ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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良質な種を蒔く
2019/03/21

日々「私」が善きものを選択していれば、カルマを増やすということはありません。

カルマは自分を苦しめる罰ではなく、純粋に、自分の選んだもの(原因)に対しての結果です。蒔いた種を刈り取るということです。これはセットなので、種を蒔きっぱなしということでは終えられません。原因→結果で一つ終わります。

このことがわかっていれば、日々、いや、一瞬一瞬どんな原因を自分が生み出しているのか、そしてその結果はきっとこうだろうという事も察しがつくと思います。だったら、良い結果を受け取って一つ終えられるように自分が(「私」)が何を選ぶのか、というところが何よりも大切だと思えると思います。

これは自論ですが、今世この地上に生きている自分の中に(卵の部屋の最下部に)今までに改められなかった、共通のカルマをもっている過去世の自分が何人もいて、今世の自分ももちろんそれを引き継いでいます。

引き継いだのは今世、彼らを代表して「私」がそのカルマを改め、ひとつのカルマを終わらせるためです。今、生きている自分がそれを託されている。それによりひとつの魂の中にいる彼らの同じカルマも終えられると思います。もしかしたらそれこそが供養なのかも。

これは絶対に生きているうちにやろうと思っています。たくさんのカルマを背負ったまま、あちらへ帰るのは重いでしょう。出張用の荷物を自分で持つのさえ重くて宅配で送っているぐらいの私なので、身軽であちらへも帰りたい。

だから、今日も「私」が選択します。善きものを。そうやって良質な種を蒔いて、収穫を楽しむ。その収穫がうれしくて、また良質な種を蒔く。この繰り返しです。

領域の特徴の続き
2019/03/20

「語りかけ」を行っているその瞬間には、一つ上の領域にいます。

語りかけを続けることで、心身が実際、軽くなっていくのを感じられると思います。

そこでは自分の中に起こっていることを誰かの、何かのせいにしてはいなくて、又、何かを他人から与えてもらおう、足りないものを揃えて安心しようとするのではなく、自分のパターンにひっかかったから今自分の中にこんな感情がわいているんだ、と自分の中に起きていることの責任をとろうとします。

ここは、自分のパターンと「私」の世界となります。パターンと「私」だけなので(他人がいない分)静かであり、意識が分散することなく、自分に向き合うってこういうことか・・・ということがわかると思います。

そして次に黒パターンに対しての白パターンを考え、白黒ワークをして、選択をすることにつなげていきますが、この段階でまた次の上の領域に意識は移行します。

この領域の特徴は「選択」と「創造」です。「私」が選択した白パターンに沿っての実践。ここにとても意味があります。「選択」というこれからの枠を新に決めて、それを実践することで、エネルギーをその枠内に流し込みます。その継続でそれは固まり、現実に現れてきます。

結局、誰の人生も「選択」したものを「創造」してできていきます。この領域は語りかけの領域よりもパワフルであり、動的な領域です。

今、自分がどの領域にいるのかを時々チェックしてみてください。各領域には、その特徴を持った人たちが住んでいます。自分の意識をどこにおくかで出会う人も変わっていきます。

そして白黒ワークの領域から一気にスタートした領域に落ちること(いわゆる黒パターンにのまれ、それで行動したときで、そのときにはそれに対しての結果=一番下に落ちて、そこでの体験をすることを受け取ります)もあります。それはそれでいいんです。気づいたら、また上がってくればいいだけです。そこは神経質にならずに、でも、意識的にあれば、だんだんと白黒ワークの「選択」と「創造」の領域の住人となります。

そういう人達が住んでいる領域なので、そこにはやすらかさや、深い理解があります。

領域の特徴
2019/03/19

意識の領域の話はよくするのですが。

まず、誰でもが一番下にある領域からスタートします。そこをスキップして上の領域にいく人はいません。下の領域という言い方をしていますが、レベルが低いということではなくて、こういう特徴を持っている領域ということです。

その誰でもがスタートする領域はどんな特徴をもっているのかというと、自分に起こる嫌なこと、問題、悩みは全て誰かのせい、何かのせい、として物事、自他を捉えている領域です。国が悪い、政治家が悪い、上司が悪い、部下がだめ、親のせい、夫のせい、子供のせい、住んでいる場所がよくないから、自分の身体が弱いから、自分は頭が悪いから、綺麗じゃないから、お金がないから、生まれが悪いから、だから、自分はこんなに苦しくて、つらいんだ、とうまくいかないことのあらゆることが何かの誰かのせいです。

ですからそんな相手、物事を変えれば楽になれると思っています。誰かに与えてもらわないと、いられないというものです。

又、物質重視であり、短期決戦を求めます。この領域はそういう人達の世界なので、いつも闘いがあり、差別があり、勝負があり、他人による評価が自分の価値を決めます。この領域で生きている人が圧倒的に多く、それゆえ、そこでできあがっている社会、国と言えます。

そこにいることで、苦しさや、もやもやを感じながらも、そこに居続ける人がほとんどです。人間とは、人生とはこういうものだ。だから、ひたすら我慢して生きる。皆がそうだから。という信念で出来上がっている領域です。

しかし、ここで、実は自分に起きていることの全ては自分に責任がある(自分が創っている)という新な目を持つことでこの領域を抜け出ることができます。自分に責任があるというのはだから自分が悪いのではなくて、軌道修正できるということです。

そこに目を向け、今自分の中で何が起きているのかを知ることが道場での語りかけワークです。語りかけワークを続けることで、今までの領域から一つ上の領域へと意識は移行します。

その新しい領域は「自分に起きていることの全てを自分で責任を取る(引き受ける)」という、自力で生きるという特徴を持つ領域です。続く。

天国からの・・・
2019/03/18

先日、TVで「天国からのお客さま」(2018年放映の再放送?)という番組を途中からでしたが見ました。

そこには天国からのお客さまである落語家の立川談志さん(のアンドロイド)がいて、その立川談志さんにインタビューしている女優の坂井真紀さん(こちらは健在です)が出演していました。

立川談志さんは見た目そっくり。目の動きや、身体の動き、何かを聞かれて考える様子など、まるで生きているかのようでした。こんなに精妙で、人間くさいアンドロイドに驚きました。毒舌の立川談志さんですが、相手が女性なのでそこは少々抑え気味のようでもありました。

そんな中で立川談志さんがこのようなことを言いました。「自分は正しい。なぜならば俺はいつも自分は間違っていないか?と自分を見ているから。しかしほとんどの人はそんなことは思わずとにかく、なんでも、金、金、金となる」

いつも自分は間違っていないか?と自分を見ている、だから、それにより自分には間違いが入ってくることなく、だから自分は正しいということです。これには共感です。

正しくあるためにはいつも自分を、間違っていないか?正しさを選んでいるつもりだけど、間違っていないか?と自分をちゃんと見ることが本当に必要だと私も思います。そこでの正しさは「私」が納得するものです。そして、自分は本当にそれを選んでその生き方をしているのだろうか?といつも自分を見続けることで、人は間違った道へいくことがなくなります。

ほとんどの場合、つらいことや、問題や、悩みが起きて初めて人は「自分の何が間違っていたのか?」と自分に目を向けます(ここへの気づきがないという人のほうが圧倒的に多いです)しかし、そういう現象が起きないときから自分をいつも見ることは、より、いいわけです。

やっぱり、正しい道を歩むことが一番大事です。それによりスムーズな領域で生きられるからです。そこで生きてほしいから私達はそのように創られています。

立川談志さんがあちらの世界でどんなふうに生活しているのか、どんなことを日々やっているのか、あちらでの体験から何をこの世にいる人達に伝えたいのか・・・・というところもあったらよりよかったんですが・・・・・。「天国からのお客さま」は他にも俳優の勝慎太郎さん、文豪の夏目漱石さんも制作されたそうです。

古い日記
2019/03/17

棚のかたづけをしていたら、2007年〜2010年の「Ponta日記」をプリントアウトしたものが出てきました。

日にちは飛び飛びではありますが、けっこうの量ありました。それは、沖縄クラスの方が昔、プリントアウトして渡してくださったものだと思い出しました(H子さん、ありがとう!)

で・・・・読み返してみると、今の日記よりもその文章や内容が若い気がします。若いと言っても50代なので若くはないけれどそれでも10年前の自分はまだ若い。

そして、その頃の私が書いていることは、今書いていることと全く同じでした。それは「私」を育て、その「私」として生きるということ。自分の中のどんな感情も悪いものではなくて、パターンは助けを求めている存在であるということ。この2極の世界は心の中も同じで黒パターンに対して白パターンが存在しているのでそれを「私」が選択し、実践すること。そうやって自分の力で機能不全の自分を機能させることを生きているうちにやろうということ。現実をしっかり見て、ファンタジーや幻を追い求めず、地に足をつけて生きようということ。そして今の自分を好きになろうということ。

このことを言葉をかえ、アプローチをかえながら言い続けてきたんだなあと思いました。10年前のものではありますが、今でも使えそうなものもあったので、これからは時々それをアップするのもいいかもしれないと思いました。

こうして日記をとっておくというのも自分の変化を見るのにいいですね。10年という時間は自分の変化を見るのにちょうどいい時間のような気がしました。10年以上にわたって学んでいる方々が道場には多いので、そういう方々はぜひ、ご自分の変化を確認し、感じ取っていただけるといいと思います。

軽さと柔軟性
2019/03/16

きのうお会いした方と、成長とか進化(ここでは「私」の選択と実践をしていくことで生きる領域が変わっていくということ)ってとにかく軽くなっていくよね・・・という話をしました。

それは、軽く、より軽くなっていく。

自分と向き合うことで、そんな自分の軽さを感じている方は多くいるのではないかと思います。深刻ではなくなっていることに気づく、ひとつひとつに感じていた重さがなくなってきていることに気づく、人の言葉も自分の言葉も重く固いものだったのが、軽く感じられる、などなどです。

この軽さとともに柔軟性というものも身についてきていることも感じられると思います。そう言えば、以前のように、こうあるべき、こうしなくてはいけない、あの人はこういう人、自分はこういう人、これが正しい、これは間違っている、と自他を縛っていたものが柔軟になり、それゆえもう他人に押し付けなくてもいい、他人のやり方に口をはさまなくてもいい、自分のこともいいあんばいで適応できる、という柔軟さが自分にあることにも気づきます。

軽くて柔軟だから楽なんです。

真正面から来ているものも軽さがあるのでひょい、とかわし、柔軟さがあるのでするりとすり抜け、ぶつかることを回避していく。だから平和。スムーズ。

軽さと柔軟性が現れてくるまで「私」が選択し実践することの繰り返しで、だんだんと今までとは違う領域に入ってきます。そこで生きるということになります。

普通に自然なレスポンス
2019/03/14

沖縄は、ほぼ、毎日雨でした。寒かった。そして、帰る日は良い天気。日頃の行いが悪いからか・・・・と思いつつも、帰りの飛行機の中で食べるいつものお弁当(にんじんしりしりとゴーヤの炒めがご飯の上にのっている)を空港で買って、おいしくいただきながら帰りました。

前回見たANAの「機内安全ビデオ(歌舞伎)」を今回はしっかりと堪能し、降りる際にはそれのメイキングビデオもじっくりと見て楽しみました。

思わずそばにいたCAの方に「機内安全ビデオも、メイキングビデオも、おもしろいですねぇ」と話しかけてしまいました(おばちゃんの、あれ、です。やたら話しかけてくるじゃないですか、おばちゃんって)

すると、CAさんは「ありがとうございます。そうですね、おもしろいですね。私も見いってしまいます」ときちんと目を見て返してくれました。レスポンスが上手いと思いました。

そうですね+私の言った言葉のオウム返し+自分のことも相手への共感とともに返す。訓練しているのでしょうか。

このレスポンス(応答)は基本中の基本で、カウンセリングにおいては、土台となっているものです。たったこれだけの言葉の中に「私はあなたの話したことをちゃんと聞いていますよ、あなたの言っていることを否定していませんよ、あなたの言いたいことはこういうことですか?(確認)あなたの感情に共感していますよ、こんなふうに私も同じように感じていますよ」など、たくさんの意味合いが含まれています。

話かけたほうとしては、それらを総合して聞いていて(というより感じ取っていて)聞いてもらっている、それもぶれなく、共感もしてもらっているということから自分にちゃんと向き合ってくれているという気持ちになり、それがあるからその人との信頼に発展していきます。

この短いレスポンスはあらゆる場面で使えます。家庭の中でも、友人同士、恋人同士、夫婦、親子、ビジネスの場でも使うことができます。カウンセラーにならなくても、この短いレスポンスを知り、練習し、実践していくと、今までの会話とは全く違うように会話自体が感じられると思います。

ただ、大事なことは、こういうふうにレスポンスしたら相手が喜ぶだろう、このレスポンスだったら相手を助けられる、こんなふうにレスポンスしたらいい人だと思われる、できる人だとアピールできる、など、黒パターンでレスポンスをしないということは大前提です。

CAの方のように、普通に自然なレスポンスは気持ちがいいものです。そこまでできるようにこれも練習あるのみです。

「私」が与える贖罪
2019/03/08

ここの所、映画ネタが多いですが。

TVで見た「ミッション」という映画。「1986年のイギリス映画。18世紀、スペイン植民地下の南米・パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)を舞台に、先住民グアラニー族へのキリスト教布教に従事するイエズス会宣教師たちの生き様、彼らの理想と植民地社会の現実や政治権力者の思惑との葛藤を描く」(ウィキペディアより)・・・というものです。

ロバート・デ・ニーロ演じるロドリゴは傭兵であり奴隷商人であり実の弟を殺した犯罪者です。そこに宣教師の神父ガブリエルが現れて、ロドリゴに改悛を勧め、彼は先住民グアラニー族の住む山の上に数人の宣教師とともに行くこととなります。

そこは険しい崖と深いジャングルに包まれている村でした。その道をロドリゴは重い荷(甲冑や重い剣などが入っている袋)をもって崖を上っていきます。それは戦闘用のものとしてだったのかもしれませんが、それよりも自分の罪を贖うためのものとしてに見えます。

足をとられ、荷とともに滑り落ちても、また荷とともに上がってくるロドリゴを見て、ひとりの宣教師が彼の荷を捨てます。そして「もう、彼は十分罪を贖ったのだから荷をおろさせてやってください」とガブリエルに言います。しかしガブリエルは「私たちがそう思っても彼自身がそれを許していないのだ」と言います。

ロドリゴは荷を持ち続け、山頂をめざします。その姿からは痛みと苦しみを自分に与えずにはいられない気持ちが感じられます。ガブリエルが「神が許すまでそれは続く」と言ったときに神は「私」であり、「私」が納得するまでということなのだと私は深く理解しました。

ロドリゴは神に許しを求めているのではなくて、自分が自分を許せるまで自分に苦痛を与えていきたいのだと。自分を許さないのは神ではなく「私」なんだと。「私」が与えている贖罪。自分の作ったカルマを死後に持ち越さずに現世で償いたい。

こうして重い荷とともにグアラニー族の村に着いたロドリゴ。彼をみつけたグアラニー族の男がロドリゴの、のどもとにナイフをつきつけます。ロドリゴはこの村の人達を狩り、奴隷として売っていたからです。ロドリゴは殺されていい、それは当然だ、という顔をします・・が・・その男は彼の重い荷のロープをナイフで切り、ロドリゴを荷から解放させます。

そのとき、初めて、ロドリゴは泣くのです。泣くことさえ自分に許していなかった彼が初めて泣くことを自分に許し、このときに、彼の「私」は自分を許したのだと思いました。泣いているロドリゴを村の人たちは、笑ってみています。そして神父ガブリエルはロドリゴを抱きしめます。ロドリゴは神父の腕の中で子供のように泣き続けます(ロバート・デ・ニーロは本当に上手い)「私」についての理解をより深めた映画でした。

さて、今日はこれから沖縄に行ってきます。今回も行かれることに感謝です。皆さんもどうぞお元気でお過ごしください。

絞ることの継続
2019/03/07

「自分が望む人生を創っていくためにはどうしたらいいのか?」と聞かれることがあります。

それは「できるまでやり続けること」です。

その間、そこに絞り込んで、ビーム光線のようにそこだけに意識を向け、努力を惜しまず、毎日、それに向かってやり続けることです。そういう意味ではすごくシンプルです。焦点を絞る。これでできるまでやれば必ずできます。

多くの場合、この絞るというところがうまくできていないような気がします。こんな人生を生きたい、だけど、これも捨てがたい、これは好きだからやめたくない、これもたまにはやりたい、今の状態は手放したくない、継続は苦手なので気の向いたときにやりたい・・・と・・・この時点でエネルギーは分散されていくので、なかなかビーム光線のように強く働きません。こう言っている人で自分の望む人生を手にしたという人を知りません。

時には息抜きも必要だよね、ときには自分にご褒美だよね、といつも息抜きとご褒美では・・・・・無理でしょう。

なんか、そのへん、メディアの影響か、ゆったり生きるとか、ナチュラルな生き方とか、ゆとりある生活とか、自分の時間はおしゃれなカフェで的なイメージが自分の望む人生だと思っている方が多い気もします。それは、努力して望むものごとを手にしたあとに、付録的にあるもので付録はゴールではないと思います。

自分が(「私」が)望む人生を創っていきたいという方はぜひ、絞ることの継続をしていきましょう。はじめはそこに意思力が必要とされますが、ある程度それに慣れていくと、そのプロセスそのものが清々しく感じられるとも思います。そうなってくるとそれは大きな自分の味方になってくれます。その清々しさを今日も体験したいと思えるようになるからです。そうしてそれが普通になると、望んでいたものが少しずつ形になってきていることを感じると思います。

「私」が選ぶ
2019/03/06

どっちを選んだらいいか迷うとき、私はAの部屋とBの部屋をつくって両方に「私」が入って、入ったときの一瞬の感覚で決めています。

いつのころからか、これをほとんどの場合(特に大事なことを決めるとき)に使っています。そんな根拠のない危ういこと、と、ほとんどの方は思うと思いますが、そんな危ういことと決めればその通りに危うくなります。

これは私の一つの決め事で「私」が見て、聞いて、考えて、言動してというのと同じように選ぶことでも「私」で行う、というだけのものです。

こうすることの何がいいのかというと、どっちを選んだらいいのか、ああでもない、こうでもないともんもんと考える時間と労力を使わなくてすむということです。これは本当にありがたいです。

一般的にはしっかり考えて、あらゆる場面を想定して、リスクがないように、望む結果を得られるように決めなくてはいけない(特に大事なことは)と言われますが、決めたものごとにはいずれにしても+もあれば−もあるので、ある意味、何を選んでも一緒というのもあります。

それよりも「私」の選択したもののベストをつくす努力をします。「私」が選んだからと言って、嫌な目にあわない、ということではありません。嫌な目が今の自分に必要ならちゃんと選んだものごとの中に「私」は嫌な目をセッティングします(神が試練を与えるのではなくて「私」が「私」のためにセッティングします。神はみているだけです)そんなとき、もう片方を選べばよかったというのもありません。

「私」が選んだのだから長い、大きな目でみれば「私」にとってこれでよかったということを知ります。それは本当に秩序だてて、細部においても計画され、行われていることだとわかります。

これは使えるようになるといいです。ここからまた、色々なことに気づかれると思います。かと言っても、最初から大きなことを決めるのは怖いでしょうから、最初はリスクの少ないものごとで練習を重ねていくといいです。毎日、それをやっていくうちに「私」の感覚というものがきっとわかると思います。

注意点としては、各部屋に入ったときの一瞬の感覚の良い方を選ぶということです。「私」が各部屋に長い間いると、すぐに思考が動き出す(パターンが頭を動かします)のでわからなくなります。一瞬の感覚がキーです。

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