということです。

「ああ、今、この人は安心している」「ああ、今、この人が喜んいる」というふうにです。

昔は感謝されて自分が嬉しい、自分の中に安堵感がわく、よかったこの人の役に私は立ったんだ、という状態でした。それは感謝してくれる相手によって自分の価値を感じられたり、認めてもらえたことでの安堵であったりしていたわけです。まあ、パターンですね。

そのときにもそれがパターンの喜びであることはわかっていたので、その反対の白をその場で選んではいました。しばらくその状態は続いていましたが、今回「いてくれてありがとう、感謝しています」と言われたときに、その人が安堵を感じている、安心している、これでいいんだと思いました。

このときに安堵しているその人を見て自分も嬉しかったということでもないんです。ここのところがうまく言えないのですが、そこに自分はいなくて、その人しかそこにいなくて…・という感じ。

私は自分を消していきたいので、ちょっとそこがわかってそのことが嬉しかったです。こういう感じなのか・・・と。

自分の探求は本当におもしろいです。体験を通して少しずつわかってきて、また次へ向かっていく。そうやって今まで知らなったことを知っていく。世界は広い。知らないことばかりです。だから、知りたい。

動物としての彼ら
2019/02/20

少し前に、また豚コレラが発生しました。

愛知県の養豚場で発生して、出荷先の岐阜、長野、滋賀、大阪で感染が見つかったということ。これにより約1万2000頭が殺処分だそうです。

こういう話を聞くと、なんとも言えない気持ちになります。

豚コレラに感染した豚の肉を人が食べたとしても影響はないとのことですが、食物としての彼らと考えたときにはあたりまえに殺処分になってしまう。人の口に入るものだから、彼らは畜産動物だから、と言えばそれまで。

でも、彼らには命があって、こういうことが起きると自動的に処分されてしまうその命はどうなんだろうと思います。そして、彼らの命というところにふれることはなく、被害額のほうがクローズアップされます。

そういう私も豚肉は食べているし、鳥肉も、牛肉も、魚も食べる。美味しいとも思う。命というところでみればお米だって、野菜だって、フルーツだってみな命をもっていて、そういう命を食べています。人間は他の命を食べながら自分の命をつないでいます。

そうしないと生きていかれない私たちです・・が・・昔々は、自分たちに必要な分だけを狩猟して、採取して食べていた時代があって、そこでの動物たちは畜産動物ではなく、人間用の食物ではなく、動物として存在していました。その動物をしとめるときには、その地の神さまに了解を得て、しとめた後には動物と神さまに感謝をすることがあったと思います。そのありかたを忘れてしまっている。

今からまた狩猟の時代に戻ることはできませんが、繰り返されるように、普通に行われる畜産動物の殺処分があるたびに、心は痛みます。畜産動物としての彼らではなく、動物としての彼らという目があれば、もう少し、彼らへの尊厳を感じられるのではないだろうかと思います。

なかなか難しいところ
2019/02/19

白血病を公表した競泳の池江璃花子さんへの応援の言葉が多くの方から届いています・・・とTVで言っていました。

同じ病気になり、それを克服した方、家族が白血病です、という方、きっと完治するでしょうから頑張ってください、復帰を待っています、などなど同じ競泳仲間たちから、全く違う分野の方たちから、その声は届いているようです。

皆さん、1日も早く良くなって、また競泳に戻ってきてほしいという気持ちを届けています。その気持ちは純粋なものなのだと思います。本当に応援したいのだと思います。

しかし、聞いている途中で苦しくなってしまいました。純粋な皆さんからの声援は、ありがたいことだけれども、ありがたいからこそ、池江璃花子さんはそれをどのように受け取るのだろう、受け取らねば、それに応えなければと思うだろうかと思ったからです。

人の正直で純粋な気持ちであればいいということはなくて、それが、相手には重荷になることもあります。それよりも今はそっとしておいて欲しい、一人でいたいということもあります。今は聞けない、聞きたくもないときもあります。

ある方が「他人と比べることなくご自分のペースで治療にあたってほしい」ということを言われていました。私は復帰できた、こんなように良くなった、となると、どうしても自分とその人を比べてしまうことがあると思います。でも、人はひとりひとり違います。きっと同じ病気でも違うのだと思います。ですから、池江璃花子さんには、ご自分だけを見て、ご自分のために治療に専念されることを・・と思いました。

他人と比べることなく、は、どの場面においても大切なことです。他人からの応援の言葉はへたをすると、応援する立場の人と自分を比べて、その寂しさや、不条理を感じることがあります。なかなか難しいところです。

子供のころに・・・・
2019/02/18

自分が何をやりたいのか(好きなのか)がわからないときには、子供の頃の自分を思い出すといいと言われたことがあります。幼稚園の頃〜小学3年生頃までの自分かなあ。そこには無条件に自分が好きなことがあらわれているそうで。

私はどうだったかと思い出してみました。とにかく動物が好きでした。あと、虫にも興味があって、さなぎを見つけて家にもって帰り、ガラス瓶に入れて飼いました。ある晩、羽化したのですが、蝶ではなく、蛾でした。瓶のふたが開けっぱなしになっていたため、その蛾がばさばさ部屋の中を飛び回り、母がギャーと言ったのを覚えています。それ以来、さなぎは持ち込み禁止となりました。

かたつむりを育ててそれが卵を産んで小さなかたつむりがたくさん生まれてきたこともありました。うれしくてうれしくて学校にそれを持っていったら、男の子たちから「女が虫を好きなのは変、変態、変態〜おとこおんな〜」と言われ、それ以来虫は封印しました。ここで強さがあれば女性ファーブルと言われるようになっていたのかもしれませんが、みごとに他人の価値観に打ち砕かれました。小学校の3年生くらいのころのことです。

絵をかくこと、歌を歌うこと、踊ることも好きでした。小学校の2年生くらいまでは、ペンキ屋さんになるのが夢でした。毎日、大きな絵がかけて楽しそうと思っていました。

・・・・と自分の子供の頃に好きだったことを思い出してみると、それをそのまま今までつなげてきたものもあるし、あきらめてしまったこと、やらなかったことなどもあります。

自分の子供だった頃に好きだったことは、経済活動ではないし、義務でもありません。それをやっているときが楽しくて、好きだったことです。そう思うと、それらの中に本当の自分の個性が光っているように思います。

ちょっとわかりにくいかもしれないけれど・・・
2019/02/17

いいあんばいで全てが、まあまあ、それなりにまわっていれば、今のままいけばいい・・ということを自分の指針にして生きています。

そんなことを指針にしていいのか、それはただの思い込みではないのかと思う方もいると思いますが「こうなんだ」と自分で決めたものごとはそうなるということなんです。だから自分の「こうなんだ」を決めていけばいいということが言えます。

何か、いいあんばいの状態から外れてしまったら「何が間違っていたんだろう」と考えています。「何が間違っていたんだろう」これを思い、考えていくと、それを教えてくれる出来事にであったり、人にであったり、何もであっていないのに、なんかこれは解決にいくな、と思えたりする。

これはきっと「何が間違っていたんだろう」という言葉と思いの中にも、この言葉を使うときには「こうなんだ」が造られて、存在しているのだと思います。

「何が間違っていたんだろう」=今の自分の反省と元に戻すことへの努力をすれば、外れたところから、元のところへ帰れるということが「こうなんだ」ということ。

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、自分で決めたものにはその力があるということです。人ってそういうふうに創られているのだと思う。

何か小さなことから、これを体験してみると、信じられると思います。

ホテルにて
2019/02/16

盛岡は寒かったけれど、お天気に恵まれ、助かりました。

去年よりは道の凍結も見られず、おかげでそれほど恐々ではなく、歩けました(と言っても大した距離じゃないんだけど)去年は焼き肉屋さんの駐車場からお店の入り口までの数メートルを、転ばないようにとよちよちと歩いていたので、だいぶ今回は違いました。

岩手では、夜、ホテルの部屋でテレビやルームムービーを見ることがあるのですが「へぇーーー、そーーなんだ」というプログラムにであいます。岩手ではそれが多いです。

それは、あるときにはある方へ渡すべき誰かの言葉であったり、新な試みを見たり、今、考えていることがクリアになる内容のものであったり、いいなあ、と憧れるものなど、色々です。

今回は「又吉直樹のヘウレーカ!」という番組で、ピアノを弾くことで脳や身体にどんな変化が起きるのか、というお話を、音楽演奏科学を研究する古屋晋一さんがされていました。

その内容も「へぇーーー、そーーなんだ」というものでしたが、そこに70歳の男性の方が登場。その方は65歳からピアノを習いはじめて、番組内でショパンの曲(ノクターンbP2番)を楽譜なしで弾いていました。65歳から始めて、すごいなというのもありましたが、その弾いている姿や、その音色から「どうだ、すごいだろう」というものが全く感じられず、まるで、ショパンとその男性とが対話しているような感じでした。

その方の在り方が音にあらわれていて心をひきつけます。ショパンと自分とで時間を共有しているのが贅沢です。

この男性の前には小学生の男の子が登場し、それはそれは素晴らしいテクニックでブラームスの早い曲を完璧に弾きました。それも「うーーむ」と唸ってしまうほどでしたが、その男の子が70歳の方のショパンを聞いて「自分が大人になったときに弾いてみたいです」と言っていたのを聞いて、こちらのほうにもびっくり。小学生でありながらすでにそんな感性があるのか・・・・とこれからが楽しみな小学生でした。

ピアノっていいなあと思いました。年齢関係なく、人を育ててくれるものです。物理的に脳の働きが良くなる、従って身体も良くなる、ということだけではなく、人の精神性を育ててくれます。そして、それはいくつになっても可能なことです。これはピアノだけではなくて、芸術と言われるものは全部そうですね。

今回もよかったミニホテルライフ(?)また4月も何か見よ。

如実知見
2019/02/12

「自分はレベルが高い」「高いレベルの自分が選んだものはレベルが高い」「自分には高いレベルの人、ものしか必要ない」というパターンは、パターンの判断したレベルの低いところには何も自分に必要なものはないと思っていて、自分のレベルにはそれは無価値だと思っています。

従って、レベルが低い(とパターンが思っている)人達を下に見たり、レベルが低いと思っているものごとを軽蔑したりします。しかし、それはパターンの信じているレベルなので、とても狭く、小さな世界です。その狭く、小さな世界で一生を終えるというのも魂の体験としてはありなので、それがだめとは思いませんが、もったいないです。

私が最初に知った、マスター級言葉は「「如実知見」(何にもとらわれずに、ただ、あるものをあるがままに知見すること。そのまま知見するからそこに苦しみがない)でした。これは今でも当時以上に私の中で息づいている言葉で、自分の成長・進化というのはいかにここに近づけるかというところのものだとも思っています。

この言葉、一体どんな高いレベルの師から教わったのか?どんな高尚な本に書いてあったのか?と思うかもしれませんが、それを教えてくれたのは、当時(多分、20数年前)我が家で、時々、読んでいた「ビッグコミックオリジナル」(小学館)という男性向け漫画誌に連載していた「浮浪雲」(ジョージ・秋山)という漫画でした。

トミーが時々買ってきていたので、その時には、私も読んでいましたが、男性向け漫画誌なので、女性が買うものではなかったと思います。で、ある号の「浮浪雲」の中にこの「如実知見」が出てきたんです。

そのころは、カウンセリングを学んでいた頃だったと思いますが、この言葉の意味もそこには書かれていて「よくわからないけれど、いつか、そうなりたいなあ」と憧れをもちました。それを得るためにどうしたらいいのか・・・と考えなかったのは、この境地はまだまだ自分がいかれない境地だとわかっていたからだと思います。先生からいつも自分を見るようにと言われていたのでまずはそっちだろうと思っていました。

このとき、もし、男性向け漫画誌を軽蔑していたら、こういう漫画誌はレベルの低い人が読むものと決めつけていたら、多分、この言葉とであうことはなかったと思います。私の自己探求はここから始まったと言ってもいいぐらい「如実知見」は私のテーマであり「魂の道場」のベースです(ビッグコミックオリジナルに感謝です)

昨日も書きましたが、あらゆるところに師はいます。偏見という黒パターンを選んでしまっていることで、出会えないということも起こり得ます。

さて、今日はこれから盛岡へ行ってきます。今年初の盛岡クラスです。楽しく、皆さんがまた1年学んでくださることを願っています。クラスの皆さんには今年の抱負をうかがうので準備しておいてください。あとは・・・凍結した道でころばないように注意して、よちよち歩きで・・・行ってきます。

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