祖母のこと | - 2025/01/09
- 昨日、ふと、祖母のことを思い出した(母の母)。
祖母は若くして結婚し(明治の女性はそれが普通だったのだろう)3人の子を産み、育て、関東大震災と東京大空襲を体験し、生きていくために商人の人達が泊まる小さな旅館をはじめ、家族を養った。祖父は、お金にならない「発明」に明け暮れていたらしい(祖母曰くなので祖父には祖父の言い分があったと思う)
祖父が亡くなってからは、茅ヶ崎へ越し、今度は、両親と一緒に生活できない状況にあった私と妹の面倒を叔父夫婦とともにみてくれた。
で、祖母のことを思い出した、というのは、祖母の人生は、ずっと家族のために働き続けた人生だったなあ、という事と、そんな人生であったのに、なぜ、あんなに明るく、おもしろく、遊ぶように生きていたのだろう?という事である。
私では祖母の様な人生を送るのは到底無理だろうと思う。これだけ便利な自由な世の中にいるのに、毎日のご飯が面倒くさいと言うくらいだから。自分の好きなことをやりたい、自分のペースでやりたい、という思いはある。
祖母は、毎日、毎日、朝から夜寝るまで、同じことを繰り返し、限られた人生の時間のほとんどはそこへ費やされていたと思う。そして、晩年は認知症が進み、施設に入居して人生を終わらせた。
自分の人生なのだから、もっと自分を優先したかったとか、自分が生まれてきた意味とか、意義とか、持たなかったのだろうか。そうできない自分の身の上を嘆いたりしなかったのだろうか。祖母から、不服感や憂鬱さやあわれさを感じたことがなかった(孫にはそれは見せなかったのかもしれないし、子供だったのでそのへんはわからなかったのかもしれないけれど)逆に、祖母からは、明るく、おもしろく、日々の中にある小さな楽しみを教えてもらった。それらを総称してみると、遊ぶような生き方だった。
私を含め、今の人達はどうだろうか。自分の人生は自分のために生きることが普通になっていて、そうなると、何かしらの自分にならなくてはいけないようなものも生まれてくる。自分はこれをやっている、これを持っている、それがある人生が成功している人生というような。そうやってはじめて安心できるというような。
今は、自分が好きなように生きていいという時代ではあるけれど、そうなのに、不満や不服が多いのはどうしてだろう。楽しく遊べないのはどうしてだろう。未来に不安を持つのはどうしてだろう。祖母の生き方は決められたところで、決められた生き方しかできていなかったのに、どうしてあんなに自由だったんだろう、祖母のまわりにある時間がなぜあんなにゆったりとしていたんだろうと思う。
祖母ももちろん人間なので、その心には悲しみも怒りも後悔もうつうつとしたものも宿っていたはずだ。でも、これは推測だけど、当時の、ほとんどの女性たちが生きる枠というものは決まってしまっていて、災害と戦争で、よりそこは狭められ、その中で生きていくことを強いられ、そこへの覚悟やあきらめをどこかで持ったのかもしれない。覚悟やあきらめを持つ人の明るさやおもしろさや自由さが出ていたのかも。自由であることの弱さや不安定感もある。そして、強いられるものにより人は強くなり、自由になるのかもしれない。私も祖母のように生きたいと思う。
|
|