ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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音楽の力
2025/09/08

昨日は「茅ヶ崎交響楽団第84回定期演奏会」に行きました。

今回はエルガー作曲「エニグマ変奏曲」と、ラフマニノフ作曲「交響曲第2番」。両方とも大作。そのせいか、いつも以上に団員数が多く、音も厚みがあり、迫力がありました。

で、いつも思う。皆さん仕事を持ちながら、家庭を持ちながら、または、シニアの方達が毎週集まって練習して(家ではきっと毎日練習して)この日を迎えている。皆さん、音楽が好きで、演奏することが好きで、皆で奏でる音が好きで、そこに現れる世界を感じることが好きで、やりたくてやっている。

この、すごく自分の正直な部分をやっていることがとてもいいなあと思います。

それでも、一緒に練習していれば、お互いパターンにひっかかることはたくさんあると思います。誰かを嫌ったり、嫉妬したり、出来ない自分に落ち込んだり、時には辞めようと思ったり・・・。きっとあると思います。でも、それがありつつも、それを上回るように「音楽」が人と人の間に共通な「美しさ」を持たせてくれるのだと思います。隣のあいつは嫌い、だけど、その美しい旋律を奏でるときには2人は同じところにいてお互いのそれも感じられている。お互いの息遣いを感じてしまう。

そういうふうに、人々が持っているパターンすら巻き込んで昇華させてしまうものが「音楽」にはあります。人と人の心を結ぶ音楽。パターンの思いを超えて存在している音楽。

で、これはちょうど黒パターンを持ちながらも、それを上回る「私」の意思と同じだと思います。どんなパターンもあっていい(というか、実際あるし)それはそのままでいい。だけど、それを上回るように「こうありたい」という大欲を「私」は求めます。それは静かに確実に自分の心の底から浮かび上がってきます。

そして、ここが自分の正直な純粋な「どうありたいか」なところだと思いませんか?黒パターンに飲み込まれ、それを信じて生きることは、自分の本当にやりたい正直なところではないのでは?黒パターンはそのままでいい、なので、それよりも「私」の意思を感じ、それを体現する努力をする。だってやりたいと思うから。

こうして、本当にやりたいこと、純粋に求めていることを自分で感じてみてください。

土台を整える
2025/09/06

「自分自身と自分の人生は変えられる」これが自分はどう在りたいのか…の土台になっています。土台である「自分自身と自分の人生は変えられる」を、そもそも信じていなければ、それは難しいとわかると思います。人は信じていないことはどんなに頑張ってもできないからです。

しかし、ここが信じられない、信じていない、という方がとても多いと感じています。それは根拠のないことだから、というよりも、自分には、それを信じること自体が無理というものです(もちろんパターンです)

パターンは、自分はやったことがないから、とか、自分は頭がよくないから、とか、自分には能力がないから、とか、誰にも教えてもらえなかったから、とか色々言います。だから「自分自身と自分の人生は変えられる」ということは自分においては信じられないし、信じていない、と(パターンは)決めているのです。人生を変えるなんてそもそも無理と。

そういうパターンが自分にあるだろうかとみてみるといいです。そして、もしそれがあってもがっかりすることはないです(がっかりするのもパターンなので語ります)信じられない、信じていない、というパターンへの語りかけと白パターンを選び、土台を変えていくことをしていけばいいからです。そうしたいのか、どうか、ここだけです。

パターンは自分が知っていること、体験したことしか信じていません。それは良きことも悪いことも。知っている物事を信じます(そう思っているだけで実はパターン特有の見方をしているだけなのですがもちろんそこには気づいていない)

しかし、自分自身と自分の人生は変えられる、というのは、今までの知っていることで成すことができなくて、新しく創造していくことでつくりあげていくものです。それはパターンにとっては不安で怖くて、嫌なことなので、だから自分には無理と決めてしまうのかもしれません。これは無理と決めてしまえば、できなかったときに傷つかないで済みます。でも、パターンだから。これも全部踏まえて、自分はどう在りたいのか…なんです。どう在りたいのか、が、どれだけ大事であるかということなんですが。

で、もしかしたら自分はどう在りたいのか…という自分への問への答えは「自分自身と自分の人生は変えられる」ことを信じられる自分で在りたい、なのかもしれません。こういうことも在りたい自分のひとつであり、けっこうこれはナイスだと思います。どう在りたいかって、自分の最も弱い部分を歪みなく見て、そこをクリアできれば、これからの人生を創っていかれるとわかっているそれ。それって最も欲しいものなんじゃないかと思います。だったら、求めよ…です。

過去の体験で…
2025/09/05

過去の体験で自分自身を決めてはいけない。

33歳のときに体験したあのできごと。その後、心身を壊し、実家に逃げるようにして帰ってきて、まず思ったのは、自分の人生はもう、終わったということでした。

周りを見れば、順調にいっているように見える人ばかりで、もう、皆より遅れてしまった自分は、取り残されていくのだ、何もできないのだ、だって出遅れてしまったから、と思っていました。そして、一体いつまで生きればいいんだろうとも思っていました。生きることが苦しくて辛くて、自分が幸せに生きるなんて、夢の夢とも思っていた。それは全てが上手くいっている人にしか手にできないものだと思っていた。

今思えば、自分の人生が自分の思い通りになることは当たり前で、そのために頑張っていたのだと思います。ですから、そこから外れてしまったその時の自分は、もう、全てをなくした、価値のない、嫌いな自分になってしまっていて、もう、諦めて生きるしかないと思っていたのだと思います。今見てみると笑ってしまうことですが、当時はそれが本当だと信じていました。

で、この、過去に体験した事実、そのときに生み出したパターン、それが生み出す偏った考え方と言動。これらをここでかっちりと決め続けて(選び続けて)しまうと、その通りの一生をちゃんと生きることになります。自分で選んでいる(欲している)わけですから。

しかし、ここで、それらが全て黒パターンを主にしてあったことがわかると、どんなに辛いことでも自分で変えていくことができます。だから過去に体験したこと、その時に決めたことで自分自身と自分の人生を決めてはいけないということです。ここは声を大にして言いたい。

自分自身と自分の人生はいつからでも変えられる。そこを拒んでいるのは、パターン(の持つ一般的価値観)です。体験は事実であったという現実は確かにある。しかし、それについてどう捉えていくのか、そこに在る意味をみつけていくということが最も大事なことです。そのスキルを身につけよう。それを持つことで、少しずつ、しっかりとした自分になっていきます。

いつからでも人は幸せを感じられるような自分になれるんです。

かわいいーーーーー!
2025/09/04

先日、買い物に出たときに、前から小学生の女の子(3,4年生くらい?)が歩いてきました。

髪をきっちりとアップにして、ピンでしっかりとめて、見るからにバレエをやっているんだろうなあとわかるようないでたちでした。彼女の身体からはみ出すように大きなリュックを背負って、歩いてきます。リュックの中には稽古着や、着替えや、シューズやこの暑さなのでタオルや飲み物や、色々と入っているんだろうなあと思いました。お母さんが用意してくれたのかな。

一生懸命に歩いている様子がとても健気で、私は思わず、目の前に彼女が来たときに笑いかけてしまいました。するとその女の子も私の顔を見て笑いかえしてくれました。「かわいいーーーーー!もーー、ホントにかわいい!」通りすぎてから口に出してしまった。

屈託ないその子の笑顔に、暑さもふっとび、清涼感さえ感じました。すごいね、笑顔って。一瞬にして人の気持ちを違うところにもっていくんです(笑顔のレベルはかなり高いと思います)

で、笑顔って何ものにも負けないものであって、誰もがその笑顔を持っているという事実。私は人の魅力の最強、最高なものはこの「笑顔」だろうと思っています。男女問わず。年齢問わず。

毎朝、鏡に映る自分の顔に向かって最高の笑顔を向けてあげてみてください。この笑顔で今日も1日過ごそうと思って。そして、その笑顔を今日、誰かに向けよう。きっとその人も自分の笑顔を思い出すから。こうして笑顔の波が広がっていくといい。

9月になり…
2025/09/03

「ネガティブな感情を、健全に、軽く、カラっと、した心意気で捉える」ということを昨日書きました。

ネガティブな感情をそんなふうに捉えられるわけないでしょ、と一般的には思います。だって実際つらいし、面倒なものだし、嫌なもの、何と言ってもそれに苦しめられているのだから、ということだと思います。

じゃあ、何故、ネガティブな感情に対して健全に、軽く、カラっとした心意気で対峙していくことができるのか、ということですが。それは、自分の内に起きたネガティブな感情が他人や、物事のせいではないことを知っていて、その在り方が身についているからです。

逆を言えば、他人や物事のせいにしているうちは、ネガティブな感情に対して、健全に、軽く、カラっととした心意気にはなれません。そうされてしまっている、という犠牲者として自分を見ています。

私たちはワークや自分を見続けることを通して、自分の内に起きていることは自分の責任(自分が選んだこと)という事を体験しています。そしてそれが身についてきていると思います。そうなって初めて健全に、軽く、カラっと、ネガティブ感情をみるという事の意味を全身で理解します。

このように、新なスキルを身につけていくと(ここでは自分で引き受けること)そこからまた、新な目を持つことができて、新な世界を知るようになります。ここはとても不思議でおもしろいところです。

何かをひとつ身につけると(身につけているということは、何かを捨てています。スペースに限りがあるので)次があらわれます。そしてその次を身につけると、また次が現れる。こうして誘われるようにして、自分の成長が促されていくのです。

これを思い、感じたときに、何かの力が働いているといつも思います。そして、それは私だけに特別に起きていることではなく、皆に起きていることです。そこに気づいているかどうかなんです。私がそういう話をするとそれは先生だから…と思うかもしれませんが、あなたもそうだよね、ということです。それに気付くという事自体が新なことなのかもしれません。

9月になり、これから後半はより早く過ぎていくと思います。振り回されないように、しっかりと自分の足で立っていこう。そして、この波に乗っていこう。

ネガティブな感情
2025/09/02

ネガティブな感情というのは、重く、やっかいで、もやもやし、悩み、苦しむ…と思うと思いますが、これもパターンがそう決めていることなんです。「私」はそうは思っていない。

パターンがネガティブな感情ってそういうものだよ、と決めていてそれがリーダーとなり心を支配している状態です。これは強ければ強いほど結果苦しくなります。

しかし、そもそも(←これが好き)あらゆる事象は意味がない状態で存在しています。だからネガティブな感情に対しても同じはずです。それなのに、どうしてこうも良くないものとしてネガティブが存在してしまっているのか。それは、そう決めているパターンを信じているから。「私」が機能していないから。ポジティブはいいもの、ネガティブは悪いもの、というパターンの判断を自然に当然に信じているからです。

でも、ここに新な意味づけを持ってくることはできるんです。ネガティブな感情への意味づけ。マイナスの意味づけから出て来るものですが、ここにもプラスの意味づけは出せます。それを自分でみつけてみます。けっこうあるのではないでしょうか。意味づけは思考的作業です。

では、感覚的(心身として。思考的より実は大事)にはどう捉えるのか、というと、ネガティブな感情をライトに、カラっと、捉えることをやってみます。嫌い、苦しい、つらい、大変、くやしい、さびしい…などなどのネガティブ感情はあってあたりまえです。それを大袈裟に重く、深く、固定化しているのがパターンなので、本来の在り方に近い捉え方をします。

具体的には、健全に人を嫌いと思う、軽く堂々とつらいと思う、オーソレ・ミオでくやしいを感じる、気楽に苦しいと思う、カラっとさびしいと思う。などなどです。これも練習です(頭で理解してもできないから)この心意気を自分の内に持つということです。そしてそれを繰り返すことです。だんだん、これに慣れていかれるように。この感覚があれば、もっと自然にネガティブな感情について自分自身でも受け入れられるし、開示することもできます。そうであれば、ネガティブな感情はその個性が違うだけで、ポジティブな感情と同じとも言えます。ここへの差別もなくなる。これってよくないですか?

健全にネガティブな感情を感じよう。それは自分を必要以上に傷つけたり、自分をそこで停滞させたりするパターンが入り込めないところのものです。「私」の領域のものだからです。この感覚が少しずつわかっていくといいです。

何を信じている人間なのか
2025/09/01

結局、何を信じている人間なのか…というところに集約されるのだろうと思っています(今は)。

そこにも、今に辿り着くまでの、数々の信じてきた物事の軌跡があり、それらを体験し、卒業しながら今のそれに辿り着いたのだと思います。

で、そこには正解はなく、その人にとってのそれなので、誰もが何を選んでもいい。

私は、ここのところお世話になっているお二人の整体の先生との対話(これが大きい)マンション内でたまに話をする方や、TVで見るプログラムや、SNSで見聞きすることや…全て、そこにはその人が信じている物事というものが基盤にあってのそれなんだとわかるようになりました。

それが良いこととか良くないことということではなく、そうなんだ…という理解です。

で、私は何を信じているのか(これは道場の在り方とか道場でのセミナーとかカウンセリングにおいても自然とそれが主になっているのですが)というと、この宇宙にはそもそものルールがあり、それに沿って生きることで、必要なものごとは与えられるということを…です。

だから自分を成長させるとは、進化していくとは、このルールに沿って生きる自分に戻る(再構築)ことだと思います。そもそもの人に戻る。そこに、いいあんばいに物事がまわることが与えられ、より戻るための気付きが与えられます。で、気付けば、すっきりと、軽く、心配や不安や恐怖から離れた生き方が自然とできていた。結果、生きること自体が楽になる。

そうは言っても、私も100%そうなっているわけではありませんが、そこへの視点はかっちりと自分で決めていて、そこへの挑戦を継続しています。過去世でやってこなかったこれをやりたいんです。今世で。従って、道場もそこに基づく学びを、これからも続けていくことになります。そうやって、そもそもの人として、生きて、その人にふさわしい与えられるものを受け取りながら生きることを伝えていきたいと思っています。得るために、変容のために、と、頑張る今までのやり方ではなく。

だから、ひとりで頑張らなくていい。

アンテナ
2025/08/30

アンテナを張る…ということ。特にビジネスにおいては必要不可欠なこと。だからアンテナを張っておきなさい、とよく言われます。アンテナを張ることの意義は、それによりあらゆる分野の情報を取集できる、ひいてはそれは自分の仕事や、成長に役だつということなんだと思います。

新しいものにも敏感でいられる。その時の主流になっているものにも反応できる、より積極的に手にしていくという感じがする。

しかし、これは私にはなかったと気づきました。私はアンテナを張るよりは、心を開く、だったのだと思います(今も変わりなく)そしてアンテナを張ることで得ていくよりは、与えられるのを待つ、だったのだと思います(こちらも今も変わりなく)。

このほうがこの個体には合っていて、それで必要な物事は与えられてきたので、だからこれからも必要なときには与えられるだろうと思っています。必要ではないときには与えられませんが。それを創造してきたとも言えます。そして、それでよかった。だから、これから先も私はそれでいくのだろう。

与える存在は、多分、私の心身のスペースもわかっていて、または、管理能力とか、個性とか、魂の今世の課題とか、今までの魂の歴史とかもわかっていて、それ相応のものごとを必要なときに与えてくれているんじゃないかと思うんです。

自分で頑張っていくというよりも、そちらにおまかせして、私はそこで使うエネルギーをもっと違うところに使いたいと思います。逆行しているような在り方ですが、これもひとつだと思います。ただ、これが正しいのではないです。

自分にとって何が大切なのか、何が自分に合っているのか。それは一般的に言われている(その領域で言われている)ところにはないです。もちろん、その領域で成功しようと思ったら、そこのやり方や概念で挑んでいくしかないので、それを屈指できればいいと言えます。それが自分にとって大切なことだと思えたらそこで頑張ればいいんです。

大事なことは、それが自分にとって守り抜きたい大事なことなのか、自分に本当に合っているものなのか、です。盲目的にそれを信じてほとんどの人は生きているので、その中にありながらも、ここで疑問を自分にぶつけるということだけでも、階段をのぼっていることになります。そして、その疑問に対して正直であることです。正直であるから、与えようとしている存在が、次につながる必要なものごとを与えてくれるんじゃないかと私は思います。実際、与えられたものごとは、次への指針となり、歩むべき道が見えてきます。これって人にはできないことだと思います。

いかに自分に使うか
2025/08/29

今年からの体調不良にともない、今、私はお二人の整体の先生のお世話になっています。

お二人とも若い。多分40代前半。もっと施術してほしいと思うのですがお二人とも「そんなにやらなくていいです」とおっしゃいます。

そしてお二人がみたてている私の心身への見解も同じです(それは自分では気づいていないところ)お二人から感じる印象も似ています。お二人ともAIを屈指し、なおかつ、目に見えない世界のことも学んでいて、そこへのご自分のセンサーを大事にしています。そしてお二人とも謙虚です。それはうわべのことではなく、今まで、嫌な思いや、辛い思いをたくさんして、鍛えられてきた賜物だと感じます。

でーーーーー、気付いたのですが、私にとって施術は、自分自身への気付きであったり、先生から課題をもらってそれを行うことであったり、新に疑問を持つことであったり、先生のおっしゃっていることへの質問とか自分の考えとかを伝えたりと、施術を超えて、自分の知的好奇心を満たすひとときになっていると思いました。そちらの方へ私が傾きすぎると先生は今の身体についてのところに話を戻す。そのあたりの暴走しやすい私の偏りもわかっているのだと思います。

で、ここからが本題で。良い先生に巡り合ったことへの感謝はあります。しかし、それが絶対ではないということです。それはその先生たちが伝えていることを鵜呑みにしてはいけないということではなく(その担当分野にいるということですからそこは素直に受け取ります)この世に(人が作ったものに)絶対はないということを知らなくてはいけないということです。そういう意味では「魂の道場」も絶対ではありません。そう認識できると、この世に依存できるものごとがないこともわかると思います。

大事なことは、出会いや、機会や、体験したことや、それら全てをいかに自分に使うかということなんです(創造です。そして、創造が自立です)ここはたくさん持っているといいです。もちろん、何を持つのかを吟味することは大事だし(スペースは決まっているから)持つことは、もちろん、そこへ依存するということではありません。あくまでも、自分にとってのそれをどう使うのかです。これが自分はどう在りたいか、というところです。何があっても自分はどう在りたいか…。こうして創造し続けていく…という道を歩み出しているんだ、自分、と思っていてください。

必要なのは柔軟性
2025/08/28

お世話になっている整体の先生は、身体にビタミンが足りていない、とか、塩分を入れてバランスをとろう、ということがわかるのだそうです。

その話を聞いたときに思わず「いいなあ――先生の半分でもいいからそうなりたい」と言ってしまいました(先生、爆笑)これこそ身体の声を聴く、ということで、先生のようにわかれば、必要なものを身体に入れてあげることができるし、不必要なものは省くことができます。

先生も、そこに辿り着くまでには、色々とご自分の身体を使って、試してみたり、やめてみたりしながら、自分のそのセンサーを創られたのだと思います。

で、私は、これが全くといっていいくらいわからないんです。たまに、無性にレタスが食べたくなり数日間ばりばり食べた、とか、風邪で調子が悪いときに、とってもぬかづけが食べたくなる、とかはありましたが、そんなもんです。先生から「伊藤さん、身体が欲しているものを食べてくださいね」と言われますが、先生のようにはわからない。

「ご飯を食べた後に、ああ、美味しかった、と思うのですが、これも身体の声を聴くということなんでしょうか?」と聞いてみました。すると、それでいいんだそうです。今、何が必要かが食べる前にわからなくても、実際食べたものに対して美味しいと思ったということは、身体は今食べたそれが欲しかったということなので、そうやって身体と食べ物を見ていけばいいのだそうです。

そして、自分の身体は、こういうものが美味しいと感じるのか、とか、今日は少し疲れたけれど、そういう時は、これを美味しいって感じたんだ、とか、少しずつ今の自分の身体を知ることになるのだそうです。なるほどなあと思いました。

運動についてもそうなんだそうです。ウォーキングが身体にいいから、足腰を鍛えるために、というところで歩くのではなく、歩いていて、楽しい、と感じたり、歩調のリズムを心地よく感じられたりするのであれば、今、身体はこの動きが欲しかったんだということになります。

ただ、今の自分にとって、を忘れてはいけない。なぜならば身体は毎日変わるからです。絶対これ、が、ないんです。となると、必要なのは柔軟性だと思う。そして、完全なるものを求めないということだと思います(そもそもそれはない)決めてはいけない、というところでしょうか。心についてはそれを体験してきているので、それが普通になっていますが、身体についてのそれはまだよくわからない。先生に言われた通り、今がそれを学んでいくときなんだと思います。

自分にとっての身体、というところで模索し続けていこうと思います。

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