ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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目が欲しがる
2024/12/26

日々の買い物でおせわになった駅近ショッピングストア。いよいよ閉店(来年1月5日)の時がせまってきました。

日に日に店内の商品が減っていきがらんとしてきています。45年間営業していたそうで。私が23歳のときからです。お世話になりました、おつかれさまでした、しかない。それでも食料品はお正月に向けての商品が並び、これが最後なんだと思うと寂しさがあります。店の大きさといい、置いてあるものといい、私にとってはちょうどよかったんです。

で、次はどこで買い物をするのか…という課題があります。家の近くの小規模なスーパーマーケットと個人商店を中心に、あとは中央公園近くの大型ショッピングストアです。今はほぼ毎日公園に行っているので、練習のつもりでその新なショッピングストアを下見したり、買い物をしたりしながら自分を慣らしています。

このストアの食料品売り場がとにかく広い。最初からここで買い物をしていればこの広さにも慣れるのでしょうが、そうではないので、はあーーー、ほおーーーと言いながらぐるぐるとまわっています。食品の種類も多く、海外からの輸入品などもあり見たことのないものに目移りしてしまいます。

特にパンコーナー。ここは「誘惑のエリア」と呼んでいます。その数、いったいどれくらいあるのだろう。これは初めて見た、これおいしそう、これも食べてみたい、あれも食べてみたい、これ買っていこう、と、みごとに誘惑のえじきになっています。気づいたらパンばかり買ってしまうので、このエリアは頻繁に寄ることはやめました。

で、思った。私には多くありすぎるのはよくないと。少ない物の中から選ぶというほうが自分には合っていて、それで満足する人間なんだろうと。それって毎日同じものを食べていてもいいということです。本来そっちなのに、実際多くの物を見てしまうと、あれもこれもと欲しくなってしまいます。まさに目が欲しいんです。

しかし、これって自分の問題。そういうたくさんの物の中にあっても在りたい自分(自分の身体にとって、とか、出費としてどう?とか、本当に食べたいのか?とか)であればいいわけです。誘惑に負けずに頑張ろう。

イエスが悪魔の甘く、優しい誘惑に「サタンよ、しりぞけ」と言ったように。とても同列できるものではないですが、身近なところでやっていこうと思いました。そんな練習をさせてくれるここに感謝しつつ日々実践です。

年内に確認
2024/12/25

この頃思うのは、物事を、自他を見る時に、全体を見るということです。

ほっておくと、自然とそれの一部だけしか見ていなくて、一部しか見ていないということは、それに縛られている、ということになります。かと言って、それが間違っているのではないんです。一部だけに集中することが必要なときももちろんあります。

それもできていて、しかし、そこだけではなく、全体として見る能力もつけていきたいところです。

そういうことのひとつとして「…ということは?」という自分への問いがあります。いろんなパターンを持つ自分ですが、それを全体的に見たときに、今の自分がどうなのかを知ることができます。

そして、それに対して自分はどうありたいのか、というところで自分の進む方向がわかります。進む方向がわかればあとは歩み続けるだけです。

今の自分はどうなのか、そして、自分はどうありたいのか。そうであるならば、何をするべきなのか、何をやめるべきなのかもわかると思います。この2つの目を持つ。ただ、正直に。

こうして見てみると、結局、自分なんだと思うと思います。今の自分を、自分のありたい自分へ、自分で育て、運んでいく。そこには自分しかいなくて、そこにどんな意思があってもよくて。それを選ぶのも自分。

私が運ぶこともできないし、他人が自分を助けてくれるということもありません。生まれるときもひとり、死ぬときもひとり、その2つの事実が、人の持つ姿をあらわしていると私は思えてならないのです。そのルールに気づいているかどうかというところでもあります。

今年もあと少し。年内に、今の自分はどうなのか、そして、自分はどうありたいのか、を、確認してみてください。

マントラ
2024/12/24

「もしかしたら…〇〇と、もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・・・・・」という白パターンを自分のマントラとして、たくさん言ってみてください、とお勧めしていますが、皆さん、やられているようでよかったです。

この言葉を言い続けていくと、自然と「本当に、もう、いいかもーーー」という気持ちになっていきます。または「そうか―――決めつけていただけだったんだ。それが真実ではなかったんだ」ということに気づいたり、「決めつけているのはパターンなんだ、そこに「私」の想いはないのか」と知ることになったり、そのように言うと体の力が抜けていくのがわかる、なんだか解き放たれたような気分になる、もう、いいか、もう、いいんだ、もう、しがみつかなくていいんだ、などなど、お聞きします。私もそう思います。

たったこれだけの言葉なのに、この言葉の言霊が自分に返ってきているんですね。これをただの言葉として言うのではなく、感じながらゆっくり言ってみたり、目をつぶって言ってみたり、椅子にゆったり座り空をみあげて言ってみたり、お風呂につかりながら、ベッドに横になりながら(ほとんど寝てしまいますが)散歩しながら、家事の合間に、などなど色々とやってみてください。

体の力が抜けていく、というのは心身にとってもよいことなので、仕事の合間や、年末の忙しい時期を過ごすのにもいいと思います。忙しいと体は緊張するのでこのマントラでそれを解放してあげよう。

こうして、自分で自分をコントロールしていかれるという体験はとてもよいものだし、この力が抜けていく感覚は、自分の持っているいろんな執着を手放していく感覚にも似ています。執着を手放していくって、こんなふうに力が抜けるんだな、ということも感じられると思います。ぜひ、続けてみてください。

募金箱へ
2024/12/22

神は自分では体験できないから、自分のかわりに人間を生み出し、送り出し、そのひとりひとりが体験したことを持って帰ってきてもらう…という話を聞いたことがあります。こうして神自身がその体験を自分に取り入れ、自分を大きくしている(育てている)というものでした。物語としてもおもしろいと思いました。

で、もし、そうであるならば、私たちが一人一人で体験することは全て神を育てているということです。善悪の判断なく、どんな体験もそれに貢献しているということです。それを魂という器に入れて私たちは神の元へ帰り、それを神は吸収していると思うと、誰一人として無駄な人はいず、どんな体験も貴重なものであると言えます。

あの人はすごい、とか、あの人は特別とか、人は判断しますが、神にはその判断はないということです。自分はだめだ、と思うような体験も、自分はすごいと思うような体験も体験のひとつとして同じように扱われる。この話は本当のような気がします。

先日、駅構内で「年末助け合い募金」が行われていました。高校生が10人ほど両わきに並んで「募金をお願いします〜」と言っています。そこで、少しではありましたが募金箱に入れました。お財布からお金を出し、それをにぎりしめて、一人の高校生の女の子の募金箱へそれを入れたわけですが、その行為までの間が今までにないものとなったことを感じました。

そこへ歩みよりながら、募金箱を持っている女の子と目が合って、私も彼女も同時に微笑んだ。まるで昔からの知り合いのように。慣れ親しんでいる者たちのように。彼女は腕を拡げて私を迎い入れているイメージ、私はその気持ちに応えるイメージで、募金箱へお金を入れました。一瞬のことであり、たったそれだけのことが私にとって大切なものに感じられました。この間が長かったんです。いい瞬間だった。そして今でもその時の感覚は残っていて、反芻しています。

この一瞬の体験とそこで持った感情や感覚も私は持って帰るのでしょう。そして彼女もそこで感じ得たものを持って帰る。このような体験を通して、皆がここに送り出されてきた同士であることがわかります。人はひとりひとり違うけれど、やっぱり根底のところでは繋がっている。皆が自分の課題を持って地球に生まれた同士なんだ、とあらためて思います。そして誰もが神から遣わされて来ている存在です。

そんな小さな存在である私たちひとりひとりが一つのピースとして宇宙を構成している、このことを人は無限だというのではないかと思いました。

対照的な…
2024/12/21

昨日書いた「もがく」このことから思い出したシーンがありました。

昔、TVで見た片岡鶴太郎さんの姿です。もう、ずいぶん前の番組だったので、もしかしたら片岡さんが絵を描きはじめたころのものだったかも。片岡さんが中国の山奥に住んでいる水墨画絵師に会いにいく、というものでした。

山道を登り、その方の住む住居(アトリエ)に到着します。その方は一人でそこに住み、長い間、絵を描き続けている方でした。そして、そこに現れた日本人の片岡さんを歓迎し、一緒に絵を描きましょうと誘い、それぞれが絵を描きはじめます。

この時に見た、絵を描いている片岡さんの姿がまさに「もがいている」形相でした。歯をくいしばり、苦しさをにじませながら、一心不乱に用紙に向かう。自分の内のこわばりや、こだわりを解き放ちたいという思いがあるのだろうかということを感じました。

その反対に、絵師は、何の力みもなく、思いのままに描いている。軽く、遊ぶように。その対照的な姿が印象的でした。で、絵師の姿には、余裕があり、安定感があるので、見ている人にとっては安心感があります。しかし、片岡さんのその形相に、それは感じられない。しかし、私はとても好感と共感を感じて見ていたことを覚えています。きっと描くことはその時片岡さんにとってはもがいて描くくらい必死なことだったんだと思います。

その心がそのまま表れていた形相。その姿は余裕のある、仙人のような絵師の姿よりも、心に響き、いいなあと思ったのです。師もきっと昔はもがいてもがいて絵を描いていらしたのだと思います。そして、今の状態になっていかれたのだと思います。

その時のお二人の姿はそれぞれが自分を偽らない姿。今の自分のままに現れていて、この感じは、私にとって、とても尊いものです。ずっと、大事にしていきたいものです。だから私ももがきながらいこうと思う。

もがきながら…
2024/12/20

「私」で生きたいのか「パターン」で生きたいのか。

結局は、そのどちらかしかない。両方を同時に使って…ということはできません。

そのことはわかっているし、もちろん本当の自分「私」で生きたい、でも、今そうではない、というのはパターンを選んでいるということです。無意識でパターンを選んでしまうのは、そのほうがパターンとしては楽だからです。パターンは(子供なのに)巧妙なので、それがあたかも真実のように考えさせたりもします。

又、「私」で生きるようになると楽になると思うかもしれませんが、パターンのいう楽(いわゆる楽ってこういうことと思っている楽)にはなりません。何かを手放したり、諦めたり、より意志力や継続力を求められるし、思慮深くなっていくこと、決断力や勇気をもって行動したり、挑戦したり、とやるべきことがあるので、決してパターン的な楽さはないです。

フランクルがその著書に書いていたこと「この世にはふたつの種族しかいない。まともな人間とまともではない人間」というのがあります。

そのことは言葉を変えて表現されます。天使的であるのか、悪魔的であるのか。「私」なのかパターンなのか、人間なのか、動物なのか。この間の溝は大きいと思います。この二極の世界ではわかりやすく反対にあるものだからです。二極化が進んでいるということはずいぶん前から言われてきましたが、それはもともと大きな溝としてあったのだと思います。そのことに気づいた人たちが二極化という事を言い出したのかもしれません。

最初は誰でもがパターンの世界で生きますが、自分に気づいた人から自らこの溝を超えていきます(そうしたい人とそうではない人と分かれますが)。そこを超えるには、もがきながらです。かっこよく、スムーズに超えていかれるものではありません。だからもがいていけばいいと思います。もがいて、もがいていくうちにその人にしか見えないその人の光をきっと見つけられる。

両親
2024/12/19

ふと、他界した父と母は今の私に何を望んでいるのだろうか?と思った。父が亡くなって7年、母が亡くなって24年。

当初感じていた寂しさは時間の経過とともに薄れていきながら、身近にその存在を感じるときもあり、両親のことは忘れていたり、思い出したりで今まで来たように思う。

で、ふと思ったこのこと。多分、両親は、あちらへ行って脈々と続いているこの宇宙のシステムを知り、驚き、自分に起きたことの意味を知り、反省し、後悔したことと思う。そして、自分の良心からの出来事には、幸せを感じ、喜びを感じたと思う(そうあってほしい)

そういう両親が子供(…という年でももうないけど)である私に何を望んでいるのだろうと思ったしだいです。

フランクルは、あなたの人生はあなたに何を求めているのか、とおっしゃっていましたが、私が思ったこれは、両親というぐっと身近なものだ。

で、善い生き方(人智を超えたシステムに沿った)をしてほしいと、きっと思っているだろうとはすぐに思ったが、ではその具体的なことって?と考えました。

ちょっと話はずれますが、今、感覚とか感性の様子が以前とは違っているのがわかります。「必要なことはあちらから飛び込んでくる、ということと、それを受け取るときの一瞬のリアルな感覚と、それを信じていい」ということを私は今年学んだ。そして、このタイミングで、両親のこのことを思い、この自分の感性のままに、我が意のままに(わがままに)いこうと思いました。それを両親は望んでいる…と思いたい。

そして、それが宇宙のシステムに、より沿っていくことへつながっていくように、そうして、それをお会いしているひとりひとりに合わせていかせるように、これはまた自分で努力していこうと思いました。今年の初めに、引いたおみくじ。そこに書いてあったことは「今やっていることは本当に自分に合っていることなのか、自分はもっと別の個性を持つものなのではないだろうか?と再度見極めよ」というようなことでした。そこへも通じた今回の気付いたことだったと思います。

少しずつ、自分を生きる、というよりも、自分で生きるということがわかってきた気がします。

新幹線での教え
2024/12/17

今年の岩手クラスも無事に終了しました。皆さん、1年間ありがとうございました。

盛岡は絶対に道が凍結していて、つるつる状態だろうと思い込んで行ったのですが、あら?雪がない。しかし、風の冷たさや、身体に感じる冷たさは、次回の2月を彷彿とさせるようなものでした。次こそ本番。

さて、帰りの新幹線の中でのこと。

盛岡を出発して知らぬうちに眠りに落ちていた私。「すみません、すみません」と男性の声がして起きました。見ると通路側に座っている私の席の横に若い男性が立っています。その人から「すみません、席を間違えていらっしゃると思うのですが」と言われました。眠っているうちに、仙台駅に到着していて、そこから乗っていらした人でした(こう言われると今の私は、すぐに自分が間違えていると思ってしまう。実際、間違えていることが多い昨今)

「えーーー、私、間違えています?今チケット出します」と言ってもたもたとチケットを出し、その人もご自分のチケットを出して、2人で見くらべてみる。確かに、2枚とも、〇号車の〇列の〇席。と記載されていて、確かにこの席。

すると「あれ?乗る新幹線を間違えていませんか?この新幹線はここに記載されている時間の出発ではないですよ」と言われました。

「あーー、それは、私は盛岡から乗ったので出発時間はこの時間なんです。そして今仙台で・・・」と言いかけたら、その人は「あ・・!」と言って、一目散に出口に向かって走っていきました。そして扉がしまる直前にホームへ降り立ちました。一瞬の出来事でよくわからないうちに、ドアは閉まり新幹線は仙台駅を出発しました。

何が起きたのだろう…たぶん、その人がご自分の乗るはずだった新幹線ではないこの新幹線に乗ってしまったのだろう。そして自分の席を見たらグーグー寝ている人がいる、ということだったのだろう。で、そういう時って、自分は間違ってはいないと思ってしまうのが人間。特に相手が白髪の女性だと、この人が間違えている、とも思われがちです(当たらずといえども遠からず)

しかし、話をしていて、自分が間違えていたことに気がついたのだろう、そして、あの速さでホームに戻った、と解釈しました。いずれにしても、とりあえず、ホームに戻ることができてよかった。上りの新幹線なので、行き先は同じとはいえ、とりあえず。

その後も本当にこの席でいいのか?自分?と〇号車の〇列の〇席を確認してしまいました。こういうこともあるんだとあらためて思いました。私はそそっかしいので、やりそうです。今年最後の新幹線での教え。人間、一生勉強です。

落ち葉
2024/12/11

茅ケ崎中央公園の紅葉は終わり、公園内はたくさんの落ち葉に敷き詰められています。

その落ち葉の上を歩くと、気持ちがいい。ふわふわしていて、歩くたびにかさかさと音がして、時々風が吹くと、落ち葉がはらはらと頭の上に降ってきます。これがいい。なんかうれしくなる。そして、横浜に住んでいたころ、おとなりの柴犬2匹の散歩係をトミーとやらせてもらっていたときの私が担当していた「てっちゃん」のことを思い出します。

てっちゃんは晩年、もう足が弱くなり、今日が最後の散歩、という日がちょうど今頃の季節でした。家の近くの公園にてっちゃんと散歩にいったとき、風が吹いてきてまわりにある大きな樹々からはらはらと落ち葉がてっちゃんの上に降ってきました。それがあたかも、てっちゃんを祝福しているように、さようならを言っているように感じられました。そして、それが最後の散歩になりました。落ち葉を見るとこの日のことが思い出されます。

そしてまた私はずんずんと公園内を歩いていくのですが、この運動とも散歩とも言えないようなスピードで歩くのが自分としてはちょうどよい。それを味わいたくてほぼ毎日公園へ行っています。

で、先日、飛び込んできた言葉(近頃は、飛び込んでくる。新鮮です)「ささやかな高揚感」。

それを聞いたときに、私がずんずん歩くときの感じはこの「ささやかな高揚感」だなと思いました。そう、ささやかなものなんです。でもそこには高揚感があります。このくらいのボリュームが今の自分にはいいんだと思いました。こうして今の自分に合うものを持てれば十分だと思います。

これからの公園はぐっと冬の装いに変わっていくと思うので、これからもまたその変化を、ささやかな高揚感とともに楽しみたいと思います。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。盛岡クラス、今年最後のクラスです。楽しんでください。そして、私は、転ばないように、滑らないように、寒さで腰が痛くならないように、肌がぴりぴりにならないように気をつけていってまいります。

ちりばめる
2024/12/10

頑張っている自分にご褒美を…とよく聞きます。

毎日頑張ってやるべきことをやっている自分に、自分がうれしいと思うような、自分が欲しいと思うような、自分がほっとするような、気分転換できるような、そんなご褒美を自分で自分に与えてあげよう、ということなんだと思います。

ここで、毎回、気になるのは、ほとんどの場合はパターンがうれしい、欲しい、ほっとする、気分転換になるものごとを自分へのご褒美と捉えている場合がほとんどだということです。それが間違っているとはいうのではなく、その領域があるということです。

しかし、パターンと本当の自分というところで生きていると、ここはやはり見逃せないところだし、パターンのそれを選んだときの違和感とか、楽しいのにむなしいとか、ちっともほっとしないとか。以前は本当に楽しいと思えていたのに…。そういうことを感じられるようになっていると思う(成長の証)

昔は私もパターンのそれがご褒美だと思っていた。しかし、今は、もう、これは自分には合わないと感じます。

そしてもうひとつ、この、頑張っている自分にご褒美をはかえってきつい。なぜならば、ご褒美をもらうために頑張らないといけないから、です。で、欲深な私はいつでも自分にご褒美を与えたいと思いました。でも、いつでも、というのは365日毎日ということではなく、日々の頑張ってやるべきこととご褒美という相反するものを相反しないようにしてちりばめていけばいいんだと気付きました。それが多分10年以上前頃だったような。

そのころ、ちょうどワークペーパーで日常と非日常についてやったことがあって、これも同じだなと思った。この、頑張ってやるべきこととご褒美、頑張って過ごす日常と頑張らなくていいプライベートな非日常。ここに相反する意味づけがされているから片方は頑張る、片方は頑張らなくていいという極端な現象を起こします。ご褒美がくるまで我慢だ、非日常というプライベートがくるまで我慢だ、ということ。

でも、それらをちりばめてしまったら?毎日の生活の中に。頑張っている自分にはときおりご褒美がわたされ、ご褒美の中にも頑張るがあれば、どっちがよくてどっちがよくないということはなくなります。それがちりばめるということなんですが、じゃあ、具体的にちりばめるって?想像力を使って考えてみてください。

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