ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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自ら飛び込んで
2024/05/12

5月の茅ヶ崎クラス、無事に終了いたしました。

今回は、私を含めて6人。いつも、古い狭い部屋で行なわれるクラスですが、皆さんの真剣さや探求心で部屋の中には充実した空気が満ちていました。

このように、何かを夢中になって没頭して学ぶって、尊いと思います。大人になってからは特に日々やるべきことがたくさんあって、まず、学ぶことって最初にカットされるものだと思います。

で、ここでの学びは一方的に知識を与えてもらう、というものではなく、私の(よくわからない)話を聞きながらもそれがどういうことであるのかを今の自分が受取り、考え、そこで今の自分は何をすべきなのかを模索し、また次のクラスのときまでに、具体的に行動を試みてみる、というものです。

で、ここにはいろんな能力が必要になると思います。聴く力、理解力、想像力、思考力、そして創造力、行動力、持続力、意志力、まとめていく力、感受性、表現力、などなど。特別に意識していなくてもそれら(もっとあると思います)を総動員しています。これって「私」を構成している資質です。それらを使うことで、クラスでの学びはいきてくると思います。

又、こうして使わざるを得なくなるから逆にそれらを育てていっていると言えます。人が生きていく上で「私」を構成している資質って使わざるを得なくなるようにできていると私は感じています。それは自己探求を望まない人であっても、いろんな出来事が起こることで、結果そこを使わなくてはならなくなるようにできていると思うんです。そのぐらいにそこをを使うことを「私」はやりたいと思っている。そんなふうにもともとがつくられているのだと思います(天の意思)

そこにあえて自ら飛び込んでそれらを使っていることをわたしたちはしているということです。出来事を通してそれらを使うのではなく、自発的にそこに飛び込んだわたしたちなのだと思います。

だからと言って偉い、すごいということではなく、やっぱり好きだからという事なんだと思います。好きである、ということが最も大事です。面白いから好き。願わくばここ(だけ)をどんどんふくらませていっていただけたらと思います。

他人が教えてくれる自分の成長
2024/05/09

「自分の成長の証は他人が教えてくれる」と昨日書いた、これですが。

これは、ある日、他人から「伊藤さん、成長しましたね。素晴らしい」と言われるということではありません。その人がどんなに社会的に成功している人であってもです。

「近頃、数人から成長したね、と言われるんです」と言う話も巷では聞きますが、それはほぼほぼ他人のパターンで言っていることです。ほとんどの人はパターンで生きているので誰かに対して「まだまだだね」「成長したね」と簡単に言います。いずれも自分のパターンが望むことを欲しての発言です。

ですから、それをそのまま、まだまだなのかあ(と落ち込み)成長したのかあ(と喜ぶ)と捉えないでください、という話です。

他人が教えてくれる自分の成長とは、自分が今まで嫌で嫌で仕方のなかった人に対して、これも自分の問題であると引き取り、自分で努力をして、その人に対しての思いを変えていくことです。その人との関係性を築き直していくことです。

それが出来ていく間に、少しずつ、自分自身の、その人への変化を自分が感じ、思考が変わりしていくことが他人が教えてくれる成長ということです。そう考えると、その嫌な相手が自分を育ててくれているとも思います。かと言って、だからその人に感謝しましょう、ではありません。自然と感謝に変わる日まで嫌いでいいんです。

でも、嫌いでありながらも、自分はどうありたいかなんです(この、微妙なところのスキルを育てる機会を他人が与えてくれているんです)それも、その人の全てを受け入れられる自分でありたい、という崇高なものでなくていいんです(これも自然とそれが湧き出る日まで待ちます)とすると、どんな自分でありたいのか。そこを考えてみてください。

今日から2日間の茅ヶ崎クラスです。今回も岩手クラスからおひとり参加されます。年内の茅ヶ崎クラスは毎回岩手クラスの方が参加されるので、楽しみです。また毎回違った風が吹き、違ったクラスが展開されるでしょう。クラスって参加している人によってその色が変わってくるところが大変おもしろいです。

体感という感覚
2024/05/08

何かわからないことがあっても今はすぐに何でも調べられて、それについてのたくさんの回答を見ることができます。そういう点はものすごく便利になりました。これからも加速してますますそうなっていくのだろうと思うのですが。

それと逆行するように「魂の道場」の学びは、わからないことがあっても調べようがなく、回答に近いものをみつけたとしてもわからず、これでいいのだろうか、と考えてもわからず、というものであるところが悩ましい。

自分の精神性をあげていく、その道は真理に近づいていく。それを悟りという言葉におきかえることもできるし、ミームを上げる、霊性を上げるという言い方もできると思います。

これらは知識でわかるものではなく、自分で体験していくものです。体験しないとわからないので当然時間がかかります。又、これらはなくても生きていかれるので、絶対必要なものでもないです。

で、体験していく、ということですが、その体験って頭でわかることではなく「体感という感覚」でわかるものです(…と私は思う←絶対ではないです)その感覚を察知しているものは「私」。

そして、そのときに今まで知らなった、体験をしています。それを言葉にすると「私、変わった」というものだろうか(私の場合)今まで知らない自分をその瞬間に体験していて、どこかでこれがこれからの自分の基盤になるのだろうということも同時にわかります。その感覚を失うことはないと、わかってもいる。思考する前にそういうものを体験し、そのあとにそれについて思考し、人に伝えるときにはこのように文章にする。しかし、その文章では体感の感覚って伝えられていないとも思います。

きっと皆さんも大なり、小なりそういう体験をしているはずです。ただ、そこを察知できていないのかもしれません。しかし、証拠となるものがあります。それは、以前よりも幸せに生きているという実感があることです(思考すれば幸せです。生活できているから。しかしそこではなく)そして、わかりやすいこととして、今までの複雑で煩わしい人間関係が緩和されていると思います。人とぶつからないようになっている、とか、人とのトラブルが減った、とか。

これは順調にいっている証だね、と言えます。何より自分が楽になれているのだから順調なんですが、なんと、自分の成長の証は他人が教えてくれるのです。

今の自分はまだそうではないと思う方もいるかもしれませんが、それはいつかやってきます。ただ、そう在りたいと決めていないとだめです。自分には無理と決めている人が多いのも現実。自分はどう在りたいか、に、ヤッパリ戻ってくる。

役割
2024/05/07

GWも終わり。私はこの連休中2日間「こまめ」でお手伝いでした。と言ってもひたすら器を洗う、洗う、拭く、拭く、片づけるでした。

この、もくもくと単調に動くときに「スイミー」のことを思いだしました。今、自分が置かれているところでの役割をちゃんとやって、全体がうまくいくようにするというところにいることが実感でき、こうしてチームで働くのもいいものだと思いました。

自分の役割、それは日々同じことでもあるかもしれないし、その時その時で自分の役割を察知してそれとして動く、というものでもあります。いずれにしても役割と言うところで見ると、それは1つの目的のためにあるものだと思います。

役割は自分が自分が、は、なくて、目的のため、誰かのため、何かのために今の自分にできるところでそこへ向かうものです。

で、これは、「私」に恥じないように生きることも同じだと思いました。「私」に恥じないように生きるという自分の役割をちゃんとやる。それが集まり、1つの目的が満たされる。誰かを助ける。何かを成す。一人一人が役割をもって生きることで何かが動いたり、作られたりするのだと思います。だから、役割をはたす小さな一匹でいたいと思います。個人でありながら、役割をはたす自分でもある。なんかいい。

私には到底無理
2024/05/05

今やいろんな情報を簡単に手にすることができて、それはカウンセリング(悩みの解決)の世界も同じです。

悩みや問題、苦しみは人にはつきものですが、それを解決するためにいろんな人のいろんな手法を見聞きすることが今は誰でもできます。私も、興味のあるものを時々見聞きしたりしますが、そこで気づいたことがありました。

それは、私はそこで紹介されているような手法、考え方で変われる魂のレベルじゃなかったんだということです。

例えば「過去に自分をいじめた人を何十年たっても今だに許せなくて、その人に悪いことが起きればいいと思ってしまいます。それがとてもつらいです」というような悩みに対して「もう、過去のことです。そんなことにあなたの貴重な時間を使うのはもったいないです」「相手にはあなたをいじめた結果がかえってくるのでそのままでいい」「そんな人もいる、と気持ちを切替えて。あなたがこれから生きるのにもうそのような人とは関わらないということを学んだのです」「憎しみは憎しみしか生まない、何の解決にもならない」などなど。そのような起きていることの視点を変えることを勧めるようなものが多いです。

それが理解できて、そのように自分を変えることが出来る人も確かにいるのだと思う。そこまでの魂レベルの人たちなんだろう。ちょっと何か一言でそこへ上がれる人たち。

しかし、私には到底無理でした(今はそれも使えるようになりましたが)もし、私がこの悩みを持つ人であれば、頭ではわかっている、でも、この許せない感情、そしてそれに飲み込まれてしまう苦しさ、これをその言葉で鎮火させられることはできない。というのが正直なところです。それは、そのレベルではなかったんだと思いました。

で、そんなふうに感じている自分を誤魔化して、いられるほどの体力も気力もない。そして、これは自分の性格ですが、解決するなら根底から、とか、やるなら真理に近づきたい、とか、自分を成長させたい、とかがあってのここでの手法だったのだろうと思いました。

自分自身があまりにうまくいかずにずっときての、自分の性格を含めて作った苦肉の策「魂の道場」。しかし、今、これをやってきて本当によかったと思えます。やはり自分の在り方に正直であることが大切なんだと思いました。

日々忙しい
2024/05/03

また、TV番組の話で恐縮ですが「正解の無いクイズ」という番組があります。(月〜水 17時30分〜17時45分 テレ東)

MCは、呂布カルマさん、山添寛(相席スタート)さん、加納(Aマッソ)さんの3人です。クイズ番組なんだけど、正解が無い。このMC3人の他に天才、奇才、変人の方達の正解もあり、その日のベスト1(カルマルアンサー)を3人で決めるというものです。

これが私、すごくおもしろくて。

クイズは「この世で一番無意味なこととはなんですか?」と、とても哲学的な問題もあれば「あなたは小学生です。授業中に思いっきりおならが出てしまった場合の一番良い誤魔化し方を教えてください」というようなタイプのものもあり、問題に枠なし、これがいい。私も一緒に考えています。おもしろいです。一応はっておきます。

https://www.tv-tokyo.co.jp/seikainonaiquiz/

こうしてみると、本当に正解ってなくて、その人その人の正解があるだけ。正解は下ネタあり、ありえないだろう、と、思わず吹き出すもあり、かと思うと、そうきたか、という意表をつくものもあり、とても知的で、ユーモアにとんだものもあり、で、どれもいいです。

このさっぱりといい感じって、きっとその正解をその人自身が「いい、オレ最高、これはいける」と思っているからだと思います。こんなこと言ってダメな奴と思われないだろうか…というものが一切ない。それがにじみ出ています。そういうところが好きだ。

このように「ちゅらさん」「正解の無いクイズ」と日々忙しいの。おまけに今月は大相撲もあり、ますます私は忙しいのです。

勉強になりました
2024/05/02

先日、PCのメールが使えなくなり、焦りました。

また例によって私が余計なことをしたため…でした。知識がないくせに色々触ってしまうのは良くないとわかっていながら「ん?これは何だ?」と思ってクリックしてしまう。で、Outlook開かずになり。

毎日そんなにメールが来るわけではないのが救いですが、早く修復させようと色々と試し(サポートをしてくれるところなどに電話をして)それでもだめで、結局は近くにある電気店へ持ち込みました。

そこで担当してくれた男性の方が「あーーーあ、これですね、はいはい」と20分ほどで修復完了。その丁寧な対応と、原因のわかりやすい説明(会話で私にどれぐらいのPC知識があるかはすぐわかると思うので)的確で手早い作業、何度も行うテスト、そして、おまけにこの業界のカラクリなども(差し障りない程度だとは思うけれど)話してもらい、勉強になりました。

PCって毎日使っているのに、私は基礎知識も乏しく「わからない」「興味がない」と勉強しようという気にもならずに来たのですが、それはいかんなと思いました。

今回の原因になったところについて「それって何?」と疑問が湧いたので、自分なりに調べてみました。で、思い出した、勉強するって、学ぶって、私にとってはこういうことだったなあと。「それって何?」と疑問が湧いてそれについて調べるとそこからまた「じゃあ、これって何?」と疑問が湧く。それが次から次へと繰り返されて、全体が見えてくるみたいな。勉強する(学ぶ)って相手から与えられるものではなく、自分が疑問に思うところから始まる、そんなふうに、学んできたことを今回のことで思い出しました。

特に5月は新しいことをする月です。2年前の5月はクラシック音楽とピアノとの再会。去年の5月はダンテの神曲を読み始めた。それらは自分の感性を変えてくれました。

そして今年はまた新なことを知る。Outlook開かず…から始まったことでしたがなんだか気持ちが前向きです(いや、いや、反省もしろよ)

大前提
2024/05/01

「自分を大事にしてくれる、お母さんの様な人が欲しい」とパターンは子供なので言います。

いつも自分に目を向けてくれて、大事にしてくれて、守ってくれて、支えてくれて。そんな人を欲します。小さかった時はもちろんそうです。ひとりでは生きられないですから。しかし、大人になってからも、そういう人を求めてしまう。

お母さんの変わりになってくれる上司、同僚、部下、恋人、夫、子供、友人…そういう人たちを自分のまわりに固めていく。このことに気づかないと、それはいくつになっても行われていてそこに心のやすらぎはありません。

このことについて千葉哲也さんが書かれていたこと。以下です。

「母の欠如を埋めようとするのが人生です。絶対的な安心・安全はありえないのであり、不安と共に生きていくしかない。だがそう悟っても穴を埋めようとする。それが人生です。ラカン理論では、この手にいれなければという特別な対象や社会的地位などのことをラカン用語で「対象a」と言います。「対象a」とはある種のみせかけであってそれを手に入れたら幻滅を同時に味わうことになり、また次の本当に欲しいものを探すことになる。そうやって人生は続いていく。結局、何らかの対象aに憧れては裏切られるということを繰り返すことによって人生は動いていくのです。このロジック自体をメタに捉えることによって欲望を「滅却する」方向に向かうのが仏教的な悟りなのでしょう。」(現代思想入門 千葉雅也著 より抜粋)

この欲望を滅却する方向に向かうのが仏教的な悟り、というところ、とあります。仏教にはそもそも思い通りにいかないのが人生という大前提があります。で、思い通りはパターンの思い通りのことです。

お母さんの様な人、お母さんの様に振舞ってくれる人、そういう人を求めたり、他人にそれを望んだりする、ということが、ここでの大前提から離れているものなので、苦しみになるということなんだと思います。

大前提、そもそも、という視点。それを知り、腑に落としていくことも自分を助けてくれます。

ちゅらさん
2024/04/30

今、私は2001年の朝の連続ドラマ「ちゅらさん」(再放送)を毎日(見られるときは)見ています。

沖縄の朝ドラはもしかしたらこれが初めてだったのか?

当時、45歳の私はまだ沖縄には1度も行ったことがなく、その後、行くことになる事も全く思っていませんでした。きっとそのころも「ちゅらさん」は見ていたと思うのですが、それほど印象に残ったものではなかった。

しかし、2005年からご縁をいただき17年も通った沖縄は、今では、自分の第2の故郷のような感じがします。

そして「ちゅらさん」。そこで見る風景や、街や、人々や、食べ物や、独特の言葉や、陽の強さや、時には匂いも、今は肌身で感じながら見ています。もちろんドラマなので誇張されている部分はあると思いますが、それでも全体に流れる沖縄の感じ(特に沖縄には住んでいない人々が感じるものだと思います)を受け取るときのそれは肌身で感じている分、臨場感があって嬉しいのです(主人公が東京に出てくる、というところまで話は進んだので、これからは東京メインになると思いますが)

そのドラマの中に溶け込んでいくような気がします。そこに自分がいるような感じです。そんなことも楽しみながら、見ています。こういう楽しみもいい。

江ノ電に乗る
2024/04/27

昨日は、トミーと鎌倉へ行きました。お昼ご飯を「こまめ」で食べてから「安国論寺」を目指しました。

このお寺は、以前トミーがちょっとわけありで行ったお寺で、境内を抜けて見晴しの良い場所に行くまでに階段を上がり、両側が崖のような道を通る、と聞いていました。

「大丈夫?上れる?」と聞かれ「大丈夫」と言って上りはじめたのですが、途中でやめておけばよかったと思うくらい、一段一段が高い階段なので足はつっかかるわ、足の力だけでは上がれないわ、で、きつかった。

やっと階段が終わり、ほっとしたら、今度は両側が気をぬくと滑り落ちそうな状態になっている道になり、ちょっと怖い。しかし、一気に視界が開ける場所に到達すると、そこからは富士山が見え、海が見え、その風景にやっぱり上ってきてよかったと思いました(ここまでで息も当然上がっている)

下りは来た道を降りるのかと少々憂鬱になりましたが、違う道から降りることができてほっとしました。桜の時季はたいそう華やかなお寺だそうで、また、それを見に来年、来てみたいです(でも、もう、上がらない)

その後は、すぐそばにある「長勝寺」へ。こちらは日蓮上人ゆかりの歴史を持つお寺でした。御本堂の前に大きな日蓮上人の立像があり、それを守るように四天王の四人の立像が並んでいました。持国天、増長天、広目天、毘沙門天。怖い顔をして、後ろにはめらめらと火が立ちあがり、それぞれに武器を持ち、それぞれが邪鬼を踏んでいます(邪鬼は痛そう)

日蓮上人を守るためにどこからでも来い、という感じがいい。かっこいい。心ひかれる。こうして「真理」を守っているのです。その姿を見ると、私も「私」の四天王でありたい。

で、帰りは久しぶりに「江ノ電」に乗って帰ってきました。この電車は、各駅の素朴さもあり、走るコースのおもしろさもあり、リラックスできます。「江ノ電」一体何年ぶりだったか。

33歳で茅ヶ崎に帰ってきてから、月に2回ほど、父と2人で鎌倉散策をしていました。当時はまだ30代、おまけにバレエで鍛えた強く太い足があったので、ずいぶんとあちこちのお寺をまわっていました。今は、もう当時と同じ様にはいきませんが、また、出かけて行きたい鎌倉。そして、初めてのお寺や神社を巡ってみたいです。

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