ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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すっきり感
2024/09/27

私は、今の自分がいい感じでいっているかどうか(天のルールに沿った在り方をしているかどうか、ということです)を知るのに自分の全てに「すっきり感」があるかどうかというところで確認しています。

いい感じでいっているときには、心には「すっきり感」があります。それは私の身体に広がり、生活全般に広がっているのがわかります。そうであると、物質的にも、精神的にも色々と持ち込んでいないので、全てがシンプルな現象となります。思考から行動、物質も管理するべき物事が少ない。やるべきことがはっきりしているので、それをやる。という日々です。

…と、いつからか、自然とそのようになっていました。別にここをねらって来たわけではないんです。でも、私というこの個体には「すっきり感」が合っていたんだろうと思います。もしくは「すっきり感」で生きるという課題があったのかも。自分で望んでいたわけではないのに、そうなっていたというところはおもしろいところです。

で、自分という個体に合うものってきっと一人一人違うんじゃないかと思います。それぞれが天のルールに沿った在り方を心底欲し、それを具体的なものとし、それがある程度継続されていくと、自分に合った心の状態が訪れます。

それは、やすらぎかもしれない、平和かもしれない、活力かもしれない、正直さなのかもしれない。それがその人に合っているものなんだと思う。それは感覚として自分の在り方の確認に使えると思います。

何がやってくるかをお楽しみにしておきましょう。私はなんだろう?と考えないことです。お任せして生きる、これが大事だとつくづく思うのです。やるべきことを積極的に日々行い、結果はお任せする、そうすればその人に必要なものごとは気づけば与えられています。

「私」の反省
2024/09/25

より善いところへ自分を連れていくために「反省」は必要です。

より善いところへいくには、今までのこれは、もう、使うのをやめよう、選ばない、違う選択をしよう、と次へ向けて行うのが反省です。これはとても大事だと思います。ただ、反省というのは、このようなことであって、このような「私」の反省は一時で終わります。

しかし、黒パターンが反省をしだすと、今までのことをずーーーーーっと考え続けたり、そこにパターンが納得できる原因をひたすら探し続けたり、なんで私はあんなことをしてしまったんだろう、またやってしまって私はなんてダメな人間なんだ、あんなこと言わなければこんなことにならなかったのに、自分のことがつくづく嫌になる、など、反省はいつのまにか自責へと変わってしまっています。こうなると「私」が反省がしているのではなくて黒パターンが思う反省を黒パターンが行っているということになります。その最中は、苦しいはずです。そして、黒パターンを選んでいるので、その結果もついてくる、という苦しさ。

しかし「私」の反省は後に残りません。反省して、はい、次、次でいいんです。いやいや、それは単純な洋子さんだからできるんでしょ?と思うかもしれませんが、私も昔は、黒パターンが反省し続けていて、考えても考えてもそれが終わることがなく、とにかく、ずーーーーっとそこをぐるぐる回るような状態でした。

誰が反省しているのか、で、全く違います…と頭でわかっていても、実際は、パターンは反応して瞬時に動くので、パターンが反省していることを感じられたら、強制終了します。実際、考えることをやめる。そして「私」の反省を考えてください(次はどうするの?)そして一時の反省を(あえて)してみます。

でも、またパターンが色々と言ってきたら「だまりなさい」と言う。そういうことを何度も何度も繰り返していくうちに(多分)脳が書き換えられていくのだと思うんです。新しく書き換えられた脳は、今度は、新しい「反省」(「私」の反省)に協力していきます。こうして、少しずつ、自分をつくりかえていきます。地道な毎日の反復練習ですが、これに勝るものはないし、これが最近道だと思う。

強いメンタル
2024/09/24

詳しいことは書けないのですが。本当にメンタルが強い人の存在をこのたび知ることがありました。

私よりもずっと若い女性ですが、その方の体験したことを思うと私であったら、耐えられず病気になっていたか、その場から逃げ出していたか、だったと思います。尋常ではないその体験にいかに向き合い、いかに自分を支えてきたのだろうか、と思います。そして、今、その方は自分の進むべき道をみつけ、後を振り返ることなくスッキリと一歩を踏み出しました。

私の手元に、父が集めていたポストカードが残っています。絵が好きだった父が美術館に行くたびに好きなものを買っていたのだろうと思います。私も好きなポストカードをそこに足しています。

「小さな美術館」とポストカードのことを言っている方がいらっしゃいましたが、そうですね。こんな小さなものでも、その時の自分が見たいというものを側に置けば、それは自分にとっての美術館になります。

で、今は久しぶりにフリーダ・カーロの自画像です。フリーダ・カーロはメキシコの女性画家です。若い頃の大事故により、亡くなるまで肉体的苦痛と精神的苦痛に苛まれながらも多くの自画像を残しています。

その中の1枚「いばらの首飾りとハチドリの自画像」。しっかりとした視線でこちらを見ているフリーダ・カーロがいます。フリーダ・カーロと言えば繋がったまゆげとひげ(実際そうではないそう)ですが、ここにもそれが描かれ、よりいっそうその視線は強いものになっています。

しかし首にはいばらの首飾りをしていて、そこからは血が流れています。この痛々しい首と何ものにも負けない強い視線と、相反するものが描かれているのですが、その両方がその時のフリーダ・カーロだったのだろうと思います。血を流すほど心身にはダメージを受け、それでもそういう自分を誤魔化すことなくみつめ、表現したいという強いメンタルを感じます(私にはとうてい無理だろう)飽きることなく見続けています。見続けていると、とても落ち着きます。

私が持っていない強いメンタル。その人達の心の中がどのように動いていたのかを聞いてみたいです。

大相撲も終わり…
2024/09/23

自分が今まで、黒パターンであったけれど、それを良かれと思って、または、正しいことだと思ってやってきたこと、思い、考えは誰にでもあります。

それをそのまま信じて生きる人もいれば、何かのきっかけでそれについてよく考えてみる、という人もいます。よく考えてみたときに、今までの自分の在り方は間違っていたんだ(宇宙的にです)と気付く人もいます。

そこに人の成長があると思うのですが、気付いただけではだめで…。

問題はその後です。気づいた、しかし、そのままにしておく。やるべきことをやらない。やろうと思っているし、やりたいとも思っている、けれど、結果やらない、というのは、気付いていないことと同じだと私は思っています。

私はナビとしてやり方を示すけれど、後はその人にまかせるしかありません。で、やらないからダメな人なのではなく、それはそれでその人の魂が体験したいことなんだとも思っています(ここはだいぶそうなれました。以前はどうにかしてひっぱっていこうとしていましたが、それはそれで私のパターンなのだと気が付いて)

自分という器を、大きくするのも、そのままにしておくのも、小さくするのも、自分しだいということです。

さて、大相撲も昨日で終わり、また静かな日々となります。大の里という、スピード出世した、若い力士が優勝し、これからの期待も大きく、将来を有望されています。きっとこれからもっと力をつけて横綱を目指す人になるのだと思います。

私も大好きな力士ですが、より強くなってほしいから、これから、たくさん負けて、思うようにいかない時を過ごし、そこで何を選んでいくのかという体験をして欲しいとも思っています。これって、昭和チックなのかもしれない。令和ではそこはスキップでもOKなのかも。しかし、昭和も令和も関係なく人間の普遍的なものはあると思います。そして、その部分を育てるためにあらゆる職業もあると私は思っています。だから、何をやっているから、すごいのではありません。

本当に強くなるとはどういうことなのか…大の里がこれから時間をかけてぜひ、本当の、大物になってほしいと思います。…と、若い力士には、孫たちを見るような目で今後も大相撲を見ていきます。大の里、優勝おめでとう。

死がスタート
2024/09/22

私は、小学校5年生のときに茅ヶ崎に引っ越してきました。当時、家の事情で、両親とは別に暮らしていて、私と妹の面倒をみてくれたのが叔父夫婦でした。

そして通りをはさんで、祖母ともう一人の叔父も住んでいたので、私と妹は皆に、育てられたという印象があります。それぞれが(今思うと)個性的な人たちだったので、その影響を私は強く受けて育ったのだと思います。

その叔父の一人は、ドロップアウトしている人だったので、その叔父から言われた数々の言葉は、今でも自分の中で生き続けています。

小学生の私に「人間は死がスタートだから、生きているこの退屈な時間をいかに楽しく遊んで暮らすかなんだ」と言っていました。もちろん、全く何を言っているのかわからずでした。しかし、今は、よくわかります。

仮にそうだとしたら。誰もが死がスタートであるとしたら、今、そこへ向かう間の時間は、どう過ごしてもいいわけです。叔父が言うように、楽しく遊んで暮らす、という中には仕事をがんがんやる、もあるでしょうし、旅行三昧をする、お金を稼ぐことに精を出す、家庭を持って子育てする、趣味を持つ、などなど。それがその人の楽しみであるのなら、全て退屈な時間を過ごすものごとになります。

そして、この学びもそうです。楽しく遊んで暮らすものごとのひとつとなります。学びをそんなふうに軽々しく扱うべきではないと言う人もいるかもしれませんが、死がスタートという、考えのもとにおいては、そこに向かうまでの時間を深刻なものにしなくてもいいわけです。スタートした先が本番だから。楽しく遊びながら本番に向けてのエネルギーを蓄えていっている、とも言えます。いいエネルギーを蓄えていくのには、きっと、楽しく遊ぶことで生み出されるエネルギーがいいと思います。

そもそも人が生きて死ぬということは自然なことであり、そうやって、ひとりひとりが宇宙の運行を手助けしています。なんか、その在り方自体が私は軽く思えるんです。そこをまた押してくれる「死がスタート」感じてみてもいいかもしれません。何かが見えてくるかも。

禅定波羅蜜
2024/09/20

昨日は、お墓参りにいってまいりました。

前回、8月のお盆の時にはあまりの暑さのため、雑草抜きはパスしました。で、今回はもさもさと生えている雑草やにょきにょきと育ってしまった植物をひたすら切る、抜く…と働いてきました。昨日は曇っていたためたいぶ助かりました。

お寺さんからは「お彼岸のしおり 幸せの道 六波羅蜜の教え」という小冊子をいただきました。六波羅蜜とは、迷い悲しみを生きる現状から悩みにとらわれない安らぎの世界(彼岸)へ至るための六つの修行のことだそうです。それについて、武久 寛海さんが解説をされているというものでした。その中に「禅定波羅蜜」という項目が出てきます。それは、以下のことだそうです。

「坐禅をする意味とは?という質問に老師さまはこのようにおっしゃいました。<薬を買うと、効能書きというのがありますね。こういう効き目があります、とか。言ってみれば坐禅は効能がないんです。何かが身に着くというのではなく、逆にどんどんモノが取れていくんです。私はこんなタイプの人間だとか、頑固だとか。(中略)頑固と言うのは形がないんです。形がない物を自分の意識の中に、そういう人間だという形を作ってしまう。それが間違いなんです。我々の意識そのものが勝手に好きだ嫌いだを決めている。人間関係も、物に対してもそうなんですよ。そういうものは我々が小さいときから、大きくなってからもなかなかとれないんですよ。人間というものは。もともとそんなものは身体の中にはないのに、それを作っているんですよね。それを取ってく。取っていくともとの(自分の都合ではない)本性が出てくるわけです>」

ここでの学びと重なるところがあちこちに。

「形がない物を自分の意識の中に、そういう人だという形を作ってしまう」とあります。これはパターンが自分の心の中に自分はそういう人だという形を作ってしまう、ということです。そして人は心ありきなので、必ずそういう人になって現れます。パターンの強い思い込みでできている自分です。それは他人にも、物にもなされていきます。

「それが間違いなんです」と言われています。パターンの存在が間違いなのではなくて、無意識でそうしていること、それによって現れている自分を自分だ、と、信じていることが間違いなんです。

「そういうものは我々が小さいときから、大きくなってからもなかなかとれない」そうなんです。パターンは我々が小さいときから、大きくなってからも、それを選んでいればそのままいくことになります。より拡大させながら。

「それを取ってく。取っていくともとの本性がでてくるわけです」道場としてはもう、黒パターンは選ばない、そして新な「白」という意識的在り方を選ぶことをしていくことで本性という「私」が育ち、それが全てを選ぶことになる。

「自分の都合ではない本性」パターンの都合ではない「私」。それが本当の自分。ということです。意識的な自分です。

この体験をするためにきっと色々なやり方があるのだと思います。色々な道があるのだと思います。でも、天のあり方に沿ったやり方をしているものは、道は違えど、向かうところは同じだと思います。ここに挑戦し続けている人たちが、周りにはいるということです。たのもしいです。

自分で自分を決めている
2024/09/18

結局、人は、皆、自分で決めた人になっている、だけ、なんだと思います。

自分とはこういう人、ということを誰でもが決めていて、そのとおりになっています。これは、いいとか悪いとかではなくて。それだけの事なんだ…と。(これは私が初めて与えられた「ただ、今、その人が現れているだけ」の体験をした日を思い出します。多分、20年以上前。そしてそれは今でも全く変わることなく土台としてあります)

何故、そうなるのか、というのは、量子がその人の決めた通りに動いているだけ、なんだろう。これは、スピリチュアルということではなく、物理法則です、と言っている方もいらっしゃるくらいにもう、今や、普通の事になりつつある。で、だからこそ、自分をどのように決めるのか、というところが大事になってくるという話です。

多分、多くの場合、無意識でこれは成されていると思います。ここで言う無意識というのは黒パターンのことです。昨日書いたように、過去に他人から刷り込まれた黒パターン、自分で刷り込んだ黒パターンを自分だと思っていて、パターンはそこで起きたことを強固に信じています。こうして決めつけています。

そしてそうなっている今の自分です。今の自分は過去の黒パターンが決めた自分。無意識が決めた自分です。そうだとしたら、今日から、すぐに、新に自分で自分を決めればいい(意識的に)ということです。決めたらすぐにそうはならないですが、この体験のように、いつか、気付けばその自分となって現れています。これは今まで体験済ですからわかりやすいと思います。

どんな自分を決めますか?金持ちとか、仕事が順調とか、皆の上に立つとか、このままでいいとか今までの黒パターンが欲しがるものごとではなく。内面において自分が持ちたいものです。よく分からないという方は今の自分を創ったものを手放し(今の自分に満足であればもちろんそれでいいのですが)て見てみるとわかりやすいと思います。

自分をつくったのは自分。両親や、他人や、教育や、社会が自分をその様な人にしたのではないということです。そういうもののために自分はこうなったというのは、それらに管理されてしまっているということだし、それでいいです自分、と、自分を預けて守ってもらおう、と、いうことです。でも、それで満足ですか?

人は本来、のびのびと自分を生きることが誰でもできるのです。それには自分が自分を決めていくということです。

鳳凰
2024/09/17

部屋から見える空に「鳳凰」の雲が数度現れました。この数か月です。その代わりに「龍神」雲は現れません。昨日も「鳳凰」雲が現れたので、「鳳凰」の意味を調べてみました。以下です。

「鳳凰(ほうおう)とは中国の神話に由来する伝説の鳥である。36種の羽を持つ動物の長であり、聖天子が治める平和な世にのみ姿を現わすとされている。全体はクジャクに似ていて、頭は鶏、あごは燕、頸は蛇、背は亀、尾は魚で、黒、白、赤、青、黄の五色からなり、高さは六尺ほどとされる。めったに実を結ばないという竹の実を食し、梧桐(あおぎり)の木にのみ止まると言われる。西洋では、東洋の不死鳥ともみなされ、「中国のフェニックス」と呼ばれることもある。」(実用日本語表現辞典 より)

だそうです。「平和な世にのみ姿を現すとされている」とあります。いろんなことが起きている今ですが「平和な世」なのだろうか。自分の心を平和に導け、ということなのかもしれません。

自分の心の内を平和に創っていくためには、勇気が必要になります。そして、勇気は慣れ親しんだものの中にはなく、新たなものへ向かうときに必要になるものです。

パターンはとても怖がりだし、物事を歪めて、大袈裟に、深刻に受け取って、決めつけます。パターンは勇気を使うということを嫌います。こうなっちゃうかも、ならないかも、と思考し続けてしまうんです。(パターンに勇気を使わせるわけではないんだけど)

慣れ親しんだものの中だけにいたがるのはパターンのクセです。そして、その力は結構強い。そうなると、「私」がしっかりしていないと、そちらへ押されてしまいやすい。

しかし、そういう時に思い出してほしいんです。今の自分はそういうパターンを刷り込まれたとき、自分自身で刷り込んだとき、それに従って生きたことでそれを大きくしてしまったときの自分では、今やない、ということを。そのころの自分よりも強く、賢くなっているということを。自分はどう在りたいか…というのは、今の自分を使うのか、過去の自分を使うのか、ということです。ここに、勇気がいります。

「神」さえも頭で理解しようとする
2024/09/16

今回の茅ヶ崎クラスも無事に終了しました。

今回も岩手クラスの方が参加されて、楽しいご飯会、いや、違った、楽しい…学びの場…となりました。ありがとうございました。

ここでの…学びの場…は、今までの概念のそれではない学びの場です。まず、やっていることが、いわゆる学校で学ぶことではありません。そして、それは、目にも見えないし、手でさわることもできないし、数値化することもできないものです。

手探りで、こうかな、ああかな、と自分で理解したことを実際やってみて、うまくいかなければまたやり直し(間違えていればそう言われ)様子をみていく、というものです。そういうものなので、思考し、理解しようとするとわけがわからなくなってしまうと思うので、今までの学ぶ、は、手放して、新な学ぶに入っていたんだと思ってください。基礎はできているのだから大丈夫…と自分で思ってください。

で、こちらのほうが本来の学ぶなんじゃないかとも思います。自分がやりたいこと、自分が興味を持っていることだから、自然と自発的になります。そして、まだわからないことであるからこそ、わかろうとしないで、自分で試してみて様子をみていく。そして様子をみていくうちに疑問がわいたり、質問が出てきたりします。そこに学ぶことの真髄があり、楽しさがあると私は思います。

ただ、教えてもらう、与えてもらう、知識を、情報を、やり方をということだけが学ぶということではないのです。「学ぶ」のミームアップ。

これから、感覚を使うことをやっていきたいので、どうしたらそうなれるのか、どうしたらそれが得られるのか、と思考を使うのではなく、自分の内で感じることを色々と練習していこうと思います。

これ、ほとんどの大人の人は苦手です(子供は楽にこなすのだと思います)ずっと頭を使って全てをこなしてきたので、そのやり方が身についているんです。

このことについて現代人は「神」さえも頭で理解しようとするということを聞いたことがあります。そうなってしまうと、「私」の感覚で物事を又は自他を捉えていくことができなくなります。「私」は感覚そのものです。

基本は楽しむということなので、楽しんでください。楽しんでいかれるよう私も努力します。

ブルース・リー先生の「考えるな。感じろ」です。感じられないのであれば、感じられていないことを感じればいいということです。それでいい。今自分は感じられていないことを感じているのだから。そして、それを口に出して言ってみます。

鳥のさえずり
2024/09/12

このマンションに越してきて、最もよかったと思うのは、朝、鳥のさえずりが聞こえること。

さえずり、という言葉がぴったりなその声はスズメがチュンチュンと鳴くのとも違い、鳩がほおーほおーと鳴くのとも、うぐいすがホーホケキョと鳴くのとも、カラスがカーカーと鳴くのとも違います。何という鳥なんだろう?それもわからず。

その声は…まるで美しい森の中を自分が歩いているような気分にさせてくれる鳴声なんです。のびやかに響きわたる。澄みわたる。それが聞こえてくる。ここのところ毎朝。何て、気持ちがいい声なんだろう、一瞬にして私の心を浄化してしまう鳥のさえずり。

で、思い出しました。意識のレベルにおいて、尻尾を振る犬、猫のゴロゴロ、鳥のさえずりは500とありました。500は「愛」のレベルです。犬が尻尾を振るのも、猫がゴロゴロいっているのも、同じように自分の心を安定させてくれます。それと同じ鳥のさえずり。

それは彼らは、ただ、そうしたいからそうしているだけなのですが、そのそうしたいからそうしているだけ(見返りを求めていない状態)というところに、本質があり、そのエネルギーが人の心を動かすのだと思います。これが「愛」のレベルにある所以です。本質に沿うものであるということ。

さて、今日から2日間、茅ヶ崎クラスです。じっくりと、ゆっくりとやっていきたいと思います。楽しく学んでいただけたらと思います。

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