ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自分で育てるしかない
2018/08/28

「私」を育てるためには意思力が必要になります。

しかし、自分は意志力が弱いと思っている方が多いです。意志力が弱いから継続してワークを行うことができない、モチベーションがたもてないと言います。

これに対して、それは本当にやりたいからではないからだという解釈があります。私もかつてはそう思っていました。本当に欲していることであれば誰にも何も言われなくても、その人はやるだろうから、本当にやりたいのではないんだろうと。しかし、それは好きか嫌いかのところの判断で「私」を育てるには、好きか嫌いかという所の話ではありません。自分を育てるための意志力は自分で鍛錬して育ててはじめて起動するものです。

もちろん、生まれつき強い意志力を持っている性格の人もいますが、そういう人でさえ、それを使うチャンスがなければ、意志力の発揮はできないだろうと思います。これは全ての能力がそうです。知恵も、素直さも、正直さも、勇気も、行動力も、リーダーシップも、慈悲も、許しも、創造力も。自分で鍛えていかなければ動き出さないものです。そして、それをするために私たちは今ここにいます。

それら全ての能力をひっくるめて「愛」なので、「愛」そのものはひたすら鍛錬により創造されるものといえます。何もしない人に「愛」の深い人などはいません。何の努力もなしに理想的な力を発揮できる自分にはなれないということです。

どの能力に対してもそうですが、この鍛錬し続けていくという、自分を創るためには、とにかく何でもいいので、毎日やることを決めてやってみるという練習法があります。それは祈りでもいいし、瞑想でもいいし、スクワットでも、散歩でも、本を読むでも、とにかく毎日5分位でかまわないので、毎日ひとりでやるということを続けます。

私としてはこれにぜひ語りかけワークを入れていただきたいところです。

これらは、ときにはムダに感じたり、面倒くさいと思ったり、嫌になったりするかもしれませんが、それでもやるうちに、そうできる自分に気づくと思います。自分がもう1か月も毎日続けられた、という気づき。そこには確実に意志力が育ってきています。こうやって能力は作られていきます。「あの人はいいよねえ、意志力があって」ではないんです。あの人も、こつこつと自分の意思力を育ててきたということです。

体も心も自分で創る
2018/08/27

定期的に「おうちでバレエ」を続けて、たぶん1年半くらい(?)このおかげだと思いますが、体が軽いです。

やり始めのころはジャンプを8回もやればぜーぜーいって、心臓のどきどきがなかなかおさまらなかったのが今は32回のジャンプを4種類できるようになりました(2種類のジャンプの後1分ほど休んで次の2種類だけど)これは自分でも驚きです。もちろん、今も、息が上がるけれど、心臓のどきどきのおさまりは早くなりました。

62歳でもこうなるのだから40代、50代の体は十分変えられると思います。私の場合、椎間板ヘルニアのせいか下の椎骨がくっついてしまっていて、いわゆる腰痛もちで、10年ほど前からは右のおしりのあたりがずっと痛かったのですが、今はその痛みがなくなりました。体は動かしてナンボなんだと思います。

皆にバレエが合うとは言えませんが、何か自分に合った体を動かすことをみつけてとにかく細く長く続けることはお勧めです。細く長くの継続で少しずつその人の本来の体を再構築していくのではないかと思います。

これは心も同じです。心の中で鍛えていくのは「私」です。パターンへの語りかけも白黒ワークも日々の言動の選択も「私」を育てるためのものです。「私」を育てる鍛錬を細く長く継続することによって、パターンで生きていたときに味わう苦悩からは解放されます。

これだけでも生きること自体が楽になりますが、「私」で生きることの喜びはここで終わるというものではありません。そこからはそれはより純化され、個性的になり、なおかつ自己を超えて全体的になります。そのときに、初めて私たちは自分を超えた存在のエッセンスと溶け合い、そこからまた学ぶことをしていきます。それはきっと大きな喜びになると思います。

その段階にいくためには、とにかく自分を「私」が観察し、「私」が選択するという事を意識的に続けてください。面倒だと思ったり、さぼっちゃお・・・と思うときもあります。それはそれでいいです。でも、気付いたときには元のところに戻ってきてください。体も心も自分で創っていくということは自分への信頼にもなっていきます。

一瞬の得
2018/08/26

他人を自分のために使って自分が得したり、欲しいものを手に入れたりしている人達はいます。言いたいことは誰に対しても、なんでも言うからストレスがないという人もいます。自分のすごさを誇示して人を従えるという人もいます。おいしいところだけいつも上手にもっていってしまう人もいます。自分の考えを強引に押し付けて相手を屈服させると言う人もいます。

こういう人たちはもちろん自分がパターンで言動していることには全く気付いていないので、そんな他人に対する能力が自分にはあると思っているので、それをばんばん使ってきます。

そういう人達を見ている人達は、嫌悪感や、あきれるという気持ちをもちながら、どこか、自分も彼らのようだったらもっと得して、もっと欲しいものを手にできていたかも、と思うこともあるかもしれません。そういう人たちに対しての言葉として「いいよね、自分のやりたい放題やっておいて、おいしいところは持っていっているから。図々しい人たちや自分中心の人たちって得するよね」というのを聞きます。

では「自分もそうやりたいか?」と問うと自分ではやりたくないと言います。一見、いいよね、と見えることも、その動機になっているものがどこからきての結果なのかということにつきます。結果は必ず元の動機のところに対してのものごとがかえってきます。

それでも一瞬、そのとき得だったらいいと思うかもしれませんが、そこで得られた得や欲しいものには継続性がありません。おまけに、気分よくそれはありません。

やっぱり、なぜ、そういうことを言ったりしたり望んだり自分はするのだろう?というところに目を向けて、何を動機に行うのかは吟味(選択)しないといけないですね。

正しい選択に基づく行動でも、もちろん、それに対してかえってくるものごとを受け取る(刈り取る)ことになります。それはもしかしたら自分(パターン)の望んだものじゃないかもしれませんが、その意味がしばらくして、自分でわかります。

それはきっとこれからの自分のためになるものごとです。だからそれは感謝して受け取ってください。

両方を使う
2018/08/25

ひとりでいるときと、他人といるとき、好きなことをやるときと、好きではないことをやるとき、頑張るときと休むとき、わかるまで考えるときと、棚上げしておくとき、うれしいときと、悲しいとき、大きな目で見るときと、繊細な目で見るとき、即効性のあるものと時間をかけるもの、というように、両方を体験を通して知っていて、どちらも自由に使えることが豊さです。

自由というのは、そのときそのときにふさわしいものを選んで身軽に動けることだと思う。

で、両方を使うようにできているのが人の人生だと思います。「私」は豊かに生きたいので、どちらも使わざるを得ないような状況を人生の中にセッティングします。今まで使ってこなかったことが必要になるような状況です。これは勇気がいることなので、抵抗があるかもしれませんが、起きていることはこういうことです。

ずっと好きなことだけをやっていることが、人生の成功者、天職を得た人、スピリチュアル的な生き方、宇宙の流れに乗っている人のように思われていますが、これでは片手落ちです。

例えば好きではないこともやるということで、培われる忍耐力とか、譲ることとか、我慢することとか、相手を受け入れていくことを得ていくことで、ここのバランスはとれていき、ここは卒業してまた次のバランスをとるためへと動いていきます。

ですから、苦手なこと、今まで避けてきたこと、意味がないと決めてきたこと、食べず嫌いできていたものなどに飛び込んでみたり、接してみたりすることは大切なことです。

相反する2つのものごとを自分で体験してみます。そうしていくうちにバランスがとれてくることが体感できると思います。そして、そうなると、実はどっちもありで、どっちが正しいとか間違っているということも実はないんだということに気づいていくと思います。そうであれば、そのときそのときで自由に選べます。それが豊かさにつながります。

これは心の中のパターンもそうです。黒パターンも白パターンも正しい、間違いはないということです。「私」がその2つのバランスをとっていってあげればいいだけということです。時には黒パターンだって選んでいい。そのくらい自由なことです。

お勧め
2018/08/24

いろんなトラブルが重なると、どうしてもあれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃ、こうしなくては、時間内でできるだろうか、と気持ちがわさわさしてきます。

そんなときには心はふわぁーーーーとしていて、浮足立っている状態です。

そういうとき、私は、体の中から熱が上がってくるような感じになり、その熱に突き動かされるように、わさわさと行動しています(・・・ということを「私」がみています、あらあら、またパターンでやっちゃってるよと「私」はみている)それはあわてているし、ちゃんと考えずに動いているので、ムダな動きが多く、意識が散漫でミスをするし、ミスに対して腹がたって、いらいらして、そして疲れます。

で、こういうときは一瞬立ち止まり「私」「私」「私」・・・と「私」のあたりに手をあてて言葉にしてみるといいです。それは「私」はここにいる、「私」はあわてていない、「私」はのみこまれない、などを全て含んでいることをこの「私」「私」「私」で確認されていくというものです。これはけっこういいです。即効性のある簡単などこでもできる瞑想という感じ。

はじめのうちはそれでもわさわさのほうが強いかもしれませんが、これも繰り返していくうちに「私」「私」「私」・・・で落ち着いていきます。

そうすると、今までの早く早くの時間が少し伸びた感じになり(おおげさに言うとスローモーションでまわりが動いている感じがする)まず、これをやって、次はこれをやってとひとつひとつこなせばいいという気持ちになるし、ひとつひとつがよく見えてきます。

「私」「私」「私」・・・をいつでも使えるように、日ごろから使っておくといざというときにかなり効力を発揮します。お勧めです。

仏陀の言葉
2018/08/23

「もし、汚れた心で話したり行動すれば、苦しみがその人につきまとう。もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら幸福はその人の後に、かならずついていく。」仏陀の言葉。

人生とは「苦」という思い通りにならないことで、そもそもができていると言う仏陀の、人生に対する大前提がありながらの、この言葉。これはちょっとめずらしい気がします。

昨日の日記で何を信じているのか、ということを書きました。私は、土台としてこの言葉を信じています。これは今までの自分の苦しさや悩みに突き動かされてきたときの自分の在り方と、いいあんばいに動いていることを確認した時の自分の在り方から、まさにそうだと思うからです。

これはもちろん今もそうで、黒パターンで(特にわかっていながら)言動すれば、すぐにその結果(ネガティブなもの)がかえってきます。これが早いのなんの。すぐ。だから、そのときにはすぐ反省(笑)そして二度とそれを選ばないよう、自分で確認。そうやって仏陀が言うように、苦しみがつきまとうことのないように、幸福がついていくように、努力していきます。

このルールは、もともとこの宇宙を創造したものが決めたものなのだと思うので、ここから逃れられるはずもなく。だとしたら、ルールに乗って生きることのほうが楽だろうと思っています。「だからうまくいっていない(という結果を受け取っている)ときは自分を観る。そして「どこが違っているんだろう、何が間違っているんだろう」と自分に問う。「そうしたらそれを真逆に変えるようにどうしていくのか、を考えるということだね。そうやってちゃんと生きていこう」と昨日いらした方とも話ました。

一瞬一瞬をよきものを選んでいくこと。このシンプルなことがとても大事なこと。

何を信じてるか
2018/08/22

自分が何を信じているか、そこには数々の信じているものごとがあると思いますが、その中で、大きく強く深く長期に信じているものが自分自身をつくり、その自分の選択で人生をつくっていっています。

そんなふうに言われてしまうとがっかりすると思われるかもしれませんが、これは現実です。もし、「自分には価値がない」「自分は弱い」「自分は他人に受け入れてもらえない」「自分は幸せにはなれない」などなどを信じていればそれはちゃんとそうなります。そして、ちゃんとそうなったのをみて「ほらね、やっぱり私はそうなんだ」とまたそれを大きくしていきます。そのようにして今の自分はできてきたんだということを知っておくことは大切です。

そして、そのようにして自分自身と人生がつくられてきたのなら、新に何を信じていくのかを考え、上書きしていけばいいということになります。そして、それを大きく強く深く長期にわたって持ち続けていけばおのずとそういう自分になりその自分が人生を構築していくことになります。

しかし、一気に「私は価値がある」「私は強い」「私は他人に受け入れてもらえる」「自分は幸せになれる」を信じていくことはむずかしいかもしれません。そこに、心の安定ややすらぎを感じられる(信じるということは頭で信じるのではなく、心で信じることなので心の感覚が最も大事です)方はそれに選び変えていくといいですが、この言葉を心で響かせてもどうもしっくりこないと言う場合まずは「自分が自分自身も自分の人生もつくっている」を信じることから始めて、必要に応じてその言葉を変えていけばいいと思います。

この「自分が自分自身も自分の人生もつくっている」は、よくよく自分の今までを観察すると「ああ、本当にそうだな」と理解できるのではないかと思います。そうであればこれは信じることができるのでは?あとは、どんな自分の言葉を自分に与えていくかになります。

あいまいさ
2018/08/21

きのうは、お墓参りに谷中へ行ってきました。

曇りだったので、暑いことなく、快適でした。帰りは上野まで歩き、東京の下町を楽しみました。下町は私の個性とあっている気がします。もし、都内に住むのなら下町がいいと思っています。

幼稚園の頃、下町にいた祖父母のところによく泊まりにいきました。そこは、隣近所の関係が密で(今はどうかわかりませんが)いつも誰かしら家族以外の人がいました。小唄の師匠や、大工さんや、納豆売りのおばさんや、糸屋のおじさんや、そのまた知り合いとか。

家族でもない人が一緒にご飯を食べているのが子供ながらに不思議に思いましたが、その内外がないような環境が好きだったのを覚えています。また、家の造りも、小さな中庭があり、それを囲むように部屋があって、どこからが庭でどこからが部屋なのかがはっきりしていないようなものでした。

そういうところが好きというのは、今もあって、どこからが外でどこからが内ということがあいまいな家やその形態に魅力を感じます。

それは他人と自分にもあてはまっていて、もちろん、それぞれの個性がありますが、それらをとっぱらって、ここからが自分でここからが他人という線引きができない部分と内外があいまいな部分とが似ていると思っています。

このあいまいさというものを好むのは私の個性であり、それは、同じような場所や同じような人間関係に共感するのだと思います。毎日接する何もかも、元は同じ素材でできているので、全てがひとつと考えれば、このあいまいな在り方は自然なのかもしれません。

本当にそのとおり
2018/08/20

「人生塞翁が馬」を知ったのは、私が37歳頃、椎間板ヘルニアで仕事を6か月ほど休んだときでした(今思うとよく解雇されることもなくいられました)そのときに、勤めていた会社のスタッフと上司からお見舞いの手紙をいただいたときに、ひとりの上司が書いてくれた言葉がそれでした。

「人生塞翁が馬。疲れたら休め。彼らもそう遠くには行くまい」

正直、そのときはそれほど心に響いていたわけではありませんでした。その上司はとても体が丈夫な人だったので「あなたは体が丈夫だからそう言えるのよ」位に思っていたと思います。

当時はまだまだ安定を感じるには、あらゆる条件が必要で、私はあれが足りない、これも足りないという状態でした。足りていないものを満たせば自分は安定できると思っていました。そういう人間に、この言葉は理解できなかったのだと思います。

そして、今、この年まできて、本当にそのとおりだと胸をはって言えます。私の場合、33歳でのできごとと37歳でのヘルニアとで大きく人生が変わりました。両方がなかったら、私はいまだに、パターンに突き動かされて、本当の「私」を知ることもなく、不安定で、ざわざわした日々を、闘って、疲弊して送っていたと思います。この出来事が私に新な生き方を与えてくれました。今はこのできごとに感謝をしています。

今、なんで私だけこんなにつらいんだ、こんなにうまくいかないんだと思っている方もこれがあってこそ転じるということが起きる可能性は十分にあります。そのために大事なことは、今おきている状態をネガティブなものごとだと決めつけてしまわずに「人生塞翁が馬」と思ってください。そして、幸せな方向へ行きやすいように、自分の中で起きていることには自分で責任をとるようにしていってください。そうしていけば、きっと動いていきます。

「人生塞翁が馬」も決して何かにゆだねきってしまってじっと動くのを待っているだけではだめです。自分からはたらきかけることが良い方へ向かいます。やるべきことをして、あとはゆだねて待つ、あわてないで待つ、のんびりと待つ、ということですね。

のんびりと生きる
2018/08/19

もっと私たちは、のんびりと生きていいんです。

そんなこと言ったって毎日やるべきことが目白押しで、考えることも、いろんな思い(感情)もでてきて、のんびりとなんてできるわけないと思っているかもしれません。または、そういうことにもう辟易としていても、皆がそうなんだから自分もそうでなくてはいけないと思うかもしれません。

そんなふうにして日々を過ごし、1年を過ごし、10年過ごし、としていくうちに人生が終わってしまうというのは、とてももったいない気がします。人生を楽しむ、味わうというために私たちはやってきているわけだから。

誰でも確かにやるべきことはあります。しかし、それを行うときに、どんな心持で、どんな状態で行うのか、今この目の前のことだけに集中しているだろうか、というところはそれぞれが決めていいことです。そこにのんびりを持ってくることもできます。

そのときに関わってくるのがいつも出てくるパターンです。パターンの「早く早く」「もっともっと」「こうなったらどうしよう」「あれもやらなきゃ」に突き動かされていくのか、それはそれとして、おいといて(わきにおいておきながら←捨てているんじゃなくておきながら)「私」はそのパターンを選びたいのか/選びたくないのか、を選択していくこともできます。又、パターンの早く早く、もっともっと、こうなったらどうしよう、あれもやらなきゃ、にも抗わないということはパターンと闘わないことになるので、その状態のほうが闘うよりももちろんのんびりといられます。

そういう意味でもっと私たちはのんびりと生きていいし、のんびりできると言えます。

一気にこのようにできなくてもこのことを知っていれば思い出したときにのんびりへつながるものを選択できると思います。肩の力を抜いて、今に集中して、闘わず、人生「塞翁が馬」を持ちながら、のんびりと今日を生きてみましょう。これもひとつの挑戦です。

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