ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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宇宙に立つ
2024/05/23

昨日書いたことは、ミームのらせんを思い出すと理解しやすいかもしれません。

ミームが上がっていくときには今迄歩んできた段階のミーム全てを含んで(それを自分の内にもちながら)次へ進むというものです。今、自分は一番下のミームではないし、こんなに成長したからそれは自分の内からは消えているということではなく、全てを含んでいるということです。

私はこの在り方にとても満足感があります。何も無駄にしていない、何もジャッジが働いていない、ただ、人の精神性の成長ってそういうことだ、というところに優しさも感じます。

誰もが今まで生きてきたときに体験したたくさんのことがあります。それにより自分でパターンを刷り込むこともたくさんやってきています。でも、それでよかったんです。それは今の自分に必要なことであったし、当時はそれはごく自然に行われていたことだからです。

こうして自分を見てみると、多くのものと一緒に生きてきています。一人の人の内は、まるであらゆるものを含んでいる宇宙のようです。それも同じものはなくたったひとつの自分の宇宙です。そして「私」はそんな宇宙の管理者です。

・・・・と時々私は思い、想像します。自分の宇宙に立ち、周りを見ても、管理者は「私」ひとりで誰もいません。そこで感じる、静謐感、聡明感、そして何より躍動感、永遠なるものへの信頼感など。これらが自分を日々動かす原動力なんだろうと思います。

…で、ここで思った。皆生きているということは(生かされている)ここの影響を受けていて、生きているのでは?と。体が丈夫だから、若いから、生きているのではないです。

もしよろしければ、皆さんも、宇宙に立つというイメージをしてみてください。もし、そのときに、怖さや不安や心細さ、寂しさ、孤独感などを感じるとしたら、それらのパターンにもっと向き合ってあげてください。こうして今、どのパターンを満たしていないかがわかるとも思います。

たくさんの選択肢
2024/05/22

ちょっとわかりにくい話かもしれませんが、書いてみようと思います。

黒パターンが自分だと信じて生きているところから私ももちろんスタートしたわけです。黒パターンは子供なので、あらゆる事象に対して子供的な一方的なたったひとつの見方、捉えかた、意味づけをしていてそれを信じていてそれで行動しているので色々と問題や悩みが、結果として起きているわけです。

しかし、それが本来の自分ではないことを最初は知識で知って、それを認め、それから新なものを選び、その自分として行動していくうちに、あらゆる事象のいろんな意味づけというものに気付きます。これはあればあるだけその事象の世界は広がり、本来の自分はその中央に、あるいはその上に立って、その中から何を選ぶのかをその時その時で決めればいいこともわかってきます。

となると、全てが同時にあるんです。黒パターンも白パターンも、今までいた慣れ親しんだ領域も、まだ体験していない領域も、全てが同時にある。で、そのたくさんある選択肢の中から今回は何を選ぶのか、しかない。自分を自分で育てていくには、このスキルをうまく使うことです。

例えば、自分を優先して生きることは今までの黒パターンの領域の常に他人を優先したり、他人を使って生きることから離れることであり、自分のことよりも他人の喜びが自分の喜びになることはまだ体験していなくてもどこかで「私」が望んでいることがおぼろげに感じられるかもしれません。

自分を自分で育てるときに匙加減が必要というのは、この2つを自分に対してどのくらい、いつ、使うかを自分で判断していくということです。時には自分を最優先することを、時には半強制的に自分はもういい、というところに立つことを、色々と試しながら進むということなんです。それにより自分のやり方も身につきます。この2つの間にもたくさんの選択肢があるのでその中にあるものを使うことももちろんあります。この間にあるものを言語化すると「もしかしたら…〜かもしれない」的なものであり、とても曖昧かつ薄いものですが、人の心にすっと入ってくるものです。

私が言うことが色々と変わるというのも、ここの話によるからです。以前言っていたことから今言っていることまでは全てが同時にあって、以前のことが間違いではなく(間違って伝えていたこともあったのでそのときはそのように訂正します)自分の選択肢に全て入っているということです。あまりに広く、たくさんのものが在る世界から自分にとって、今、ちょうどいいものは?ということです。

というように、自分の目の前にあるたくさんのカード(選択肢)から、今、何を選ぶのかです。そのスキルは自分で迷いながら、試しながら身に着けていくしかありません。今までのやり方のように、これのためにこれをやりましょう、という世界ではないからです。

そんな中にありながら、絶対な存在としては「私」がいるということです。

楽しく
2024/05/21

先日お会いした方が「この頃、他人にわかってもらわなくてもいい、と、少しずつなってきています」という話をされました。これはとてもよかったです。

多くの人が悩みとする人間関係のほとんどがこのあたりの悩みだからです。「自分をわかってもらいたい、自分を理解してほしい、自分を大事にしてほしい、自分を認めてほしい」などなど。これらすべて「自分の思うように、自分の望むときに」というのが頭につきます。それを追い求めること自体がとても疲れることであり、いつまでもそれは成就しません。おまけにこのパターンは全員持っているのでお互いにお互いのそれを大きくし合っているので強固です。

で、その方が「これって、すごいことだと思います」と言いました。言われて…一瞬「?」だったのですが、考えてみたら、そうだなと思いました。他人にわかってもらわなくてもいい、って、確かにすごいことだと思いました。他人ありきで来ていたのが、少しずつそこを離れていっているわけですから。そしてほとんどの人がここで悩んでいるのですから。

この体験はもう元には戻らないのです。パターンが騒ぐことがあっても、自分としてもうわかっているという状態になります(ここがね、変容の証です)しかしそれは他人とは関わらない、とか、自分のことだけしかやらない、のではなく、その先にあるものはだからこそ他人を大事にしたい、だからこそこの人の力になりたいというものです。

そして、そこにこそ他人との関わりの喜びがあります。そうできる自分が嬉しい、そして自分のことより、楽にいる他人が嬉しい。

そのために、毎日1回の丁寧なワークを行ってください。ただ、そこの動機を決して間違えないようにしてください(パターンの動機ではなくということです)できないからやる、決めたからやる、我慢のあとに喜びが来る、苦しむことがないと成長できない、やり続ければ絶対手にできる、という時代はすでに終わっているので、今のやり方でやる。そのほうが抵抗なくいかれます。簡単に言ってしまうと、ワークは楽しくということです。

1日1回、自分の内にあるパターンと会い、丁寧に語りかけをしたり、白黒ワークをしたりするその時間と空間が貴重なものである感覚を持てますように。そこに流れるゆったりとした時間や、宇宙にまで届く広がりを心身で感じ、受け止め、良い気分でいられますように。

それを明日も明後日も継続していく。

同時に2つ
2024/05/20

16日の夜、20時頃、外がやけに騒がしかった。遠くから緊急車両のサイレンが鳴り響いていて、私の住むマンションの下でとまりました。

どなたかマンションの方が倒れたのか、はたまた、ぼやが出たのか?…と思い、ベランダから下を見ると7台の消防車が止まっているではありませんか。少し離れたところには救急車も。騒然とした光景でした。

周りを見ても煙や火の手は見えず、マンション横の道へ大勢の人が入っていくのが見えました。自然と、通行中の人たちも、足を止めて見ています。

すると、アナウンスがあり「有毒ガス発生の恐れがあります。危険なので、立ち止まらないでください」と言っていました。「有毒ガス?」・・・。この住宅地で何があったのだろうか。しばらくたって、事はおさまったようで、緊急車両は全て撤退しました。

あとから調べてみたら「硫化水素」発生の恐れであったようです。「硫化水素」初めて聞きましたが、毒性の強いものらしく、ますます、どんな経緯でそれが発生の恐れになったのか知りたいところです。とりあえず、死傷者が出なくてよかった。

このような今までなかったようなことが起きているのが不気味です。恐怖と不安から神経質になって毎日を暮らすのは不健康ですが、今まで持ってなかった危機感は必要だと感じました。平和であったことに慣れてしまっていて、それではいざというときに、まずいなあと思うのです。

リラックスしていることがとても大事なことのように言われているし、実際、それでいられた今まででしたが、これからはただぼーーーとしているだけのリラックスではなく、危機感のあるそれに変えていかなくてはと思っています。こうしてその時その時にあわせて自分を変えていかれるようでありたい。

この時代が大勢の人達の内に眠っているその力を導きだしてくれている気もします。危機感を持ちながらのリラックス。もう片方だけじゃないんだな。あらゆることが2つを同時に持っていくことが必要になるんだろうなあと思いました。で、本来はそれ。同時に相反するものを持っている状態。そしてそれの真ん中に自分がいる状態です。だから黒パターンがなくなってしまうと本来の状態もないということです。

褒める、喜ぶ
2024/05/19

この学びにおいて、自分ができていないところばかりを見る(見つける)のではなく、自分の努力でできるようになったところ、確実に変わったところなどにも目を向けてください。

目を向けてというより、そっちのほうこそ見つけて、大袈裟なくらいに褒めたり、喜んだリ、しみじみと味わったりしてください。それがどんなに小さなことであっても、まだ定着までしてはいないかすかなものであってもです。

それでもいいの、というか、自分を褒める、自分をすごいと思う、そして、その時の感覚を味わう、これって本当に大事なことなんです。自分が自分に与えてあげる言葉と感覚でこれからの自分はそのように変わっていきます。だとしたら、誰にか聞かせることではないので、どんどん自分に良い言葉をかけてあげましょう。

私が時々自分に対して言う(違った…他の人の前でも言うか…)「私って天才かも」ってやつもこれです。これ、本当にそう思っているときに言っているんですが。もちろん、周りの人はそれほどでもないと思うだろうし、それを言っちゃうことへの違和感もあるかもしれません。しかし、そのおかげでここまでやってこられたと思います。

なぜだか、自分ができていないところを見て、まだできない、とか、あの人はできているのに自分はできない、変わっていない、と、できるようになったところ、変化したところもあるはずなのにそちらばかりを見てしまう人が多いです。

これは何故なんでしょう。できるようになるって、もっとできることで、ものすごくすごいことと思っているのか、自分を褒めたり、喜んだリするのはみっともない、とか、謙虚でありたいとかと思っているからでしょうか。

ぜひ、子供のように、小さなことにも感動を持って自分を褒めたり、喜んだリしてください。自分が自分を認めないで誰が認めるのか、自分が自分を褒めないで誰が褒めるのか。他人が自分を認めたり、褒めたりするのって、自分の中の誰が?ということを体験していない人たちは、ほぼほぼ自分のパターンが満たされたときだけです。だから「ありがとう」とは言うけれど、それを支えにはしない。自分が自分に言ってあげることのほうが、自分にとっては本当のこと。

3つの領域を行き来する
2024/05/18

3つの領域(段階)を人は行き来していると思います。

黒パターンの領域、語りかけの領域、白パターンの領域。一般的には、黒パターンの領域と白パターンの領域の2つを行き来している気がします。自分の内に存在しているもの(パターン)へ目を向けて、声をかけて、そこと一緒に生きていくことはやりません。

で、その3つの領域を行き来するということでいいと思います。白パターンの領域の住人にならなくては、早くそこの住人になりたい、とパターンは言いますが、そういうことではないです。確かに白パターンの領域はおもしろいです。今まで見えなかったことに気づき、自然と視野は広がります。それゆえ、心がやすらかな時間が増えるのだと思います。

心がやすらかって、心がきれい、とか、心が純粋、ということではなく心の視野が広がるから(選択肢が増えるということと、そもそもを見るから)だと思います。

ですから、今の自分の内で起きていることに理解と赦しをもって接してあげてください。無駄なもの、だめなものはひとつもないんです。黒パターンが騒いだら、語りかけ、白を作り、選択して、その感覚をよーく味わい、行動してみる。上手くできる時もあれば全然ダメな時もあるし、白パターンの感覚でいたのに何かがあって一気に黒パターンの領域へ落ちることもある。でも、それでいいんです。

こうして行ったり来たりを繰り返していくうちに自然と白パターンの住人になっています。自分で意識してそこにいようとするのではなく、その日がやってくるのを待ちます。待つことができると学ぶことは苦ではなくなります。やるべきことをやって待っていればいいだけです。だから気楽に。

そもそも
2024/05/17

そもそも、思い通りにいかないのが人生。それを変えることのできる特別な力、それはない。と昨日書きました。だったら、そもそもがそういうものであるということを腑に落とすことのほうが現実的ではないかという話でした。

では、腑に落とすためにどうするのかと考えるかもしれませんが、こうしたらいいんです、というものではないです。

ただ、確実に言えることとして、以前、描いて説明した一番下段の黒パターンの世界から抜けるということです。その領域の特徴は、全て誰かの何かのせい、自分は正しく、相手が間違っている、自分で生み出すのではなく与えてもらうことを待つ、です。感情的にはネガティブなものが多いので心身は疲れます。

その領域では、そもそもを腑に落とすという体験はできません。

しかし、次の領域である語りかけに入ると、そこでは全ては自分の内で起きていることであることを受け入れていきます。その受け入れがあるから語りかけもできるわけです。誰かの何かのせいにしないということで時々味わう、これから向かうかすかなものを少し感じられるようになるところだと思います。又、パターンの意味を知り、今までは嫌っていたそれらと距離をとりながら大事にできるようになるところでもあります。ネガティブを自発的に受け入れる強さや勇気も養っていかれます。語りかけを通して、思い通りにいかない、思い通りにしたい、と思っているのはパターンであることもわかります。

そしてその次の領域は白パターンを作り、選び、それを行動に移すところです。ここでは選択すること(それも思考ではなく)現実的に行動することで、その体質に少しずつなっていきます。語りかけの領域よりも、より全てにおいての理解が深まり、普遍的なものへの興味が湧いてきます。黒パターンの領域で生きていたときにあった、物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさが欲しくなるのもここだと思います。感情的にもおだやかな時間が多くなり、そもそもの自分がこれだったんだと実感できると思います(…やっと戻ってきたね、おかえり…)

で、ここでそもそもが腑に落ちるという体験をするのだと思います。ということは、自分という意識がそもそもの自分であるときに、同じようにそもそもがわかってきて、腑に落ちるということが自然と起きるということです。共鳴しあっている、引き寄せ合っている。そもそもはたくさんあります。それらも見えてくるので、全体的に、そもそもの世界に生きることになります。

そして次の領域へ…。そもそもの自分がそもそもの世界に生きることでそこへの造詣は自然と深まります。そうなるとおぼろげに見えてくるものは思い通りに生きられるということです。ただし、これは以前の黒パターンが言っているそれとは全く違うものです。そもそもの自分が思う思い通りということです。

この道を安全に進むために、感情・感覚に気付き、語りかけをし、白黒ワークをし、選択し、行動することを続ける。中立ワークもやってみる。それも漫然とやるのではなく自分がどうありたいかをそこに反映させながら。そして時々はまっさかさまに下段の黒パターンの領域に落ちていいんです。ただ、落ちたら上がることです。

それを気負いなく、普通にできるといいです。それがワークのそもそもだからです。

それはない
2024/05/16

人生は思い通りにいかないのが大前提です。そもそもがそうです。

仕事のこと、人間関係、お金のこと、家族のこと、そして何より思い通りじゃない自分自身のこと、などなど。これら、何かから課題を与えられて(私は原因と結果に基づく「私」のむかいたいところへ行くためのセッティングと思うけど)次から次へと続くと思うかもしれません。

で、そういう思い通りにいかない人生をどのように過ごしていくのか、というところがきっと皆が知りたいところであり、欲しいスキルなんだろうと思います。ここで言うスキルとは、いかに、思い通りにいかないことに遭遇することなく、思い通りにいかないときにもそれをすぐに回避できて、思い通りに生きられる力という物だと思います‥が‥ないよ、それ。と言われてしまうととてもショックかもしれませんが、ないんです。

私もかつては、とにかく自分の思い通りにいかないことがものすごくストレスで、それに耐えられなくて、どうにかして思い通りにいくように闘っていたと思います。

いろんなセミナーに行ったのも、本をたくさん読んだのも、瞑想をしてみたり、パワーグッズにたよってみたり、ヒーリングを受けたり、自分(パターンなんだけど)が思い通りにいく生き方というものが存在していると信じていて、それが欲しかったから。そうできればストレスを感じずにいられて、だからこそ幸せを感じられると思っていたし、いわゆる上手くいっている人たちは、その力があるからそうなんだと信じていました。だからそれが自分も欲しかったんです。

しかし、たくさん学び(自分の思い通りに生きられるようになりますよ…というセミナーばかりでしたが)続けてもそれが手に入ることはありませんでした。で、見つけた答えが「それはない」でした(ここにいたるには、セミナーの先生たちにすっきり感がないということに気づいたことが大きいでした)自分なりの理解としてはとても単純な言い方ですが、そもそも、人生半分はよいこと、半分はよくないことでできているというものでした。

今日が全て順調によい気持ちでいることが続き、明日もこの感じで…と思っていると、明日は真逆な日にもなったりします。今日のよいことが明日も続くわけではない。また、その逆もある。

こうして一見安定性のない日々(とパターンが判断している)を送るうちに、気付いたことはこれらの動きを受け入れられるようになることのほうが、それを回避する力を得たり、思い通りにしようとすることよりも現実的だし、そちらの可能性のほうが信じられるという感覚でした。

よくないことがあるから人は成長できる、というのももちろんそうなんですが、それは思考的理解です。それはそれで使えます。しかし、心を動かすのははっきりとしていないけれど、どこかわかっているささやかなものです。そこにはそもそもがあると思うんです。自分を成長させていくってその、自分の内にあるどこかわかっているささやかなものを信じていくという事だとも思いました。続く。

大人だからこそ
2024/05/14

昨日の話の続きですが、子供の頃からクラシック音楽や絵画や各種舞台や、旅行や、動物や自然に触れることなどなど、あったら、それはきっとその子の心のどこかに残っているものなんだと思う…んです。

そういう意味ではいろんな体験(子供の興味のある、行きたいところ、やりたいことだけではなく)をさせてあげられたら、やはりいいと思います。

で、こう言うと、自分は子供の頃そんな体験をさせてもらわなかった、1度もそんなことがなかったから、自分には何もないと言う方がいます。自分はそういうことを親から与えられなかったから感受性もないし、表現力もないし、そんな自分は魅力的じゃない、と。

確かにそういう環境で育った人もいます。だからと言って自分はこうと決めつけてしまうことはないです。子供の頃そういう体験がなかったのなら、大人になった今やればいいのでは?と思う。大人になった今だからこそできるのでは?

やらないで、子供の頃にそういうものを与えてもらった人をうらやましいと思ったり、いつもそういう人と自分を比較してうじうじとしているって、何もやらない言い訳のようにも思えるときもあります。こういう理由だから私はこうなんです、だからやらない自分、出来ない自分でも認めてくださいというような。

そう生きたいという自分の意思があればそれはいいと思います。そのときにはそれをはっきりと表明できると逆にかっこいい。

この学びも同じです。あの人は頭がいいからできている、行動力があるから進んでいる、時間があるから、お金があるから、それに比べて自分は、ではない。あの人が持っていないものを自分は持っていることがざらです。

自分は勉強ができなかった、本も読んでこなかった、考えることもしてこなかった、行動する事にも慣れていない、だから、進めなくても認めてください、出来ない自分でも認めてください、ではない。大人になった今の自分が勉強して、本を読んで、考えて、行動して、そうやって自分を育てていかれるのは大人だからこそです。

子供の頃につまずいて、又は何も与えてもらわなくて(‥ということはないだろうと思いますが)そこで自分が決まってしまうのであれば、多分、全員、豊かな自分になることはなく、自分の人生を生きることはありません。結局、自分で全部決めているんです。

人間、いつからでも軌道修正ができます。あとはやりたいかどうかだけです。

フィンランディア
2024/05/13

昨日は、茅ヶ崎交響楽団の定期演奏会へ行きました。

今回はファミリーコンサート。ちびっこがいっぱいだろうと思っていたら、やはりそうでした。幼稚園生、小学生、中学生が家族と一緒に来場していて、いつもの演奏会とは違いました。

私は2階席から下を見ていたのですが…。子供のおもしろさをたくさん見ました。司会のおじちゃんが出てきて、子供たちへ話かけます。「拍手をたくさんしてくださいね、でも、大人の人たちが拍手したときだけですよーーー。走り回ったり、大きな声を上げたり、席を立ったりしないようにしましょうねーーー。前に座っている子は足をばたばたさせないでね、そうしちゃうとね、オーケストラの人たちが間違えちゃうんですよーーー」と。

しかし…演奏が始まったとたんに席から立ちあがり、指揮者のマネをする子、声を上げる子、リズムに合わせて体をくねらせて踊る子、そしてぐずったり、泣き出したりする子が続出。そうなれば、お母さん、お父さんは子供を抱えて走るようにして退場。

私はあちこちで繰り広げられる子供たちの様を見ていておもしろかった。こうして前半が終わり、休憩をはさみ、後半もばたばたとしていましたが、いよいよ最後の曲となりました。

最後はシベリウス作曲「フィンランディア」でした。この曲はフィンランドの第二の国家といわれているほど、フィンランドでは意味を持つ曲です。私は今回、これを楽しみにしていたのですが、子供にはそれこそこれはたいくつだろうし、ちっともおもしろくないだろうと思いました。

私の近くにいた女の子もそれまで「いつ終わるの?もう終わるの?」とお母さんに何度も聞いていたので「もう、嫌だ」と言い出すのではなかろうかと思いました。今までくねくね踊っていた子もさすがにこの重さのある曲では踊れないだろう。

そして曲が始まり、暫くすると、なぜだか、会場全体が静かです。子供たちも今までよりもじっとしています。私の近くにいた女の子もお父さんの膝の上から舞台をじっと見つめています。そして気付いたのはそのお父さんご自身が、聞き入っているということでした。それまでは子供を見ることで懸命だったお父さんが、子供のことをしばし忘れて聞いているように見えました。

お父さんが聞き入っているということを子供は感じとり、子供もそこに自然とひきつけられていくのだろうか?と、没頭して聞きたい反面、観察もしたい私。途中で泣き出す子もいましたが、最も子供にはうけないであろうこの曲に何故だか皆がひきつけられていたと思います。

このように、クラシック曲は、ずっとつまらなくても、どこか1部分だけでも、自分が引きつけられるように聞き入るところがあれば、その瞬間その曲の世界に接したことになると思います。それは子供も同じで、今日、体験したそれは、きっとその子のどこかに残るのだろうと思いました。大人も子供もそんなふうにクラシック曲に触れていかれると、敷居の高いものではないことがわかるのではないだろうかと思いました。やっぱり音楽っていい。

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