ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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我慢を誰がしているのか
2018/03/22

沖縄は25度。雲におおわれていたときには、それほど暑いと思いませんでしたが、太陽が顔を出すと一気に暑くなりました。そんな夏の沖縄から一気に冬の茅ヶ崎へ。きのうは雪も降り、寒さが身にしみました。

話は変わって、我慢をするということですが。これは大事なことです。

宇宙の流れにのって生きる、神とともに生きる、又、天職とは、幸せとは、自由に生きるということは、我慢をしなくていい、我慢をしなくてはいけない事が起きない状態と思われている節があります。そうではありません。

ある領域において、我慢をするということは、魂の成長・進化に必要なことで、それは「私」によって選ばれるものです。あえて選ぶ、いや、選びたい我慢です。そこでの我慢にはこれを我慢すればこれが得られるという結果を見込んでというものがなく、我慢のプロセス自体に意味があり、やりがいがあることを知っているというものです。そして、そこでの我慢にはアイデアや知恵や体験などを屈指してそれを生きたものにしていくということが含まれます。

今、その我慢が「私」には必要だから「私」はそれを行えるように「私」がセッティングして「私」自身に与え、「私」がそれを選び、「私」が実践し、体験します。本当に全て自分でやっているんです。

また、黒パターンの我慢というのもあります。これは黒パターンによって行われる我慢なので、そこには抑圧や犠牲や偽りや損得勘定などが入り込んでいます。そこにつきまとう憤懣、不安、不信、閉塞感、重圧感などなど。黒パターンの我慢は苦しいです。本当は自分には苦しいことなのに、もう無理なことなのに、黒パターンはそれはそうあるべきものだから、皆がそうだから、そうすることで自分の存在価値が見いだせるから、他人に認めてもらえるから、我慢は美徳だから、我慢しないと大人ではないからなどなどの意味づけをしてそこに向かいます。

我慢を誰がしているのか、によっておのずと結果が変わってくるのはわかると思います。

甘い葡萄をひとつぶあげようか
2018/03/16

イソップ童話の「狐と葡萄の房」という物語があります。

知っている方も多いと思います。おいしそうな葡萄を狐がみつけて、それを食べようとして飛び上がるのですが、高いところにある葡萄を取ることができません。すると狐はくやしがって、怒って「どうせ、この葡萄はすっぱい」と言い、去っていきました・・・とさ・・・というものです。

このおはなしを心理学者のフロイトが引用し、防衛機制の合理化の例としました。

このように、本当は手に入れたいのに、手にできないものごとがあるときや自分の願う目的が達成できなかったときに、自分が傷つかないように、自分の無力さを見ないですむように、その対象物を、価値のないもの、レベルが低いものとしたり、それには興味がない、自分には合っていない、本当は望んでいない、として自分を守るために対処することです。

わかりやすく言えば「負け惜しみ」ってやつ。

それが良いとか悪いとかの話ではなく、どうでしょうか?自分はそうしているかどうか。で、無意識でやっているってことは、まさしく黒パターンなので、もし、そうだな私、と思っても同じようにケア+白選択+実践でいいわけです。そこに「さあ、大変、フロイトとか出てきちゃうと、深刻なことなのかしら」と思わなくていいんです。

自分ができないことをくやしがって、怒っている狐パターンということ。その狐パターンは何と言っているのでしょう。よく、狐の話を聞いてあげてください。そして、甘い葡萄をひとつぶあげようか。

さて、今日から沖縄へ行ってきます。今回も、善いセミナーを行ってまいります。皆さまもどうぞよい週末をお過ごしください。

子供のころのように
2018/03/15

一般的には、よく考えてから行動する、ということは大事なことであって、それができないと大人じゃないと思われます。

よく考えてから行動すれば失敗がない、後悔がない、痛い目に合わなくてすむ、というところですが、それだけでもないと思います。自分の内側から湧き出す強い衝動。あれをやってみたい、ここへ行ってみたい、これを見たい、知りたい、そんなものもあります。それに対しても、じゃあ、よく考えてから行動だ、ではなくて、その衝動の勢いに乗って行動してみてもいいと思うんです。

そんなことをして失敗したらどうするんだ、と思われるかもしれませんが、そのときは引き返せばいいし、もし、引き返せないことでも、以外とまた違ったアイデアが生まれるかもしれません。

そんなふうに一見無責任だと思われること、無謀だと思われることも、子供のころのようにやってみるのも大事だと思います。もちろん反社会的なことやどうみてもまずいだろうというものごとのことではありませんよ。そこは常識で判断していただくとして。

子供のころは、毎日、やりたいと思うことをやって生きていましたね。仕事も責任もない子供だからあたりまえと思うかもしれませんが、何よりもそのときの「やりたい」をストレートに感じて、それを正直に行動に移すという在り方ができる柔らかな心を持っていたんだと思います。大人になるうちにその心は固くなってしまい、頭が全てを決めていくようになってしまいます。

あるとき、ふっと湧いてきたやりたいことは、時間ができたら、とか、仕事が楽になったらと先に延ばさずにすぐにやってみるといいと思います。そうやって、本来のやわらかな心を取り戻していきましょう。ただただ、楽しいことだから。

可愛すぎ!
2018/03/14

先日、TVで、映画「ゴースト/ニューヨークの幻」を見ました。

1990年のアメリカ映画で、若かりし頃のデミ・ムーアがとても可愛らしくすてきでした。今までもこの映画は何度か見ていたはずなのに、今回、ひきつけられるようにして見てしまいました。

デミ・ムーア扮するモリ―と恋人サムの物語ですが、ある日、サムは暴漢に殺されてしまいます。しかしサムは幽霊になってこの世にのこり、モリーを見守り、危険から彼女を守るというお話です。

今回、見入ってしまったのは、死んだ後、この世界にいるというのはこんな感じなんだろうなあと思ったのと、執着が強いと死んでからもそこに居続けて、その執着のまま(苦しいまま)いるんだということ、そして、悪いことをした人(この映画ではサムを殺した暴漢とその仲間)が死んだときには黒い影がその人の霊体を連れ去っていき(それはそれは怖い)良く生きた人には光のお迎えが来るということ。それを見ていて、その通りだろうと思いました。

悪いことした人たちが黒い影に連れ去られるのを見て「ちゃんと生きよう」とあらためて思ったりして。何よりの教訓となりました(笑)

最後、モリーの安全を確認したサムは光のお迎えの中、天に上がっていきます。そのときに「愛は永遠だ」と言います。この愛はサムのモリーへの愛、モリーのサムへの愛という個人的な愛のことだけではなくて、愛という宇宙の意思は永遠になくならない、と言われているような気がしました。そんな愛の中で皆が生かされていて、愛からそれる人はいない。そして私たちが愛そのものなんだと。昔に見たときと今見たときと、そこから得られるものごとは違いますね。

しかし、それにしても、デミ・ムーアが可愛すぎ!

いらいらはどうする?
2018/03/13

知り合いの男性から「いらいらをどのようにコントロールしているのか?」と聞かれました。

たぶん、いらいらを静めるためにどうやっているのか、ということを聞きたかったんだと思います。どのように応えようかとちょっと考えました。

「それはパターンってやつでね、いらいらは本当の自分じゃなくて」と言ってもややこしくなると思ったし、とりあえず、すぐに使えることを知りたいようだったので「いらいらを体内にためてしまうのはよくないから、袋でもクッションでもいいから、そこに向けて吐き出すといいですよ」と言いました。

すると「いらいらを吐き出すなんていいの?いらいらを持つこと自体が心身に悪いことなので、それを持たないようにこころがけているのに」と言いました。「そうなの?いらいらは持ってはいけないものなの?でも、いらいらするじゃないですか」と言うと、「そうなんだよね、いらいらするんだよ、でも、いらいらしないようにしているんだよ」ということでした。

いらいらは心身に良くない、というのはよく言われていることです。でも、だからと言って、それをなくそうとする、とか、抑え込むというのでは、よりいらいらはつのるはずです。自分を熟練させながら、いらいらを生み出すパターンをケアし、新なパターンを選びかえてほしいところですが、時間がかかります。そこで、すぐに使えるものとして吐き出すというものがあります。でも、いらいら相手に吐き出すのではないですからここはくれぐれも注意です。袋かクッションが最適だと思います。それによっても自分の中にたまっていたいらいらは少し軽減されると思います。

その方が話されたことに、男なんだからいらいらしてはいけない、人として高い人はいらいらしない、などなどを小さな頃から教えられてきたので、今それをもってもいいというのは、できそうもないと話していました。そうだろうなあと思います。

本来人に与えられているものでもってはいけないものはありません。それらも大切なものだからあるんです。自分の全てを理解し、許せる自分が本来の姿です。そうやって人は楽に生きていいのです。

シュミレーションしよう
2018/03/12

未来のことを心配するというのは誰でもあると思います・・が・・その心配をシュミレーションに変えるといいです。

未来のことを心配するって、例えば、病気になったらどうしよう、働けなくなったらどうしよう、お金がなくなったらどうしよう、ひとりになってしまったらどうしよう・・・など、今あるものがなくなってしまうことについてのことがほとんどだと思います。実際、今あるものを失っていくことは避けられません。

いや、自分にはありあまるものがあるから大丈夫と思う方もいるかもしれませんが、毎年若さは失っていっています。今のまま年をとっていき、今の生活のまま過ごすことはできません。

それがなくなること、変化することが嫌で心配をするのだと思うのですが。

そこでシュミレーションをします。もし、病気になったら・・。きっと悲しむ、ショックを受ける、絶望的な気持ちにもなる。当初はきっとそうだろう・・でも、きっと私はしばらくするうちにそれを受け入れていくだろう・・そして、少しでも自分が楽でいられる方法を探してそこで生きることを決めるだろう・・と。

もし、ひとりになってしまったら・・。きっと悲嘆にくれるだろう。ひとりが怖く感じられたり、さびしさに押しつぶされそうになったりするだろう。当初はきっとそうだろう・・でも、いつか私はそれでも生きていこうと知恵を出して、自分をいたわり、自分が少しでも楽でいられる場所をみつけてそこで生きるだろう・・・と。

こうして、色々なことをシュミレーションしていくうちに「どーーーーにかするんだろう、私」と思えてきます。そう、どーーーーにか。そのときはどーーーーにかする。これをお守りとして持っているといいです。

それでも死ぬことになったら。そのときには、きっと自分の会いたい人たちと再会の時をむかえることになるのだから、それはそれでお楽しみにしておこう、と思っています。むこうにいったときに、神さまに「よくやったね」と言われなくていい、両親に「よくやったね」と言ってもらいたい・・・・を楽しみにしているんです。

そのためにも「どーーーーにかするだろう、私」を持って日々、過ごしています。

やわらかく流動的な「私」を育てる
2018/03/10

昨日の日記に「ですから今の状況を無理やり動かそうとしたり、強引に変えようとすることで、かえってこじらせるときもあります。」と書きました。ここで間違い安いのは「そうか、かえってこじらせてしまうのだったら今の苦しみ、問題にじっと耐えて、ひたすら我慢しなくてはいけないんだ」ということではないということです。

では、どういうことなのかというと、今の苦しい状況や問題があることを受け入れながらも、この状況をどのように自分の糧にしていくのか(していきたいのか)「私」の栄養にしていくのか(していきたいのか)を考え(そういう新な白を考えて)その心持でそこにいる努力をする(実践)ということです。

そう在ることで、耐える、我慢する、努力する、頑張る、ということへの新しい目を作るということにもなります。

一般的には、これらには苦痛や犠牲や痛みがともないます。ですから、自分を強くしてそれらを克服すればいいと考え、そこでじっと我慢するということを選びます。どれだけ耐えられる自分をつくるか、じっとそこで我慢することで自分は強くなり、そこにいられると思うんです。

でもそうではないんです。「そうか、どう考えればそこにいられるか、ということを考えればいいんだ」でもないんです。

今、自分にとって必要なこの状況において、自分の中の「私」は本当はどうありたいのか、できないかもしれないけれど、すぐにそうなれないかもしれないけれど、どうありたいのか、というところで白を作るということです。そしてその白の状態でそこにいてみるということ。うまくいくときも、いかないときもあると思います。でも、「私」の意思としてそこにいる努力をするということです。

ここには、もう、いやいや、我慢しながらそこにいる、というパターンは入ってきません。いやいや、我慢しながら行っているうちはまだパターンが行っているので、それはその結果となります。いやいや行うのなら、やめたほうがいいです。・・・・これも、そうか、会社やめようということではなくて、いやいややることをやめたほうがいいということです。自分の在り方が人生を創っていくからです。

この在り方でいたときには、状況を無理やり動かそうとしたり、強引に変えようともしなくなります。もう、納得してその状況をとらえているからです。そんなやわらかく、流動的な「私」を育てるということです。


*ここのところ、バレエをはじめられた方が増えてきているので、今夜のこの番組はいいのではないか・・・・と。ご興味がありましたら。

http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=13601

それをいつも感じながら
2018/03/09

人はおさまるところにおさまる。

どんな状況であってもそれが死ぬまで続くのではありません。その人その人の着地点を見つけて(もしくは用意されて)そこにおさまるようにできていると感じています。

ですから今の状況を無理やり動かそうとしたり、強引に変えようとすることで、かえってこじらせるときもあります。「起きていることは必要だから起きている」と多くのマスターたちが言うように、今それが必要だから起きていて、それを素直に受け入れ、反省すべきこと、努力すべきこと、謝罪すべきことがあるのであればそれをたんたんと行い、普通に生活をしていくうちに、あるところにおさまっていく(もう、そこは卒業)のがほとんどです。

この、おさまっていくというのも、嫌だったこと、つらいことが解消される、問題が解決される場合もあれば、それをもちながらもいられるようになり、もう、それほど嫌でも怖くもないのでこのままでいいです!というおさまりもあります。一気に現状が変わる人もいれば、長い時間をかけながら変わる人もいます。おさまりかたも人それぞれ。

あっちのほうがいいな、楽そうで、と思うかもしれませんが、いつも言うように「人生塞翁が馬」今良くみえているものごとがずっとそうかというと違う展開になることも多いし、今悪くみているものごとがこれから先、福に転じるということも大いにあります。

で、このおさまりがスムーズにいくためには、とにかく一瞬、一瞬、何を選ぶのかということが生きてきます。誰でも、人である以上、落ち込んだり、萎えたり、折れたり、沈んだり、はあります。それはそれでいいんです。しかし、そこで自分は何を選ぶのか、が大事です(黒ではなく、白を選ぶ)

それもポジティブシンキングではなくて(これは思考で対処なので)「私」にとって快感であるものを選んでください。「私」が納得する喜び、光、明るさ、勇気、やすらぎ、などを感じるものを。それなら、ポジティブシンキングと同じでは?と思うかもしれませんが、「私」にとっての快感はハートで感じられるものであり、頭で納得するものとは質が違います。この感じられるものがとても大事です。それをいつも感じながら生活するといいです。

自分とは違う他人
2018/03/08

「ちゃんと理解されたい」と思う人は多いです。

ここでのちゃんとは、自分の望むようにということで、自分の望むように理解されたいということです。これももちろんパターンです。

ちゃんと理解されたとパターンが感じれば、それは安心するし、逆にちゃんと理解されないとパターンは不満や焦りやどうにか相手に理解させようとします。

パターンなので自分の中にそれがあることがわかれば、そこに語りかけ、白パターンを考えて、それを実践するということができます。それは自分の内的行為です。

それとは別に、熟考してみると・・・・他人に自分を理解してもらうということは無理だね・・・・って、あまりにさっぱりと切り捨てている?でも、自分と全く同じという人はいないし、似たような人であっても、やっぱり違う。

よく、よーーく話合えば分かり合えるというけれど、そうではなくて、話合うことでわかるのは、自分と他人は違うんだということです。それを知るためにも、話合うことは大事なんです。違うんだという現実を少しずつ腑に落としていくことが他人を理解するということなのだと思います。そして、それが良い関係を作っていくことになると思います。

昔、聞いたことなんですが、例えば、1つの赤いリンゴを2人の人が見て「きれいな赤だね」「そうだね」と話していてもそれぞれが見ている赤は微妙に色が違うのだそうです。赤だけどそれぞれの赤を見ている。そのことを時々思い出します。

人はひとりです。でも、ひとりぼっちではないです。となりには自分と同じように痛みを感じたり、悲しみを感じたりしている人がいる。それがわかることが本当の理解なのかもしれません。

かも・・でしかないけれど
2018/03/07

先日、夜中に目が覚めたら、ポロンのニオイがしていました。

「ああ、ポロンのニオイだ、久しぶりだなあ」と思いました。それは、もともとのポロンの持っていた穀物のニオイ+ビタミン剤のニオイです。ポロンは半年間、薬と一緒にビタミン剤ものんでいたので、そのニオイも体からしていました。「ポロン、来てくれたんだろうか、いや、頭の中にある記憶からニオイを導き出しているのかもしれない」と、はっきりしない頭で考えながら、くんくんとそのニオイを嗅ぐ。

なつかしくって、ちょっぴりさみしくて、でも、とても落ち着けて、そのニオイに包まれていつのまにか寝ていました。

目が覚めてから、何故ポロンのニオイがしたのだろう?と考えました。そういえば、その前日に、今度飼うとしたらどんな小鳥がいいかなあと、小鳥サイトを見ていたことを思いだしました。「この子もかわいい、あの子もかわいい」と見ていたので、ポロンが「自分のことを忘れないで」と言いたかったのかも。・・・(かも・・でしかないけれど)

ポロンは甘えることをあまりしない子でしたが、本当は甘えたかったのかもしれません。今になってとてもそう感じます。今からだけどたくさん甘えさせてあげようと思います。

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