ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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私達は変容するために生きている
2017/04/26

「私は、ずっと良くない過去を生きてきたから、幸せになれるはずがない」と思いこんでいる方が意外と多いことに驚かされます。

良くない過去は、例えば、ずっと人に冷たかった、ずっとうそをついてきた、ずっと怠惰に生きてきた、ずっとある人を恨んできた、ずっと自分を犠牲にしてきた、ずっと逃げてきた、ずっと人を馬鹿にしてきた・・・などなど。

そんな過去を持つ自分が変わって、幸せになれるはずがないと思っています。でも、これもパターン。まさにパターン。で、そのパターンは変化できない、いや、変化することを自分に許してはいけない、だって自分は良くない生き方をしてきたのだからとも言っています。

それらは悪いものであり、したがって自分は悪いことをしてきた悪い人間、そんな人間は幸せを望むことのほうが悪いこと、と言ったりもします。ずっと苦しんで生きることでその罪の罰を背負い、苦しむことでそこが帳消しにできると思っているのかも。この生き方は決してしてはいけないものです。

でも、くどいけど、これはパターンでしかありません。

そしてパターンである以上「私」の意思とは違うことを信じています。苦しんで生きることは何よりも「私」の意思に反しているものです。

私達は変容するために生きています。過去のことは現実にあったこと、でも、それを認め、反省し、新な意思を、自分が選び、そこに向けて日々実践していくことで、必ず、必ず変容していきます。

ですから、パターンのいうことを信じてしまわないようにしてください。

変容していくことが最もやらなくてはいけないことです。そして、良くない過去があるからその変容も起こすことができます。そして、何よりも、その変容に向けてのプロセス自体を神は見ていて、そこへのサポートを神さまたちを通して与えてくれます。

あれ?神と神さまって違うの?・・・・うん、違うよ。

これについてはまた。

まだまだいけますよ
2017/04/25

いつも出張の時に使っているバッグがあります。

できるだけ身軽に行きたい私はそれにテキストや衣類をつめて岩手や沖縄へ前もって送っています。

で、先日もそのバッグを盛岡へ送るために近所のコンビニにもっていったとき、いつもの店員さんがそのバッグを受け取り「このバッグ、ずいぶんとネンキが入りましたね」と言いました。そういわれてみれば、確かに。ボディのほうはまだまだきれいですが、手の部分がだいぶ古くなっています。

どのくらい使っているのか。

こんなになるまで、毎月、働いてくれていたんだなあとしみじみと思いました。重さを測るために、はかりに乗せられているそれをちょっと離れたところから見てみると、それへの愛着を感じました。

体調の良い時も悪いときも、いつも私をささえてくれていたバッグ。そんなバッグは「手はこんなだけど、まだまだいけますよ」と言っているようにも見えました。私は「よく働いてくれたよね、ありがとう」とバッグに言いました。

普段使っているものたちってそういうものです。お財布にしても、ポーチや手帳やペン、メガネ、ケース、気付かないけれど、私をささえて助けてくれているものたちです。あまりにそれはあたりまえになってしまっているので、しみじみとそれを見たり、感じたりすることもありません。でも、彼らは私と一緒にずっと働いてくれています。文句もいわずに。

私がそのことに気付く、そしてその気付いた目でかれらを見る、すると、かれらはそれを受け、また元気に働いてくれる、そして、私はまたそのことに気付き、ありがとうを言う、そんな関係が全てにあります。自分があらゆるものにどんな目をもっているのか、それによりものたちとの関係も変わってきます。

たったそれだけのこと
2017/04/24

嫌いという言葉は嫌われている。

物事に対して「あれは嫌い」と言うことは許せても他人に対して「あの人が嫌い」という事はタブーとされているのだと思います。

そういうことを言ってはいけない、思ってもいけない、それは、自分の心の中のことだけであろうとします。

なぜなんでしょう?他人を嫌うことは大人げない、他人を嫌うと、自分ももしかしたら同じように嫌われるかも、他人を嫌っている自分はなさけない、レベルが低いなどだからでしょうか。

自分に向き合っていくということはここももちろんスルーすることができません。必ず嫌いな人はいるはずなんです。

私が「その人のこと嫌いなんでしょう?」と聞いても、はじめのうちは「嫌いではないです。嫌いというか、合わない。いいところもあるし」という言い方をして「嫌い」はさけます。

そのうちに「もしかしたら嫌いなのかもしれません」「どうも、嫌いのようでした」となんとなくそれを受け入れる言い方に変わっていきます。そこにもまだ「嫌い」に対するジャッジがはたらいています。

そしてそのうちに「嫌い」と言えるようになります。もちろんこれは黒パターンが「嫌い」と言っていることなので本当の「私」が嫌っているのではないのですが、黒パターンのそれであっても嫌いと言うことには抵抗があります。それに語りかけしたり、白黒ワークで選び変えたりしていくうちに「嫌い」というものの質がかわっていくのが感じられるようになります。

今までのよくないものと意味づけしていた「嫌い」から黒パターンのそれを許していて、なおかつ、ジャッジのない「嫌い」へ変わっていきます。

・・・・・すがすがしい「嫌い」・・・・・

「〇〇さんのこと嫌いなんです」と言ったときに「私」と黒パターンの分離感や、純粋性が感じられるそれに変わっています。そのときには「嫌い」という存在を受容しています。

「嫌い」は皆がとても嫌う言葉です。でも、これも、ただ「嫌い」があるだけ。たったそれだけのこと。

2017/04/23

そういえば・・・今年は桜を愛でるということを忘れていたことに気が付きました。

桜の花が目に入っていても、愛でるという事はまた違います。意識的でないかぎり、見ているようでも見えてはいませんし、感じられていません。年始から父のことがありこの4か月突っ走ってきたからだと思います。

そんな私でしたが、今回の山形では満開の桜をたくさん愛でることができました。鶴岡公園の桜、そして酒田市にある日和山公園の夜桜、1日でこの2つの桜の様を見られてとてもうれしかったです。

どちらも大木の桜群で、公園内はさながら大きなピンク色のカプセルのようでした。そのカプセルの中を歩く私達もピンク色に染まっていきそうです。桜は大変美しいですが、あのむせかえるような重圧感は私にはちょっと怖く感じるものでもあります。その怖さも味わいたいと思わせるのが私にとっての桜です。限られた時期だけに体験できる桜とのそれを今年もできたことに感謝です。

桜が散ってしまった後は、いよいよ新緑の季節を迎えます。私はここが1年のスタートにいつも思えていて、桜は「用意はいい?いよいよスタートのときだよ」と言ってくれているようにも思えます。「いいよ、用意はできているよ」と桜にこたえて、また今年もスタートを切っていきたいです。

フレッシュでいたい
2017/04/20

この時期、あちこちでフレッシュマンをみかけます。

茅ヶ崎駅ビルの各店舗にもフレッシュマンが勢ぞろい。皆、名札に研修中と書いてあります。先輩に教えてもらいながらの接客です。どこかぎこちなかったり、とても緊張していたり、何かを聞いても答えられなかったりですが、いいなあと思うのはとても一生懸命なことです。仕事ができる/できないに関係なく、一生懸命です。

自分のときのことを思い出しても、希望と緊張感をもって社会へのスタートを切っていたと覚えています。

こうしていきいきとスタートした私達なのに、年々この一生懸命というフレッシュさを失っていきます。仕事に慣れるというのは、どこか、垢がついていったり、鎧をまとったり、希望を捨てていくことも並行しておこってきます。

いつまでも一生懸命なのはばからしい、損する、そんなに仕事は甘くないし、楽しくないことが仕事、ということのほうが上回ってくる。で、しょせんこんなもんでしょう、という気持ちで仕事をするようになっていく。慣れの仕事。

あんなにきらきらとスタートしていたのに。

で・・・・大人になってもフレッシュでいたい。いい年してと周りから笑われても。フレッシュでいたい。外見はフレッシュさをなくしていきますが、心は。

そのためにはやはり自己観察です。今この瞬間の自分の心ははよどんでいるのか、フレッシュさをもっているのか、そこの観察と選択の継続だと思います。

今日はこれから山形庄内です。2月は大雪のため、庄内空港に着陸できずに羽田へ引き返すということがありました。今日は大丈夫でしょう。では、行ってきます。

限界をもうけない
2017/04/19

自分に限界をもうけないということ。

自分はどうせだめ、自分にはできない、自分には無理など、自分に限界をもうけてしまうことをしなくていいということです。

自分への限界は、もちろんこれもパターンであって本当の自分「私」のものではありません。

このパターンが威力をもっているのは、とても納得することを言うからです。それは「だって今までもずっとだめだったじゃない、できなかったじゃない、無理だったじゃない、だから今度もできないに決まっている」という言葉です。これは、ごもっともです、という感じがします。それをつきつけられてしまったら、やっぱり自分はどうせ何をやってもできなくてだめだ、を強めていくことになります。

この過去の体験により自分を決めつけてしまうのがパターンです。そして、それをもとにこれからのことも全て決めていきます。そこに限界が生じます。

過去の体験というのは、これからを決めるときの指針になるものではなく、あくまでも、自分がやったことへのこたえであったというものです。そのこたえが自分の望むものでないのであれば、その自分がやったことが何か違っていたのではないだろうか、やり方が違っていたのではないだろうか・・と自分を省みるものになるものです。

それがわかれば、では、何をどう変えていけば自分の望むようになっていかれるのかがわかってきます。わかったら、それを実行する、そしてそれの反映があります。

限界をもうけてしまうのは、とてももったいないことです。過去のことにとらわれず、それを、これからの為に使っていこう、と新な視点をもってみてください。

私は幸せだ
2017/04/17

お会いしている方が「私は幸せだ、という気持ちが内側から湧き出るときがあります」とおっしゃいました。

それは全てがうまくいっていて、ストレスがないから・・ではなく、大変なとき、つらいときにも、時々、ふっと、それが湧き出るということでした。

この感覚は不思議なものですが「私」の発しているものです。それは白黒ワークでの白の部屋で察知するものとは質が違います。もっと本質的なものと私は感じています。

大変だったり、つらかったりなのに、こういうことが時々あるという方はぜひ、この感覚を覚えておいてください。覚えてというのが違う感じがする方は、その時の感覚を導き出してみようと思ってみてください。きっと「私」がそれをサポートしてくれます。「私」はそれを望んでいるからです。

「私は幸せだ、だって家族がいるから」とか「よく考えてみたら普通に生活できているから」とか「人より多く持っているから」・・・ということではないです。これは思考から導き出した幸せです。思考での幸せでは「私」は納得しません。

そこではなく、自然と湧き出てくる幸せ。湧き出たことを感じられる幸せ。それを味わえる幸せ。それがあることの幸せ。大変なとき、つらいときなのにそうできる幸せ。「私」の幸せ。

・・・・・ぜひ・・・・・

何故?どうして?
2017/04/16

きのう書いた日記のこの部分→「見た目は同じでも、そのそれぞれにある動機そのものがその人を表しています。ですからそこを聞くことはその人を知ることになります。「シンプル、いいですよね」だけではなく、どうしてシンプルなのか?がわかるとその人がわかりますね」←これはカウンセリングの基本になっています。

「私、シンプルな服が好きなんです」と言ったことに対して「そうですか、シンプルな服が好きなんですね」とレスポンスをします。ここは一般的なかえしかたです。

このレスポンスをしたカウンセラーが≪そうか、シンプルな服が好きなんだ、わかる、わかる、私もそうだから≫ではないということ。これではカウンセラーの思い描くシンプルと相手のそれとが同じであると決めてしまっています。

そもそもシンプルってその人にとって何なのか、それを服に当てはめた場合どういうものを指すのか、そして、どうしてシンプルな服が好きなのか、選んでいるのか、を聞かないと、自分の思い描くシンプルをイメージしながらの話になり、そこにずれが生じます。こうして聴くことでその人の世界を知っていくことができます。

ですから「なぜ(どうして)シンプルな服が好きなんですか?」とか「〇〇さんにとってシンプルな服ってどういうものなんですか?」などのレスポンスが必要になります。それを聞くことでその人がわかります。それは自分のシンプルとは全く違うこともあります。そうやって相手との溝を埋めていく作業により、カウンセリングはより深く、親密さを増していきます。

カウンセリングに「何故?」「どうして?」が必要なのはここをやりたいからです。ただ、この言葉は下手をすると相手を責めているようにとられることもあります。この「何故?」「どうして?」を純粋に言えるようになるためにカウンセラーは自分を成長させていかなければなりません。

見た目は同じでも
2017/04/15

きのう、ふと、ある方のことを思い出しました。

その方は、ショップの店員さん(男性)の方で、当時、私はそこの服が好きで時々顔を出していました。買うために行くというより、店に置いてある服や雑貨を見に行くのが楽しみでした。その店で働いている方です。年齢は・・たぶん、30代中ごろでしょうか。いつからか、話をするようになりました。そのたわいない話も楽しかったです。

で、あるとき気付いたのですが、その方、いつも着ているものが同じなんです。白いシャツと、黒のコッパン。黒の革靴。

たまたまなのかなと思っていましたが、とにかく、いつもそうなので、あるとき聞いてみたんです。「いつも同じものを着ているようですが・・・?」と。するとその方が言ったことは「同じなんです。今はこれでいいと思っているんです。それまではあらゆる服を着ていました。流行のものを。その服の数もすごかったです。でも、それらにも飽きてしまって今はこれが好きなんです」と。「いろんなものを着つくしてのこのシンプルさなんですね」と言うと「そうですね」と言って笑っていました。私も似たところがあるのでわかる気がしました。

スティーブ・ジョブズがいつも黒のハイネックにジーンズだったというのは、何を着ようか考えることに時間やエネルギーを使うことの必要性がない(決断をひとつ減らすことになる)と考えていたからだと聞いたことがあります。

これもまた見た目はシンプルです。しかし、その店員さんのように、やりつくしてシンプルになるというのとは違います。どちらがいいということではなくて、シンプルになっていく動機がそれぞれあるということです。

見た目は同じでも、そのそれぞれにある動機そのものがその人を表しています。ですからそこを聞くことはその人を知ることになります。「シンプル、いいですよね」だけではなく、どうしてシンプルなのか?がわかるとその人がわかりますね。そうやって人を知るということも大切だと思います。

そんな統合
2017/04/14

先日、日記に書いた「一汁一菜でよいという提案」(土井善晴・著)まだ読み終わっていません。

というのが、文章がきれいでそれが私にとって染み込む感があり、それをゆっくり味わいながら読んでいるからです。そこに土井善晴氏の魂を感じるようです。魂のレベルを・・と言ったほうがいいと思います。

レベル=領域はそれぞれのレベル=領域において、見ているものが変わります。外側にあるものから内側にあるものへ。そしてそこから本質にあるものへ。その視線は深く、広がりを持ち、普遍性をそなえていきます。

料理を作る、出来上がったものを、それが映えるような器に美しくかざりつける、それを食して、味わう。という一連の作業の中に、ひっそりと潜むようにしてある行為と状態に気付く目とそれを受け取れる心。それをあちこちに土井晴氏は表現されています。

そこからわかったことは、統合ということです。例えば、魂のレベルは全てにおいて同じなのではなくて、お金に対してはこのレベル、仕事に対してはこのレベル、人間関係に関してはこのレベル、死生観に関してはこのレベルというようにばらばらです。全てが同じ領域にいるわけではなく、何かは下にあり、何かは上にありと、でこぼこしているものです。このでこぼこを最も高いレベルにあわせていくことが統合するということなんだろうと思いました。

土井善晴氏は料理を通して、ご自分の魂のレベルをひきあげていき、それが他のものもひきあげていく、という体験をされているのだろうと感じました。そんな統合。

共感できることが色々と書いてあります。ということは本質をみていく作業はいろんなところから入ることができるということ。あとはその人によるということです。

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