ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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イメージ
2024/11/27

人がイメージする力には威力がある。

だから、自分の将来(未来)も良いイメージを持ち続けることは絶対にやったほうがいいです。ぜったい!

パターンのケアはどちらかというと過去に視点がいっています。ですのでそれだけをやっていると過去に居続けてしまうことにもなります。パターンのケアって、パターンを見捨てない=過去に起きたことをそのまま受け入れる、ということでもあります。だからパターンは安心できる。それをしつつ、将来、未来に向かっての視点を同時に持つことは大事です。

私の将来は、未来は、きっとうまくいかなく、苦労ばかり…なんてイメージ(意味づけ)をしてはだめです。しかしあまりに現実から離れてしまうようなものでは不一致感がありそれはまた変。例えば、私の将来はアスリートなみの身体を持ち、数々の試合に出る、とか、パリコレのモデルとして活躍する、とか。やはり現実可能なところでのそれとなります。

で、この現実可能なところでのそれですが、まず、物質的なところからイメージするのではなく(大金持ちになる、とか、有名になるとか…具体的でわかりやすいですがそれらは普遍的なものではないので変化します)わかりにくいそれが私はお勧めです。

わかりにくいそれじゃあ、イメージできないよ、と思うかもしれませんが、イメージは視覚的な具体的な物事だけではなく、感覚で感じ取るものもあります。なんか、形にはなっていない「ほわっ」とした将来、未来。その「ほわっ」にはいろんなものがつまっていて、その土台には、安心、落ち着き、信頼、がある。だから、どーーーにかなるな、という気楽さもある。

そんなかすかな、でも、確かにあるという「ほわっ」を心に抱き、それを体で感じ、その感覚を感じるというものです。アート的、こういうのが好き。

根拠はあるのか?と言われればない。でも、知っている、わかっている、というものです。この感覚を私はよく窓から見える空をみながら、味わいます。ほわっと。かすかに。それは遠い遠い何処かへつながっていて、それがあるから大丈夫と思えます。それがイメージする私の将来、未来。唯一、なくなったり、変化したりしないもの。

これはきっと全ての人が心の奥底にずっと抱き続けているものだと思います。なぜならば、そこが自分の本当の居場所であることはわかっているからです。すぐにわからなくても、大丈夫。実はわかっているから。あとはそれが少しずつ浮上してきやすいように、自分をひっぱっていってあげればいいんです。それも楽しみながら。

今日のお昼は…
2024/11/26

久しぶりの日記更新。

ちょっと体調を崩していました。見事復活と言いたいところですが、少しずつよくなっています。もう、普通に家事もしているので大丈夫だろうと思います。この数日はひたすら寝たのでそれはとてもよかったでした。反省もあり・・・・と言っている間に今年最後の大相撲九州場所が終わりました。

今回は初優勝、大関「琴桜」。私としては「豊昇龍」に優勝してもらいたかったのですが。それでも今年も無事に全場所を見られてよかったでした。

そんな中、北の富士勝昭さん(52代横綱 )が亡くなられていたことを知りました。歯に衣着せぬ辛口な解説、そして、全ての力士に強くなってもらいたいという優しさにあふれた言葉。独特な北の富士さんの視線とコメントが大好きでした。毎場所、今回はどんなことを言うのだろうかと楽しみにしていました。

去年の3月から場所の解説をお休みされていて、コラム「はやわざ御免」も更新が止まり、体調が悪いと伺っておりましたが…きっとまた戻っていらっしゃるだろう…と思っていました。とっても悲しい。体調が悪くなったのはそのためだろうかと思うくらい、悲しかったです。

これから、もう、北の富士さんの人間味あふれる解説が聞けないことがとても残念です。多くのファンの方がいらしたので皆さん気落ちしているだろう。

人間味あふれる…これがとても心ひかれる。何をもって人間味あふれるというのか、ということはありますが、私にとってのそれは、その人そのままの姿です。こうしてはいけない、こうあるべきだ、ここではこう言うべきだ、ここではこのようなことは言ってはいけない、この立場であるから…などなど。そこに従ってしまうから皆同じようになっている。そこには心惹かれるものがない。

で、その人間味は人それぞれなので、それに反感を持つ人もいるわけです。でも、それも人間味のあることです。

北の富士さん、ありがとうございました。取り組みや力士の解説を通して、自分の個性で生きることのすがすがしさを感じる機会を与えてもらっていました。そうしながらも、周りに知れることなく相手に気を使い、時には自分が悪者になって相手を立てることもさりげなくやられていたことも知り、大人とはこういうことなんだろうと思いました。きっと私のように、何かを学んだ方達は多いと思います。今日のお昼は「北の富士カレー」を食べます。

紅葉
2024/11/21

今「中央公園」の紅葉がとてもきれいだ。

全体に赤くなっているというよりは、この季節のいろんな色が点々とあり、それが重なっていてとてもきれいです。黄色、薄い緑、濃い緑、薄い赤色、濃い赤色、オレンジ色、茶色。今年は秋を感じられないと言われていたけれど、ここには「秋」の色が満ち溢れています。ちょっと離れたところからそれを眺めたり、木の下からその色を見上げたり、と、毎日通って見ています。

午前中に見るそれらもいいけれど、西日が入り込んでくる頃のそれらは一段といいです。紅葉って、こんなにきれいだったんだと、いまさらながら気づき、この一瞬のその色を楽しんでいます。

自然の美しさには誰も、何もかなわないと思います。同じ種類の木であっても紅葉の度合いはそれぞれに違っていて、それぞれにきれいです。

人間も自然の一部なので、本来はそうなんだろうと思いました。それぞれに違っていて、その人のきれいさを醸し出しているのは人間も一緒じゃないかと。そのときに大事なのが「自然にある」ということなんだろうと思います。

とかく自分を作り、他人に見られたい自分、評価されたい自分として振舞い、それゆえ、その人らしいきれいさがうずもれてしまい、本人も窮屈で、もやもやしている。すごくもったいないと思います。もっと、自分でいればいいのに。その自然なありかたからはその人にしか出せないものが醸し出されているのに。それは唯一無二。

昨日とは違う、新しい色を今日も見に行ってこよう。

いい環境のパイプ
2024/11/20

数日前は、夏のような陽射しで、暑かったのが、昨日からは急に寒くなり、また来週には気温の上がる日もあるようです。

この大きく揺れる行ったり来たり。私たちをとりまく自然がそうであれば私たちもその影響を受けているだろうと思います。

自分の選択が大きく、行ったり来たりしていないだろうか。これじゃない、それじゃあ、あっちだ、と真逆の動きを即座に選んでいないだろうか。片側から片側へすぐに行こうとしていないだろうか。そんなことを見返すといい時かもしれません。

私は、あらゆる物事は自分を見るために、用意されていると思っています。そういう意識でいると、いろんなことが起きるこの日々の中にいても、それは何を自分に問うているのか?とみつけていくことができます。それにより、私、ここを見落としていた、とか、ここには気づいていなかった、とか、又このパターンで動いていたんだ、とか、もっと意識的であろう、とか。色々とわかります。

自分専用のパイプの中で生きているという前提で考えれば、その中でおきること(それはあたかも自分の関与しないところで起きていると思いがちですが)は自分が決めて起きていること(そのように見ていること)です。だとしたらそれを自分の中で変えていくことで、その見えている姿はまた変わります。

だからあらゆることを自分を見るために使っていくといいと思うんです。そうしていくことで自分専用のパイプは磨かれていきます。自分が純粋にいればパイプは磨かれるのではなく、そこで見ているものを自分がどのように見ているのかに気付き、必要であればその自分を変えていくことが、いい環境のパイプを作るということになります。

すみません顔
2024/11/18

昨日は、中央公園にて「犬猫譲渡会」が行われていることを知り、散歩がてら見に行ってきました。

天気が良かったので(というか暑い〜ホントに暑かった)人がたくさん集まっていました。そして、新しい飼い主さんを待つ犬猫たちがいる。犬のエリアを見て回ると子犬よりも成犬のほうが多かった。それもほとんどが雑種犬です。

その中の一匹に目がとまりました。その犬は「すみません」という顔をしていました。どう見てもうれしそうでも楽しそうでもないし、人に興味もないようです。すみません顔で周りをキョロキョロ見ています。居心地も悪そう。怖いのだろう、尻尾を後ろ足の内に入れています。

きっと保護される前の犬生はハードなものだったのだろうと思いました。どうにか生き延びて、保護されたものの、今までの体験が、このような彼の顔や様子にしたのだと思います。よくよく見れば、もとはなかなかのハンサムかも。

どなたか新しい飼い主さんが現れて、彼が最期のときまで、安心して、ちょっと嬉しい体験もできて、すみません顔が、安心顔になってくれるといいなあと思いました。

人間は、大人になれば自分で自分の生き方を変えることができますが、犬猫は自分で自分の生き方を変えていくことができません。又、野生動物でもない彼らは人間のペットとして生きるしかありません。ノラであってもその生涯は安心を感じられるものではなく短いものとなります。子犬のときには可愛いとかわいがられても、最期までみてもらえず捨てられたり、保健所に連れていかれるペットが多いと聞きます。

たかだか一匹の犬かもしれないけれど、あんなにすみません顔になっている様子を見て、一匹一匹にもそれぞれの犬生があり、愛されて大事にされて生涯をおくる犬もいればそうではない犬もいることのあわれを感じました。犬自体にはそのあわれを思うことはない(だろう)ことがなおさらあわれに思えました。

一匹でも多く、良い飼い主さんとであえて、家族の一員になれるといい。我が家も可能な状態であればぜひ来てほしいと思いました。

責任って何?
2024/11/17

先日お会いした方との話の中で「責任」ということが出てきました。

仕事において(人間関係においてもかも)責任をとるって何?ということでした。

で、自分のことに置き換えてみた。話の中で感じ取れたいわゆる責任を考えたときに、私はカウンセリングにおいて責任感がそれほどない(全くないわけではないけれど)ということに気が付いた。「わたしーーー、ないかも。責任感」と言う。でも、何かはある。

で、色々と話していくうちに「相手の期待に応えることが責任なんだと思います」とその方が話されました。うん。これ、ひとつの責任についての意味づけです。

相手の期待に応える、ということ。それはほぼほぼ相手の人のパターンの自分への要求、期待です。その期待を満たしてもらうようにと要求されたときに、それを満たすことで責任をはたすということになります。

それが責任感のある人とみなされるし、その意味づけを自分が選んでいたらそうやって責任を果たそうとすると思います。

しかし、カウンセリングにおいては相手のパターンの期待通りに振舞ったり、それを満たすことをしていては、カウンセリングの意味がありません。

そこでの責任は、相手の人もまだ気づいていない、その人が健全に成長するために、その人の中に眠っているものを指し示し、誘導していくことと私は思います。何かある、とはこれなのだと思います。

責任も他の事象と同じく、たくさんの意味づけができます。そして、どれもありです。だから、その時その時で自分にとっていいものを選べます。こうして見ると、一般的にいう責任という一見、重く、厳しい印象のこの言葉も軽く、明るく、のびのびした印象をその言葉に吹き込んであげることができます。きっと責任も喜んでいるんじゃないかな。

昨日の続き
2024/11/16

昨日、書いた承認欲求…私はどうだったのだろうか?と昔を思い返してみました。

私もそれは強かった。特に20代、30代はとにかく他人に認めてもらいたくて、どうしたら認めてもらえるのかと、そのことばかりを考え、行動していたことを思い出しました。それは仕事であったり、趣味であったり、自分が体験した大変なことであったり、と、認めてもらえるのであれば何でも使う、ということをやっていたなと。

今になれば、何でそこまでして認めてもらいたかったのだろう?と思いますが、他人のそれがあって、初めて、自分が確立できると信じていたからでしょう。だって周りも皆そうでしょう?そういうものでしょう?とそのことについて誰かからはっきりと教えられたわけでもないのに、そのことを信じていました。

そして、その信じていることが「違うよ」ということをネガティブな感情やつらい出来事が教えてくれていたんだと思います。それでもなかなか気付くことなく苦しい時を過ごしましたが、少しずつ時間をかけて、そこから離れていくことができました。

今思うに、自分が相手に認められているときとは、相手の人のパターンによることがほとんどだと思っています。自分の存在が、もしくは持っているものが、相手にとって(相手のパターンにとって)利益があるとき、その人は私を認め、褒めてもくれる。時には賞賛もされる。しかし、それに反することを私がすれば今まで認めていたことも消えたり、変わっていたりする。起きていることはそういうことなんだとわかった時がありました。

それはちょっと痛いような気付きでしたが、逆にとてもカラッとした明るいものでした。自分で自分を認めていく、もしくは、自分で自分を認めないでいく、ということを、臨機応変に自分ひとりでやればいいんだというものでした。そして、そういう自分であるから他人とは、今までとは違う心持ちで関われるようになるんだということもわかりました。自分も、もう相手に対して自分の承認欲求で関わらなくなるし、その在り方が相手にとってもよきものになっていることも感じます。

承認欲求に悩まされている方は多いと思います。しかし、それも、時間をかけながら薄めていくことができます。それに対する意味づけを出してみることもひとつです。

強い承認欲求
2024/11/15

昔々‥‥ある方が言った。

「有名になりたい。有名になれるのなら、やることは何でもいい。物書きでも、絵描きでも、ピアニストでも、タレントでも、学校の先生でも、なんでもいい。とにかく有名になりたい」と。

何故なのかを聞くと「ちやほやされたいし、大勢の人からうらやましいと思われたいし、それが成功することだし、そうなれれば自分の自信が増す」ということでした。

そのためには、これをやりたいとか、これはやりたくないということではなく、とにかく名前や顔が売れることをやりたい、そのためには何がありますか?という、殺気立つような迫力に圧倒されたということがありました。その後、お会いすることはなくなりましたが、現在その方が有名になっているかというとそうではありません。

‥‥とても承認欲求が強い方だったんです。その根底には、自分としている、ということへの怖さや不安があったと思います。それが欲しいのに、何もない自分(…とパターンは決めている)への腹立たしさや、うまくいっている(…とパターンは見ている)他人へのうらやましさや、敗北感により自分が傷ついていたと思います。何より「価値」への意味づけが他人から認められること、というところだけであったと思います。そうであると、それを成就させることだけに人生の全てを使っていくことになります。

又、自分が成就できなかったことを子供に託そうとするかもしれません。強い1つの意味づけの世界に居続けてしまうことは、結局、自分だけではなく他の人にも不健全な影響を与えてしまうこともあります。

意味づけの更新は大事です。それも自分が体験したことに基づいてのものが。そのためにも自分の内や外に起こるあらゆる体験を怖がらずに、心身で受け止めてみるという事だと思います。

決めつけない
2024/11/14

この2日間、暑かった(…って11月に言う言葉か…)

駅ビルも店舗によっては軽〜く冷房が入っていて、心地よさを感じました。半袖Tシャツで闊歩する若者たちもいて、この光景はどう見ても11月ではないな。

このように、もうすでに、色々なことが変わってきている。それは良いことも悪いことも。異常気象だと言われてきていましたが、異常なのではなくて変化しているんだと思います。

自分の周りでも新な変化は起きていて、何かが少しずつ、全体的に変わってきているのではないだろうか。今まで気が付かなかったけれども、時間をかけながらもうすでに動いていたのだと思います。

ですから、今まではこうだった、ずっとこれできたから、これに慣れているから、これがあれば大丈夫、ではいかれないようなところに来ているのだと思いました。それが今の自然な流れなのだろう。

だとしたら、大切な物事は、今までの物事をしっかりと握っていくことではなく、柔軟に、知恵を使って、臨機応変に動いていくことだと思います。フットワーク軽く。それはより、自他に依存しない、ということでもあります。自他への期待、予測、評価、などを決めてしまわずに、その時その時で自分で考え、自分で決めて、自分で行動するということです。

そのためにも、新な白パターンの名前、言葉「もしかしたら・・・」は変化に乗っていく後押しをしてくれると思います。

今までのやり方や、今までの考え方も、その時代に、その領域においては必要だったけれども、いつまでも全体の流れはそこではないということを思うと、これからは、自他も、物事も、決めつけないことがより大事だと思います。

〇〇のために…ではなく
2024/11/12

「おもしろい」と感じること。

この心の状態が自分を進める原動力となります。何ごともそうだと思う。仕事も、人間関係も、学ぶことも。

例えば、道場での学びも最初は、〇〇のために、〇〇を得るために、というところからスタートしたと思います。楽な自分になるために、強い自分になるために、自分の精神性を上げるために、カウンセラーになるためにというように「ために」が動機だったと思います。これも確かに一般的には何かを行うときの動機として使われていますし、そこでの結果を得ることができます。そして、そこでそれはひとつのゴールとなり、そのやり方を使う事をその後も続けます。それもひとつのやり方としてあります。

しかし、これだけではない。例えば、仕事も最初は〇〇のために行っていたのに、続けていくうちに、その仕事の内に、奥にある、今まで気がつかなかった部分に気付き、それを追っていくことで、ただ「ために」であった仕事が「おもしろい」と感じることがあります。おもしろいからもっとやってみたい、おもしろいからもっとそれを知りたい、おもしろいから挑戦したい、などなどあります。

この学びも同じで、〇〇のためにで始めたものであったのが、気がつけば、結果はさておき、ただ、追及していくおもしろさを感じている。こうなっていたのか、自分ってこうだったんだ、そして、なんとなくこれから先が感じられるような…。そういう心の状態が自分を進め、成長させる原動力になるということです。その原動力自体も大きくなります。そしてそれはまた原動力になり。

原動力って、根性とか、頑張るとか、今大変だけどやるしかない、いつか楽になれるだろう、という、苦しさを感じるものではないと私は思います。

何より「おもしろい」「楽しい」がいい。何ごとも「好きこそ物の上手なれ」なんだと思います。だから自分が好きなことをやっていけばいいんです。これはいいことだからやろう、これはためになるからやっておこう、では、おもしろくもないし、楽しくもないし、結果もそれに伴うものになるので、やはり、苦しいままだと思います。自分がおもしろい、楽しいということを大事にしてください。

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