ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

修行じゃない
2018/10/25

自己探求って、決して理想としている枠に自分を押し込めて、自分をキュッとさせることではありません。

自分を観察していくと「これもパターン」「あれもパターン」「またまたパターン」とみつけていくことになります。その見つけたパターンを自分の中で本当に許していかないと、これも、あれも、またまたも、全てはよくないものとして捉え、それによって苦しまされると思い、それを使ってはいけない、それがあってはいけない、それがあることが負担、と自分を抑圧し、キュッとさせていってしまいます。

自分がちんまりしてしまう、自分が固くなってしまう、活力がない、となってしまうことがあります。

自己探求は本当の「私」を育てるものであって、パターンを押し込めたり、なくそうとするものではありません。自己探求、パターン、「私」、というイメージにとらわれずに、のびのびと自己探求をしていってください。

いろんなことにひっかかるパターンたち。もちろん私の心の中にも住んでいます(同居人だから)彼らには彼らの言い分があり、何かにひっかかって感情がわき出します。でも、「私」は語りかけで言いますね。

・・・・・「あなたは、そのまま、あなたのまま、そこにいていいよ」・・・・・

なぜなら、あなたが好きにひっかかって感情を生み出しても「私」はあなたを上回っていて、そんなあなたをおもりできるから、ということがこの言葉には含まれています。自分の中にあるもの全てを理解し、許し、共存していかれることが大事です。今の自分の全てを許しきることです。その状態が心底、自分を自由に解放させていきます。

ワークはぜひのびのびと行ってください。パターンをどうにかするワークではなく育っていない「私」を育てるワークです。そしてそれは修行じゃないです。だから、深刻に、神経質に、重くとらえないで行ってください。

それを持ちながら・・・
2018/10/24

何かを決断するとき、なかなか決められないのは、決めたものごとに後悔したくないというのがあるからでしょう。

こっちかな、いや、あっちかな、いや、決断できないのは、決断が今じゃないということなのかも・・・と迷う。そして、自分で決めたはずなのに、選んだものごとにまた後悔が生まれる。すると「やっぱりあっちにしておけばよかった」と、またそこで後悔する。

ある方が、やはり同じように決断しきれない状態にありました。それは、決めたことに後悔をしたくないからでした。それへの語りかけと白黒ワークをして、その方の「私」は1方を選びました。そして、その方はこう言いました。

・・・・「後悔する気持ちがわいてきても、それを持ちながら次に進んでいかれたらいいんだなと思っています」・・・・

そうなんです。これを導きだせたことが、決断できたことより私としてはよかったと思います。

人は何を選んでも後悔します。なぜならば、何を選んでもそこには+と−とがあるから。選んで良かったと思えることも、選んで失敗だったと思えることも同じようにあります。それが現実です。

・・・と考えると、大事なことは、後悔する気持ちがわいてきても、それを持ちながら(それと一緒に)歩ける自分になっていくことです。後悔しないものを選ぶのではなく、後悔を持ちながら行かれる自分です。自分の中に後悔がある(厳密には後悔しているパターンがいる)でも、「私」は選んだこれを大事にしよう。その選んだ中にある+をより大きくしていこう、そうやって選んだものを育てていこう、とすることです。

これは「後悔」だけではなくて「矛盾」とか「戸惑い」とか「過去の出来事」とか、なかなかすっきり解決とならないものも同じです。それらも持ちながらいかれればいいですね。持ててしまえば苦になりません。

全てをすっきりとさせようとすることが苦しいんです。

自分の中にいろんなものを持ちながら進んでいかれると、自分の力を信じられるようになるし、そういういろんなものが自分という人間を豊に優しくしてくれると思います。

ご縁
2018/10/23

前にも日記に書いたことですが。

長い間、道場で学んでいただいている方たちとのご縁って、ただ、単に…ネットで探して、日記を読んで、本を読んで、紹介されて…来ました、ということだけではないところで成立しているんだろうなあと思います。

それはお互いに意味があっての出会いで、その意味は「お互いの魂のバランスをとり、まあるい魂を創るため」というところでの組み合わせなんじゃないかと思っています。

私の持つ魂の課題とおひとりおひとりの魂の課題、私の持つ個性とおひとりおひとりの持つ個性。それのお互いに欠けていたり、足りなかったりしているものを与えながらバランスをとるご縁なんだろうと。

で、これは全てのところで起きていることでもあるんだろうなあと思います。家族、夫婦、兄弟、仕事の上司、部下、同僚、友人、そして嫌いな人、苦手な人も。そもそも、自分という魂(「私」)を成長させるために皆自分から望んでこの世に来ているので、それを考えたら、出会う人は皆自分の先生です(お互いに)

世界中にこんなに多くの人がいる中で出会った人達は、やはり、意味があります。そう思うと、その関係は大事にしていきたいと思います。でも、嫌いな人は嫌いだし、苦手な人は苦手です。これも、自分のなかにある現実で正直な(パターン)ものです。

縁ある人だからとその人を好きにならなくては、と思わなくていいです。その人にもいいところがある、とか、人を嫌ってはいけない、とか、ほとんどの人が思っているそれらは、自分の正直なところを抑圧し、自分の中に良いものと悪いものを創っていきます。そして、それを他人の中にも見るようになります。そういう領域で自分を抑え込んでいくことよりも、もっと健全な賢明な自分として自他を受け入れられるようになるほうが自他に優しいです。

その選択が、いつかそれも、誰ともの出会いは、尊い、ありがたい体験だったと必ず思えるようになります。そういう、まあるい魂になっていく。まあるい魂の中にはいろんなものを持っていく。そんなバランスのとれた魂にむかいたいものです。

形なきものへ向かっていく
2018/10/22

今、自分が苦しい立場にあると、自分の意識が高くなれば、それらが、なくなると思いがちです。いわゆるマスターたちはそう見えます。だからそうなりたいと思います。

そう思うとできるだけ早くそうなろうと思うと思います。しかし、そこはスキップできない、飛び級はありません。そこまでもっていくのには、人の意識の成長・進化の道順を通っていかなくてはなりません。それもガンジーが言うように「かたつむりのごとくの歩み」です。

ですから意識を成長・進化させるには時間とエネルギーがかかります。そのためには、一気にやろうとしないで、細く長くそのモチベーションを持てるように、上手に自分をみていってあげるといいです(趣味とか自分の楽しみ、好きなことはそのためにあると私は思っています)

又、意識が進化すれば、苦しみはうそのように消え・・と思うかもしれませんが、起きていることはそうではありません。

実際そこで起きていることは、まず、苦しみを消そうと、いろんなことを試し、挑戦し、時に成功し、時に失敗しながら誰でもが進むことになります。そうしていくうちに(あらゆる手を尽くしたときに)それへの深い理解をもち、新な目をもち、それとともにいられる強さを身につけ、あきらめることの偉大さを知り、自分にとって必要だからそれは起きているということを腑におとし、熟考し、その苦しみを許し、それへの自分専用の対処法を自分で見出していきます。最初は、パターンで行っていたそれも気づきにより「私」が行うようになります。

このとき、初めて苦しみは苦しみではなくなります。言い方を変えると、苦しみ自体をどうにかしようとするのではなく、苦しみのためのスペースを自分の心に自発的に用意し、そこに住まわせてあげるという感じです。自分の中に自発的に置かれた苦しみは、確かに、苦しみではなくなります。

この作業全般自体のことを意識の成長・進化というのだと私は思います。何かになることでも、どこかへ到達することでもないそれ。確かに、途中で、ひとつの駅に下車してそのまわりを見て歩くこともありますが、また電車に乗って次へ行きます。そこへの執着を持たず、また、次の駅がどこなのかもわからず、形なきものへ向かっていく。そうやりながら、全てを許す。抗うことなく、あるものをあるものとして持つ。

それが正しいのではなく、そんなふうに進む意識もある、と思います。

自分の成長を確認
2018/10/21

自分の成長に伴い、よく起こることに、まわりの人からの評価が変わるということがあります。

私の場合は私のまわりにいた以前からの友人から「洋子ちゃん、変わったねえ。昔のほうが優しかったし、なんでもやってくれた」と言われました。

ここでいうまわりからの評価ってこういうもののことです。

他にも皆さんからお聞きしたのでは「昔のほうがオーラがあった」「昔のほうがエネルギッシュだった」「昔のほうが世話をやいてくれた、今は冷たい」「昔のほうが一緒にいてくれた」「昔のほうが目立った」「昔のほうが明るく、元気だった」などなどです。これらをお会いしている方から聞くと≪よっしゃー!≫と思います。

なぜならば、こういう現象が起きるということはお会いしている方が明らかに、今までとは違う領域に進んだということの証だからです。

以前の領域ではオーラぎらぎら、強くエネルギッシュ、世話焼き(おせっかい、共依存)、変な優しさ、変な明るさ、元気さが自分でもいいことと思っていたし、同じ領域の人にとってもそれはいいことだったんです。

しかし、自分に向かううちにそれらは自分のパターンからの行動であったということを知り、それが本当に自分の「私」の望むものなのか、というところでの選び変えがあり、実践があり、で、得た結果が違う領域への移行だったということです。

領域が変わってしまうと、いくら昔仲が良かった人でも、違和感を感じるようになります。特に周りにいた人の方が。そうして冒頭のような言葉を受けることとなります。

ある領域までは自分の領域が正しく、それが全てと思っているので、周りにいた人たちからすると、領域が移行したんだ、とは考えることもイメージすることもできず、ただ「洋子ちゃん、変わった」となります。これに対して、なんか寂しい、とか、今までのようにいい人と言ってもらいたいなどの気持ちが湧いたらそれはパターンなのでケアしてあげてください。又「洋子ちゃん、変わった」と言った人に「それはね、意識には領域があってね・・・」と説明することは不要です(ここで説明したくなるのもパターン)説明は届かないと思ってください。

まだ見えない領域についてはわからないんです。これはもちろん私もです。これから上の領域があることはわかっていてもそこがどういうものなのかは実際そこへいかないとわからないです。

それから、領域の移行により、新な領域で出会う人、ものごとがあります。領域が移行したから孤独になるということは、ここで話している領域においてはありません。どんどん評価してもらって、自分の成長を確認。

「私」は自分専用の指導者
2018/10/20

「私」が育つと・・・・とても現実的になる。という話を盛岡クラスでも話したのですが。

「私」は普遍的能力のかたまり、神の資質を持つ、神のコピーと言うと「私」は天上界のイメージ、聖人君子というイメージがあると思います。そこで、「私」を頭でとらえていると、そのイメージのようになろうとしてしまうことがあります。それは誰に対しても優しく接し、愛(・・と思っているもの)で包み込む。包容力を示し、何ごとも穏やかに対応し、静かに存在している、とか。そして、そう成れている自分を感じ、確認しようとする。しかし私が体験したことは、全くそれではありませんでした。

でも、これは私の「私」の持つ個性が関わっていることなので、絶対そうとは言い切れませんが、かなり本筋はついていると思います。

「私」が育つ、それは普通になること。でも普通の質が変わること。それまで自分を支えていた自分の存在価値とか、勝ち負けからは離れ、自分をさしだすこと、素材になること、相手にゆずることで相手をサポートしようという気持ちに自然になっていきました。

それと同時に、自分の個性を際立たせていくことが行われると思います。自分の個性を、キャラをとても大事に思えます。「私」は個性をもっているので、みなが同じ資質で構成されていても、ひとりひとり微妙に違います。顔が同じパーツでできているのにひとりひとり違うようにです(この在り方はとても意味深いことを教えています)

このように、とても現実的なところで生きることが日々となっていきます。

ここからの話は私の体験としての話なので、絶対ではないかもしれませんが(違う哲学の方もいるので)「私」とは本当の自分であり、ハイアーセルフであり、マスターであり、指導者でもあります。ちょっと理解しにくいですがハイアーセルフ(マスター、指導者)である「私」が「私」を育てます。「私」は「私」の全てがわかっています。ですから、自分の中に(自分専用の)全ての答えがあると言われます。自分という「私」をよりいかすための専用の指導者が自分の中にいて、それ自体が自分ということ。私はそれに導かれここまで来れたと思っています(私には「魂の道場」の先生がいませんでした)そしてそれはとても自分向き。自分が自分に教えているのだからあたりまえだけど。

いやいや自分はそんなすごい存在ではないし、何も自分からは教わっていないと思うかもしれませんが、神のコピーであるということを思えばそれは当然とも言えます。「私」というハイアーセルフ(マスター、指導者)は自分の個性を最も知っていて、最も自分を愛していて、それを表現したがっている存在です。だから、自分の内側に目を向けていくことが大事なんです。その姿勢が自分であるハイアーセルフ(マスター、指導者)の部分を発露させていくようになります。自己探求をされている方たちが皆さん、その発露をしていかれることを願っています。

自分専用のハイアーセルフ(マスター、指導者)が自分の中にいるということはすごいこと。そして、安心できること。だからこそ、自己探求は誰にでも平等に与えられていると言えます。

自分の成長を知る
2018/10/16

もう、何年も自分に向き合ってきたのに、全く成長が見られないと思われている方は、数年前のご自分と今のご自分と比較して、具体的に何が変わったのかを見つけてみてください。

書き出してみて、それをまたゆっくり見直してもいいです。

人は誰でも、ネガティブに自分を捉えることのほうが得意で、どうしても、まだだめだ、まだ、できていない、まだ、苦しい、とそちらのほうを見てしまいます。しかし、必ず自分が成長を感じられることが起きています。私から見て、皆さん、成長されているのを感じています。

ですので、自分でそちらを見るということも普通にしていってみてください。そうやって自分で自分をひっぱっていくこともやってみてください。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。また善いクラスが行えますよう願って行ってきます。では、皆様もどうぞお元気で。

感想
2018/10/15

遠藤周作「沈黙」を読む。久しぶりの歴史小説です。そして久しぶりに没頭して読む楽しさを味わいました。

これを原作に「沈黙 サイレンス」はマーティン・スコセッシ監督が映画化し、2017年1月に日本で上映されました。私は見ていないのですが、父の死後、いろんなことからまわりまわってこの「沈黙」を読むことに…。

豊臣秀吉の時代からはじまったキリシタン迫害は、徳川幕府にうつってからも長きにわたって続きました。そんな1600年代の話です。まず、思ったのは、遠藤氏の文章のうまさです。ど素人の私が言うのもなんですが、文章がうまい。そのうまさが私をぐいぐい引っ張っていきました。

読んでいて熱が出そうなくらいひどい拷問や処刑に、滅入りましたが、素晴らしい小説でした。

主人公の宣教師は、こんなに多くの信者が拷問され、処刑されていくのに、神は彼らを助けることなく、沈黙し続けていることへ疑問をもちます。信仰とは、神とは。そもそも神はいるのか。彼は苦悩し続け・・・最後に決断をします。そして、もう一人の主人公である日本人信者の男性の存在。弱い人間として存在していますが、これは私達の姿でもあります。この2人の関係性も興味をひきました。

読後、調べてみると、キリシタン迫害にも理由があり、初期のころには一部の宣教師が日本人の女性の人身売買に関与していたり、一部の信者が日本の神社仏閣を破壊するということがあったり、何よりも、人々の生活があまりに貧しく、幕府に対しての反発があり、その人たちと貧しい人々を救っている宣教師が結託すると暴動になる、宣教師は布教と言いながらも、日本侵略のために実は来ている、ということを秀吉に吹聴した人もおり(それは純粋に日本を守るための人もいたでしょうし、自分の私腹のためという僧侶、神官、大名などもいます)・・・などなどの背景がありました。

当初は、宣教師を受け入れ、京都に教会まで建立することに力をかしていた秀吉でしたが、色々な人たちの思惑に揺さぶられ、トップとしての選択は苦しいものだったとも思います。そこにもってきて大地震が起こり、これは異教を入れたことへの日本の神々の怒りだということも言われました。

以外だったのは、奴隷として売られていった女性たちはそのほうが暮らしがよくなった(奴隷は財産なので大事に扱われた人もいたらしい)ということもあったそうです。

この小説とその背景と全ては、ひとりひとりのもつ正しさが絶対であるとそれぞれが思いこんでいたことからのことだったのだろうと思います。それによりあらゆる闘いが起こります。

そして、確実に言えることは私達はこういう人々の悲しみの歴史があって今があるということです。人類の蛮行の時代は世界中であり、そしてそれは今もあります。世界が本当に平和になるためには人類の意識が上がることしかないだろうと思います。そのためにはどうしていったらいいのでしょう。

「沈黙」読んでよかったです。映画のほうもレンタルビデオでみられますが、多分、私は見たら熱が出そうなのでやめておくことにします。

自分の在り方を決める
2018/10/14

「自分の在り方を決める」ということ。

パターンにひっかかっていい(それはパターンがひっかかっているだけなのだから自由にさせてあげる)そして「私」が白を選ぶ。それが「自分の在り方を決める」ということです。パターン、感情、感覚はあっていい。でも、それはそれとして・・・自分の在り方を決める・・・この繰り返しです。ざっくり言ってしまうと、こういうことです。

自分の在り方を決めることは自分が今、この一瞬に必要なものを選ぶこと。そうすればそれに沿った行動をします。それが繰り返されて、それが習慣になります。それが現実に反映します。

このように、苦しいときだけ、感情が湧いたときだけ、白を選ぶのではなく、いつも自分の在り方を決めます。こうしていつも自分の在り方がそこにある状態にします。

ここまでやらなくてはいけないのだろうかと思うかもしれません。しかし今までの習慣を変えるためには、そこまでやりこまないと変えていくことは難しいです。しかし、これも、習慣化してしまえば、選んできた白が普通になっていくので、そうなればいいまでです。

自分の在り方を決めてください。それはそうでありたい(もちろん「私」がです)と望む自分です。勇気をもって行動する自分、逃げない自分、逆に逃げられる自分、あきらめる自分、逆にあきらめない自分、傷ついても大丈夫な自分、他人の目を怖がらない自分、自分が正しいと決めない自分、など。自分の在り方をいつも決めて、それに沿う行動をしていってください。この一致性の継続。そうやって自分を構築していきます。

あきらめていく
2018/10/13

これからを楽に自由に生きていくために、使える資質としてあきらめていく力(あきらかに認める力)が良く働いてくれると思っています。

多くの場合、あきらめないのはパターンです。パターンは「これ!」とがっちり決めたそれをあきらめようとはしません。それは物事でもあるし、自分や他人に対してもです。物事、自他をあきらめないのは、それがあれば自分は満たされると思っているからです。

比較的、物事に対してのあきらめない、は、いつか飽きてきたり、年齢とともに、だんだんいらなくなるので、自然と離れていくのですが、自他に対してのあきらめないは、時間をかけるほど大きく、かたまって、執着のようになっていく気がします。

例えば、自分に対しては、自分のパターンが理想とする自分の姿になるまであきらめない。どうにかしてそうなれるように頑張ります。これはつらいです。今のそのままの自分を否定し続けることになるので、もし、理想とする姿になれたとしても、本当の自分を否定しているところはそのまま残り、より、苦しさが増します(人は不一致が苦しいんです…ということは?人は正直でありたいんです。特に自分自身には)

又、他人に対してあきらめない、は、どうにかして他人を自分の思い通りにしようとするものです。相手が自分の思い通りに言動するまであきらめない。自分の思うとおりの相手に成るようにコントロールする。しかし、これもパターンが行っているものなので、もし、相手が自分の思い通りになっても、相手との関係はよくないものになります。そのときに、こんなはずじゃなかったとパターンは思うかも。

パターンが望む物事、自他をあきらめていく、ということは、負けることでも、だめなことでも、弱いことでもないんです。あきらめないことは素晴らしいことのように言われていますが、自分の中の誰がそれをあきらめないと言っているのかは吟味しなければなりません。

パターンのあきらめないに一生をかけて取り組んでしまうと、本来やるべきことができずにこの人生、終わります。来世でもいいか、という考え方もありますが、どうせ生きるのなら、生きているうちに楽で自由に生きたほうがいいです。

あきらめていくことは、自分自身を解放させてあげることです。そうやって自分が身軽になるから楽で自由な心で生きられるのです。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -