向かっているのは… | - 2025/04/10
- パターンはそのままでいい。自分の国に住んでいる民(パターン)はずっとそこに住んでいるのだから、そのままそこにいさせてあげよう。その姿を変えさせたり、家に閉じこめることなく、自由に暮らさせてあげよう。彼らが出たいときに出て、そのときに一緒に出てくる感情も感覚もそのままにしてあげよう。
「王」(「私」)が全ての民をお守りして、統率していかれれば、彼らは自由でいいわけです。そういう状態が自分を赦すということなんじゃないかと思います。自分の内の全てを赦す。赦すとは理解するということ。理解ができるから赦せる。
というように、自分に対して(それはいつか自然に他人に対しても)赦すということが少しずつできていくから、楽になるのです。
決してパターンにひっかからないから楽になるのではなく、又、そうなることを目指しているのでもなく、ひっかかってもひっかからなくてもそれはパターンにまかせて、何にしても「私」が対処していくから楽なんです。
私は先日、ある人に対してパターンがさわぎました(お会いしている方々ではありません)その人を認めようと(認めたいと)思うのですが、パターンがなんだかおもしろくない気分でいることに気づきました。一体何のパターンなのか‥‥まだ見えてこないのですが、そういうとき、カウンセラーなのにそんなではだめだ、とか、自分の未熟さが嫌だ、とか、まだ、こんなレベルか、とか…はないです(もし出てきたらそれもパターンなのでそれを赦せばいいだけで)
やるべきは、おもしろくない気分のパターンを探すことだけです。そしてそれをみつけたときには、王(「私」)が語りかけます。暫くそれを続け、いつもの白を言います。そしてそこに沿った言動をしたいからする。その結果、とか、その後の変化とかは求めず、ただこれだけをやっていきます。
その結果、とか、変化とか求めないんですか?と思うかもしれませんが、それらは自分の言動に対して与えられるものだと思っているので、それはあちらにおまかせをしています。それよりも、そうできる自分にうれしさを感じるし、そうありたいという思いを何よりも大事にしています。
こうしてみると、パターンをどうにかしたい、パターンがさわがないようになりたい、というのは「私」のやり方ではないということもわかると思います。ここがあまりにシンプルなので逆に難しいのかもしれませんが、向かっているのはこういう世界です。
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