ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自動思考
2024/08/04

『黒パターンを持ちながら「私」としてどうありたいのか』ということ。くどくて申し訳ありません。でも、ここだけと言ってもいいくらい、ここ‥なんです。

以前どなたかが本に書いていましたが「腐ったリンゴの中からフレッシュなリンゴを選ぶ」…この感じだと思いました。黒パターンは決して腐ったリンゴではありませんが、フレッシュなリンゴがあるのに、それを選ばずに腐ったリンゴを選んでいては、結果は苦しいです。

そして、パターンの反応を「自動思考」と一般的には言われているということを先日知りました。以前から「自動思考」という言葉を耳にしていたのですが、何?…でした。

「自動思考とは、状況に対応して非常にすばやく、自分の意志とは関係なく自動的に湧き出る思考を指す」(Wikipedia)とありました。

これって、道場で言うところのパターンの反応のことです。人の持つパターンがそのように反応してしまうのは仕方のないことです。

それゆえ、スピ界やカウンセリング界において「自動思考」と名前がつけられるくらいのものとしてある。それによる苦しみがあるのです。

それについて、自動思考は抵抗せずにそのままにしておけばいい。それはただ起きているだけだから。自分の意思ではコントロールできるものではない。それをただ眺めていく、というスピ的考え方から、その自動思考を止めることはできないけれど、それが暴走してしまうことで生活に支障が出てしまうこともあるので、できるだけその思考を止められないものだろうか、というところに着目している、カウンセリング的考え方もありました。

例えば、自動思考で頭がいっぱいになってしまっているが、それは本当なのだろうか?こう考えられないだろうか?より、理性的な考え方に置き換えられないだろうか?又は、瞑想や運動をしてその思考から離れる、などなど。

一般的にも問題視されているものでした。・・・ということは、人にとって自動思考とはやっかいなものと意味づけられています。しかし、そうなのだろうか。パターンが瞬時に反応するのはごくごく自然なことです。彼らの役割だから。それをやらせてあげながら「私」がどうしたいのかということでいいんじゃないだろうかと私は思います。

そこにもともとあるものを何ひとつ変えずに、より、気持ちの良いものを選べば、反応してしまうパターン、自動思考してしまうものも本来のままいられます。自分の内を自分が(パターンが)思うように整えたいということをパターンは望みますが「私」はただただあるがままなんです。

今、怒りが湧いてきていてそれをつくっているパターンはこれで。でも「私」はそれではない、というスタンス。平和的解決だと私は思います。

「私」優勢にする
2024/08/03

黒パターンがなくなることはありません。

いや、なくなってはいけないものです。なくなってしまったら、とたんに人間としての質が下がります。

語りかけでも言っているように「あなたはそのまま、そこにいていいからね」です。決して「あなたがいると大変だから、もう、いなくなりなさい」とは言わないです。それは、この宇宙の在り方に反しているもの(陽と陰)だからです。

黒パターンは本来必要であるもの。そして、彼らは彼らの役目をはたしてくれています。どんなに暴れても、傷ついても、悲しんでも、悔しがっても、彼らの仕事はそういうことです。

で、大切なのは、その黒パターンを持ちながら「私」としてどうありたいのか、です。パターンが暴れているときにそれを持ちながら「私」はどうしていきたいのか、何をするべきか、どうしたらいいのか…とちょっとパターンを超えて考えます。この状態のときにはパターンと一緒にいながら「私」が優勢になっています。

ここで、そのネガティブな感情や感覚をどうにかしようとするパターンに従ってしまうのではなく、パターンがそういう状態であることはわかっていながら「私」を主にしていきます。

パターンが瞬間的に反応して、感情がぶわーーと出てきて、一瞬それに飲み込まれ、でも、そのあとに「私」を優勢に持ってくる。でも、これは黒パターンを抑圧しているのではなくて「私」優勢を今選んでいるので、後からパターンには語りかけをしてください。

この状態を少しずつ持てるといいです。パターンの生み出す感情に飲み込まれていいんです。私も飲み込まれます。しかし、そのままにしないで、そのあとに「私」を優勢にすることをしてみてください。自分の意思で、自分を動かしていきます。

これができることが人間としての質を上げるということではないだろうかと私は思っています。初めから、これができる人はいないです(多分、そうであれば人間に生まれる必要はないと思うから)。

とにかく練習をすることです。そこでの努力は報われると私は思います。

「ない」から「ある」へ
2024/08/02

自分を褒めてあげよう、とよく私は言っていますが。

私たちはどうしても自分の出来ていない(…とパターンが思っている)ところや、足りてない(…とパターンが思っている)ところに目がいってしまいます(…と「私」ではなく、パターンが物事を見ている)。そして、そこを変えよう変えようとします。それもパターンが望んでいるようにです。

私たちは、子供の頃から、ここができていない、ここが足りていない、と、言われてきていたので(なんでもできることがいいことだと)それはパターンとして刷り込まれ、どうしてもそこは過敏に反応してしまいます。

しかし、それはパターンのせいではないし、誰かのせいでももちろんありません。気づいたのであれば、自分で変えていけばいいだけです(この単純さを持ってください)。

で、そのひとつとして、自分を褒めてあげよう、なんです。

自分を褒めるなんて、何でもできる人だけに許されることだとパターンは思っているかもしれませんが、自分という人間を俯瞰して、昔の自分と比べて見てみれば、褒めるところ満載であることがわかります。

この視点を持ち、できてない、足りてないという「ない」から自分を褒めることで「ある」に目が向くようになります。自分にはこれもある、これもある、と、ある、あるになっていく(あるのカードを引き続けている→量子動く)。そして、脳は「ある」を見つけようとし、そこへつながることを考えます。

ただ、このある、は、他人と比べて、他人よりも優れているところや、成功体験や、人から褒められたことなどを思い出して自分を褒めてあげようということではありません。そこには他人は出てこないし、今までの成功体験ではないし、他人から褒められたことでもありません。

自分にしかわからない自分の成長、進化、気付き、そして新に行動したこと(←これが最も大事。勇気を使うから)それによって、得た結果(結果は本来おまけ)など。自分が意識的に得てきた自分だけにわかるもののことです。それを感じられるのは自分だけ。だから自分を褒めることができます。

「よくやった」「すごいぞ自分」「私って天才」「たいしたもんだ」「自分、最高」などなど…なんでも。他人に聞かせる言葉ではないのですから(私は他人にも言うけれど)オーバー気味に単純に言ってみてください。それがスムーズに自然に言えるようになったころには今迄の自分には「ない」から「ある」に変わっています。

エネルギーチャージ
2024/08/01

思考するよりも感じることを勧めるのは、感じ得たよきものは自分の中にストレートに蓄積され心身を育て、自分を健全にし、元気にしていくからです(よきものを思考していくこともよいことだと思いますが、そこは脳内でとまってしまっているような気がします)

いつもよい気分でいる、とか、いつもいい感じでいる(「私」にとって)というのは、この蓄積を増やしていくことになります。ですからこれを続けていけばその蓄積されたエネルギーは増々大きくなっていきます。

逆に、いつもよくない気分でいる、とか、嫌な感じでいる、不安でいる、怖がっている、というのは、蓄積していたエネルギーが漏れていってしまいます。従って元気がなくなり、沈みがちになります。

例えば白黒ワークを自分で誘導するときに、黒パターンの部屋での言葉はどんどん出てきますが、白パターンの部屋での言葉は…う〜〜ん‥と考えてしまいがちです。ここでこそ自分の心身に響く言葉をふんだんに使い、それを心身で感じ、味わってください。1日1回、白パターンの部屋に入り(お風呂に入るように)そこでの言葉を深く味わうのもいいと思います。このワークはエネルギーチャージが行われているということです。

で、白の部屋の言葉です。ここが重要です。自分で誘導して、自分の心身を上げるような言葉。まだ今はそうではなくても、その言葉にどこか希望があり、光があり、そちらへ行ってみたいと思うような言葉。その言葉をどんなテンポで、どんな声で、どんな表現で心へ響かせるのか…。ここが白黒ワークの醍醐味と言えると思います。

そしてそれが自分に対してできるようになれば自然と他人に対しても行えるようになります。そうであればわざわざ他人を誘導するための練習をしようということは必要ではなくなります。まず自分で色々と試してみてください。それを繰り返しているうちにきっと、良いエネルギーが自分の中に蓄積していく感覚がわかるようになると思います。それはとても力強いものなので、それを絶やすことはもうやらない、ということをいつも選ぶようになっていくとも思います。

自分のパイプ
2024/07/31

自分のパイプは自分だけ。自分しかいません。

ひとりひと宇宙とか、人の数だけ宇宙があるとよく言われますが、これも同じことを言っています。

ですから、もともと、自分のパイプに他人ははいれないようにできています。そして、他人のパイプにもはいらない(でもそれは他人には一切関与しない、関心を持たないということではありません)こうして在ることで、人は初めて自分主体で生きることができます。

他人に合わせることや、他人の期待にこたえること、他人の常識や知識に自分をあてはめていくことは他人の人生を生きていることになります。自分のパイプの中にひとりでいることで自分はどう在りたいか、という、本質的な自分への問を持つことができます。

それは自分を大事にすることであり、そもそもの自分に戻ることです。そして、その体験があるから他人のことも大事にすることができます。

自分のパイプの周りをみると、家族や知り合いのそれぞれのパイプが見えます。その中では皆がそれぞれ生きているのが見えます。そう見えるということだけで勇気がわくし、応援もしたくなる。皆パイプの中で生きているという共通の条件の中にいるんです。もともとそういうふうに創られているのだから、幻の物質世界にいるよりも現実的でリアルな世界なんです。

そんな根拠もないこと、信じられないと思う人がほとんどです。しかし、自分に向き合うことを続けていけば、自然と、その感じがわかってくると思います。パイプは目には見えないし、手で触ることもできないけれど、なんか、それのほうがしっくりくる、とか、安心する、とか、心のカラクリから始まっていままで学んできたことの全体象が見える、とか、感じられてくるのではないかと思います。

仏陀の言った「自分を洲(しま)とし、それを拠り所にしなさい」というのもきっとこのことだと思います。これは人が生きていく上で最も大事なことです。

そして、その大事なことを土台にして生きることが正しく生きるということです。そして、その正しく生きる生き方が損か得かや、安全か危険かや、こうしていけば自分が変われる、変われば幸せになれる、というところではないところで在ることが純度が高いということです。純度が高いとは心がきれい、優しくなるということではないんです。その在り方をしているうちに気づけば心も澄んでいたというものです。これは語りかけや白黒ワークを正しく行っていくうちに自然とそうなっていきます。だから、正しく、純粋にと思わなくていいということです。

ひとりだけのパイプ。清々しく、どこにいるよりも安心できて、やすらぎのあるところ。実はその中で誰もが日々を生きています。

今になってわかる
2024/07/30

今思い返すと、なんであのときわからなかったのだろう、と思うことはたくさんあります。

そのときにわかっていれば、もっと早くに今のようになれていたのに、こんなに時間をかけて遠回りしなくてすんだのに、と思うときもあります。

でも、これでいいんじゃないのかと思います。あのときにわからなかったことが、今になってわかる、それで十分じゃないかと思います。いやいや、時間の無駄だったと思う方もいるかもしれませんが、全てがその人にとってちょうどいいときにわかるようにできている。だから、わかったときには、その自分を褒めてあげて、天にもお礼を言って、よかった、よかったと言ってください。

決して、何で今頃、何でもっと早くにわからなかったんだ、もっと早くにわかっていればこんな人生じゃなかったはず、もう、遅い…と言わないようにしてください。何故ならば…わかったということも自分ひとりの力で得たものではなく、天が与えてくれたものだからです。それも与えていいというちょうどいいときに。

ですから与えられているのに文句を言うということは、受け取らないということになります。それ、いりません、ということ。

お礼と感謝が大事なんです。そして、もちろん、そこに果敢に挑戦し続けた自分への誉め言葉、これも大事です。

魂が成長していくってこの繰り返しの気がします。わからないことがわかっていく、この繰り返し。そしてそれは永遠に続きます。魂の長い旅路は途切れることがないからです。ですから慌てなくていいし、焦らなくていいし、長期的な目、宇宙的な目をもって自分の人生をゆったりと、軽やかに生きていいと思います。

この夏必ずやる
2024/07/29

近頃、昔、他人が自分に言ったこと、それも身体的なことについての数々を思い出しています。

「洋子さんって、小さいから変」「洋子さんって足が短いよね」「体型が変だから歩き方が変」「顔が嫌い」「着ているものがおかしい」「よくその髪と肌で女性として恥ずかしくないよね」とかとか。

これは生まれついてのものだったり、仕方のないことだったり。こういう他人が言ったこと(本当にそう思っていたのでしょう)に対して、持ち前の負けん気でやってきていたのだと思います。

ただ、ここにきて色々と思い出しているのでその時に傷ついていた大人の自分が「私」を呼んでいるのだと思いました。まだ会いにいっていませんがそのときのひとりひとりに会いにいってみようと思います(ちなみに、大人になってからのインナーチャイルド?とは言わないですが(まだ、自分でケアすることを知らなった、以前の大人の自分)も、このようにいますので、思い出したら会いにいくといいです)

そして、もうひとつ思い出したこと。私は子供の頃、祖母や母から人の外見について(その人が身につけているものやその人の家、環境などについても)言ってはいけないと教わって育ちました。祖母いわく、そういうことは人間として品のない恥ずかしいことだから、と。それが正しいのかどうか、ということよりも、私はそう教えられそれを持って生きてこられたことをありがたく思いました。おかげさまで私はそういうことを言う側になることはなかったし、これからもないでしょう。なかなか、個性的は祖母と母でしたがこのあたりはきっちりとしていたんだなあとあらためて思います。

「私」を呼んでいる、20代、30代、40代、50代の自分は何を言うのでしょう。「私」が全てを受け止め「あなたにも可愛いところがあるよ」と励ますのではなく、当時の自分の「私」につながるところを話したいと思います。

今、こうして生きられているということはきっとその時の自分もどこかで「私」を追っていきたかったんじゃないかと思うんです。全くそういうことを知らなくても、気付いていなくても「私」は小さく息づいていたのではないか…と。この夏、これは必ずやろうと思いました。

アートな開会式
2024/07/28

「パリ2024オリンピック開会式」をTVで見る。

オリンピック史上初ではないだろうか、街の中で行われた開会式って。船に乗って選手が入場するなんて。今までは競技場で行われることがあたりまえでした。しかし、今回の開会式はそのあたりまえを覆しました。各種目の競技場も既存のもので使えるものは使うということなんだそうです。

で、パリの街の中での開会式。石造りの建物、そして雨模様のグレーの空、全体にくすんだ色の街。そうだからこそパフォーマーが身につけている色とりどりの衣装が鮮やかに楽し気に見えます。

街という額縁の中に次々といろんな絵が飾られていくような、街という舞台での作品を見ているような。そして、雨。雨により街全体ににじみ感がありそれが柔らかさを出しているようにも感じました。アート的。アートな開会式。

その様子を自宅のベランダから見て手を振る人々。そこに住む人達も普通に参加しているようで、オリンピックという特別感がないところが特別でした。

そして、最後はなんと、セリーヌ・ディオンが唄う「愛の賛歌」。しっとりと、力強い「愛の賛歌」でした。どう見てもこの曲はオリンピック向きではない、しかし、この曲以外無かった…と納得してしまうものでした。

オリンピックとはこういうもの、皆が楽しむとはこういうもの、皆に気にいってもらうってこういうもの、というものに、囚われてしまうと形式的で心に響くものが現れてこないのだと思いました。今回観た開会式も、人により良くなかったと言う人もいると思いますが、表現することに徹していた感じがして、そこにとても好感を持ちました。

パターンの特徴
2024/07/27

パターンは、自分の思い込みを信じています。そこに何も疑問を持つことなく、信じ切っています。ですから、それに対しての他の選択は「ない」と思っています。その思い込み自体が天のルールから離れているため、そのパターンから出てくる感情・感覚は苦しみや、憂鬱や、焦りや、不安や、怖さ…など多くのネガティブなものとなります。原因と結果です。

パターンはそれが苦しいのでより自分の信じていることを押し通そうとします。又は、いかに自分の望むものを手にいれるか、画策します。そのやり方しか知らないから仕方がないんです。

そして、パターンの特徴として、とにかくすぐに反応するということ。誰かが言った言葉に、行動に、自分の周りで起こる全てのものごとに、考える時間なく、反応します。反応の仕方も慣れたものなのでとにかく早い。そしてそれが正しいと信じ切っている。

これを変えていくのが「私」なのですが、そのためには、そういうパターンたちを納得させるのではなく、彼らの特徴や性格を熟知した上で、彼らはそのままにしておきつつ「私」が新なものを選んでいくということになります。「私」が選んでいくものはパターンたちと同じ領域にあるものではないので、それにより問題解決にも自然と繋がっていくということになります。

今世はこの一回きりです。「私」が選び続ける人生を生きるか、パターンの反応に従って生きるか、そこも自分で好きな方を選んでいいようにできています。ただ、あちらへかえったときに「今回もやらなかった」と後悔することになるんじゃないだろうかと思うのですが。

生きている間にできるだけ後悔しない生き方をしようと言われますが、死んだあとも、それは続くのだと思います。魂は死なないから。

防災無線放送
2024/07/26

暑い、暑いと言いながらも、今年は熱中症になることなく今のところ来られています。毎年、何回かプチ熱中症になっていたので、大変ありがたいです。

今年は何故?というと…あのお助け柑橘ジュース。そしてレモンやシークワーサー、梅干しなどがとても美味しく感じられていてよく食しているからじゃないかと思います。

詳しいことはわかりませんが、美味しく感じられるものって身体がバランスをとるために欲しているのだろうと思う。しかし、あくまでもバランスをとるためなので、美味しいからと食べ過ぎてしまうのはよくないので抑え気味にしてはいます。

それから、気付いたことが。茅ヶ崎市ではここの所、毎日のように、防災無線放送が流れます。内容は熱中症への注意喚起です。水分を補給する、必要以上に外に出ない、などなど言っています(実際は、響いてしまって聞きとりにくいんですが)。

もちろんご高齢の方や現在体調が良くない方や小さな子供などには注意は必要だと思うのですが、毎日、毎日、この放送で、過度に注意しすぎになってしまう気もしました。放送って、独特なネガティブな雰囲気を持っています。人はネガティブなほうへいきやすいため、特に不調ではない人も怖い熱中症にならないことに気を使い過ぎてしまうようにも思いました。

この酷暑でも、自分なりに、自分のやり方で元気にいられるといいと思います。この、短い夏を、暑い、暑いと言いながら楽しもう、というのもいいと思うんです。

日本には四季があり、日本に生まれたということはそれぞれの季節をそれなりに過ごせる身体を持っているということだと思います。個体により、得意な季節と苦手な季節はありながらも、まあまあ、過ごせるようにできています。だから、あまりに過敏にならないように、自分のいいあんばいで過ごしていきたいです。

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