ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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やっていることはそういうこと
2025/05/12

5月の茅ヶ崎クラス、無事に終了しました。

今回から新メンバーが参加。そして今年は岩手クラスからお一人と時々沖縄からお一人参加してくださいます。岩手も沖縄も近ければ、毎回、皆で集まれるんですけどねえ。

で、クラスは新なフェーズに入っているので、難しく感じることもあるかもしれませんが、基本は今まで通り、自分を繊細に観察し、どんな小さな感情、感覚もスルーせず「私」がパターンを見つけ、王である「私」がそのパターンへ語る…を続ける。そしてしばらくして白パターンは?とその一連の作業に入る。を繰り返すだけです。やらされてる、ではなく、自発的に。

ここまでを、シンプルに、気持ちよく、思考せずに続けていくということです。ワークをしながら、または、ワークの途中に色々と思考してしまわないように、どうすれば自分はそれができるかを試行錯誤しながら見つけていってください。

自分の内に起きていることは本当に単純なことなんですが、そこに対してすぐ思考するのでごちゃごちゃするし、複雑にするし、だんご状態になってしまって、何が、どこが元だったのかがわからなくなってしまいます。で、しょうがないから、パフォーマンスだけを変えようとする。もっとこうしてみよう、とか、こんなふうにすれば、とか、こんな考え方もあるし、とか、以前はこれでいけたから、とか。

でもやりたいことはそういうことじゃないんです。パフォーマンスを(外側を)変えるための方法を探すことではなく(それは問題や悩みと同じ領域にい続けることになるため先がない)起きていることに対しての深い理解(そこで求めらえていることは何なのかに気付くこと)とそこへまつわる意味づけができる人間に自分を育てるということです。

で、それは他人にすぐにやろうとしてもできないんです。まずは自分の内にいるパターンに対してワークを通して練習させてもらいます。ここでも練習が必要になります。

やっていることはそういうこと。内側を変えるって、やはり大変なことなんです。私のカウンセリングの先生は人が変容するには血の涙を流さないと、とおっしゃっていました。癒されるーー、楽になったーー、だけでは変容はできないということだと思います。しかし、全ての魂はそれをやりたくて来ています(と私は思う)来世に持ち越さないように、今世こそは、ときっと思ってやってきたのではないだろうか。その想いを叶えてあげたいと思うのです。

すぐに検索
2025/05/08

今や、本当に便利な時代になり、わからないこともちょっと調べればすぐに回答を得ることができます。

私は今だにスマホを持っていないので、調べものは家にいる時にパソコンでと限られますが、ほとんどの方はスマホを持っているので、外出先でもいつでも回答を得ることができます。これはきっと本当に便利だろう(特に緊急事態のときには)

しかし、それに慣れてしまうと回答を得られないままでいる、ということができなくなってしまうのではないだろうかとも思います。すぐにわからないと不安とかいらっとするとかあるかも。

で、自己探求には、わからないままいくという側面があります。初めて歩く道、わからないことが色々と出てくると思います。それについて、検索しても回答は見当たらず。そのときにはわからないままそれを持っていく、ということしかありません。

この、わからないことを、わからないこととして持っていく、というのが苦手というか嫌というか。なんでもすぐに納得したい、納得できるから安心する、というようなことだと思います。

納得したがっているのは黒パターン。黒パターンはものごとは納得できて当たり前で、納得できないということはだめなことと思っているのだと思います。

しかし、もやっとしたり、悩んだり、お手上げ状態だということのひとつひとつが実はとても大事なんだと思う。その体験があるから、思い通りにいかない現実を、だんだんと受け入れられるようになるし、現実をより見られるようになるし、人というものがまたひとつわかるようになると思うんです。

それは大きな自分の力になります。すぐに検索…と思ったときに、しばらくこのままにしておこう、という練習もしたりしながら、現代人がものすごく苦手にしているこの力を自分のものにしていくのもいいんじゃないかと思います。今日はこれから2日間の茅ヶ崎クラスです。新なクラスがはじまります。

自然と練られてきた
2025/05/07

新な領域、黒パターンよりも上の領域。それは道場的には白パターンの世界です。そこは、黒パターンの次にある領域です。そして、そこには健全で、自他のためになる(天の意思に沿った)解決があります。

でも、それは、そういう解決策がいくつもちらばっている、ということではなく、その領域で少しずつ生きていく体験をすることで、それを自分で生み出すということなんだと思います。

こう言われてしまうと、そうか、とにかく白パターンなんだ!と思い、そうならなくちゃ、早くそちらへいかなくちゃ、と、自分をそちらへ動かそうとしてしまいやすいのですが、それは、苦しさから早く楽になりたい、早く解放されたい、早く成長したい、という黒パターンがやろうとしていることです。白パターンで生きる=楽、と思っている。

でも、そうではないんです。そもそも、なぜ白パターンを選ぶのか。それは、自分の可能性を広げるためです。今まで、知らなかった自分の内なる力を育て、使い、自分の可能性を広げてその人本来の在り方で生きていくためです。

楽になりたい、成長した自分を実感したいために白パターンを選んでいるのではないということです。

成長の過程において、人は誰でも、進んだと思ったら、戻る、そしてまた進んだと思ったら、戻る、わかったと思ったら、わかっていなかったことを知る、またわかったと思ったら、またわかっていなかったことを知る、を繰り返しながら、少しずつ進んでいきます。これは今までずっと使ってきたやり方とは違うので、人によっては(こちらのほうが圧倒的に多いですが)耐えられなくなるのです(こんなに時間がかかることなんてやっていられない、と)やったら何か手応えがあるはずだと思っているからです。

しかし、この在り方が白パターンの住むところへ知らず知らずのうちに移行していくということになります。考え、試し、エラーしながら行くところ。いや、そうやって行くことが赦されているところ。だから慌てなくていいんです。自分に向き合っているということだけでも十分にすごいことですから。自分に向き合うというとても地道な作業によって自然と練られてきた、自分の内側の力に気づいてください。そこを狙ってきたわけではなかったのに…。それと同じように白パターンについても思っていかれるといいと思います。

「私」は知っている
2025/05/06

誰でもが、はじめは黒パターンで生きています。誰でもです(そうやって機能不全で生きていることに気づき、本来の自分を取り戻して生きるために)それにより問題や悩みや苦しみが結果として現れ(あくまでもひとつの結果です。自分への罰ではありません)それをまた黒パターンの領域で解決をしようとします。それは当然なことなんです。なぜならば、その領域しか私たちは知らないからです。そこは、他の領域があることを知らない、従って、今いる領域だけだと決めているので、自分にはわからない、知らないということがあるということを知らない世界です。

しかし、これについてアインシュタインが言われているように「 いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で 解決することはできない。」ということなんです。

では、どの領域であれば解決はできるのか。もちろん黒パターンでの領域よりも上の領域においてです。そこで初めて、そこに向き合うに必要な心境を自分の内に生み出し、その状態で、新な考え方やアイデアや捉え方や意味づけなどを知ることができます。それは今まで知らなかったものです。

でも、自分に向き合ってきている人たちであれば、それが今の自分にふさわしいものであることは心でわかります。そうか、この感覚か、この選択でいい、この選択をしたい、など。今までは思考で必死になってどうしたらいいのか、と、解決策を考えていましたが、上の領域においては心で「わかる」というところになっていきます。

というか、そもそもわかっていたことを思い出すというほうが近いと思います。「私」は知っているからでしょう。この知っている部分である「私」をどれだけ顕在意識としていかれるかというところなのかなとこの頃は思う。

この新なスキル、というのか、在り方というのか、それを自分で自分の身(心)につけ、これからの人生をそれを頼りにして歩いていく…その状態までナビしていくのが道場でやっていることです。

ここに時間がかかります。時間のかかることをほとんどの人は嫌がります。すぐに効果が出ることを望みますし、すぐに効果の出ることが正しいことだとも思っています。しかし、そうではない領域のものというのがあるということです。そして、そこにこそ、本来の解決がかくされています。続く。

2025/05/04

自分でやる…。

道場では、この自分でやる…ということが求められます。カウンセラーの私がどうにかしてあげる、とか、私がいるから大丈夫、とか、私がいつもそばにいてあげる、とかではないです。

何故かと言えば、自分のことはその人自身にしかできないからです。このことは分かっていても…‥ここが、悩ましいところであり、その継続が難しいところなのかもしれません。

で、そういうときにモチベーションになり、継続にむすびつけることができるのが「自分はどうありたいのか」「自分はどうなっていきたいのか」という自分の内なる志です。ここが強ければ、そのために何をするべきか、何をしてはいけないか、も自分でわかると思いますし、そのように実際動くこともやっていかれます。

この志がしっかりしたものであれば(一致していれば)脳はそれに関するものをみつけようとしてくれて、より、そこへ向かうことを心身はしてくれます。一丸となって、という感じでしょうか。

で、この、一致した志、ですが、こうありたい、こうなりたいという思いはあるのに、自分には無理かも、あの人だからそうできたんだ、面倒くさい、できなかったらどうしよう、間違えていたらどうしよう、などなどパターンが邪魔をします。そうなるとその志は、ぼやけたものとなり、その威力を発揮することができません。

志は高く持とう、よりも、志ははっきりと、ストレートに、明確に、クリアに、ぶれずに、ということなんだと思います。そして、もちろんそれは「私」から出ているものであることです。そこには天の意思に沿ったものが出ているので、そういうときには、サポートされやすいということになります。

緑色
2025/05/02

5月になり、ますます、新緑が輝いています。

中央公園の樹々の緑色もいっそう鮮やかで、歩いていても気持ちがいいです。新緑の緑色って目に優しい。心にも優しい。この緑色を見ることができるのもきっとあとわずかだと思います。

若葉が育っていくうちにだんだん葉の色も濃く、しっかりとしたものになっていくと、夏に向けて強い樹々に変わっていくのだと思います。それはそれで力強くていいですが、やっぱりこの時季の緑はいいです。もう少しの間楽しもう。

整体でお世話になっている先生にも先日「伊藤さん、緑色をすごく見たいと思いませんか?」と聞かれ「そうなんです」という話から、図書館の「森」が「空き地」になってしまった話をしたところ「ぜひ、次の森を見つけてください。見たいんですよね、緑」と言われました。

で、緑、葉、樹のことを考えているときに子供のときから私は自分が好きな樹があったことを思い出しました。幼稚園の頃から、大人になっても、どこに住んでも、そこには(その近くには)好きな樹々があり、時にはそれに守られ、時にはそれで遊び、時にはそこから何かを教えられてきたことに気がつきました。それは自然すぎていて、自覚していなかったのだという事にも気づきました。

花は美しいですが、花よりも樹のほうが好きなのは、そんな樹との関わりがあるからかもしれません。

高校生のときに、自分の部屋に大木が欲しくて、自分でその絵を描いて、それを切り抜き、壁一面にはって森の中にいるような気分でいられるようにしたことも思い出し、心身が樹を欲していて、十代の私はそれに従ってそうしたんだろうと思います。この時の感覚も、今も持っているといい。

緑色というのは私には必要な色なのかもしれません。でも、緑色の服は持っていないけど。そんなことも色々と思いだし、その今までのつながりを思い出し、でも、それは特別なことではなく、自然に動いていたこともこの年になってわかり、やっぱり自分ひとりで生きているわけじゃないな、と思いました。

仏性
2025/04/30

サンドウィッチマンが、総合病院を巡り、その病院の一角にラジオブースを作り、そこからON AIRをする「病院ラジオ」という番組があります。

その病院に入院している患者さん、そのご家族、通院をしている方々が、サンドウィッチマンのお二人とトークをする番組です。時々見るのですが、昨日は、東京、府中にある子供病院編でした。

病を持つ子供たちが、自分の病気について、入院生活について、治療について話をします。そしてそれを、担当の先生はじめ、看護師さん、スタッフの方々、ご家族の方々、他の患者さんが聞くことができます。

今回登場した、全てのお子さんの患者さんの話を聞いて、心が洗われるようでした。

患者さんは身体的な苦痛だけではなく、心にもいろんな感情が湧いていると思います。どうして自分は、他の子たちと同じように動けないのか、どうして他の子たちと同じような外見じゃないのだろうか、こんな自分じゃこれから何もできないんじゃないだろうか、ずっと親に面倒をかけていくんじゃないだろうか…きっとそこへの不満も不安もくやしさも悲しさも感じてきたと思います。そして、親御さんの気持ちも、自分を責めたり、これからへの不安を持たれているのではないだろうかと思います。

しかし、彼らは、今の自分の状態を受け止めていて、自分で考え、とても前向きでした。「何か悪いことがあっても楽しいこともあるから」「普通ではない自分ではなくこれは自分の個性だと思えるようになった」など。この心境にいきついていることへの驚きです。ご家族のサポートがありながらも、自分で自分のことをそこまで引っ張ってきた子供たち。そして今の自分を受け入れて、自分の内側の生きる力を感じている子供たち。だから、その話には無理がなく、聞いている人の心を動かすのだと思います。

昔、知った、アフリカへ支援のために行った日本赤十字の看護師の方が、その状況の悲惨さに「こんなひどい状況があるなんて、神なんていない」と思ったのだそうです。そう思うくらい過酷な生活を毎日、女性や老人や子供たちは強いられていた。

そんな中、ミルクをもらいに来た男の子が持っている毛布がぼろぼろだったので、看護師さんは新しい毛布を渡そうとしたそうです。すると「僕にはこの毛布があるからいい。その毛布はあの子にあげて。あの子は毛布を持っていないから」と言ったのだそうです。そのとき、その看護師さんは「神はここにいるじゃないか」と思ったという話がありました。

今回の病院ラジオに出演した子供たちにも同じような気持ちを私は持ちました。ここに、神がいると思いました。神は天にいるのではなく、こうして人の心の中にいるのです。それも年齢、性別、国は関係なく。その神が、多くの人に気付きを与えていると思いました。神社、仏閣、教会にいかなくても、こうして日々の中で人の持つ「仏性」を見せてくれる人たちがあちこちにいます。

こうして身近に神を感じられることのありがたさと、同時に、自分はどうなのだろうと自分をみることの機会も与えてもらえます。神に近づける人は特別な人なのではありません。そもそも自分の内に神はいるのだから。それを自分が発露して行くのかどうか・・ということなんだと思いました。

ここを頑張る
2025/04/28

昨日書いた「甘えてはいけない」という言葉を聞くと、どんなに自分がつらくても、ひとりで耐えてひとりで解決していかねばならないと思うかもしれません。

しかし、それは無理なことです。人間ってそんなに完全な、万能なものではないし、そもそもひとりで生きてはいないです。

マスターだってそうだと思う。体調を崩せば、病院に行くだろうし、必要なら入院も、手術も、と普通に考えると思います。

マスターになれば(魂レベルが上がれば)まず病気にはならないのでは?と思うかもしれませんが、そうではないです。ただ、それに対して、どんな意味づけをしていて、どういうふうに生きているか、というところが私たちとは違うところ。大変な場面でこそマスターマインドかそうでないかが見えてくるところなのかもしれません。

そして私たちが何より甘えているのは、生かしてもらっているというところです。人智を超えた何かが私たちの命を生かしている。これがなかったら生きてはいかれないのではないだろうかと思います。ずーーーーーと甘えさせてもらい、お世話になりっぱなしで、今も、これからも、死後も、私たちはこうして、甘えさせてもらいながら、守られながら、生きていくのだと思います。

だから、自分と同じように生かしてもらっている尊い存在の他人を自分の黒パターンを満たすために使うのだけはやめよう、というのが昨日書いた「甘えてはいけない」ということです。これはきっと皆、もう、わかっている。でも、すぐに変えられない。これもよくわかります(私もそうだから)でも、だからこそ、ここを頑張る。

逆のほうから…
2025/04/27

誰かの言動に、腹がたったり、傷ついたり、その人を嫌いになったり、落ち込んだり。それは、とってもざっくりと、ちょっと乱暴に言ってしまうと、その人に甘えているということです。

甘えているというのは、その人の「せい」とパターンは思っている。それは、自分の内に起きていることは、その人に甘えることで、自分の「せい」ではないと思いたいのか。又は、自分の内に起きていることを自分では持ちきれないから、その人の「せい」にしてその人に変わってもらおう、責任とってもらおう、気を付けてもらおう、気付いてもらおう、としたいのか。

・・・・・と私は思います。

これは他人には甘えてはいけないと言っているのではありません。こういう甘えを他人に期待していても、らちがあかないよ、ということです。いくらそれを続けても、そこにやすらぎはないし、いつも自分の後始末をしてくれる誰かを側に置いておかなければなりません。これこそかなり大変なことです。

自分の内に起きたことは自分の責任なんです。でも、だからこそ、自分の内がどんなだったら、自分は嬉しいかな、おだやかかな、と、先にこれを考えると、いま、目の前にある物事に自分がどんな意味づけをしていったらいいのか、何を選んだらいいのかがわかるかもしれません。

こんなふうに逆のほうから考えてみるとわかりやすいかも。望む心の状態のために自分で用意する。自分で使う。だからその結果がやってくるということになります。

まだ何も確定しない波の状態の世界に、自分が選ぶ意味づけ、選択というもので波が粒になり、現実に現れてくる、ということからも、人が選ぶもの、決めるものが全てスタートになるんだと言えると思います。

正しい動機でワークを行う
2025/04/26

語りかけだけでは自分の内の変化は起きません。たとえ、1日に何十回語ろうとも、語りかけだけでは変化にはつながりません。

変化を起こすためには白黒ワークが必要になります。

学び始めのころは「すぐに白黒ワークをしないでください。語りかけに重点をおいてそちらを重視してください。そして十分に語りかけをしたあとに白黒ワークをしてください」と言っていました。なぜ、そのように言っていたかというと、ほとんどの方が黒パターンの生み出す感情に翻弄され、飲み込まれ、それが自分だと誤った認識をしていたため、早くそこから逃れたいと思ってしまうからです。逃れたいための白黒ワークになってしまうからです。そこで、すぐに白黒ワークをしがちだったと思います。白黒ワークを行う動機が以前はそういうものであり、その動機で行うワークであったがゆえに、停滞していく。そこから学んだことは、動機が大事なんだということだったと思います。

そして、今は、皆さんがワークをする動機自体を成長させてきているのでこれからは、語りかけをしたら、白黒ワークも行ってください。正しい動機でです。

丁寧に白黒ワークを行い、黒い部屋に入った感じと白い部屋に入った感じの違いを深く感じ取り「私」はどちらを選びたいのかをしっかりと決めてください(←ここ大事。こうなりたい、ではなく、こっちが自分にふさわしいから、それを選ぶのは当然というかんじ。白パターンに従属するのではなく「私」が選ぶのです)

決めるというのは自分の進みたいところをはっきりさせることになります。何事も、向かいたい物事があるのであれば、はっきり、すっきり、きっぱりとが必要です。そして、それを保ち続けることです。そこに向かっていくために具体的にどんな言動をしていったらよいのかはわかると思います。

この、決める、動く、それをやり続けることの繰り返しで、自分の内の変化は自然に起こってきます。少しずつ。語りかけは黒パターンとの信頼を築き、白黒ワークは自分の意思で自分の進みたいところを決め、そこに向かって歩み出していくもの。ですから白黒ワークは必ず行い、それを継続していってください。

そのほかにマントラとしての白パターンは気楽に、しみじみと、余韻を感じて行ってみてください。そうしながら今までとは違う領域へ意識をもっていきます。こうしながら少しずつ、実は自分でも気がつかないうちに、自分の精神性は引っ越しをしています。それが自分の変容ということです。

又、人はどうしても、その証が欲しかったり、どのくらい自分が変容したかを確かめたかったりしますが、これが無意味であることもだんだんわかってくると思いますし、そこで得られたものはどこかに無理があったり、本来、自分に必要なものではないこともあります。だから、そこはおまかせして。必要なものは与えてもらえます。正しい動機でワークを行っていれば。

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