ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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緑色
2025/05/02

5月になり、ますます、新緑が輝いています。

中央公園の樹々の緑色もいっそう鮮やかで、歩いていても気持ちがいいです。新緑の緑色って目に優しい。心にも優しい。この緑色を見ることができるのもきっとあとわずかだと思います。

若葉が育っていくうちにだんだん葉の色も濃く、しっかりとしたものになっていくと、夏に向けて強い樹々に変わっていくのだと思います。それはそれで力強くていいですが、やっぱりこの時季の緑はいいです。もう少しの間楽しもう。

整体でお世話になっている先生にも先日「伊藤さん、緑色をすごく見たいと思いませんか?」と聞かれ「そうなんです」という話から、図書館の「森」が「空き地」になってしまった話をしたところ「ぜひ、次の森を見つけてください。見たいんですよね、緑」と言われました。

で、緑、葉、樹のことを考えているときに子供のときから私は自分が好きな樹があったことを思い出しました。幼稚園の頃から、大人になっても、どこに住んでも、そこには(その近くには)好きな樹々があり、時にはそれに守られ、時にはそれで遊び、時にはそこから何かを教えられてきたことに気がつきました。それは自然すぎていて、自覚していなかったのだという事にも気づきました。

花は美しいですが、花よりも樹のほうが好きなのは、そんな樹との関わりがあるからかもしれません。

高校生のときに、自分の部屋に大木が欲しくて、自分でその絵を描いて、それを切り抜き、壁一面にはって森の中にいるような気分でいられるようにしたことも思い出し、心身が樹を欲していて、十代の私はそれに従ってそうしたんだろうと思います。この時の感覚も、今も持っているといい。

緑色というのは私には必要な色なのかもしれません。でも、緑色の服は持っていないけど。そんなことも色々と思いだし、その今までのつながりを思い出し、でも、それは特別なことではなく、自然に動いていたこともこの年になってわかり、やっぱり自分ひとりで生きているわけじゃないな、と思いました。

仏性
2025/04/30

サンドウィッチマンが、総合病院を巡り、その病院の一角にラジオブースを作り、そこからON AIRをする「病院ラジオ」という番組があります。

その病院に入院している患者さん、そのご家族、通院をしている方々が、サンドウィッチマンのお二人とトークをする番組です。時々見るのですが、昨日は、東京、府中にある子供病院編でした。

病を持つ子供たちが、自分の病気について、入院生活について、治療について話をします。そしてそれを、担当の先生はじめ、看護師さん、スタッフの方々、ご家族の方々、他の患者さんが聞くことができます。

今回登場した、全てのお子さんの患者さんの話を聞いて、心が洗われるようでした。

患者さんは身体的な苦痛だけではなく、心にもいろんな感情が湧いていると思います。どうして自分は、他の子たちと同じように動けないのか、どうして他の子たちと同じような外見じゃないのだろうか、こんな自分じゃこれから何もできないんじゃないだろうか、ずっと親に面倒をかけていくんじゃないだろうか…きっとそこへの不満も不安もくやしさも悲しさも感じてきたと思います。そして、親御さんの気持ちも、自分を責めたり、これからへの不安を持たれているのではないだろうかと思います。

しかし、彼らは、今の自分の状態を受け止めていて、自分で考え、とても前向きでした。「何か悪いことがあっても楽しいこともあるから」「普通ではない自分ではなくこれは自分の個性だと思えるようになった」など。この心境にいきついていることへの驚きです。ご家族のサポートがありながらも、自分で自分のことをそこまで引っ張ってきた子供たち。そして今の自分を受け入れて、自分の内側の生きる力を感じている子供たち。だから、その話には無理がなく、聞いている人の心を動かすのだと思います。

昔、知った、アフリカへ支援のために行った日本赤十字の看護師の方が、その状況の悲惨さに「こんなひどい状況があるなんて、神なんていない」と思ったのだそうです。そう思うくらい過酷な生活を毎日、女性や老人や子供たちは強いられていた。

そんな中、ミルクをもらいに来た男の子が持っている毛布がぼろぼろだったので、看護師さんは新しい毛布を渡そうとしたそうです。すると「僕にはこの毛布があるからいい。その毛布はあの子にあげて。あの子は毛布を持っていないから」と言ったのだそうです。そのとき、その看護師さんは「神はここにいるじゃないか」と思ったという話がありました。

今回の病院ラジオに出演した子供たちにも同じような気持ちを私は持ちました。ここに、神がいると思いました。神は天にいるのではなく、こうして人の心の中にいるのです。それも年齢、性別、国は関係なく。その神が、多くの人に気付きを与えていると思いました。神社、仏閣、教会にいかなくても、こうして日々の中で人の持つ「仏性」を見せてくれる人たちがあちこちにいます。

こうして身近に神を感じられることのありがたさと、同時に、自分はどうなのだろうと自分をみることの機会も与えてもらえます。神に近づける人は特別な人なのではありません。そもそも自分の内に神はいるのだから。それを自分が発露して行くのかどうか・・ということなんだと思いました。

ここを頑張る
2025/04/28

昨日書いた「甘えてはいけない」という言葉を聞くと、どんなに自分がつらくても、ひとりで耐えてひとりで解決していかねばならないと思うかもしれません。

しかし、それは無理なことです。人間ってそんなに完全な、万能なものではないし、そもそもひとりで生きてはいないです。

マスターだってそうだと思う。体調を崩せば、病院に行くだろうし、必要なら入院も、手術も、と普通に考えると思います。

マスターになれば(魂レベルが上がれば)まず病気にはならないのでは?と思うかもしれませんが、そうではないです。ただ、それに対して、どんな意味づけをしていて、どういうふうに生きているか、というところが私たちとは違うところ。大変な場面でこそマスターマインドかそうでないかが見えてくるところなのかもしれません。

そして私たちが何より甘えているのは、生かしてもらっているというところです。人智を超えた何かが私たちの命を生かしている。これがなかったら生きてはいかれないのではないだろうかと思います。ずーーーーーと甘えさせてもらい、お世話になりっぱなしで、今も、これからも、死後も、私たちはこうして、甘えさせてもらいながら、守られながら、生きていくのだと思います。

だから、自分と同じように生かしてもらっている尊い存在の他人を自分の黒パターンを満たすために使うのだけはやめよう、というのが昨日書いた「甘えてはいけない」ということです。これはきっと皆、もう、わかっている。でも、すぐに変えられない。これもよくわかります(私もそうだから)でも、だからこそ、ここを頑張る。

逆のほうから…
2025/04/27

誰かの言動に、腹がたったり、傷ついたり、その人を嫌いになったり、落ち込んだり。それは、とってもざっくりと、ちょっと乱暴に言ってしまうと、その人に甘えているということです。

甘えているというのは、その人の「せい」とパターンは思っている。それは、自分の内に起きていることは、その人に甘えることで、自分の「せい」ではないと思いたいのか。又は、自分の内に起きていることを自分では持ちきれないから、その人の「せい」にしてその人に変わってもらおう、責任とってもらおう、気を付けてもらおう、気付いてもらおう、としたいのか。

・・・・・と私は思います。

これは他人には甘えてはいけないと言っているのではありません。こういう甘えを他人に期待していても、らちがあかないよ、ということです。いくらそれを続けても、そこにやすらぎはないし、いつも自分の後始末をしてくれる誰かを側に置いておかなければなりません。これこそかなり大変なことです。

自分の内に起きたことは自分の責任なんです。でも、だからこそ、自分の内がどんなだったら、自分は嬉しいかな、おだやかかな、と、先にこれを考えると、いま、目の前にある物事に自分がどんな意味づけをしていったらいいのか、何を選んだらいいのかがわかるかもしれません。

こんなふうに逆のほうから考えてみるとわかりやすいかも。望む心の状態のために自分で用意する。自分で使う。だからその結果がやってくるということになります。

まだ何も確定しない波の状態の世界に、自分が選ぶ意味づけ、選択というもので波が粒になり、現実に現れてくる、ということからも、人が選ぶもの、決めるものが全てスタートになるんだと言えると思います。

正しい動機でワークを行う
2025/04/26

語りかけだけでは自分の内の変化は起きません。たとえ、1日に何十回語ろうとも、語りかけだけでは変化にはつながりません。

変化を起こすためには白黒ワークが必要になります。

学び始めのころは「すぐに白黒ワークをしないでください。語りかけに重点をおいてそちらを重視してください。そして十分に語りかけをしたあとに白黒ワークをしてください」と言っていました。なぜ、そのように言っていたかというと、ほとんどの方が黒パターンの生み出す感情に翻弄され、飲み込まれ、それが自分だと誤った認識をしていたため、早くそこから逃れたいと思ってしまうからです。逃れたいための白黒ワークになってしまうからです。そこで、すぐに白黒ワークをしがちだったと思います。白黒ワークを行う動機が以前はそういうものであり、その動機で行うワークであったがゆえに、停滞していく。そこから学んだことは、動機が大事なんだということだったと思います。

そして、今は、皆さんがワークをする動機自体を成長させてきているのでこれからは、語りかけをしたら、白黒ワークも行ってください。正しい動機でです。

丁寧に白黒ワークを行い、黒い部屋に入った感じと白い部屋に入った感じの違いを深く感じ取り「私」はどちらを選びたいのかをしっかりと決めてください(←ここ大事。こうなりたい、ではなく、こっちが自分にふさわしいから、それを選ぶのは当然というかんじ。白パターンに従属するのではなく「私」が選ぶのです)

決めるというのは自分の進みたいところをはっきりさせることになります。何事も、向かいたい物事があるのであれば、はっきり、すっきり、きっぱりとが必要です。そして、それを保ち続けることです。そこに向かっていくために具体的にどんな言動をしていったらよいのかはわかると思います。

この、決める、動く、それをやり続けることの繰り返しで、自分の内の変化は自然に起こってきます。少しずつ。語りかけは黒パターンとの信頼を築き、白黒ワークは自分の意思で自分の進みたいところを決め、そこに向かって歩み出していくもの。ですから白黒ワークは必ず行い、それを継続していってください。

そのほかにマントラとしての白パターンは気楽に、しみじみと、余韻を感じて行ってみてください。そうしながら今までとは違う領域へ意識をもっていきます。こうしながら少しずつ、実は自分でも気がつかないうちに、自分の精神性は引っ越しをしています。それが自分の変容ということです。

又、人はどうしても、その証が欲しかったり、どのくらい自分が変容したかを確かめたかったりしますが、これが無意味であることもだんだんわかってくると思いますし、そこで得られたものはどこかに無理があったり、本来、自分に必要なものではないこともあります。だから、そこはおまかせして。必要なものは与えてもらえます。正しい動機でワークを行っていれば。

すっごくわかりやすい
2025/04/24

私は死後の世界はあると思っています。実際見てきたわけではないし、前世の記憶を持っているわけでもありませんが、この考え方が自分の生き方をよいものにしてくれるし、自分という個性にもフィットしているものだからです。

それに、死後の世界があることにはロマンがある。会いたい人たちにあちらで会えるということは今からの楽しみにもなります。

で、道場では「私」とパターンの住んでいる卵型の部屋、両方で「魂」という捉え方をしています。そして、その「魂」はあちらへ帰っていく…と。それぞれの「魂」にふさわしい所へ。

もし「私」の部分だけが「魂」であると、皆、同じところに帰ることになります。しかし、いろんな方達が言うように死んだら、その人の魂レベルにあったところへいく、ということだとすると、いろんな所へちりばめられるのはパターンの住む卵型の部屋があるからと言えます。その中身がどんな状態なのか、というところが関わってくるのでしょう。

で、昨日、ショート動画を見ていたら、江原啓之さんがおっしゃっていた言葉がありました。死後の世界でどこにいくか、ということについてです。

・・・「今のこころ、そのままの境地に平行移動」・・・と。

すっごくわかりやすいと思いました。今のこころ…です。そして、そのこころのままの境地に平行移動ということ。魂レベルに合ったところへ、というよりもよくわかります。

今、いらいら、もやもやであればその境地に移動。怒りや不満であればその境地に移動。寂しさや悲しさであればその境地に移動。死んでからも今のままが続くというのはとても自然です。

じゃあ、死ぬまでにこころを整えようと思うかもしれませんが、死はいつやってくるかわかりません。今日事故にあったり、事件にまきこまれたり、大災害に見舞われたりして、急にそれがやってくることだってあります。

だから、今日から整えよう。その具体的なやり方はわかっているのですから、死ぬまでに、ではなく今日からです。そしてそれは死後の世界のためにやるのではなく、今のために。今はいつも一瞬一瞬選んでいく白パターンにより作られていくものです。そうやって生きている今も、そして死後のそのときにも、いい境地でいられるようにしていくのがベストだと思います。

生きている今も、あちらの世界でも、いい境地にいたいですね。

映画館へ
2025/04/23

先日、なんか、映画館で映画を見たいなあーーーと思いました。特に見たいものがあるわけではなかったのですが、とにかく、映画館に行きたい、という気持ちになり、隣街の映画館へ。上映しているものの中から選んだのが「アマチュア」(2025年公開 米国のサスペンス映画…とある)という映画でした。

主演は「ボヘミアン・ラプソディ」でフレディ・マーキュリー役を演じたラミ・マレック。フレディ役がぴったりすぎていたので、どうも、そのようにも見えてしまいましたが「これはフレディじゃないよぉ」と自分に言いきかせる。

話の内容としてはテロリストに妻を殺害された主人公がテロリスト達に復讐をしていく、というものなんです。この手の話はよくあります。そして、そこでの主人公は、元諜報部員、とか、特殊部隊のエリートとか、元軍人とか、闘うことに慣れている人たちが多い。

たった一人で何人もの敵を倒すことができる身体能力、そして実践の経験があり、あらゆるスキルを持っているというような、強いヒーローです。見た目もがっしりとした体の持ち主であったり、しなやかで瞬発力のある強靭な体の持ち主であったりとか。そしてとにかくみんなタフ。

しかし、この映画の主人公はCIAの分析官であり、細身で、どう見ても身体能力が高いとか、戦闘むきとは言えない人でした。大丈夫かあ?と言いたくなります。

そういう主人公がどうやってテロリスト達に復讐していくのか。

彼の武器はCIAトップのIQの高さ。これを駆使して頭脳戦を繰り広げます(このあたり、疎い私はついていくのが大変。いまだによくわからないことも多い)そして、その途中で暴かれていくCIA上層部の隠蔽工作(これもよくある話だ)

ある意味新しいヒーロー像かもしれません。

で、彼はこう言います「僕には僕のやり方がある。」自分のやり方で、一般的には無理だと思われていることでも成し得ていくことってできるだろうと思いました。というか、これからの時代はこちらだろうと。

自分にはこれがないからそれはできない、という時代ではもうないのかもしれません。段々と、創造という事に視点が向いていっているのかもしれません。そのためには自分が何を持っているのかを自分で知っておくことも大事なのだろうと思いました。

しかし、時々いいですね、ポップコーンのにおいがする映画館で見る映画。また行きたいなあと思ったときに今回のように行こう。

https://www.youtube.com/watch?v=AKSDo190Tlo

たくさんある選択肢
2025/04/22

白パターンには、いくつもの選択肢があります。そして黒パターンにもいくつもの選択肢があります。その中から「私」が何を選んでいるのか、ということです。人の日々の生活って選択の連続です。ですから、何かしらをいつも、誰でもが、選んでいるということになります。

慣れ親しんでしまった黒パターンがことあるごとにすぐに反応し、登場して、何かを言ったり、行動したり、というのが普通に行われていることなんですが、これは、そんな黒パターンが悪いのではなく「私」が機能していなくて起きていることです。「私」がその在り方を選んでいる、黒パターンを選んでいるとも言えます。

この状態をずっとほっておけば「そういう人」になっていきます。人って心で選んだ通りになっていくからです。

白パターンも同じでたくさんの選択肢を持っています。その中から「私」がどれを使うかを決めていきます。その場、その時に応じて、決めていけばいいのですが、白パターンそのものが黒パターンとは違う上の領域にあるものなので、とても「私」との親和性があります。白パターンの特徴として「理性」という事が言えると思います。

「私」が何を選ぶのかということがとても大事になります。そのためには意識的にあることです。無意識=「私」が機能していない状態では、選ぶことはできないからです。

自分の内の誰が…
2025/04/21

……自分を疑え……今朝、そう思いました。

自分を疑う、自分を信じる、これ、どっちが大切かと言うと、一般的には自分を信じるというほうだと思います。しかし、私は前者が大事だと思います。

自分を疑うというのは「自分の内の誰がそう考えているのか、言動しようとしているのか、決めたのか」というところに目を向けるということです。

これは本当によいことだから、これは自分がいい気分でいられることだから、これはあたりまえのことだから、きっと誰にとってもいいことだから…と「よい」と思われることならそれでいいのではないということです。それが黒パターンから出ていることは普通にたくさんあります。それを自分が身極めているだろうか?ということで自分を疑うということです。

そうなると、いつも自分を見張っていなくてはいけないのだろうか、と思うかもしれませんが、そうではありません。それはすごく疲れてしまいます。

あたりまえのように出てきていることや、いつもと同じやり方をしているときや、迷って、考えて導き出したものや、なんか、しっくりきていないとき、変な高揚感やうれしさや達成感があるときなどなど。一度立ち止まって、それが自分の内の誰が?というところで見てみるといいです。

そして、もし、それが黒パターンからのものであれば、それを検証し、白パターンに選び変えたものにして言動するのか、全く言動しないのか、を考えればいいわけです。

そして、自分を信じるというのは、そうやって自分が選んだ白パターンを信じるのではなく、その一連の作業ができるようになっている自分を信じるということです。いくら善き白パターンを選んでそれで言動しても、相手あってのときにはそれが裏目に出たり、それにより何かが生じることも普通にあります。白パターンは絶対なものではなく、あくまでも選択肢です。

公園は初夏
2025/04/19

昨日は、久しぶりに中央公園へ行きました。桜が満開の時以来です(何で行っていなかったのかわからない)

久しぶりに見た公園。その姿がガラッと変わっていて驚きました。時はまさに新緑。公園全体が明るい緑色に変わっていました。新しい芽や葉に、まだ強さはありませんが、その時期特有の柔らかさがあり、それが人にも柔らかさを与えてくれているのだろうと思いました。

「つばき」はもう終わをりむかえ、かわって「つつじ」が咲きだしていました。そして今まで全く目にもとまらなかった藤棚にはきれいな紫色の藤の花が咲いていました。花があまりに多く重いのか、下へ下へと咲いていてそれがまた風情があります。

私がこの公園に来始めたのは去年の10月からです。岩手の合同合宿の時に、朝、ホテル近くを歩いて、それがとても気持ちよかったので、こちらでも歩こうと思い散歩をするようになりました。それまで、公園の存在は知っていましたが全く興味がなく、おまけに遠いから(と思っていた)行くのも面倒くさいと思っていました。

その公園で、初めて秋の紅葉の色の美しさを実感し、冬の樹々本体の形の面白さを実感し、そして、春の桜を実感しました。これから、初めて見るであろう夏の姿も楽しみです。

大好きな八重桜も咲いていました。ぽってりとした可愛らしいその形に華やかさを感じますが、私はどこか毒のようなものも感じていて、そこに惹かれたりもします。今ちょうど陰陽のことを考えていて、それを象徴するものとして、わかりやすく、その姿を見せてくれているように思います。もう少し考えてみよう…公園を歩きながらと思っています。

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