ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自分に戻る
2024/06/26

「魂の道場」で目指していることとは、本来の自分に戻ることです。

本来の自分というのは、天が創った自分ということです。その自分に戻る(その戻る過程においても)ことで、自然と天の法則によって生きることとなり、そのときが最も自然であり、健やかであり、安定しており、活力を感じ、幸せを感じることができる状態となります。

そこに向かうために、黒パターンで生きない、白パターンを選択していく、ということです。この作業を続けることで白パターンを選択しているときのいい感じ、というものを自分の身につけていく(これも戻っていく)ことになりますが、それは天の子である「私」の感覚で選択していくものなので、この時点で天の意思にそっているものであるということにもなります。ワークは天と自分を結ぶものなんです。

天の意思。天は何を私たちに求めているのか。天はあなたに何を望んでいるのか。そういう視点を持ち続けることが大事です。フランクルが言っている「人生はあなたに何を求めているのか」と同じです。この視点に天の法則の中で生きることのヒントがあります。

目指していることは、ただ、これだけなんです。実はすごく単純なこと。ただ、戻ることだけです。それにより、結果として、本来の幸せが与えられる、ということです。

30年一昔
2024/06/25

5月24日から6月21日までの月〜金で「古畑任三郎 30周年記念」ということで今までのシリーズが再放送されました。

1日、2話ずつの放送で(例外の日もあったけど)当時から好きで見ていたものだったので、とにかく見られる限り見まくりました。この間、体調を崩していたのに、熱があっても見たくて、結果、熱上がる、を繰り返してしまった。

どの回も結末はわかっているのに、おもしろかったです。何より田村正和さんはじめ、全ての人たちが若くて(当然だ、そういう私だって)30年という時間の長さを感じました。今見ても、本当によくできている作品だと思います。

毎回、完全犯罪をもくろむ豪華なゲストと、古畑任三郎とつかえない部下、そしてその下にやってきた優秀な部下が繰り広げる、犯人との知能戦、体力戦、笑い・・・うなります。脚本家の三谷幸喜さんも一番脂がのっていたときなのかもしれません。アイデアがどんどん湧き出ていたのでしょうか、話に勢いがあります。

30年一昔。30年前の私は38歳。はあーーーーまだまだ心が不安定で大変な時でした。トミーと結婚して2年くらいで、全てを頑張って完璧にやらなくては、大変でもそれを超えて強くならなくては、これからもっともっと大変なことが起こるであろう人生を生きていかれない、と思っていて椎間板ヘルニアになり、強制的に休まざるを得なくなったころです。しかし、これにより自己探求の道へ入っていったのでやはり「塞翁が馬」。

そのころのそんな大変だった現実を忘れさせてくれる番組だったのだと思います。その番組を今はこんなに違う心持で見ている自分がいる。

最終回で、松嶋菜々子さん演じる犯人が自白したときに古畑任三郎が言ったセリフ「(私が言いたかったことは)人は生まれ変われるということです」。本当にね…人は誰でも本人がそれを望み、そこに向けて自分で動き続けていけば、生まれ変わることができます。わが身を持ってそう思う。

自分は何もわかっていなかったんだ
2024/06/24

自分は何もわかっていなかったんだ…という気付き。

そしてわかったつもりで進んでいくとあるときまた自分は何もわかっていなかったんだ‥ということに気付く。それを繰り返していく。わかっていくとはそういうことなんだと思います。

だからと言って、わかったと言ってはいけないということではないです。わかったと思ってもちろんいいし、言ってもいいんです。だってそのときはそう思っているのだから。

しかし、それがゴールではないです。探求することをそこで止めてしまえば、そこまでわかったということですが、継続していけばまた次の自分は何もわかっていなかったんだと気付きます。

自分も含め、今までお会いしてきた方々全てがそうでした。誰も、1回で、高いところへ行き着いた人って一人もいませんでした。時には自分は優秀だから、いろんな体験をしてきたから人より飲み込みがいい、人より理解力が早い、私はわかっている、と思っている人もいますが、そういう人たちもやはり自分は何もわかっていなかったんだ…を通る(それを認めざるを得ない)

人間が精神性を上げていく能力ってこうしながら培われていくのだと思います。

ですから、そこでがっかりしたり、だめだと思わなくていいんです。そうかーーー自分はわかっていなかったんだ、だから、自分はこれからわかるんだ、こりゃ、楽しみ、でいいんです。

目には見えない、手に触れることもできない、今までの価値判断や考え方では通用しないこの世界への探求。新しいことだらけのこの世界。だからすぐにできなくてあたりまえだし、永遠なるものへ近づくことがすぐにできてしまうことのほうが嘘っぽい。

ゆっくり、1歩1歩、歩んでいくこの学びですが、少しずつ開けて見えてくる世界は優しさとダイナミックさに満ちていると思います。そこへ人(魂)は魅了されていくのだと感じています。

ただ一つの体験
2024/06/23

意味づけのワークをやり続けていくうちに、プラスの意味づけでもなく、マイナスの意味づけでもない、真ん中にある「ただ一つの体験」があります。

意味づけワークでいずれ得ていきたい感覚は、この「ただ一つの体験」です…ただ、それが、在る、だけ…という意味合いなんですが、あらゆる事象をそのように心底思えるような精神を持ったら、人間は卒業なのかもしれません。

これも「ああ、そうか。ただ一つの体験か、そう言われればそうだし、そう思ってみよう」ではないということです。どんな嫌なことが起きても「ただ一つの体験なんだ、これは」と自分に言い聞かせようとしてしまいがちですが、これはやらないほうがいいです。せっかくパターンは嫌だと言っているのにそれを抑えてしまうことになります。

自然と、自分が成長していったときに、この意味合いの広大さを感じると思います。そして、その世界を感じ取るためには宇宙的な視野が必要になるので、自分の在り方をどこに置くのかがよりわかると思います。

‥‥と完全に体験済みですくらいの勢いで書いていますが、私も少しずつそこを体験し、そこを感じられるくらいのところです。しかし、そこにこそ本当の安泰と平和があることははっきりとわかります。

人は大いなるもの(神)から命を与えられこの世に来て、自分が何者であるかを忘れて、苦しみ、問題をかかえ、それがあって、自分を見ることを覚え、そこからそもそもの自分を思い出していきます。語りかけも、白黒ワークも、もちろんそれの一つとしてあります。そして意味づけの「ただ一つの体験」を体験することは特にそこへ向けてのものになっていると思っています。

美しいカウンセリングをしたい
2024/06/22

でーーーー、カウンセリングって(…と唐突に始まりましたが昨日の続き)向き合っている方の意味づけを更新させること、新な視点を持つことをサポートすること、今まで自分の中にはなかった価値観とか、物ごとの捉え方とかを提示すること、だと今の私は思っているんです。

一般的にはカウンセリングは向き合っている方の悩み、問題を解決するためのもの、となります。もちろんカウンセラーがその答えを与えるのではなく自分でそこを見つけられるようにサポートしていく、というものです。これはこれでひとつの担当分野なので間違っているということではありません。

しかし、そこに答えを見いだせない場合は、違うところのものを持ってくるということになり、先ほどのことになると思っています。そして、意味づけの更新とか、新な視点とか、新な価値観、捉え方には「美」があると私は思っています。「美」があればそこには感動があるし、心がゆさぶられるものがあります。そういうものをたった1つでいいから(それは小さなものでもいいから)持って帰ってもらいたい、と思います。そういう、美しいカウンセリングをしたいのです。

「美」は純度を上げていくことも教えてくれてそれを追って自分が努力していくということなんだとも思います。年をとって、外見はおばばになりますが、この「美」の光は磨き続けて行きたい。

自由は戸惑い
2024/06/21

問題や悩みを解決するためには、今の意味づけや今の視点では無理だということ。そこを変えなければ、ずっと同じ問題と悩みにさいなまれていきます。これは、アインシュタインのあの言葉通りです。

だから意味づけって大切です。丁寧にそれをやってみると、きっと今までとは違う意味づけがふと湧いてきたり、こんなふうに意味づけできるのかも、と思ったりすると思います。その意味づけはもしかしたら今までとは真逆であるかもしれませんし、今までどれだけ決めつけてそれを信じてきてしまっていたのかもわかると思います。そして、今の自分にとってふさわしいものでその事象を自分のそれにしていけばいい。そしてまたそれが変わっていっていい。

というように、絶対なものは何もないんです。というところに多くの人は戸惑いや不安を感じるんだと思います。これは絶対、というものが決まっていれば、それだけを信じていけばいいので、楽だし安心できるのですが、たくさんあるものの中から今の自分にふさわしものを選ぶという自由さに戸惑う。自由って戸惑いでもある(というのも自由の一つの意味づけ)。

本当は子供の頃から少しずつこういうことを知っていかれていれば、大人になってこんなに悩むこともないのではないだろうかとさえ思うのですが、大人の世界は全て決まっていて、それがずっと継承されてきているのでどうしてもそれを子供に教えていきます。しかし、その決められてしまったひとつの意味づけが自分を苦しめている。なんで?その意味づけが今の自分に合わないから。意味づけのほうに自分を合わせようとしているから。

ここを壊して、自分の意味づけの世界を広げる。自分だけのもの、自分を生かすもの、自分を自由にするものを獲得していく、意味づけ。楽しみながらどんどんやってみてください。

漆黒の闇
2024/06/20

人は誰でも自分の内に漆黒の闇を持っていると思います。深く、底が見えない闇。

これは自分をずっと見てきて何よりもわかることです。その人その人によってそれは違いがあるかもしれませんが、それが全くないと言う人はいないでしょう。

漆黒の闇と言うと…ダースベーダー登場という感じですが…黒パターンの終結したもののようなものなので、ダースベーダ―的なものかも。

で、私の感覚として、そこがちらちらと現れ、そこと接触したとき(だいたい自分にとって嫌なことが起きているとき、とか、苦しい状態にあるときです)そこへ行く(選択する)ことで、一瞬、晴れ晴れする、その嫌なことを忘れられる、何故だか増々そちらを選びたくなるような感覚に囚われます。この、囚われてしまうというところが闇の力なんだと思います。もうそこには自分はいなくて操られている、これが闇の望むところ。

そして、その反面、それが自分をどんどんだめにしていくこともわかっていて、しかしその感覚の方は弱く、小さいためにダースベーダ―のほうへ行きたくなってしまう。はっきりとした力あるもののほうへ行きたくなる、という気持ちになります。

…という体験を昔はしました。今はさすがにそちらへ行きませんが、でも、その記憶と感覚は今もあってそちらへ行こうとすればいつでも行かれるということもわかっています。常に裏表でそれはあり、まさに光と闇の闘いなんだと思います。

漆黒の闇に入ってしまうと、これも私としての感覚なので人によって違うでしょうが、もう、全てがどうでもいい、全てをぶち壊したくなる、そして何より自分なんてどうなってもいい、という思い、思考に囚われていきます。

漆黒の闇とは、自分の手で自らを捨てることなんだと今は思います。それは本来の自分の魂の活動を止めることであり、自分の命を粗末にすることです。これこそが自分に対して(ひいては他人に対して)行う最悪のことだと思います。

自分の内の「理性」の声は小さく、聞き取りにくい。でも、そちらこそが自分であり、その小さな光が自分です。いずれ、ダースベーダーさえも自分の内で抱え込んでいくくらいにその光は大きくなり強さを増すのだと思います。

魂で帰るだけ
2024/06/19

人は誰でもが死ぬのですが、そのときには何も持っていかれません。どんなに資産があろうと、豪邸を持っていようと、高価な物品を持っていようと、権威や肩書があろうと、人生で成し得た成功の数々があろうと、愛すべき家族がいようと、何も持ってはいかれません。

ただ、ひとつだけ、持っていかれるもの、それは魂だけです。それも持っていかれるというよりもそれ自体が自分なので、自分ひとりで帰っていくことになります。

その魂という自分がどれだけ今世でいろんな体験を通して、自分自身を磨き上げたか。その磨き上げているときに気づいたり、修正したり、より新に気づいたり、また修正したり、反省したり、褒めたり、していくことで感じられる喜び。その一瞬一瞬が魂には吸い込まれていきます。それが魂の成長であり、それで帰るということです。

肉体を持ってこの世でいろんなことを体験して、自分を成長させていく、それを持ってあちらへ帰る。これが、人間の喜びなんだと思います。だからずっと転生し続けて、その喜びを感じられる自分になろうとするのだと思います。

自分の前世の人達も、このことを知っていたのにそれができなかった、又は全くそういうことに興味もなかった、取り組んでみたものの実感は感じられなかった、そんなことをやっていられるほど平和な時代ではなかった、などなどあったと思います。

そういう人たちを代表して今自分がいる。そしてそういうことを考えたり、行動できるだけの余裕ある時代に生きている。だとしたら今世で頑張ってみようと思えるかもしれません。

人は何のために生きているのか、という問も私はここだと思います。これも一つの哲学なので絶対ではありませんが、何かそこに安堵感があるのです。

美しいから悲しい
2024/06/17

昨日は「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番」(その他)を隣街へ聞きに行きました。

この曲、日本人に人気のある曲と言われていて私もご多分に漏れず、好きですが、実際の演奏をいつか聞きたいと思っていました。

ピアニストは女性の方でした。わりと大柄のがっちりした方だったので、この曲を弾くにはこの方くらいの体があったほうがいいのだろうと思いましたが、実際曲を弾き始めたときに、これは、予想以上に体力が必要な曲だったんだ、と思いました。

本当は男性ピアニストのほうが体力がある分、より、迫力のあるものになっただろうと思います。それでも、全身を使って弾く音色や、女性ならではの繊細さは聴衆に十分届いていたと思います。本当に、聞けてよかったです。また、機会があれば、次はサントリーホールで、世界的に有名なオーケストラのものを聞いてみたいです。

その女性ピアニストの方がアンコールで弾いてくれた初めて聞く大変美しい曲(曲名はわかりませんでした)を、指揮者もオーケストラのメンバーも聴衆も静かに聞いているときに、つーーーと涙が流れていきました。

あのときに思っていたことは、こんなに美しい曲を聞く機会が自分にはあるということでした。世界中には、音楽とは無縁で、ただ日々を生き抜くことだけを強いられている人たちがたくさんいるのに、希望を持つことも、自分の好きなこともできず、食べることも、眠ることもままならない人たちや、親を失った子供たちがたくさんいるのに…ということでした。

美しい曲だったのに、あまりに美しいと、そんな悲しみを思い出してしまうのでしょうか。美しさには悲しみが宿っているとはこういうことだったのでしょうか。そんな体験もさせてくれた今回の演奏会でした。まだ体力が完全に戻っていない私なので、へろへろしながら行きましたが、近場であったこともあり、行かれて本当によかったでした。

反省は自分のため
2024/06/16

ご無沙汰しておりました。久しぶりに寝込みましたがまあまあの快復度です。

全てのことには偶然はなく…という言葉通りに、今回の病も必然であったのだろうと、反省と選択でまた次へ進んでいく。

反省って、反省した後が大事なんだと思った今回。これはまずかった、とか、ここが違っていたのか、とか、こう偏りがちなんだよなあなど、反省をします。

で、気付けたことで終わってしまっていないだろうか?もしくは次は気をつけよう、と思ったことで終わってしまっていないだろうか?しかし、これらでは反省はいかされているのではないと思いました。次に向けての練習が必要になるんです。

反省をして、では具体的にこれから何をどうしていくのか、何をやめるのか、何を新に行うのか、を自分で考えて実際の行動にすることを継続することなんだと思います。頭ではわかっていたはずでしたが、身をもってそのことがわかりました。

そして、その具体的な行動をこれからし続けていくことで、またきっとそれを試されるようなことがセッティングされるのだと思う。そのときに、以前よりもその部分がよくなっていれば、自分がうれしい。よくやったな自分と思えます。

こうしてみると反省はこれからのよりよい自分のためだね。なんとなく「反省します」というと他人に対して許してもらう言葉であるように思えるけれど。寝込んでも、ただでは起きない自分によし、よし、と言ってあげています。

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