ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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大相撲も終わり…
2024/09/23

自分が今まで、黒パターンであったけれど、それを良かれと思って、または、正しいことだと思ってやってきたこと、思い、考えは誰にでもあります。

それをそのまま信じて生きる人もいれば、何かのきっかけでそれについてよく考えてみる、という人もいます。よく考えてみたときに、今までの自分の在り方は間違っていたんだ(宇宙的にです)と気付く人もいます。

そこに人の成長があると思うのですが、気付いただけではだめで…。

問題はその後です。気づいた、しかし、そのままにしておく。やるべきことをやらない。やろうと思っているし、やりたいとも思っている、けれど、結果やらない、というのは、気付いていないことと同じだと私は思っています。

私はナビとしてやり方を示すけれど、後はその人にまかせるしかありません。で、やらないからダメな人なのではなく、それはそれでその人の魂が体験したいことなんだとも思っています(ここはだいぶそうなれました。以前はどうにかしてひっぱっていこうとしていましたが、それはそれで私のパターンなのだと気が付いて)

自分という器を、大きくするのも、そのままにしておくのも、小さくするのも、自分しだいということです。

さて、大相撲も昨日で終わり、また静かな日々となります。大の里という、スピード出世した、若い力士が優勝し、これからの期待も大きく、将来を有望されています。きっとこれからもっと力をつけて横綱を目指す人になるのだと思います。

私も大好きな力士ですが、より強くなってほしいから、これから、たくさん負けて、思うようにいかない時を過ごし、そこで何を選んでいくのかという体験をして欲しいとも思っています。これって、昭和チックなのかもしれない。令和ではそこはスキップでもOKなのかも。しかし、昭和も令和も関係なく人間の普遍的なものはあると思います。そして、その部分を育てるためにあらゆる職業もあると私は思っています。だから、何をやっているから、すごいのではありません。

本当に強くなるとはどういうことなのか…大の里がこれから時間をかけてぜひ、本当の、大物になってほしいと思います。…と、若い力士には、孫たちを見るような目で今後も大相撲を見ていきます。大の里、優勝おめでとう。

死がスタート
2024/09/22

私は、小学校5年生のときに茅ヶ崎に引っ越してきました。当時、家の事情で、両親とは別に暮らしていて、私と妹の面倒をみてくれたのが叔父夫婦でした。

そして通りをはさんで、祖母ともう一人の叔父も住んでいたので、私と妹は皆に、育てられたという印象があります。それぞれが(今思うと)個性的な人たちだったので、その影響を私は強く受けて育ったのだと思います。

その叔父の一人は、ドロップアウトしている人だったので、その叔父から言われた数々の言葉は、今でも自分の中で生き続けています。

小学生の私に「人間は死がスタートだから、生きているこの退屈な時間をいかに楽しく遊んで暮らすかなんだ」と言っていました。もちろん、全く何を言っているのかわからずでした。しかし、今は、よくわかります。

仮にそうだとしたら。誰もが死がスタートであるとしたら、今、そこへ向かう間の時間は、どう過ごしてもいいわけです。叔父が言うように、楽しく遊んで暮らす、という中には仕事をがんがんやる、もあるでしょうし、旅行三昧をする、お金を稼ぐことに精を出す、家庭を持って子育てする、趣味を持つ、などなど。それがその人の楽しみであるのなら、全て退屈な時間を過ごすものごとになります。

そして、この学びもそうです。楽しく遊んで暮らすものごとのひとつとなります。学びをそんなふうに軽々しく扱うべきではないと言う人もいるかもしれませんが、死がスタートという、考えのもとにおいては、そこに向かうまでの時間を深刻なものにしなくてもいいわけです。スタートした先が本番だから。楽しく遊びながら本番に向けてのエネルギーを蓄えていっている、とも言えます。いいエネルギーを蓄えていくのには、きっと、楽しく遊ぶことで生み出されるエネルギーがいいと思います。

そもそも人が生きて死ぬということは自然なことであり、そうやって、ひとりひとりが宇宙の運行を手助けしています。なんか、その在り方自体が私は軽く思えるんです。そこをまた押してくれる「死がスタート」感じてみてもいいかもしれません。何かが見えてくるかも。

禅定波羅蜜
2024/09/20

昨日は、お墓参りにいってまいりました。

前回、8月のお盆の時にはあまりの暑さのため、雑草抜きはパスしました。で、今回はもさもさと生えている雑草やにょきにょきと育ってしまった植物をひたすら切る、抜く…と働いてきました。昨日は曇っていたためたいぶ助かりました。

お寺さんからは「お彼岸のしおり 幸せの道 六波羅蜜の教え」という小冊子をいただきました。六波羅蜜とは、迷い悲しみを生きる現状から悩みにとらわれない安らぎの世界(彼岸)へ至るための六つの修行のことだそうです。それについて、武久 寛海さんが解説をされているというものでした。その中に「禅定波羅蜜」という項目が出てきます。それは、以下のことだそうです。

「坐禅をする意味とは?という質問に老師さまはこのようにおっしゃいました。<薬を買うと、効能書きというのがありますね。こういう効き目があります、とか。言ってみれば坐禅は効能がないんです。何かが身に着くというのではなく、逆にどんどんモノが取れていくんです。私はこんなタイプの人間だとか、頑固だとか。(中略)頑固と言うのは形がないんです。形がない物を自分の意識の中に、そういう人間だという形を作ってしまう。それが間違いなんです。我々の意識そのものが勝手に好きだ嫌いだを決めている。人間関係も、物に対してもそうなんですよ。そういうものは我々が小さいときから、大きくなってからもなかなかとれないんですよ。人間というものは。もともとそんなものは身体の中にはないのに、それを作っているんですよね。それを取ってく。取っていくともとの(自分の都合ではない)本性が出てくるわけです>」

ここでの学びと重なるところがあちこちに。

「形がない物を自分の意識の中に、そういう人だという形を作ってしまう」とあります。これはパターンが自分の心の中に自分はそういう人だという形を作ってしまう、ということです。そして人は心ありきなので、必ずそういう人になって現れます。パターンの強い思い込みでできている自分です。それは他人にも、物にもなされていきます。

「それが間違いなんです」と言われています。パターンの存在が間違いなのではなくて、無意識でそうしていること、それによって現れている自分を自分だ、と、信じていることが間違いなんです。

「そういうものは我々が小さいときから、大きくなってからもなかなかとれない」そうなんです。パターンは我々が小さいときから、大きくなってからも、それを選んでいればそのままいくことになります。より拡大させながら。

「それを取ってく。取っていくともとの本性がでてくるわけです」道場としてはもう、黒パターンは選ばない、そして新な「白」という意識的在り方を選ぶことをしていくことで本性という「私」が育ち、それが全てを選ぶことになる。

「自分の都合ではない本性」パターンの都合ではない「私」。それが本当の自分。ということです。意識的な自分です。

この体験をするためにきっと色々なやり方があるのだと思います。色々な道があるのだと思います。でも、天のあり方に沿ったやり方をしているものは、道は違えど、向かうところは同じだと思います。ここに挑戦し続けている人たちが、周りにはいるということです。たのもしいです。

自分で自分を決めている
2024/09/18

結局、人は、皆、自分で決めた人になっている、だけ、なんだと思います。

自分とはこういう人、ということを誰でもが決めていて、そのとおりになっています。これは、いいとか悪いとかではなくて。それだけの事なんだ…と。(これは私が初めて与えられた「ただ、今、その人が現れているだけ」の体験をした日を思い出します。多分、20年以上前。そしてそれは今でも全く変わることなく土台としてあります)

何故、そうなるのか、というのは、量子がその人の決めた通りに動いているだけ、なんだろう。これは、スピリチュアルということではなく、物理法則です、と言っている方もいらっしゃるくらいにもう、今や、普通の事になりつつある。で、だからこそ、自分をどのように決めるのか、というところが大事になってくるという話です。

多分、多くの場合、無意識でこれは成されていると思います。ここで言う無意識というのは黒パターンのことです。昨日書いたように、過去に他人から刷り込まれた黒パターン、自分で刷り込んだ黒パターンを自分だと思っていて、パターンはそこで起きたことを強固に信じています。こうして決めつけています。

そしてそうなっている今の自分です。今の自分は過去の黒パターンが決めた自分。無意識が決めた自分です。そうだとしたら、今日から、すぐに、新に自分で自分を決めればいい(意識的に)ということです。決めたらすぐにそうはならないですが、この体験のように、いつか、気付けばその自分となって現れています。これは今まで体験済ですからわかりやすいと思います。

どんな自分を決めますか?金持ちとか、仕事が順調とか、皆の上に立つとか、このままでいいとか今までの黒パターンが欲しがるものごとではなく。内面において自分が持ちたいものです。よく分からないという方は今の自分を創ったものを手放し(今の自分に満足であればもちろんそれでいいのですが)て見てみるとわかりやすいと思います。

自分をつくったのは自分。両親や、他人や、教育や、社会が自分をその様な人にしたのではないということです。そういうもののために自分はこうなったというのは、それらに管理されてしまっているということだし、それでいいです自分、と、自分を預けて守ってもらおう、と、いうことです。でも、それで満足ですか?

人は本来、のびのびと自分を生きることが誰でもできるのです。それには自分が自分を決めていくということです。

鳳凰
2024/09/17

部屋から見える空に「鳳凰」の雲が数度現れました。この数か月です。その代わりに「龍神」雲は現れません。昨日も「鳳凰」雲が現れたので、「鳳凰」の意味を調べてみました。以下です。

「鳳凰(ほうおう)とは中国の神話に由来する伝説の鳥である。36種の羽を持つ動物の長であり、聖天子が治める平和な世にのみ姿を現わすとされている。全体はクジャクに似ていて、頭は鶏、あごは燕、頸は蛇、背は亀、尾は魚で、黒、白、赤、青、黄の五色からなり、高さは六尺ほどとされる。めったに実を結ばないという竹の実を食し、梧桐(あおぎり)の木にのみ止まると言われる。西洋では、東洋の不死鳥ともみなされ、「中国のフェニックス」と呼ばれることもある。」(実用日本語表現辞典 より)

だそうです。「平和な世にのみ姿を現すとされている」とあります。いろんなことが起きている今ですが「平和な世」なのだろうか。自分の心を平和に導け、ということなのかもしれません。

自分の心の内を平和に創っていくためには、勇気が必要になります。そして、勇気は慣れ親しんだものの中にはなく、新たなものへ向かうときに必要になるものです。

パターンはとても怖がりだし、物事を歪めて、大袈裟に、深刻に受け取って、決めつけます。パターンは勇気を使うということを嫌います。こうなっちゃうかも、ならないかも、と思考し続けてしまうんです。(パターンに勇気を使わせるわけではないんだけど)

慣れ親しんだものの中だけにいたがるのはパターンのクセです。そして、その力は結構強い。そうなると、「私」がしっかりしていないと、そちらへ押されてしまいやすい。

しかし、そういう時に思い出してほしいんです。今の自分はそういうパターンを刷り込まれたとき、自分自身で刷り込んだとき、それに従って生きたことでそれを大きくしてしまったときの自分では、今やない、ということを。そのころの自分よりも強く、賢くなっているということを。自分はどう在りたいか…というのは、今の自分を使うのか、過去の自分を使うのか、ということです。ここに、勇気がいります。

「神」さえも頭で理解しようとする
2024/09/16

今回の茅ヶ崎クラスも無事に終了しました。

今回も岩手クラスの方が参加されて、楽しいご飯会、いや、違った、楽しい…学びの場…となりました。ありがとうございました。

ここでの…学びの場…は、今までの概念のそれではない学びの場です。まず、やっていることが、いわゆる学校で学ぶことではありません。そして、それは、目にも見えないし、手でさわることもできないし、数値化することもできないものです。

手探りで、こうかな、ああかな、と自分で理解したことを実際やってみて、うまくいかなければまたやり直し(間違えていればそう言われ)様子をみていく、というものです。そういうものなので、思考し、理解しようとするとわけがわからなくなってしまうと思うので、今までの学ぶ、は、手放して、新な学ぶに入っていたんだと思ってください。基礎はできているのだから大丈夫…と自分で思ってください。

で、こちらのほうが本来の学ぶなんじゃないかとも思います。自分がやりたいこと、自分が興味を持っていることだから、自然と自発的になります。そして、まだわからないことであるからこそ、わかろうとしないで、自分で試してみて様子をみていく。そして様子をみていくうちに疑問がわいたり、質問が出てきたりします。そこに学ぶことの真髄があり、楽しさがあると私は思います。

ただ、教えてもらう、与えてもらう、知識を、情報を、やり方をということだけが学ぶということではないのです。「学ぶ」のミームアップ。

これから、感覚を使うことをやっていきたいので、どうしたらそうなれるのか、どうしたらそれが得られるのか、と思考を使うのではなく、自分の内で感じることを色々と練習していこうと思います。

これ、ほとんどの大人の人は苦手です(子供は楽にこなすのだと思います)ずっと頭を使って全てをこなしてきたので、そのやり方が身についているんです。

このことについて現代人は「神」さえも頭で理解しようとするということを聞いたことがあります。そうなってしまうと、「私」の感覚で物事を又は自他を捉えていくことができなくなります。「私」は感覚そのものです。

基本は楽しむということなので、楽しんでください。楽しんでいかれるよう私も努力します。

ブルース・リー先生の「考えるな。感じろ」です。感じられないのであれば、感じられていないことを感じればいいということです。それでいい。今自分は感じられていないことを感じているのだから。そして、それを口に出して言ってみます。

鳥のさえずり
2024/09/12

このマンションに越してきて、最もよかったと思うのは、朝、鳥のさえずりが聞こえること。

さえずり、という言葉がぴったりなその声はスズメがチュンチュンと鳴くのとも違い、鳩がほおーほおーと鳴くのとも、うぐいすがホーホケキョと鳴くのとも、カラスがカーカーと鳴くのとも違います。何という鳥なんだろう?それもわからず。

その声は…まるで美しい森の中を自分が歩いているような気分にさせてくれる鳴声なんです。のびやかに響きわたる。澄みわたる。それが聞こえてくる。ここのところ毎朝。何て、気持ちがいい声なんだろう、一瞬にして私の心を浄化してしまう鳥のさえずり。

で、思い出しました。意識のレベルにおいて、尻尾を振る犬、猫のゴロゴロ、鳥のさえずりは500とありました。500は「愛」のレベルです。犬が尻尾を振るのも、猫がゴロゴロいっているのも、同じように自分の心を安定させてくれます。それと同じ鳥のさえずり。

それは彼らは、ただ、そうしたいからそうしているだけなのですが、そのそうしたいからそうしているだけ(見返りを求めていない状態)というところに、本質があり、そのエネルギーが人の心を動かすのだと思います。これが「愛」のレベルにある所以です。本質に沿うものであるということ。

さて、今日から2日間、茅ヶ崎クラスです。じっくりと、ゆっくりとやっていきたいと思います。楽しく学んでいただけたらと思います。

茅響
2024/09/11

先日、茅ヶ崎交響楽団82回定期演奏会を聞きにいってきました。

今回は、ブラームスの曲が2曲とモーツアルトの曲が1曲。しかし‥いつも思うのですが、ホルンという楽器、これってもしかしたら楽器の中でも特に難しい楽器なのだろうか、と。今回もそれを思う。

団員の皆さんは仕事をしながら、または定年になられてから、毎週集まって練習して年2回の演奏会を行っています。これは、けっこう大変だと思われます。

そのひとりひとりの想いの集大成のせいか、毎回、なかなか感動的なんです。聞きに来ている方もご家族、友人などが多いと思われます。だからその分、どこかフレンドリーであたたかい。

プロの交響楽団から受ける印象は、ひとりひとりが選ばれたプロの集まりであることが前提としてあり、そういう人達の集まりである「音」「作品」を聞きにいっている気がします。しかし、ここにそれはない。でも、プロの交響楽団にはないものがここにはある。その部分に感動があるような気がします。

変な言い方ですが、ひとりひとりの生活が感じられるようなものです。もしかしたら、帰りにお惣菜買って帰るのかなあと連想するような。この後、ご家族と美味しいものを食べて帰るのかなあ。明日の仕事のことを考えながら帰るのかなあ、とか。そういうものが私のここでの感動の中にはあるんだなあと思いました。

そして、毎回、いいなあと思うんです。こうして、プロではなくても好きな音楽に関わり、皆でひとつのものを作り上げていくっていいなあと。来世は私もやりたい。

今回は1階の前から3番目という席で聞いたのですが(いつもは音の集まる2階席中央でした)楽器の振動が伝わってきたり、指揮者の息づかいが感じられたり、演奏者へ視線を向ける所が細かく見られたり、演奏者の真剣な顔を見ることができたり、ということがありました。

席も色々と座ってみるものだと思いました。間近で見るか、音の集まるところで全体を見るか、曲に合わせて、休憩時に席移動もいいなあと今回思いました。席はいつもたくさん空いているのでそんなわがままもできます。これからも応援していきます。

正しく素直に
2024/09/09

天に「生きること」を教えてもらっている私たち。

それは「生き方」を教えてもらっているとも言えます。生きるって、呼吸して、ご飯食べて、寝て、仕事することじゃない。そこはやっていても、それは生き方ではないです。生き方=現実の人生の歩き方。

何か天の思いから外れることを選択し、実行すればその最中や結果(罰ではないです)を通してそれじゃなかったとわかります。こうして教えてもらっているのだと思います。

で、素直であるということ。それは、その結果に対して、素直になろうということです。ああ、そうだったのか、じゃあ、これからはこうしよう、ということです(そこで色々と思考してしまうとまたこんがらがってしまいます。そう、パターンはやりたがるのですが)だったらそれをやってみようと。

そして、いい感じじゃない?と自分でも感じるかもしれません。いい感じだったら天がGoと言っているのでその確認もできます(天はこうして誰の事も見守っていてくれるんだよ。誰も取り残していない。誰のことも見捨てていない)

ここにおいても素直にです。自分の感じ方はあってないかもしれない、とか、ただの気のせいなのでは?とか、疑わずにそうか、と思ってください。そうしていくからそこの力がつきます。

素直さは才能だと思う。ただ、一般的には、素直であれ、というのは、他人の言ったことを何も考えずに受け入れる、その人の言ったことに盲信的に従うことが素直だと思われることがありますが、それは素直というのとは違います。

ここでの素直は自分と天との関係に対してというものです。そこへの素直さです。「だったら、人である洋子さんの言うことも素直に聞かなくてもいいってことですね」…と言われてしまうとーーーー。自分と天との世界で生きることへのナビなので、今は、ひとつ、素直にお願いいたします。「今はこのルートを勧めます。安全で確実に進めるのでこれで行きましょう」というものです。

そうしていきながら「守・破・離」を体験していくのだと思います。「守」で土台を作り、いつか「破」が自然とやってきます。ここで自分のやり方、自分の哲学というものが、私が勧めてきたやり方とは違うものへと変化していきます。そして「離」へと…。

そこがこの学びにおいて、ゴールと言えばゴールなんだろう。それも天が決めたことだとわかります。こうして、その人独自のものが新な道としてできあがるんです。だから正しく素直に。

謙虚
2024/09/08

人は誰でも、自分の思い通りに全てのことをしたいという思いが強く、それができないことで、ストレスを感じ、挫折感を感じ、不安や恐怖を感じ、苛立ち、もやもやし、落ち込む…ということをやっています。

思い通りにしたいんです。す・べ・て。まず自分を。黒パターンの思い描く理想的な自分にしたい。健康で、明るくて、頭がよくて、知的で、強くて、ぶれがなく、経済力があり、温厚で、寛容で、心はフラット、外見も美しい。そうではない自分に腹が立つ。

そして他人のことも、自分に対して、理解があり、優しくて、大事にしてくれて、褒めてくれて、自分が信頼できる人であってほしい。自分の望む言動をする人であってほしい。そうではない他人に腹が立つ。

周りで起きるあらゆることも。物も。とにかく自分の心身に傷をつけたり、波風立てたり、負担になるものごと(思い通りではないものごと)は一掃したいのです。

しかし、そうはいかないのが現実です。そのことを腑におとしてわかるまで人は闘い、苦しみ、問題を抱えて生きていかなくてはいけないのだろうと思います。

で、私は、これって謙虚じゃないからだと思います。自分は変えられる、自分にはできる、いや、もう、できている、今までを生きてきた自負がある、と思っているからなんじゃないかと。それは思い通りにいかないことを諦めようということではなく、そもそもが謙虚じゃないんじゃないの、と思います。

生きることに謙虚であること。自分にも他人にも謙虚であること。あらゆる物事に謙虚であること。ここでの謙虚は、そもそもがそういうものであることを心で知ることです。その感覚を体感しているときはその領域にいます。そうであればひっかかることも自然に減っていきます。

天に生きることを教えてもらっている私たちは生徒です。その生徒としての在り方を学ぶということです。学ぶには謙虚が必要です。しかし、それは「いえ、私なんかまだまだ」ということではなくて。素直であれということだと思います。

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