ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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何かを成す
2024/10/07

何かを成すってどういうことだろう。

一般的には何かを成した人は認められ、賞賛され、特別な人に見られる、というのはあります。そこでの何かというのは、誰もが一目おく仕事や地位についていること、それで稼いでいること、を言います。政治経済の世界から芸能界まで、あの人だ、と誰もが知っているような人はここまでくると成功者とも言われます。

ここまでではないとしても、それなりに皆が承認している仕事をしている、特別な能力を使うことをやっている、フォロワー数が多いなども、何かを成したことになるのだと思います。その領域においては。

そして、それを天職といったり、自分を生きている、と言ったり、自分のやりたいことをやっている、と言ったり、自己実現と言ったりします。

‥‥という世界に多くの人は住んでいるので、そこでの何かを成しているかどうか、という判断に自他をあてはめていきます。そして自他をその中においてどのくらいのところにいるのかを判断し、そこに確定していくことになります。

この領域において、専業主婦で子供を育て、親の介護をし、自分で稼ぐことはしていない人は何かを成したとは認められないんです。

しかし、その自分を支えている何かがなくなってしまう日は必ずやってきます。ただの人になる。昔こうでした…と話しても今はそれがない。そうなるとその人は過去は天職に生きた、自己実現したが、今はそうではないとなるのでしょうか。天職って、自己実現って、そんな薄っぺらいものなのでしょうか。そんな一時のものなのでしょうか。

大切なことは、どう生きるかです。自分は成していないという領域を出て、いわゆる成していたものがなくなっても、自分を成す生き方が自分はできているのだろうか、と自分に新な視線を向けることです。そして、その生き方を身につけるから(自分の成すを見つけること)心は安定し、それこそ天職につき、自己実現したと自分に言えるのだと思います。

自分が何を信じて生きているのかをもう一度見直してみるといいかもしれません。そして、そこにいたいのかどうかも感じてみます。

茅ケ崎駅ピアノ
2024/10/06

この金曜日と土曜日、茅ヶ崎駅前に「駅ピアノ」が設置されました。常設ではなく、この2日間だけの。

ピアノは小出小学校にあった76年前の古いピアノを修復したものだそうです。深い茶色の見たからに、アンティークなピアノでした。

そのピアノは誰でも弾くことができるもので、次から次へと弾きたい人があらわれ、列を作って順番待ちの状態でした。

私も買い物袋をぶらさげてその音色に耳をかたむけてきました。古いピアノからは、今のピアノの音とは違う、ふんわりとした、ちょっとくすんだような音が聞こえてきました。音自体もアンティークだ。

小学生からご年配の方まで、皆さんとても上手でした。中には、プロですか?と思われる方もいたりして、それはそれは高度な演奏がきけました。

若い男性の方が童謡の「もみじ」を弾いているのを目の前で見たのですが手が震えていました(わかるよーーー)つっかえたりしながらも最後まで弾き切って、皆さんから大きな拍手をもらっていました。このようなシーンも駅ピアノならではでいいです。

トミーが「ようこも弾いてくればいいのに」と言ったのですが、私は、びびりなのでだめです。これ、もろ、パターンです。上手く弾かなくては、とか、上手いと言われたい、とか、ではなくて、負けてしまう、なんです。

負けるって誰かに負けるのではなくて、そのときに自分を失うみたいなかんじになってしまうんです。これは学校の頃からそうで、試験で曲を歌ったり、弾いたりするときに「負けそう」と思ってしまうその気持ちに押しつぶされそうになってしまう…ってやつです。

これを超えたいのなら駅ピアノに挑戦するしかありません。なあんて言いながら次回の駅ピアノに参加していたりして。昔のことを思い出したり、色々と妄想しながら帰りました。

技術、マインドの進化
2024/10/04

昨日のピアノの記事から思ったのですが。

私が子供の頃はピアノは子供のときからやるのがあたりまえのようであったと思います。当時は、50代、60代、70代でピアノを初めて習うという大人はいなかったんじゃないかと。これは他の楽器もそうだったかもしれません。

しかし、今や、いくつであろうと、自分がやりたいと思って始めることはごく普通なことになっています。ここには、時代や社会や人間の変化に合わせてピアノを教える人たちの技術、マインドの進化があったんじゃないかと思うんです。

「ピアノを習うって、こういうことです」というひとつの形のところでしか私は育ってこなかったですが、私がピアノから離れていた約45年の間にそれへの捉え方や教え方の幅が広がり、もっと身近で、誰にとっても親しみやすいものにピアノの教授法は進化していたのではないだろうか…と。その年代に合った教え方、その人に合った教え方、音楽を楽しむために、というものが広がっていたのだと思いました。

これはバレエもそうだ、と以前、聞いたことがあります。大きなバレエ団でダンサーの身体のケアをしていた人が話していたことで、バレエ界も変化していて私が習っていたころのバレエと今のバレエは違っている。ということでした。

このように、クラシックなものも、その基盤を持ちながらその時代に、もしくはより人間的に(その人の心身を重視して)進化しているんじゃないかと思いました。それは、人間の精神性が上がってきたからだと思います。

イギリスの思想家バークは「保守のための改革」という言葉を残しているのだそうです。脈々と継承されてきたものごとの根本にある精神の部分は変えずに時代に合わせて細部を微調整していくことの重要性を説いたのだそうです。

このことは、自分自身にもあてはめて考えてみようと思いました。

大人って素晴らしい
2024/10/03

昨日から始まったTV番組「3ヶ月でマスターするピアノ」を見ました。

講師は、ピアニストの本田聖嗣さん。生徒さんはお二人いて、お一人は元アナウンサーの寺田理恵子さん。そしてもうお一人は会社員の石丸裕之さん(確か60歳だったと)。寺田さんは小学生の頃にバイエルを少しやっただけ。石丸さんはピアノは初めて。でも「駅ピアノ」を見て自分も弾いてみたいと思い、申し出たとか。

先生が出した3ヶ月かけて弾けるようになる課題曲は、寺田さんはショパンの「革命」。石丸さんはサティの「ジムノペディ第1番」です。寺田さんは「無理。むり〜。だって〜先生、バイエルですよ」と言っていましたが、先生は「大人になってのピアノだから大丈夫」ということをおっしゃっていました。

「ピアノって厳しいものだと思われているかもしれませんが、大人のピアノはそうではない」という先生の言葉を聞いていて確かにそうだと思いました。というのも、私も「おうちでピアノ」を続けていますが、子供のときにはここまで頭を使えなかったと思うことが多々あるからです。子供の時には気づかなったことに気づけるようになっている。それは大人だからだろう。そうやって頭を使いながら行うピアノの練習は厳しくはないと思えます(先生についていないので、というのもありますが)

子供のときはひたすら練習して体に覚えさせていくというものでした。ほぼ、頭は使っていなかったような気がします。しかし、今は、頭で、こうなっているのか、だったらこうすればいいと判断できるようになっています。それは、知らないことだったので、新鮮でしたし、それがあるからこの年でも楽しめるのかもと思いました。大人って素晴らしいと思ってしまいます。

これはピアノだけではないです。ワークができるのも大人だからです。自分に向き合えるのも大人だからです。自分の人生を創れるのも大人だから。他人を理解し、他人に優しくなれるのも大人だからです。

悲しみも苦しみも挫折も知っている。そういう大人であるからこそいろんなことに知恵を使い、向かえるのだと思いました。

これから3ヶ月、楽しみにこの番組を見ていこうと思います。

シンプルなところに立ち返る
2024/10/01

<「私」がどうしたいかは、わかっている。だからそれに従えばいいだけだということもわかっている。だからやります。>とお会いした方が言いました。

そうなんです。ここだけなんです。「私」がどうしたいのか=自分はどうありたいか。そこが感じられていれば、わかっていれば、そこに従って、行動を起こせばいいだけなんです。これを体現するために生まれてきた。

ここはとてもシンプルでわかりやすいところなのですが、複雑な事が好きで、あれこれ考える事が好きな人間にとっては、あまりにシンプルであるがゆえに、考えないことなので、それは間違っているんじゃないかと思ってしまい、そこは選ばずにパターンの選んだものを選んでしまいます。そして、結果ますます複雑にこんがらがって訳が分からなくなってしまう。

「私」が望むこと、欲すること、それを感じたら、それに従い、動いてみてください。後先考えず。他人の事も考えず…というと怖くてできないと言う人が大方だと思いますが、大丈夫、命を取られることはないですから。

この勇気ある(小さな)行動が積み重なって、行動するってこういうことだったのかと初めてわかると思います。積極的に行動しましょう、安全なところで。というのが一般的な考え方です。無理しなくていいですよ、とか、自分のペースで、とか、自分の出来る範囲でできればいいよね、とか、簡単に言いますが、そういうことを言うって、その人を今までの狭いカゴの中に閉じ込めてしまうってことでは?と思います。

その人が壊れてしまうところまで追いつめるのは違いますが、それぞれの「私」はこうしたいという強い意志を持っています。それを自ら動かしていくことこそが喜びであり、生きる力です。だから私はそこを後押ししたい。自分でできるよ。あらゆるツールは誰もが、与えられて生まれてきているから、と。

シンプルなところに立ち返る。

逆もあり
2024/09/29

昨日は他人からどう見られたいのか…でしたが、この逆もありです。

他人からどう見られたくないのか…。不幸せな人と見られたくない。終わっている人と見られたくない。頭が悪い人と見られたくない。負け組の人だと見られたくない。惨めな人に見られたくない。下に見られたくない。年より老けて見られたくない。仕事ができない人に見られたくない。ぱっとしない人に見られたくない。能力のない人に見られたくない。などなど、こちらから出してもたくさんあります。

どちらかというと、見られたい、より、見られたくない、のほうが強いかもしれません。そう見られたくないから、それを隠して、見られたい自分を演じてしまうのだろう。だけど、それは自分が苦しむことになります。結局、人って自分にウソをつけないんです。そして、人って誰もが似たり寄ったりなんです。とびぬけてすごい人ってほんのひと握りです。そしてそういう人たちは偉業をなし、他の人々を助けています。その課題の人たち。

で、自分もそういう人達と同じであると思ってしまうところに謙虚さがないんだと思う。というと、じゃあ、自分には何もないのか、自分には価値がないのか、自分にだってできることがある、という話しになりやすいのですが。

価値ってなんですか?多分、ここでいう価値って他人が自分を認めることを言っているのではないでしょうか。「あなたはこんなことが出来る人だから価値があるよね」と他人が自分を認めること、それが自分の価値と思っているのではないだろうか。それも他人のパターンです。たまたまそうだったということです。

他人や社会が認める価値、それはそこでは役立ちますが、そこから先に進んだときには色あせていくものです。その色あせたものの先に現れるものを知っていきたいんです。何かを捨てるから次があらわれる。パターンはいつまでもそれを持っていたがるけれど、白を選ぶことでそこも薄れていくはずです。

私は…こう見られたい、こう見られたくない…って‥‥この言葉を言うだけでも、何か変な気がしませんか?その変な感じを感じられるといいと思います。

他人の目
2024/09/28

他人からどう見られたいのか…というところは多かれ少なかれ誰もが持っているものだと思います。

どう見られたいのか。幸せそうに見られたい。うまくいっているように見られたい。仕事ができる人に見られたい。頭がいい人だと見られたい。人格者だと見られたい。才能がある人だと見られたい。優しく、心の広い人に見られたい。抜きん出ている人に見られたい。成功している人に見られたい。などなどある。

しかし「見られたい」って、どういうことなんだろう?見られたいのだから「自分はそうです」という事でもないような気がします。そうじゃないからそのように見られたい。そして、そのように見られたら、どんないいことがあるんだろう?それで自分に自信が持てたり、自分の価値を感じられたり、安心したり、するのかも。

だけど、実際そうじゃないから、そこはとても危うくて、そこを確保するためには自分をそう見てくれる人を探し続け、その人を自分のそばにおいておくことに必死になることになります。そうやって人生を過ごしてしまう。

という、不自然で、複雑で、やっかいで、大変なことを人はやろうとします。そのエネルギーがあったら、今の自分を認めることに力をそそいだほうが全然いいのにと私は思うけれど。

実際、他人の目ってその人その人のパターンで見ていることがほとんどです(この人はすごいとか、この人は大したことないとか)そして、他人が自分に対して持つ印象とか、イメージとか、自分に向かって発する言動とか、も自分がパターンで受け取っていることがほぼほぼです。そこで腹がたったり、傷ついたり、焦ったり、不安になったりします。だから、こう見られたい。

そこがわかると、それはそれとして、というところに自分が立つことになります。そこで初めてお互いのパターンであることが理解できて、じゃあ、自分はどうするのか(他人にはその選択はないので)と自分が自分に向かっていかれればいいんだと思います。その練習を重ねていくことで、こう見られたい、からは離れていきます。

すっきり感
2024/09/27

私は、今の自分がいい感じでいっているかどうか(天のルールに沿った在り方をしているかどうか、ということです)を知るのに自分の全てに「すっきり感」があるかどうかというところで確認しています。

いい感じでいっているときには、心には「すっきり感」があります。それは私の身体に広がり、生活全般に広がっているのがわかります。そうであると、物質的にも、精神的にも色々と持ち込んでいないので、全てがシンプルな現象となります。思考から行動、物質も管理するべき物事が少ない。やるべきことがはっきりしているので、それをやる。という日々です。

…と、いつからか、自然とそのようになっていました。別にここをねらって来たわけではないんです。でも、私というこの個体には「すっきり感」が合っていたんだろうと思います。もしくは「すっきり感」で生きるという課題があったのかも。自分で望んでいたわけではないのに、そうなっていたというところはおもしろいところです。

で、自分という個体に合うものってきっと一人一人違うんじゃないかと思います。それぞれが天のルールに沿った在り方を心底欲し、それを具体的なものとし、それがある程度継続されていくと、自分に合った心の状態が訪れます。

それは、やすらぎかもしれない、平和かもしれない、活力かもしれない、正直さなのかもしれない。それがその人に合っているものなんだと思う。それは感覚として自分の在り方の確認に使えると思います。

何がやってくるかをお楽しみにしておきましょう。私はなんだろう?と考えないことです。お任せして生きる、これが大事だとつくづく思うのです。やるべきことを積極的に日々行い、結果はお任せする、そうすればその人に必要なものごとは気づけば与えられています。

「私」の反省
2024/09/25

より善いところへ自分を連れていくために「反省」は必要です。

より善いところへいくには、今までのこれは、もう、使うのをやめよう、選ばない、違う選択をしよう、と次へ向けて行うのが反省です。これはとても大事だと思います。ただ、反省というのは、このようなことであって、このような「私」の反省は一時で終わります。

しかし、黒パターンが反省をしだすと、今までのことをずーーーーーっと考え続けたり、そこにパターンが納得できる原因をひたすら探し続けたり、なんで私はあんなことをしてしまったんだろう、またやってしまって私はなんてダメな人間なんだ、あんなこと言わなければこんなことにならなかったのに、自分のことがつくづく嫌になる、など、反省はいつのまにか自責へと変わってしまっています。こうなると「私」が反省がしているのではなくて黒パターンが思う反省を黒パターンが行っているということになります。その最中は、苦しいはずです。そして、黒パターンを選んでいるので、その結果もついてくる、という苦しさ。

しかし「私」の反省は後に残りません。反省して、はい、次、次でいいんです。いやいや、それは単純な洋子さんだからできるんでしょ?と思うかもしれませんが、私も昔は、黒パターンが反省し続けていて、考えても考えてもそれが終わることがなく、とにかく、ずーーーーっとそこをぐるぐる回るような状態でした。

誰が反省しているのか、で、全く違います…と頭でわかっていても、実際は、パターンは反応して瞬時に動くので、パターンが反省していることを感じられたら、強制終了します。実際、考えることをやめる。そして「私」の反省を考えてください(次はどうするの?)そして一時の反省を(あえて)してみます。

でも、またパターンが色々と言ってきたら「だまりなさい」と言う。そういうことを何度も何度も繰り返していくうちに(多分)脳が書き換えられていくのだと思うんです。新しく書き換えられた脳は、今度は、新しい「反省」(「私」の反省)に協力していきます。こうして、少しずつ、自分をつくりかえていきます。地道な毎日の反復練習ですが、これに勝るものはないし、これが最近道だと思う。

強いメンタル
2024/09/24

詳しいことは書けないのですが。本当にメンタルが強い人の存在をこのたび知ることがありました。

私よりもずっと若い女性ですが、その方の体験したことを思うと私であったら、耐えられず病気になっていたか、その場から逃げ出していたか、だったと思います。尋常ではないその体験にいかに向き合い、いかに自分を支えてきたのだろうか、と思います。そして、今、その方は自分の進むべき道をみつけ、後を振り返ることなくスッキリと一歩を踏み出しました。

私の手元に、父が集めていたポストカードが残っています。絵が好きだった父が美術館に行くたびに好きなものを買っていたのだろうと思います。私も好きなポストカードをそこに足しています。

「小さな美術館」とポストカードのことを言っている方がいらっしゃいましたが、そうですね。こんな小さなものでも、その時の自分が見たいというものを側に置けば、それは自分にとっての美術館になります。

で、今は久しぶりにフリーダ・カーロの自画像です。フリーダ・カーロはメキシコの女性画家です。若い頃の大事故により、亡くなるまで肉体的苦痛と精神的苦痛に苛まれながらも多くの自画像を残しています。

その中の1枚「いばらの首飾りとハチドリの自画像」。しっかりとした視線でこちらを見ているフリーダ・カーロがいます。フリーダ・カーロと言えば繋がったまゆげとひげ(実際そうではないそう)ですが、ここにもそれが描かれ、よりいっそうその視線は強いものになっています。

しかし首にはいばらの首飾りをしていて、そこからは血が流れています。この痛々しい首と何ものにも負けない強い視線と、相反するものが描かれているのですが、その両方がその時のフリーダ・カーロだったのだろうと思います。血を流すほど心身にはダメージを受け、それでもそういう自分を誤魔化すことなくみつめ、表現したいという強いメンタルを感じます(私にはとうてい無理だろう)飽きることなく見続けています。見続けていると、とても落ち着きます。

私が持っていない強いメンタル。その人達の心の中がどのように動いていたのかを聞いてみたいです。

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