ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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身体の語彙を増やす
2024/07/22

昨日の「クラシック音楽館」という番組内で、NHK首席指揮者のファビオ・ルイージさんが、東京藝術大学の指揮科の学生4人に指揮を直接教えるというのを見ました。

ファビオ・ルイージさんは65歳。イタリアの方で、40年にもわたり指揮者として活躍されてきた方です。ご自分の経験を日本の若者に伝えたいということからこのクラス(6時間)が行われたのだそうです。

藝大の指揮科の中から選ばれた4人(女性1人、男性3人)。きっと将来はそれぞれが指揮者になることを願って、日々練習に励んでいるのだと思います。私は指揮法は知りませんが、きっと、それぞれが自分の指揮ができている4人なのだと思います。

彼らの指揮を見ていて(指揮を知らない私が言うのも何ですが…)印象として、真面目さが前面に出ていて、一生懸命で好感が持てるものの、何かがプラスされれば、または何かをマイナスすればそれはもっとよくなるのだろうと感じました。緊張ももちろんあったと思います。

で、ファビオ先生。こちらも印象としてですが、とにかく身体を使うことで(身体の語彙を増やすのだそう)そこでの必要なことを教えていらした。直接、指揮をしている学生の背後からその学生の両腕を持ってファビオ先生が指揮をします。学生はその通りに動かされる。こうして、その感覚を身を持って教えている場面がとても印象的でした(次からは一人でやるんですよ…とファビオ先生は笑いながら言っていた)

又「君はこの部分をどのように演奏したいのか?それをどうやってオーケストラに伝えるのか?」と聞く場面や「どうしてホルンの彼女を見ないのか、今ホルンが大切な部分を演奏しているのに。次はオーボエの人を見る。オーボエの人が大事な旋律を奏でるのだから」と言って、指揮者はただ、拍を降り続けることと曲を表現することだけではなく、オーケストラのメンバーひとりひとりとのコミュニケーションをとることが何より大事であることを教えていました。

結局、人と人との関係性がそのときの演奏に全て反映されていくのだと思いました。素晴らしく感動する曲とはそこがあるからなのかもしれません。そして、それは技術で行われていることだけではなく、指揮者のマインドに関わってくる。

こう考えると、これは全ての対人関係においても言えるのかもしれないです。自分がどんなふうにして他人を見ていて、接しているのか、それが自然に浮かび上がってくるのが自分の人間関係なのかも。ここは豊かでありたいと思います。

推進力
2024/07/21

黒パターンの領域で起きている黒パターンがらみの悩み、問題。それを解決するには何度も書いていますが、アインシュタインのあの言葉です。同じ領域では解決できないんです。

今、読み返している「無条件の愛とゆるし」(E・R・スタウファー著)の中にもこのことが以下のように書かれていました。「つまり、問題は、それが生じたレベルでは決して解決され得ないものです。解決するなり、癒すなりするためには、より上位のレベルまで持っていかなくてはなりません。」

今問題が起きている領域よりも上の領域にある知恵という力強さにこそ解決できるものごとがあります。道場的にはそれは白パターンの領域です。で、白パターンを選んだときに、感じる、黒パターンの領域にはなかった感情・感覚。これこそが解決のカギになっています。白パターンの部屋に入って感じるもの。広がりがあり、勇気が湧き、挑みたいという気持ちになり、安定感があり、安心感があり、希望がある、など色々あると思います。

それは今までのように思考で理解しているのではなくてダイレクトに感覚として「私」が察知しているものです。まず、ここが今までとは違います。

そして、そこから「私」が具体的な行動を考えます。そう見てみると、白パターンの部屋にあるものは、現実的な行動に結びつける推進力です。推進力って、黒パターンの領域にはありません(黒パターンの領域は保身力です)

推進力は健全な元気を生み出すのだと思います。

白の部屋が持つ、推進力。白の部屋にある、癒しの部分だけではなく、この、推進力も同時にあることを感じてみてください。同時にある‥何か一つを選んでも他のものも同時にあるということ。ここもまた白パターンの部屋の特徴です。

生き様
2024/07/18

大相撲夏場所が始まり、ご機嫌な私(本当に単純だと自分でも思う)

前回優勝した力士は今回も勝ち進んでいく、というわけにはいかず。周りの期待が大きいだけにプレッシャーもあるだろうと思います…が…きっとそういう事も全て置いといて、その日の取り組みだけに集中して毎日とっているのだと思います。それはきっとどの力士もそうだと。

ずっと勝てずに心が折れそうになっても、もう、無理と思ったとしても、体調がいまいちでも、それでも今日はこのいちばんに集中しようと自分の気持ちをそこに持っていくのだろう…と相撲をとったことのない私ではありますが、思いました。

力士は強い人たちだからそうできるのではありません。このようなことを繰り返して、強い力士になっていくんです。

この、自分の気持ちをそこにもっていく、ということ、これは大相撲だけのことではなく、誰でも、どこででも、使えるといい。

落ちている気持ちをそのままにせず、自分の本来のありたい姿のところに自分で(←ここが大切)持っていく。この作業の積み重ねでその人の「生き様」が生まれるのだろうと思います。何ができるからすごい、とか、偉いとかではなく、この落ちている時の心を自分が望む在り方のところへ自分でもっていくこと、そのことに人としての価値があります。

そして、それがその人の「生き様」となり、それに対して人は感動したり、共感したり、励まされたり、教えられたり、勇気を与えらえたりするのです。「生き様だろ」…と自分に言い聞かせて、今日も洗濯物をたたみながら大相撲を見ます。

黒パターンに育ててもらっている
2024/07/17

「パターンにひっかからなくなることを目指しているのではなく、ひっかかるパターンと一緒に生きることを目指しています。」という昨日の日記。

こうしながら、ネガティブなものに慣れていくということにもなります。「ひっかかる」と言うときにはだいたい黒パターンのことであり、そこにはネガティブな感情、感覚が伴っています。ほとんどの人はこのネガティブな感情、感覚が嫌いで、苦手で、それに飲み込まれることで悩みになります。

でも、そもそも存在している黒パターン。彼らをなくすことはできませんし、なくしてはいけない彼らです。「私」を育ててくれているのは彼らでもあります。だから、そんな黒パターンと一緒に生きていかれる「私」になろうということです。

これを自分のものにしていくうちに、ネガティブなものごとへの耐性や、それへの新な面に気づくことや、起きていることへの新な意味づけなどで、それへの決めつけが、ゆるんでいきます(この時点で、身体もゆるむ気がします。連動するのかも)

ゆるんでいく黒パターン、そしてゆるめている「私」により、以前ほどネガティブを特別視することも消えていき、気が付いたら「この程度であれば一緒に生きられる、いや、一緒にいてあげたい」という気持ちがわいてくる。黒パターンってそういう役目ももっているものです。

そんな気持ちにさせる彼ら。これはまさに無差別を知ることのきっかけにもなってくれていて、そこへの思いは「愛」そのものです。だとすると黒パターンが「私」に愛を教えてくれているとも言えます。人の成長はネガティブにあり。いずれ、ネガティブって何?というところへいくのだろうと思います。

ひっかかる
2024/07/16

パターンにひっかからなくなることを目指しているのではなく、ひっかかるパターンと一緒に生きることを目指しています。

だから語りかけで「あなたはあなたのままそのままでいい」と言っています。自分の内にあるもので何ひとつ、いらないものはない。全てが一緒に生きている。

だからパターンがひっかかっても、それでいいんです。それは自然なことだからです。そのことが腑に落ちてわかると、目から鱗。そして、何より心身は解放されます。解放、自由になるとはこういうことなのかと感動すると思います。

なかなかそこが頭ではわかっていても腑に落ちないのは、パターンを嫌うパターンがひっかかるからです。何かに、ひとつのパターンがひっかかったときに、同時に動く「ひっかかった」事を嫌うパターンです。

「こんなに長く学んでいるのに」「こんなに語りかけしているのに」「こんなに頑張っているのに」「まだ、こんななのか」「成長していない」「変わっていない」「もっとこんなふうになるはずだったのに」などなどそのパターンは言います。それは「私」が言っているのではないですよ。黒パターンです。このパターンにとって、学ぶということはそうなることだと信じています。

ですからそれにも語りかけをします。そのパターンはきっと昨日書いた「理想の自分」を思い描いているのでしょう。理想の自分はパターンにひっかかることがないと思っている。しかし、それはパターンのいる領域での信念であり、それはとても狭い世界の決めつけなのです。狭い世界では他の選択がなく、従って苦しくなります。おまけにそれは幻だし。

それが違うものだったということが分かり出すと、いつ、どこでも、何回でもパターンがひっかかっても、その都度の対応を「私」がするようになります。対応できれば、ひっかかっていてもいいわけで。

従って、やはり「私」を育てていくことです。自分という人間の持っているもの全てにOKを出せるようになる。これはひいては無差別というところにもつながっていきます。自分が頑張っているその方向性を確認して、もし、違うものを目指していたのなら、軌道修正をしていくことになります。

信じ切ってしまっている
2024/07/15

パターンが「理想とする自分」「こうなるべき自分」を求める、ということは普通に起こります。

人である以上、誰でもがそうです。それは普通のことなので、そこに向かうことに一生をかけてしまいますが、そのために苦しみが増してしまいます。

そして、これは、自己探求をしている人たちも同じです。いや、そういう事を行っているからこそ「理想とする自分」「こうなるべき自分」を追ってしまうという事が起きます。学んでいることへのイメージなのかもしれません。しかし、これはだめなことなのではなくて、そのくらい誰の中にでもこのパターンは大きく存在していて、そこへの信頼があるのだと思います。そうなれれば全てうまくいくだろうというような。

そうなれれば、他人から褒められ、賞賛され、大事にされ、それがあるから自分は自信が持てて、傷つかず、いらいらすることもなく、幸せでいられると思っているからだと思います。

しかし、それはパターンであるので、幻を追うことになります。そのことに気づき、そこを選ばないことを練習していき、そうではなかった、と自分が気づくのには時間も労力もかかります。何かをきっかけにして、または、こつこつと向き合いながら、そうではなかった、という体験をしていくしかありません。

「理想とする自分」とか「こうなるべき自分」というような形を作ることではないということです。

信じ切ってしまっているものから抜けること、新たな領域のことを言葉で説明することがとても難しいです。でも、伝える努力はこれからもしていきます。それでも最後はその人の意思と努力と継続と、それによる体験だけです。やっぱり自分を変えられるのは自分だけということです。

2024/07/14

ずっと(20年近く)使っている傘があります。とても好きな傘です。

オレンジ色の楕円柄に黒い可愛い形の取っ手(ヴィヴィアンウエストウッドのものなのでどこか、とんがっているところがいい)傘の大きさも長さも私に合い、大事にしている傘です。

しかし、この傘、今までに2回程、置き忘れをしてしまい、しかし、見つかって無事に戻ってくることがありました。

で、つい先日。近所のショッピングセンターに雨が降っていたのでこの傘を持ってでかけました。館内の本屋を見たり、食料品店で食品を買ったり、セール中の雑貨を見たりしているうちに、気がつくと!アッ…傘がない!!ないって置き忘れです。

さーーーーどこだろう。どこに立ち寄ったか、落ち着いて思い出せ思い出せ思い出せ〜〜〜と自分に言い、本屋を離れるときにはあった、食料品店でも…あった。とすると、雑貨を見ているときか?手にとって色々見ているときに、あのときにはもうなかったような気がする。

そこで急いでその売り場に戻りました。このあたりを見ていたよなあ、という場所まで戻り、そのそばにあるレジにいたお姉さんに「傘傘傘なんですが、私、このあたりに置き忘れてしまったと思うんですが、ありませんでしたでしょうかあぁぁ」と言うと「こちらでしょうか?」とレジ下から出てきたのが私の傘でした。「そうです。それです。あーーーーよかった。ありがとうございました」と言うと「お客さまが届けてくださいました」ということでした(その方に感謝です)

再び戻ってきた傘をだきしめながら「ごめんね、ごめんね」と言いました。傘は「もーーー何度目?心細かったんだからあ」と言っているようでした(ここから一人2役)私・「この前はATMのところだったよね。あのとき、すぐに気づいて戻ったら、心細そうにしていて。あの様子を見て反省したのに。またやってしまった」と言うと傘・「反省はいいから注意してよ。何かを見だすと注意力散漫になるんだから」と言う。

傘、怒っている、さすがパンクの女王、ヴィヴィアンの傘だ。主張が強い。

こうして長い間一緒にいる物ってただの物じゃない気がします。今は同じものは売っていない。いや、もしあったとしてもこの傘とそれは違う。命を生み出す能力のないものは、生きてはいないと聞いたことがありましたが、そうでもないように感じられます。

白黒ワークも
2024/07/13

白黒ワーク…も…深い。

語りかけを十分行ってから行う白黒ワーク。これも、最初は、嫌だと思っている(…というパターン)黒パターンから、白パターンを選びかけることで楽になれる、と思ったかもしれません。実際、楽になれるんですが、楽の意味づけが今までのそれとは違い、今まで知らなかった楽。楽には継続と努力が必要であることもわかると思います。こうして世界が広がります。

というように、今までとは違うものを選んでいくのが白黒ワークです。これは例のアインシュタインの言葉通りです。

まだ新たな白パターンに自分が追い付いていなくても、そうなれるのだろうか?と思っても、選ぶこと(これからの自分の意思を決めること。それも感覚で)がここでは行われています。

最初のうちは教わった通りの文言を言っていきますが、そこもまた豊かにしていく。形から形のないものへ。丁寧に、スキップせずに。しっかりイメージして。白の部屋がどんな言葉を言っていますか?それを自分で作る。そしてそれを自分に語る。その言い方、テンポ、色合い、それが自分をひっぱっていくものになっているのか?その部分を豊かに。黒と白に入ったときの感覚が大事。選択すること。そして具体的な行動にうつすこと。

ここで使われるあらゆる資質が結果「私」を育てています。「私」は可能性そのものですが、育てなくてはいけないんです。「私」が「私」を育てているということです。

ワークのおもしろさを感じられるといいなあと思います。楽になるためにやっているのではないです(パターンはそれを思っていると思うけど)おもしろいことだから続けられると私は思うのです。こうなるために、は、ワークにはないです。

2024/07/12

語りかけ…は深い。

最初はこの文言を言っていけばいいんだ、というところから入っていったと思います。最初はね、そうでした。

しかし、続けていくうちにいろんなことを要求されていく。丁寧に。集中して。共感を持って、でも、パターンよりにならないで。「私」が語ることをしっかり意識して。パターンは生きている。クールに。距離を保って。言葉と言葉の間のスペースを感じて。その語りかけを絵に描くと?映画スターウォーズの最初のシーンのあのイメージ、宇宙の中を流れていく自分の文言、そのくらい壮大に。手の平にパターンを乗っけて。そのときにはたくさんの観音様の目に囲まれていることを意識して…などなど、どんどん続けて私は言っています。

このやり方(在り方)に皆さん慣れていったので「前はこう言っていたのに、どれが本当なんだろうか?」とはもう思わないと思います。こういうところも自分が変わったというところです。きっと今までの領域では、これはこういうものというわかりやすいもの1つで捉えていたと思います。しかし、新な領域ではそうではない。複雑になる。複雑であるからこそ目指すところを見つけやすくなります。

こういうことをどんどん出していきながら、それら全部を含んだところにあるもの、それらをちょっとずつ集めたものが語りかけなんだという事に気づいていただけたらと思います。

で、以前にも言っているように「私」は「王」だということ。王である「私」が自国の民の話を聴き代弁する(民は上手く伝えられないので)。

王は威厳があり、全てまかせておきなさい、おまえを守り抜くと誓っている。何よりも民が安心して居られることを望み、しかし、民を甘やかさず、でも、切り捨てることはなく、そのままの民でいいという本心を渡しています。

王と言われてもイメージできないという方は図書館ででもあらゆる王の写真や絵画を見て、コピーして部屋に貼っておいたり、その姿勢を真似してみたりするといいです。私は海外の好きな国歌を聞くとイメージがふくらみます。このようにそれを得るために、いくつもの学び方があってそれによりまた深みを増していきます。

それを得るためにどのようにしたらいいか?を自分で考えてみます。王はきっとそういうことも考えるだろう。自分の国の民の面倒を見ることのできる王になるために、きっと、自分を高めようとすると思います。

そのころの私に会いたい
2024/07/10

外から子供たちの元気な声が聞こえてくるので、ベランダに出て外を見てみると、小学校低学年?の子どもたちが2列に並んで先生の後をついて歩いていました。

それぞれ小さなリュック様なものを背負ってこの暑さの中を元気に楽しそうに歩いています。その様子を見ていて、ふと、思った。私にもこの子たちと同じ頃があった。今、そのころの私に会えたらいいのに‥と。

子供の頃の私はとても恥ずかしがりやで、できるだけ目立ちたくなくて、おとなしい子でした(これは今もあります。信じられないかもしれませんが)だから、こうして皆で歩いているときにも下を向いて黙々と歩いていたかも。

そしてその胸には子供ながらにつらいことをかかえていたかも。小さなそんな自分のことを思うと、とても愛おしく思えました。

今、会えたら、話を聞いてあげたいし、ひとりじゃないと教えてあげたい(わからないかもしれないけれど)。そのころ好きだった動物のことや、テレビ番組のことや、好きな遊びのことや、好きな食べ物のことや、好きな友達のことなどを一緒に話したいと思いました。

皆、誰もがそういう小さな時をいろんな思いで生きてきて今がある。子供ながらに皆頑張ってきた、だから今がある。そう思うと、小さな自分に助けられてきたのだと思いました。

だから、ひとりひとりの生きて来たその時間はとても貴重なものだと思うし、他人と比較できるものでもないです。そう考えたら生きているということだけで十分なのでは?とも思える。

いつのころからか、自分に対して厳しくなってしまった私たち。自分に厳しいから他人にも厳しくてそれにより自他を縛り付けてしまっているかもしれません。生きているだけで十分。それは自分も他人も。そんな尊厳を自他に持つこともできます。

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