| 魯山人の器 | - 2025/08/25
- 散歩のときに、茅ヶ崎美術館前を通る…というコースがあります。一昨日、このコースで歩いているとき、美術館の展示案内を見ました。
「うつわの彩り−吉田耕三と北大路魯山人 」8月24日まで。見に行きたいと思ってはいましたがまだまだ展示期間中だから大丈夫…と思っていたら、24日が最終日であることに気づく。
そこで昨日、朝一で茅ヶ崎美術館へ行きました。見てみたかったのは北大路魯山人の器でした。実物を見るのは初めてなんです。北大路魯山人は、陶芸だけではなく、篆刻、絵画、書道、漆工、料理などで活躍された方です。ひとつのことだけに才能を発揮する方は多いと思いますが、これだけのことを行うことのできる才能の持ち主。天才なんだろうと思います。
で、魯山人の器です。日常使いのものがほとんどです。料理家なので、その料理がよりおいしく見えるような器、というところで創作しているものなので、いわゆる「作品」ではない器が並んでいました。
おおげさではなく、きっと使いやすいだろう、厚みがあり扱いやすく、手にもおさまりやすいのかもしれません。料理が好きな人ならきっとこのお皿にはこんな料理をこのように盛ってとイメージもわくのだと思いますが私にはそれはないので、器を器として見て回りました。
魯山人の器には、日常使いのものとはいいがたい何かがありました。こちらの心に伝わる何かが。自分の内に小さな感動が生まれているのを感じました。それは器を見ればみるほど、大きく力強くなり、器を見て感動するという初めてのことにまた感動。
大袈裟に言えば、器なんですが生きていると思えるのです。息をして、そこに存在している。だからその前にいると、対話もできるんじゃないかと思える(しなかったけれど)。その息(命)をいただいて帰ってきました。
で、後から思った。クラスを行っていて時々感じるそれ、カウンセリングをしていて時々感じるそれ、ピアノを弾いていて時々感じるそれ、絵画を見ていて時々感じるそれ、本を読んでいて時々感じるそれ、おうちでバレエ程度のものからも時々感じるそれ。それと同じだ…と。それを一言で言うと、それは私の内におこる小さな感動で「これがあれば生きられる」というものです。これがあちこちに広がっていっている、それは一瞬でやってくる、飛び込んでくる、心が一瞬でキャッチするということを認識しました。
そして、多分、マスターたちは、それを自分の内で創りだし感動とともにある生活をしているのだろうと思いました。感動とは心の中の神が動くことだと以前教えていただきました。もしかしたら最も神を感じやすいことなのかもしれません。これは五感とは別のところにあるものです。
自分の感動を大切にしよう。そして感動したときには自分の内にいる神が動いたんだと思うといいと思います。
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