ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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パターンに語ることができるのは「私」だけ
2019/01/10

例えば「自分はだめだ」というパターンがあったとします。

そのパターンは「なぜならば、自分には才能がないし、〇〇さんのように成功していないし、何をやっても形にならないし」と言っているとします。そのパターンへ語りかけをしようとすると(又はしているときに)そのパターンを嫌うパターンが出てくることがよくあります。

「自分はだめだというパターンが嫌い」というパターンです。そのパターンは「なぜならば、おまえが自分はだめだ、だめだと言っているからずっとだめなんだよ。おまえがいなくなればだめじゃなくなるのに。おまえがいるから何もかもうまくいかないんだ」というようなことを言ってくるかもしれません。

又はこんなことを言う場合もあります「だめじゃないよ。だって、〇〇さんのできないことをやれているし、人と比べること自体がレベルが低いことで、自分は高いレベルの人間なんだから、もう、そんな低いところに自分をおかなくていいよ。だからだめだ、だめだと言うことなんかないんだよ」と。一見優しそうですが、これも「自分はだめだ」を嫌うパターンです。手を変え品を変えて、嫌いなパターンを自分の思い通りにしたがるパターンです。

それぞれのパターンに対して、もちろん語りかけが必要です。そして「自分はだめだ」も「自分はだめだというパターンが嫌い」というパターンもしょっちゅう出てくる場合は「だまりなさい・・・」を使ってみてください。しっかりと毅然と「だまりなさい・・・「私」が決めるからあなたはだまっていなさい」と言います。

又、特に、パターンを嫌うパターンには「だまりなさい・・・「私」があのパターン(自分はだめだ)の存在を認めて許しているのだから、あなたはだまりなさい」と言うといいです。

全てのパターンは「私」とそのパターンとのやりとりを見ているので、彼らは少しずつ「私」がリーダーであることを認識していきます。簡単に言ってしまうといろんなパターンに語ることができるのは「私」だけということを示し、それを言葉にし、その関係を創ります。

それはパターンたちのためのものになります。安心して自分たちが身をまかせられるリーダーをパターンたちは欲しているからです。安心して身をまかせられる存在がいないので(「私」が未熟であるため)パターンが頑張るしかないようにしてしまってきたんです。

もう、パターンたちも解放してあげよう。

やりたいようにやる
2019/01/09

ある日の朝。まばゆいばかりの黄金色に包まれた一瞬でした。

人がどんなに魂を込めて創った作品も自然の美しさにはかなわない、と誰かが言っていましたが、本当にそうだと思います。人は超えられないそれに引き付けられ、圧倒され、背中を押されて作品を創りたい、表現したいという衝動にかられるのでしょう。

何故、山に登るのか?・・・そこに山があるから。という言葉もあります。目の前に山があるから登りたいという衝動がわく、そしてその衝動に従う。

人の心の底からわきでる衝動というものがとても大事だとこの頃思っていて、それに乗ってすごしています。もちろん、ここでの衝動は黒パターンからのものではなく、もっと純粋で(純粋であるなんて感じることもなく)何かにどこかへ導かれていくために必要なこととして、生まれてきているもののようです。

それに乗るのか、スルーするのか、は自分で判断してよくて、スルーしたから罰があたるということでももちろんありません。「やりたいようにやればいい」「自分の魂の声を聴く」ということはこういうことだったのかと思う今日この頃。

今日の衝動でやりたいようにやる。

意外な結末
2019/01/08

先日、近所の顔見知りの方とばったりと会ったときに「どーーーしたのぉ‥髪。染めるのやめたのぉ?髪が全体にグレーっぽくない?」と言われました。

「染めるのがだんだん面倒になってきて」と言ったら「勇気があるわねえ」と驚かれました。

その方は68歳、黒々とした髪です。「いいですね、黒くて」と言うと「月に2回美容院で染めている」ということでした。「伊藤さんは私よりまだ若いでしょう?だったら染めないと。みっともなく見えてしまうわよ。やっぱりおしゃれでいたいじゃない?染めて若々しいからおしゃれも映えるというものよ。伊藤さんも染めたほうがいいわよ」ということでした。「そーーですね」と言って別れました。

白髪をどうするか。お会いした方のようにきっちりと染めていたいという人もいるし、白髪を染めるよりも今流行っているグレーヘアーがいいと言う人もいます。白髪が嫌なのでいっそのこと金髪にしているという人もいるし、全く何もしないという人もいます。

私も以前は染めていましたが、アレルギーをおこして顔がひどい状態になったことがあったので、それ以来、びっちり染めることはやめました。しかし気になるときには、アレルギーをおこしやすいものが入っていないものでちょっと染めておくということにしています。

そうやっていくうちに面倒くささのほうが勝っていき、染める回数も減り、気付けば、黒や白やグレーや茶やいろんな色が混じった髪になっていました。これはこれで、自分らしくていいかも、と思っています。

近所の美容院の看板に黒を基調とした髪にあえて白やグレーを入れて作りあげた若い女性のヘアーカタログが出ていて、あらら、一緒だと思いました(笑・・・・もちろん髪のつやや、輝きが全く違うけれど)

白髪を染めることへの面倒くささが勝ることで手にした自由というのか、意外な結末というのか。面倒くささから解放されたことはとてもよかったです。老いていっている私。顔も体も脳も髪も。それへの戸惑いや抵抗を感じながらも、それを受け入れていくごとに自由になっていく気がします。諦めることでの解放。

老いることで学ぶこともあるんだなあと思いました。

没個性へ・・・
2019/01/07

昨日の日記の中に「自分を消して、皆の気づきや成長の素材として存在したい」と書きました。

これは、カウンセラーとしての在り方として、と、共に、個人の自分としてもそうでありたいと思っています。誰に対してもこのスタンスで在りたいと数年前から思うようになりました。

そのころ「禅」の鈴木大拙氏の本を読み、そこで言われていた「絶対的に無分別」という言葉。きっとそうなんだろう、いまの私にはうっすらとぼんやりとしたあこがれでしかないけれど、私はそこへ向かっているのだろうと思いました。

そして、そこへ向かうプロセスの途中でであってきた「没個性」「個性の消滅」「無心」「無我」「自分を忘れる」「自分自身で全体的である」「より価値のあるものへの自己の服従」「相手に化合をおこす素材」という言葉たち。それのひとつひとつが向かっている道を進ませてくれていると思います。そんな道の途中の今の私の在り方というのが冒頭の言葉でした。

ここまで歩いてきたのも、まずは、黒パターンで無意識に生きてきてそのうまくいかない結果を長い間受け取っていた今までの自分への気づきと受容からはじまりました。そして、反対にある白パターンを選択し、それで生きてその結果を受け取ることを日々の中で体験します。それと同時に今までは他人のルールや哲学や常識で創られていた自分に対して自分のルール(取説)哲学、を創り、ずっと他人に向けられていた意識により埋没してしまっているありのままの自分の個性を掘り起こし、その個性をまとった「私」として生きることをやっていくことで、他人の出てこない在り方を体験します。自分を生きるってこういうことだったのかときっと感じると思います。

そんな在り方の先に、今度は、今までの道とは少し違う道が目の前にあらわれてきたように思います。それが没個性へ・・・の道なのだと感じています。あるあり方をある程度創ったところで、また、それを壊し、次なるところへ向かうというイメージがあります。黒パターンで生きてきたこともそれを選び変えるということで破壊と構築をしています。破壊することと構築することがこの宇宙の姿なのでしょう。そして、それはそこに住む私たちにもプログラミングされているのだと思う。

人はこうして次へ次へと動かされていく(望めば)その動きが正しく、自然に、安全にいくように、日々の生活の中で白パターンを選ぶ(良くないカルマをつくらない)ということの継続になります。この一瞬からそれをスタートさせます。

また、1年間よろしくお願いいたします
2019/01/06

今日から、仕事始めです。

また、 1年間 よろしくお願いいたします。

皆さま、年末年始はいかがでしたか?大晦日はトミーの誕生日でした。大晦日ゆえ、毎年、誕生日らしからぬ誕生日を送らざるを得ないトミー。ハッピーバースデーが大掃除・・・・って(うーーーん)お誕生日だから夜はどこかで美味しいものを食べよう、と言っても、ほとんどの店はしまっているか、早い時間で閉店してしまうかで、毎年可哀そうです。かと言って私には美味しいものを作れるだけの腕もなく。

気の早い話ではありますが、今年の大晦日は前もって考えて、もう少しお誕生日っぽい日にしてあげたいです。

もともとイベントのない我が家ですが、父が亡くなってから、お正月イベントもなくなりました。まず、私もトミーもおせちが好きではないため、元日はお雑煮と、つけもので軽くお祝いし、2日からはいつも通りの朝ごはんでした。そんなわけで、苦手だった新年イベントからも解放されて、私としてはとても楽に年末年始を送ることができ、ありがたかったです。元旦にはトミーと「ボヘミアン・ラプソディ」を見にいき、私のLove Queenはまだしばらく続きそうです。

さて、今年の抱負ですが、昨年のように「ちゃんと生きる」を継続していきます。「ちゃんと生きる」がだいぶ身につき、習慣化されてきていることに気づいた去年でした。父の死後、父がご先祖さまと繋げてくれて、毎日の祈りにご先祖さま(曾祖父母)のお名前を入れてお祈りをするようになってから約1年ちょっとになりますが、そのせいか、よりスムーズにものごとが展開していっています。

その展開は「皆のために・・・」というものです。なんとなくそこへ自然と導かれていくという体験。その体験で、本当に自分ひとりの頑張りだけではないこと、何が動機になっているのかの重要性を思います。

「自分を消して、皆の気づきや成長の素材として存在したい」というこの欲求が働いている気がします。そこを今年も継続させてまた1年すごします。

・・・・・ということで、今年も「ちゃんと」皆さまにお会いしていきます。そして日記も(できるだけ)書いていきます。皆さまもどうぞ良い1年を創っていかれますように。

1年間ありがとうございました
2018/12/28

今日で仕事納めです。ですので、日記も明日から1月5日までお休みいたします。

今年1年日記を読んでいただきありがとうございました。ほぼ毎日「パターン」と「語りかけ」と「私」の連呼の日記でしたが、ちょっとでもお役に立てるものであったらよかったです。

そして、茅ヶ崎、沖縄、岩手でお会いしている皆さま、今年1年ありがとうございました。今年も皆さまとのカウンセリングから教えていただいたこと、反省したこと、気付いたこと、考えたことの毎日でした。今年も皆さまに私は育てていただいたと実感しています。

それと同時におひとりおひとりの成長を見て、知り、感じることができたことが何よりのことでした。また、来年もそれぞれの課題を持ち「私」を育てることに邁進していってください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

私個人としては、今年はいい年でした。いい年というのは特別なことがあったのではなく、ごくごく普通の毎日を過ごすことができたからです。そういう意味では陽と陰に大きく傾くことなく、中間あたりをくるくると動くことが自然にできていて、これが普通になっていることを感じました。そこでくるくるできたことが私としては「ちゃんと生きた」という気がしています。そして、この陽と陰の間のくるくるに自分の個性をもっともっとのせていいんだということをとても思いました。どんどん普通になっていきたい自分がいます。来年はそれを加味しながらのくるくるでいきたいと思います。

平成最後の年末年始ですね。寒い年末年始となりそうですが、くれぐれもお体に気をつけて、どうぞ良いお年をお迎えください。

あきらめること
2018/12/27

やり続ければ必ずできる、ということを言われます。とにかくできるまでやるということ・・・なんですが。

これが自己の成長に繋がるための自己観察とか、それに伴う行動とか、自分の内的行動ということにおいてはその通りだと思います。最初はわからなくても、できなくても、やり続けることで、だんだんできるようになります。それはそのようにプログラムされている「私」を誰もが持っているからです。

しかし、それが外に向いている物事の場合は、やり続けてもできない物事もあります。例えば、あの人がやっていることを自分もやりたいから、やり続けて同じようになろう。あれが好きだから、何がなんでもやり続けてそれで稼げるようになろう、など。それはやり続けてできる物事と時もあるかもしれないし、やり続けて努力をしてもできない物事と時もあります。

そのような外に向いているものごとを求めてやり続けるというのが「私」の意思なのか、それともパターンのそれへの執着なのかを見極めることも大事です。

「私」はあきらめることも選択します(これはかなり多いと思います)そして、パターンの執着ではないものを選びます。「私」が選ぶ物事には他人はいなくて(あの人のような・・・あの人のように・・・というような)時にそれは、誰にも知られることのない、ささやかな物事であるときもあります(黒パターンとしてはおもしろくないものかも)このあたり・・・どこまでやり続けていくのか、どこであきらめるのか、これは悩ましいところですが、これも自分で決めていかなくてはいけないです。

そのときのキーはやはり「私」です。他人の目とか他人の評価ではないです。それは「私」が納得する物事です。「私」が納得する物事はこの宇宙の意思に沿ったものなので、その人が何を選んだとしてもそこにサポートはやってくるはずです。執着を、熱意、情熱、やる気、頑張りと勘違いして、そこに時間とエネルギーを費やしていることもあります。見極めは難しいかもしれませんが、意識してそこも見てみるといいと思います。

今日もお世話になります
2018/12/26

今日も引き続き「シントラ声明」(七浜 凪 著)←お世話になります。

自分というものがどういうものなのかについて書かれているところが、自分に向き合う上で役立つのではないかと思ったのでシェアしたいと思います。以下、『』内は「シントラ声明」より。

『今感じる自分自身は、ゼロからスタートし自分で作り上げた存在のように見えて、実は前もってある程度プリントされた下地の上にあるものなのである』ここで言うプリントというのは過去世で体験してきたもので、それが重なって残っているということです。私たちは自分で気付かないそれをたくさん持っているんです。パターンで深く、大きく、長く、自分を苦しめるものはそういうものだと思います。

『でも大事なのは、今の自分が作られた理由ではない。それはおまえができた歴史にすぎない。そうした様々な影響により自分が出来上がったとして、その特徴を持つ自分をいかに把握し、前に進むかが重要なのである。短絡的に苦しみを取り除くことや、自分を変えようとすることは、おまえがまだ自分を知らない証拠だ。そんなこと、できるわけがない。そんな魔法はこの世にはない。おまえを作ってきた歴史を甘く見ては困る。その歴史を逆手に取り、自分の特徴を知り、自分という人間の手綱を握るのだ。苦しみから解放されるために。この世で、力強く生きていくために。輝く自分を見るために。そのためには、今いる自分をしょって立つしかない。』

決して現世だけが自分なのではなく、今までの数えきれない過去世での体験と共に生きているのが私達ひとりひとりです。だからこそ、誰とも比べられないし、他人は戦う相手ではなく、同志でしかないと言えます。そして、そんな長い歴史がある自分だからこそ、自分を変えることには時間がかかるし、エネルギーも使います。

しかし私達の「私」はそれをやりたがっています。だから自分から志願して今回もまたここへ生まれてきた。その本来の意味にいつもたちかえり、見失わないようにしたいものです。

過去世までひっくるめて持てるほど私達は強い存在なんです。みんなまとめて面倒みられるくらい。しかしそれは自分が頑張って、我慢して背負っていくのではなくて、そんなプリントされているみんなをいかにして「私」がコントロールしていくか、自分専用の使用書を創るか、どのようにまとめていく「王」になるか・・・・というところにかかっています。「私」がそれをやることになります(腕の見せ所)

いやいや、大変なことだ。自分には無理。一人でやれる自信がないなどのパターン(もしくはプリント)がさわぐかも。

そういうあなたにシントラの言葉を・・・・・『大丈夫だ。宇宙がおまえを守っている』

ひとりでいく道
2018/12/25

12月になると「シントラ声明」(七浜 凪 著)が読みたくなります。

この本を買ったのは、ずいぶん前の12月でした。岩手クラス出張の帰り、東京駅の本やさんで購入しました。その後、皆さんにも勧めて、今や「魂の道場」推薦本の1冊となっています。

この本を今年もまた読みました。何年たっても薄れることなく、キョウレツに魂に響く言葉が並びます。気持ちいいほどの厳しさ。端的さ。世間にまん延している自分の価値を感じられる「癒し」の数々の本。情報、言葉。そういうものが、薄っぺらく感じられるような力がその言葉にはあります。

前にも書いたかもしれませがこのくだりは今回も印象的でした。

「おまえたちが手を伸ばそうとしているもの。寛容で心が広く、いつも微笑んでいて人にやさしく、人に頼りにされ、誰からも好かれ、人の力になれる・・・・・そんな者など、この世にはいない。そんな偶像など、吹き飛ばしてしまえ。どんなに美しい代名詞を使っても、まがい物ならば意味はない、おまえたちはそんなものより、もっと澄んだ、本物の自分とその魂にたどり着かねば。良くある必要はない。たぐって行くのだ、本当の自分を。」(シントラ声明より)

・・・・・そんな者など、この世にはいない。良くある必要はない。・・・・それは私達が抱きやすい偶像です。良くあることが人として素晴らしいこと、だと思っています(これもパターン)そして、何よりそういう自分であれば、他人から信頼され、称賛や、評価が得られ、自分の存在価値を確認できると思っています(気付いていない人がほとんどだけど)それが当たり前であるぐらい、私たちには自分を支えてくれる他人が必要なことがあたりまえになっています。だから、そこを得ることだけを考えて生きています。

そんなところに貴重な時間とエネルギーを使うな、とシントラは言います。そんなことより、澄んだ、本物の自分とその魂にたどりつけと言っています。そこには他人はいないんです。そこを目指せと。そして、そのためにはたぐっていけ、と言っています。感情・感覚をたぐりよせ、その底に何があるのか目をそむけずにしっかりと見、今の自分がどういう状態なのかを把握せよということです。それがなくて先に進むことはできないといいます。

こうして、ひとりでいく道なんです。全員が。本当の澄み渡った自分に出会っていく道を全員が実は歩いているんです。

辛口のこの本が本当の愛に満たされていることを今回も思いました。

良い月と良くない月
2018/12/24

この時期になると、来年の占いというものをみかけます。

先日もネットでそういうものをみつけました。

「・・・おうし座の2019年・・・」来年の1月から12月までをタロットカードで読み解くというものでした。女性の占い師さんがひいたカードをひと月ひと月読み解いていくというものです。良い月もあれば良くない月もあります。

見ているうちに飽きてしまって、何が飽きるんだろうと考えました。そこで気付いたことなんですが。良い月というのは、健康で、自分が他人に認められ、自分の努力が実り、仕事が社会に評価され、お金や得るものがあるなどをあげている。良くない月というのは、体調がすぐれず、孤独にこつこつと励み、評価を得ることはなく、何かを手放し、我慢をし、お金も支出が多いというのをあげている。

決まってしまっている良いこと、良くないことというのがおもしろくないんだと思いました。

そして、はっきりと感じられたのは、私は(もう)自分が他人に認められる、自分の仕事が社会で評価されるということは望んでいないということでした。私は今で十分で、ただ、これからも自分自身の成長が欲しいだけなんだと思いました。ここは貪欲だと思います。

有名になりたい、ビッグになりたい、メジャーになりたいという人は多いです。それもある領域においては通るものです。しかし、それも何故そうなのかを深く、何度も見たほうがいいです。いつも言うように黒パターンでのそれでは結果が自他ともによくないからです。

そして、そもそもどんな事象にも本来意味はなく、自分で意味づけすることができるので、そのとき、そのときに起きたことに意味づけをしながらいけば、良い月、良くない月と言う分離もなく、それなりに混ざりながら流れていくと思います。

おうし座の来年の12月に出てきたカードは、どうも、よろしくないカードだったようで、占い師の方も困ったようでした。「年末にきてこれ・・・ですか・・・・」と言っていました。そこでもう1枚カードをひいていましたがそれもやはりよくない。ではもう1枚ひきましょう、とまた出してみたもののそれもいまいちらしく。やはり、良いと良くないとにしてしまうとこういうこともあるよなあと思いました。

人生は良いこと半分、良くないこと半分ずつ。だから、少しずつまぶしていけばそれなりにいくだろうと思っています。あとは、自分の個性をふまえてどのようなまぶし加減にしていくのか。これは、良い月も良くない月もないからこそできることです。

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