ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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丁寧さと誠実さ
2024/08/29

ここのところワークについて書きました。

で、気付いている方もいらっしゃると思います。ワークって純粋に今にある、という、瞑想的作業です。そして、その今という一瞬一瞬を丁寧に過ごす体験ができるものです。

昨今、この、丁寧さ、というものが、一般的には少なくなってしまい、雑になっていってしまっているのは、即効性とか合理性とかコスパ、タイパが主流になっているからだと思います。それらは本来、使い分けるべきものなのが、全てにおいてその意識が働くので丁寧さは減っていってしまっているのだと思います。

特に自分に対しての丁寧さがです。

一般的に丁寧に、というときは他人に対してです。相手を気遣う、そういう丁寧さ。何故だかそれだけになってしまったりもしている気がします。

それに反するように、ここでの学びは、自分への丁寧さや自分への誠実さが求められます。まずは自分に丁寧に向かい、自分へ誠意を向けること。自分で自分に向けられた丁寧さと誠実さを体験したものは、いつか自然と他人に向けられていきます。だから、本来は「共感」を意識して人の話を聴くこともないんです。

丁寧さと誠実さを自分に与える努力は自分が担ってやっていかなくてはなりません。おまけに、その努力があっても、結果は天にゆだねる、という、なんか、解せないと思われるかもしれません。でも、この在り方がそもそもだと私は思うし、これが最も楽だとも思っています(何がなんでも自分でつかみ取ろうとしなくてすむから)

丁寧さと誠実さを自分に与える努力、これは自分にしかできないことであり、それを本当に望むのであればその努力の最中には喜びがあります。そして受け取るものはそうやって努力ができる自分であるという体験と自分への認識。それで十分じゃないかと思うんです。

しかし、その後、思いもかけないものがやってくるんです。それは人それぞれだと思います。あちらが与えてくれるものなので、その時には心を開いて受け取ろう。

すぐに動いてしまわない
2024/08/28

昨日書いた「黒パターンがみつかった→白パターンはこれだ、とすぐに動かないようにしてください」ということについてなんですが。

ここもついついやりがちかもしれません。白パターンを作って、それを選んで、実践していく、ということはやっているので、つい、すぐに動いてしまうのだと思います。時には、黒パターンが出て、即、白パターンが何かわかる、ということもあるかもしれません。しかし、白パターンはわかる、とか、降りてくる、とか、何かがメッセージで教えてくれる、ものではなく「私」が頭を動かして考えて作るものです。そして作ったその言葉を感じるものです。

まずは、王と民の対面。そこをじっくりと、イメージを使って行なってからの白パターン作りです。

すぐに動いてしまうのは、もしかしたら楽になるために、白パターンを選びたいのかもしれません。白パターンには楽になるものは含まれているから。でも、もし、そうだとしたらそれは「私」ではなくパターンがやりたがっているのだと思います。そのパターンは何かにひっかかっているパターンを嫌うパターン。それのせいで、苦しい、悲しい、もやもやし続けていると信じているので、すぐに白パターンを選ぼうとします。

そこは、ぜひ、王のルールに従わせるようにしてください。これがパターンを甘やかさないということです。甘やかさない、って、厳しくって、管理している感じで、自由がないと思うかもしれませんが、そうではないです。自分でもどうしていいかわからずにいる子供のパターンを守っていくために、それはひいては国の平和のために行っていることです。

王の望む国を作るために。その国はきっとそれぞれの民がそのままの自分で安心していられる国なのだと思う。だからパターンを嫌うパターンにすぐに白をみつけさせないようにします。

白を作るのは王。そろそろかな、と感じたときに。ここも、再確認して、基本に立ち戻ってやっていってください。

漢字の書き順
2024/08/27

語りかけは基本中の基本なので、自分流にしないで、習った通りに行ってください。そして、集中して、丁寧に。でも、神経質ではなく、深刻ではなく、重くなくです。1日1回でいいですから、パターンと正面から向き合う姿勢で語りかけをしてください。偉大な王が民と会っている大事な時間です。

慣れてくるとどうしても自分流にしてしまいます。それにも慣れてしまうと崩れていってしまうのですが、そのことに気づかなくなっていきます。多分そのときには黒パターンが王になりすましているのだと思います。

例えば、小学生の時に、漢字の書き順って習ったと思います。その書き順が身についていれば、それが普通になるのですが、こっちのほうが書きやすいから、結局、その漢字が書ければいいんだから、と適当に書いているうちにそれが自分の普通になっていきます。確かに見た目はその漢字なんですが。

でも、あの書き順に意味があり、リズムがあり、だからこそのあの漢字なんじゃないかと思うんです。結果よりもプロセスが大事ということじゃないかと。

「人」という漢字。左から書き出して、右側を書く。これ、逆から書いても「人」になる。しかし、左側の部分を勝手に自分と見立てて、右側の部分が他人である…と思うと、自分はこうして他人に助けてもらっているんだ、感謝だなあ、と思えます。反対に右側の部分、他人を先に書き、次に自分である左側を書くと、まるで他人に覆いかぶさるようにして自分は乗っており、自分を支えてもらっているという気持ちになる。これは、あくまでも勝手な私のイメージですが。

漢字って意味があるものです。ですから書き順は大事だと思うんです。

で、語りかけ。それも同じ。語りかけという行為は意味があるものです。だから、どんな心で、どんな姿勢で、正しく行うことが大事です、そして、語りかけの文章を作るとき、ノートにスペースをとって書くとき、イメージして「私」(王)が語っているときは、その本来のところにいさせてくれるものだと私は思っています。だから、スキップしないで行ってください。

そして、黒パターンがみつかった→白パターンはこれだ、とすぐに動かないようにしてください。これもスキップしていくことになります。王と民の時間を楽しんでください。

今は大変便利
2024/08/26

昨日の続きピアノ編。

練習をしていて弾き方がわからない、リズムの取り方がわからないというものが出てくるときがあります。

そんなとき、今は大変便利になり、すぐにPCで調べられます。その曲の動画はいくつもある(それも一流ピアニストののものが)

それを見て「ああ、そうか、そうやって弾くんだ」と耳で覚えてマネをしてみる。耳から入ってきた曲を覚えて、実際やってみるということができます。そうすれば弾けます。

なんて、便利・・・・・と思ってそれを使っていた。

しかし、あるとき気づいたんです。これはあかんな、と。何があかんな、なのかというと、耳で覚えた曲をその通り弾いていると、譜面を読んでいないということがわかったからです。譜面を読むという基本のキが全く無視されていて、これじゃあ、ただただ、まねして音を出しているだけだと。

譜面を読むことは、ピアノを習い始めた子供のときから先生に教えてもらいました。その読み方は片手でリズムをとり口で実際音符の長さを言っていく。何度も何度も。そうしていくことで、ちゃんと1小節に同じ数の音符が並んでいることがわかり(ある意味数学)その曲の感じもつかめてきます。それは耳だけに頼るのではなく、頭を使い、身体を使い、全身で自分に曲を刻み込んでいく作業でした。それを普通にやってきていたのに、全く忘れていました。

これは「この曲弾きたい」という思いだけでやってしまったからです。弾きたい曲なのでそのメロディーはわかっているのでちゃんと譜面を読まなくてもそれなりに弾けちゃうということでした。

便利なことって時と場合によってはとても役立ちますが、あえて、不便さを持ってわかっていくこともあるとあらためて思いました。気づいて本当によかったことでした。

この学びもそうです。頭で覚えて頭まかせではできないものです。全身を使い、時間をかけて、こつこつと試しながらいくものです。慣れてしまうとどこかでスキップしていたり、自分流にしていたりします。でも、やっぱり基本のキは何年たとうと大事なことです。

そしてその基本のキは地味でおもしろみもないものなんです。でも、その土台があるから自由に向かうことができます。

ずいぶん前に「シコふんじゃった」という映画がありました。その主人公が言った言葉「もう楽してズルするのはやめだ」を思い出しました。自分にとって大切なものはこれでありたい。

一区切りつける
2024/08/25

ほぼ、毎日1時間くらいピアノの練習をしています。

今は2曲です。ただただ、弾けるようになりたいから、それだけです。1曲は半年以上やり続けていて、とりあえず弾けるようになりましたが、まだ、練習したい。もう1曲は3か月くらいになり、やり始めてみたものの自分のレベルでは無理と思ってこの曲はやめようと思っていました。

そんなときに、フジコ・ヘミングさんが亡くなられ、そのあとに追悼の番組で、フジコさんが当時入院されていた病院で、ピアノを弾いてみる、というシーンがありました。主治医はリハビリを兼ねてピアノを弾いてみたら?ということだったのだそうです。

ピアノの前に座り、目も見えなくなっているフジコさんがまず弾いた曲(と言っても、その曲の冒頭部分の和音をおさえている)のを聞いて「あ、私が今練習してる曲(半年のやつ)だ」とわかりました。

フジコさんはその曲はそれだけですませ、次に弾いた曲(こちらも冒頭部分の和音を押さえている)を聞いたら「あ、これも私が今練習してるやつだ」…でした。こちらがもうやめようかと思っていたものだったのですが、これは、何かのご縁…ととても自分勝手に解釈をしまして、やめずに弾けるようにしようと思いかえして今日にいたるです。

フジコさんはそのまま静かにご自分でピアノの蓋を閉じられて、それが最後のピアノだったのだそうです。

これが人間なんだろうと思いました。どんなに著名なピアニストであっても、最後はピアノを弾くということも難しくなっていく。肉体は衰えていく。魂に培ってきたものは誰よりも多く持っていて、だからこそ聴衆に感動を与えてきた方であっても。

しかし、それは悲しいこと、哀れなことではないと思いました。何かをやり続け(これは特別なことではなくても、生きるという事自体が)それの最後に向かうよう、身体は動き、その人の人生に一区切りつける。魂はあちらへ帰り、また再スタートをする。そして生きて、最後、一区切りつける。

そんな脈々と続いてきていることをフジコさんの様子を見ていて思いました。

そんなわけで、曲との格闘中ではありますが、今は、最後まで弾けるようになりたい、という気持ちでやっています。

決勝
2024/08/24

昨日は高校野球の決勝があり観戦しました。

私は特に高校野球ファンではないですが「決勝」は都合があえば見ます。

昨日の決勝は、熱戦につぐ熱戦でした。2校(京都国際 対 関東第一)ともに力は同じなんだと思いました。素晴らしい決勝戦でした。優勝したのは京都国際で、初めての優勝だったのだそうです。

高校野球は最後まであきらめない、手を抜かない、どんなにピンチのときでも、次を信じて、仲間を信じてプレーする、というところが熱く、大人になった私にはまぶしくさえ思えます。

しかし、試合中には色々なことが起きます。自分の投球ミスから満塁の押し出しで、対戦相手に点を与えてしまったり、プレッシャーのせいか、デッドボールで押し出してしまうなど。その場面がぎりぎりの瀬戸際で、とても重要なものであればあるほど、ミスをした選手はきっと自分のせいだ、と思って、自分を責めてしまうと思います。どんなに監督や他の選手が、おまえのせいではない、と言っても。

まだ十代の彼らにとって、それは、本当につらいことだと思います。この甲子園ではそういうことがいくつも起きているのだと思います。もしかしたらもう全て終わったくらいに思うかもしれませんが、若い彼らの人生はこれからです。きっと今回の痛恨のミスも、後になって、自分を強くしていたことに気づくときがきっと来ると思います。ぜひ、そういうことを知っていって大人になってほしい。

こうして、人生は、長い目でみないと何がどうなるのかはわかりません(本当に、塞翁が馬)今、日々、つらくてつらくて、と言う方も、それがあったからこその展開があると私は思います。なぜならば、自分でつらい状態をずっとこのまま続けたいと決めることをしない限り、天は善きほうへ連れていこうとするからです。私たちを送りだしたものが私たちを不幸にさせようとはしていないだろう。ご先祖様方も、子孫の幸せを願っている。

その何かが自分を見守り、その何かの計画があり(それを「私」は知っていてのセッティング)そのために今が必要ということなんだと私は思います。もちろん良いほうへ動いていく力を強くし、その速度を速めていくには、いつも言っているように自分で天のルールに沿ったマインドを創るということです。

え?川崎じゃないの?
2024/08/23

昨日は、お墓参りに行ってきました。本当はお盆の時にいきたかったのですが、今回は出遅れてしまいました。

お供えのお花を持ち、お墓の周りの雑草を切るためのハサミや手袋や、ビニール袋や、タオルや、虫よけスプレーや、メガネや、お寺さんにお渡しするものなど(忘れ物が近頃多いのでホント注意)を持ち、久しぶりに東海道線に乗り、お墓のある「川崎」に向かいました。

「横浜駅」に着き、さあ、次が「川崎駅」だと思ったら「次は武蔵小杉です」とアナウンスがありました。「え?川崎じゃないの?」と思ったときはすでに電車は走っていてこれはもう仕方ない。川崎方面にはいかない電車に乗っていました。

しかし「武蔵小杉」から「川崎」にはどういったらいいんだろう?と思う。そう言えば、手帳の後ろに路線図が着いていたと思い出し、見てみました。そして「武蔵小杉駅」からは「南武線」に乗って「川崎駅」へ行けばいいとわかりました。

そして多分初めての「武蔵小杉駅」に到着。標示に従って南武線のホームへ向かう(これが長かった)確認しながら歩いているので、立ち止まってしまうこともあり他に歩いている人のリズムを崩してしまい申し訳ない。こういう時に、もろ年を感じます。

そして川崎行きのホームに到着。ホームから見える駅近のタワマンの数々。うわさには聞いていたが、見上げる建物が並んでいました。たしかにすごい。

こうして時間はかかりましたが無事に「川崎駅」に着き、お参りもできました。

今回、路線図がなかったらどうしていただろう?と思ったときに「いいや、誰かに聞こう」と即思う自分に気付きました。私はこれが躊躇なくできてしまうのでほぼほぼそうしている。そして、誰に聞いても丁寧に親切に教えてくれます(白髪効果だと思います)

でも、今回は誰にも聞かずに自分でやった(と言うか、路線図があることを思い出しただけなんだけど)という自分を確認。あたりまえなこと、こんな小さなこと、他から見たら、どうってないことも私にはよかったことでした。

自分でできることは自分でやろう、でも、誰かに聞こう、も同じように持っていたいと思いました。この反対にあるものをいつも同時に持ち、そのどちらかか、その中間にあるものを思うと、選択肢はたくさんあります。たくさんある、というところで人は安心できるのだろうと思いました。

頑張る
2024/08/22

頭で色々と考えなくていい、と言っても自然と考えてしまう、昔の私もそうでした。無意識で考えているんだよね。

でも、今までの考える(この考えるも領域が変わることで変わります)というのは問題や悩みが生み出されたところと同じところにあるものなので、そこではいくら考えてもいい答えが見いだせないんです。分析したり、集中してよく考えたり、整理し、理論的に組み立ててみることで、気付くことはあるし、気付けば脳はすっきりします。一般的にはこれが、解決だと思っているし、実際、一瞬、ネガティブ感が消えるので、これでいいと思う。そのやり方に慣れています。しかし、これでは心は置き去り状態なんです。ですから、数日たつとまた同じことを考えます。そしてまた思考で対処する(それでいいという方はそれでいいと思います)

こう見ると、解決とは心の底で起きて、そこから出発して、脳が従うものなんだと思います。そういう答えというのは、自分にとって必要な先に進むものであり、特徴としては「いい感覚」のものです。

で、人は快が好きなので、そのいい感覚のものを選びたいと思い、そのときには同時に今まで欲しかったものは、もう、いいか、と自然と思える。だって、その欲しかったものよりもいい感覚のものを感じているからです。で、そのときに、いやいや、確かにいい感覚だけど、今までのものも諦められない、という場合はそちらが優先されます。そこには、新しいところへうつることへの怖さや不安、慣れていることへの安心感があることが多いのでそのパターンの力のほうが慣れている分強いのです。その場合は新しい快は見送りとなります。両方は選べないんだ。でも、見送りなんで、また本人次第です。

・・・・と、今までとは違う話が色々と出てきます。ざっと言ってしまうと、これからは白パターンの世界への探求です。そこでは自分の感覚、これが最も大事で、この感覚を追っていくことに慣れ、そこへの信頼感に慣れていきます。それを信じて大丈夫。いや、信じられるのはそれだけだと納得できると思います。私としてはこの段階がとてもおもしろいと思えます。

感覚を育て、想像力や創造力を自分の意思で使っていく世界は、理屈抜きで楽しい。そこをいかにナビしていくのか。クラスが新たなフェーズに移り始めた今、どうするのか?自分と課題が与えられている。頑張る。

調和
2024/08/21

自分の体験を通してこの宇宙のシステム(カラクリ、ルール)を知るということだろうと思います。

例えば、南極に行ったら(行くことないだろうけれど)南極の環境に合わせた身支度、思考、言動をすると思うんです。南極なのに「私は南国のバカンスっぽいのが好きだからそうしたい」と言っていては死んでしまいます。自分のやりたい放題ではそこでは生きられない。

これと全く同じことです。私たちが生かされているこの宇宙には宇宙のルールがあり、そこからは誰も逃れることができないです。どんな天才であろうと、どんな資産家であろうと、どれだけ人を救ってきた人であろうと。全員がルール通りに生きています。そこで自分はそれは嫌だし、面倒だし、努力もしたくないし…と好き放題やっていては活きられない(直接の死を意味しているのではなく)

では、そのルールとは?「調和」です。バランスのよさです。そのことがよくわかる最たるものが自分なんです。

誰でもスタートは調和のない、アンバランスなところから出発します。その苦しさがあって、自分という個体を調和のある、バランスのよい自分で創り上げていくということです。そうであればそこにあるエッセンスは宇宙のそれと共鳴して生きることになり、結果、生きること自体が楽になっていきます。

それをやりに生まれてきていると私は思うんです。

自分という個体の調和、バランス。それに触れていかれるのは身体の奥に在る意識という「私」。そこから全てが始まっている(そこは天の分霊の部分だからルールがわかっている)ので、だから、そこを育てようということです。パターンが問題なのではなく「私」を育てることです。

「遅々とした歩みでよい。やり続けよう」と言っていらした先生がいました。本当にそうです。少しずつつの歩みであってもそれをやる価値(ある領域まではこの言葉)、自分にとっての必要なもの、大切なものであるからです。・・・と私は思っている。

1歩1歩進む
2024/08/20

昨日の「人は見返りを求めるとろくなことがない。見返りなしでできる人が一番素敵な人」by 明石家さんまさん。

この言葉を見ると「そうか、見返りを求めてはいけないんだ」と思う方もいるかもしれません。「見返りを求めているからうまくいかないんだ」と。

しかし、黒パターンは見返りを求めるんです(そして、見返りを求めてはいけない、というのもパターンです)そこには、パターンの言い分があって、それは当然だよ、という領域ではあたりまえのことなんです。皆そういうところにいました。もしくはいます。

それはそれで持ちながら(決して捨ててはいけない)でも、見返りを求めないで何かに向かう、行動する、っていいなあ、自分もいつかそんなふうな行動の仕方をしてみたいなあ、そのときの自分の心は見返りを期待していたころよりもきっと落ち着いていて、安定していて、活力があるような気がする…とイメージできるかも。

それが「私」はどうありたいのか、ということだし、「私」の快だし、「私」という魂の声を聴くということです。すぐにそうなれなくても、でも、遠い先に目を向けると、それが待っていてくれるような気がします。それに憧れをいだき、そこへ向かいたいという気持ちが湧いて、人は自ら向かっていくのだと思います。

でも、そのときに、ただ思いを持って待っているだけでは向かっていけないので、今自分にできる(やるべき)それは何だろうと考えます。これは一人一人違います。そしてきっと自分ではそれが何かもわかっている。それはきっと今までは避けてきたものごとであり、それを行うには勇気がいるし、行動力も、継続力も、意志力もいります。でも、そうやって1歩1歩進むしかありません。

例えば、自分でできることとして、目先の損得や、リスクがあるのかないのかで決めない、とか、努力した結果思い通りのものが返ってこなかったけれどこれでいいと自分をおさめる、そして、次はどうしたらいいのかを引き続き考える、とか、もっともっとと欲張ることをやめる、とか。それも考えるのではなく「私」はどうありたいか、というところで感じて選び行動します。

このような小さな、魂からの試みが大きな動きになっていき、自分自身も、自分の周りも自然に動いていくのです(あちらが与える)ですから特別に何か大きなことをする必要はないんです。自分の周りでの小さなことで十分なんです。それが「私」の望みであれば、きっとその時に満足し、その満足が感じられることで、これからまたよりよいものへと自然に動いていきます。こういうシステムの中で生かされているからです。

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