ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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すみません顔
2024/11/18

昨日は、中央公園にて「犬猫譲渡会」が行われていることを知り、散歩がてら見に行ってきました。

天気が良かったので(というか暑い〜ホントに暑かった)人がたくさん集まっていました。そして、新しい飼い主さんを待つ犬猫たちがいる。犬のエリアを見て回ると子犬よりも成犬のほうが多かった。それもほとんどが雑種犬です。

その中の一匹に目がとまりました。その犬は「すみません」という顔をしていました。どう見てもうれしそうでも楽しそうでもないし、人に興味もないようです。すみません顔で周りをキョロキョロ見ています。居心地も悪そう。怖いのだろう、尻尾を後ろ足の内に入れています。

きっと保護される前の犬生はハードなものだったのだろうと思いました。どうにか生き延びて、保護されたものの、今までの体験が、このような彼の顔や様子にしたのだと思います。よくよく見れば、もとはなかなかのハンサムかも。

どなたか新しい飼い主さんが現れて、彼が最期のときまで、安心して、ちょっと嬉しい体験もできて、すみません顔が、安心顔になってくれるといいなあと思いました。

人間は、大人になれば自分で自分の生き方を変えることができますが、犬猫は自分で自分の生き方を変えていくことができません。又、野生動物でもない彼らは人間のペットとして生きるしかありません。ノラであってもその生涯は安心を感じられるものではなく短いものとなります。子犬のときには可愛いとかわいがられても、最期までみてもらえず捨てられたり、保健所に連れていかれるペットが多いと聞きます。

たかだか一匹の犬かもしれないけれど、あんなにすみません顔になっている様子を見て、一匹一匹にもそれぞれの犬生があり、愛されて大事にされて生涯をおくる犬もいればそうではない犬もいることのあわれを感じました。犬自体にはそのあわれを思うことはない(だろう)ことがなおさらあわれに思えました。

一匹でも多く、良い飼い主さんとであえて、家族の一員になれるといい。我が家も可能な状態であればぜひ来てほしいと思いました。

責任って何?
2024/11/17

先日お会いした方との話の中で「責任」ということが出てきました。

仕事において(人間関係においてもかも)責任をとるって何?ということでした。

で、自分のことに置き換えてみた。話の中で感じ取れたいわゆる責任を考えたときに、私はカウンセリングにおいて責任感がそれほどない(全くないわけではないけれど)ということに気が付いた。「わたしーーー、ないかも。責任感」と言う。でも、何かはある。

で、色々と話していくうちに「相手の期待に応えることが責任なんだと思います」とその方が話されました。うん。これ、ひとつの責任についての意味づけです。

相手の期待に応える、ということ。それはほぼほぼ相手の人のパターンの自分への要求、期待です。その期待を満たしてもらうようにと要求されたときに、それを満たすことで責任をはたすということになります。

それが責任感のある人とみなされるし、その意味づけを自分が選んでいたらそうやって責任を果たそうとすると思います。

しかし、カウンセリングにおいては相手のパターンの期待通りに振舞ったり、それを満たすことをしていては、カウンセリングの意味がありません。

そこでの責任は、相手の人もまだ気づいていない、その人が健全に成長するために、その人の中に眠っているものを指し示し、誘導していくことと私は思います。何かある、とはこれなのだと思います。

責任も他の事象と同じく、たくさんの意味づけができます。そして、どれもありです。だから、その時その時で自分にとっていいものを選べます。こうして見ると、一般的にいう責任という一見、重く、厳しい印象のこの言葉も軽く、明るく、のびのびした印象をその言葉に吹き込んであげることができます。きっと責任も喜んでいるんじゃないかな。

昨日の続き
2024/11/16

昨日、書いた承認欲求…私はどうだったのだろうか?と昔を思い返してみました。

私もそれは強かった。特に20代、30代はとにかく他人に認めてもらいたくて、どうしたら認めてもらえるのかと、そのことばかりを考え、行動していたことを思い出しました。それは仕事であったり、趣味であったり、自分が体験した大変なことであったり、と、認めてもらえるのであれば何でも使う、ということをやっていたなと。

今になれば、何でそこまでして認めてもらいたかったのだろう?と思いますが、他人のそれがあって、初めて、自分が確立できると信じていたからでしょう。だって周りも皆そうでしょう?そういうものでしょう?とそのことについて誰かからはっきりと教えられたわけでもないのに、そのことを信じていました。

そして、その信じていることが「違うよ」ということをネガティブな感情やつらい出来事が教えてくれていたんだと思います。それでもなかなか気付くことなく苦しい時を過ごしましたが、少しずつ時間をかけて、そこから離れていくことができました。

今思うに、自分が相手に認められているときとは、相手の人のパターンによることがほとんどだと思っています。自分の存在が、もしくは持っているものが、相手にとって(相手のパターンにとって)利益があるとき、その人は私を認め、褒めてもくれる。時には賞賛もされる。しかし、それに反することを私がすれば今まで認めていたことも消えたり、変わっていたりする。起きていることはそういうことなんだとわかった時がありました。

それはちょっと痛いような気付きでしたが、逆にとてもカラッとした明るいものでした。自分で自分を認めていく、もしくは、自分で自分を認めないでいく、ということを、臨機応変に自分ひとりでやればいいんだというものでした。そして、そういう自分であるから他人とは、今までとは違う心持ちで関われるようになるんだということもわかりました。自分も、もう相手に対して自分の承認欲求で関わらなくなるし、その在り方が相手にとってもよきものになっていることも感じます。

承認欲求に悩まされている方は多いと思います。しかし、それも、時間をかけながら薄めていくことができます。それに対する意味づけを出してみることもひとつです。

強い承認欲求
2024/11/15

昔々‥‥ある方が言った。

「有名になりたい。有名になれるのなら、やることは何でもいい。物書きでも、絵描きでも、ピアニストでも、タレントでも、学校の先生でも、なんでもいい。とにかく有名になりたい」と。

何故なのかを聞くと「ちやほやされたいし、大勢の人からうらやましいと思われたいし、それが成功することだし、そうなれれば自分の自信が増す」ということでした。

そのためには、これをやりたいとか、これはやりたくないということではなく、とにかく名前や顔が売れることをやりたい、そのためには何がありますか?という、殺気立つような迫力に圧倒されたということがありました。その後、お会いすることはなくなりましたが、現在その方が有名になっているかというとそうではありません。

‥‥とても承認欲求が強い方だったんです。その根底には、自分としている、ということへの怖さや不安があったと思います。それが欲しいのに、何もない自分(…とパターンは決めている)への腹立たしさや、うまくいっている(…とパターンは見ている)他人へのうらやましさや、敗北感により自分が傷ついていたと思います。何より「価値」への意味づけが他人から認められること、というところだけであったと思います。そうであると、それを成就させることだけに人生の全てを使っていくことになります。

又、自分が成就できなかったことを子供に託そうとするかもしれません。強い1つの意味づけの世界に居続けてしまうことは、結局、自分だけではなく他の人にも不健全な影響を与えてしまうこともあります。

意味づけの更新は大事です。それも自分が体験したことに基づいてのものが。そのためにも自分の内や外に起こるあらゆる体験を怖がらずに、心身で受け止めてみるという事だと思います。

決めつけない
2024/11/14

この2日間、暑かった(…って11月に言う言葉か…)

駅ビルも店舗によっては軽〜く冷房が入っていて、心地よさを感じました。半袖Tシャツで闊歩する若者たちもいて、この光景はどう見ても11月ではないな。

このように、もうすでに、色々なことが変わってきている。それは良いことも悪いことも。異常気象だと言われてきていましたが、異常なのではなくて変化しているんだと思います。

自分の周りでも新な変化は起きていて、何かが少しずつ、全体的に変わってきているのではないだろうか。今まで気が付かなかったけれども、時間をかけながらもうすでに動いていたのだと思います。

ですから、今まではこうだった、ずっとこれできたから、これに慣れているから、これがあれば大丈夫、ではいかれないようなところに来ているのだと思いました。それが今の自然な流れなのだろう。

だとしたら、大切な物事は、今までの物事をしっかりと握っていくことではなく、柔軟に、知恵を使って、臨機応変に動いていくことだと思います。フットワーク軽く。それはより、自他に依存しない、ということでもあります。自他への期待、予測、評価、などを決めてしまわずに、その時その時で自分で考え、自分で決めて、自分で行動するということです。

そのためにも、新な白パターンの名前、言葉「もしかしたら・・・」は変化に乗っていく後押しをしてくれると思います。

今までのやり方や、今までの考え方も、その時代に、その領域においては必要だったけれども、いつまでも全体の流れはそこではないということを思うと、これからは、自他も、物事も、決めつけないことがより大事だと思います。

〇〇のために…ではなく
2024/11/12

「おもしろい」と感じること。

この心の状態が自分を進める原動力となります。何ごともそうだと思う。仕事も、人間関係も、学ぶことも。

例えば、道場での学びも最初は、〇〇のために、〇〇を得るために、というところからスタートしたと思います。楽な自分になるために、強い自分になるために、自分の精神性を上げるために、カウンセラーになるためにというように「ために」が動機だったと思います。これも確かに一般的には何かを行うときの動機として使われていますし、そこでの結果を得ることができます。そして、そこでそれはひとつのゴールとなり、そのやり方を使う事をその後も続けます。それもひとつのやり方としてあります。

しかし、これだけではない。例えば、仕事も最初は〇〇のために行っていたのに、続けていくうちに、その仕事の内に、奥にある、今まで気がつかなかった部分に気付き、それを追っていくことで、ただ「ために」であった仕事が「おもしろい」と感じることがあります。おもしろいからもっとやってみたい、おもしろいからもっとそれを知りたい、おもしろいから挑戦したい、などなどあります。

この学びも同じで、〇〇のためにで始めたものであったのが、気がつけば、結果はさておき、ただ、追及していくおもしろさを感じている。こうなっていたのか、自分ってこうだったんだ、そして、なんとなくこれから先が感じられるような…。そういう心の状態が自分を進め、成長させる原動力になるということです。その原動力自体も大きくなります。そしてそれはまた原動力になり。

原動力って、根性とか、頑張るとか、今大変だけどやるしかない、いつか楽になれるだろう、という、苦しさを感じるものではないと私は思います。

何より「おもしろい」「楽しい」がいい。何ごとも「好きこそ物の上手なれ」なんだと思います。だから自分が好きなことをやっていけばいいんです。これはいいことだからやろう、これはためになるからやっておこう、では、おもしろくもないし、楽しくもないし、結果もそれに伴うものになるので、やはり、苦しいままだと思います。自分がおもしろい、楽しいということを大事にしてください。

今年の茅ヶ崎クラス終了
2024/11/11

今年最後の茅ヶ崎クラス、無事に終了いたしました。

クラスの皆さま、今年1年ありがとうございました(今年も、毎度のごとく、失礼なことをたくさん言ってしまい、申し訳ありませんでした…と先に謝っておく)そして、今回ゲスト参加くださったYさん、ありがとうございました。

今年は、今まで学んできたことから、次の学びへと移行していくことを始めました。今までとは違う視点が出てきたり、感情や感覚をより大事にしていくことや、自分の思いや意見を開示することを土台に持ちながらやってきました。そして、私が何よりも望んでいるのは「おもしろい」と感じてもらえるといいなあということです。この段階に入ってくればもう「おもしろさ」しかない、と私は思うんです。わかる、わからない、できる、できない、なんてどうでもよくてめくるめく展開されていく世界をおもしろいと思うかどうか。興味をもてるかどうかです。

さて、開示は難しい、と思われがちですが、難しいと言っているのはパターンです。開示により、波風立つことへの怖さや、自他が傷ついてしまうのではないかという不信、嫌われるのではないかという不安。それを選んでいる場合は(パターンにそれをやらせている場合は)難しいと思うと思います。そして、それは開示ではないということ。そして、パターンに引っかかったことを言うことだけが開示なのではなく、自分の意見や考えていること、感じていることを言うことももちろん大事な開示です。

開示は自分の表明であり、表明するから他人はその人がどういう人なのか、と知ることができます。それは自分とは違うその人です。それが分ることが良いのです。よく話し合えば分かり合えるのではなく、自分との違いがわかるということです。それが良い。

結局、自分のことをわかっているのは自分だけです。それも、自分を見ることをしなければ(黒パターンで生きていれば)実は自分のこともわかっていません。ただ、自分とはこういう人とパターンが決めつけている自分をずっと生き続けます。

そして、その結果が今の自分です。どんな自分で生きていますか?日々、すっきりしていない、いらいらしている、悲しく、つらい、苦しい、迷っている・・・それが自分ではありません。過去に選んできたものの結果でしかありません。本当の自分はそれではない。そのことを忘れない。

時間
2024/11/07

今日、明日と茅ヶ崎クラスです。

今年最後のクラス。

ついこの間、今年の抱負をクラスで発表し合ったのに…と思えるくらい、本当にあっという間の1年でした。又、今年の茅ヶ崎クラスには毎回、岩手クラスの方がご参加くださり、それぞれ、色が違うクラスとして1年すごしました(今回も岩手からゲスト参加の方がいらっしゃいます。)

あっという間に時間はすぎていく。慌てることはありませんが、時間を大事に使っていきたいものです。

時間って自分が使われてしまうと追われているような感覚になりますが、自分が時間を使っているという意識を持つといい感じの時間に変身。

例えば、今日は、まず、これをやって、これをやって…とだいたいの1日のやるべきことが誰でもあると思うのですが、その「これやって」のときにそれをやっている時間を深める感じです。1分ってあっという間ですが、「これやって」いるときの1分をただ流れていくそれだけにしておくのではなく、深めるということです。

深めるって、そこに立ち止まるということで、具体的には「丁寧に」ということです。丁寧にやる、それによってその時間が深まり、それはきっといつもとは違う結果もそこに生まれていると思います。時間をとどまらせる、ということか。意識的没頭か。

その意識で手にした時間はあたかもゆっくりと動いているかのようです。でも、実際、壁にかかっている時計の針は同じリズムで進み続けているのですが。

で、そんな自分の時間が自分自身の成熟や、まだ気づいてもいないパターンや、自分自身の個性に気づかせてくれます。ですから、ワークもぜひ、深い時間の中で行ってください。

欲望
2024/11/06

今、お世話になっている鍼の先生が話されたこと「欲望のままに生きていると体調は悪くなります。欲望に支配されないで、自分で食べるものを選べば、本来のその人の身体に戻ります。」

先生は身体についての話をされているので、ここでの欲望は、食べる事、動くこと、寝ることについての話だと思います。

例えば、もっともっとと食べる、好きな物ばかりを食べる、がつがつお腹いっぱい食べる、甘いもの、あぶらっぽいものをたくさん食べる、食事の用意が面倒なのでいつもできあいのものですませるなど。もっともっと、好き、めんどくさい、という欲望。

食べる事の他にも、例えば、TVやスマホを見続ける、ごろごろしている、座り続ける、お風呂はめんどうなのでシャワーだけでいい、疲れていても頑張る、より効率よく、より合理的に、もっときれいに、もっと健康になるため…と行っていることも欲望。

そういうことをちょっとずつ辞めてみる。自分の身体に入れるもの、自分の身体に関する行為を自分にとって必要なものにしていく、ということなんだろうと思いました。

で、これは心にも言えることでもっと成長したい、早く変わりたい、自分の思う自分になりたい、ネガティブから離れたい、他人に勝ちたい、認められたい、理解されたい、褒められたいなどなどあります。これも欲望。

又は自分はだめだ、自分はできない、自分には無理なども。これらは欲望とは言えないもののようにも見えますが、その在り方への執着は欲望だと思えます。欲望って今までのことへの執着なんだと思いました。ここでは黒パターンと言いますが。

それらの欲望を見定めて、それを選ばず、新しいものを選び、心を整える。そうすれば本来の心に(心身に)戻る・・・・・と言われてもねえ、を選ぶのか、自分の心身を健やかにしてあげるために、確かにこれはやめたほうがいいなというものは辞めるのか。それも本人が選ぶしかありません。

人間はこの宇宙のルールの中で生かされています。そのルールは、本当は人にとって健やかで優しいものだと思います。そして、本来、そのルールが人を守っているのに、そこから離れることばかり、黒パターン主体でやってしまうから苦しくなるし、身体も不調になる。と言うことでしょう。

そう言いながらも、私もまだ欲望に負けております…が…自分にとって何を選ぶと、又は選ばないと心身に出やすいのか、心身の感覚がどうなるのか、ということもこの4か月ほどで少しずつ感じられるようになってきました。その結果を見れば、もう、これも辞めていいか、とか、新しくこれを選ぼうと思えます。人って慣れ親しんできたものへ知らず知らずのうちに執着しているんだと思いました。今、私はこのことを学ぶときなんだと思います。

楽しい
2024/11/05

先日、トミーの携帯に付いているストラップに気付き、それをを手にとって見ました(うちは今だに2人ともガラ系)まあるい目をして、両方の翼の部分をちょっと広げて立っているペンギンの可愛いストラップ。

「かわいいーーー」と見ている私にトミーが「100均で買った」と言いました。これに似た(というかこちらが真似したのだろう)ものを有名店で売っているけれど、そこでは1000円以上するということでした。

で、よくよく100均ペンギンを見てみると・・・・・あれ?・・・・・まあるい目は目玉が両方ともそろっていない、ガチャ目になっている。翼もちぐはぐについていて、片方は開きすぎているし、もう片方は開きが悪いと、かなり雑。

その姿は、もう、可愛いというよりは、笑える、というものでした。そう思ったら、もう、可笑しくて可笑しくて、ずっとその姿にへらへらと笑い続ける私。「不細工すぎて可愛い」「なんでーー、こんなに可愛くないの」と言いながら。で、そういう自分を客観的に見ている自分もいて「私って、お気楽だ」と思いました。

そんなことにそこまで可笑しいと笑い続けられるのだろうか、と思う。これこそが私とさえ思える。

私はこういうことがよくあります。きっと他の人にすればそこまで可笑しくはないことでも、可笑しく思えると心の底から笑える。そしてその最中の私は、これが自分だ、と感じられていて、その最中は楽しい。

で、思ったのは、自分らしくいるって楽しいんだな、ということです。自分がもともと持って生まれてきた自分の個性、とか、性格とか。それを表現しているときって楽しいんだと思いました。

そして、この楽しいとは質が違うけれど、知的好奇心が強いのでそこに関わることをやっているときも楽しい。さすがに笑いませんが、やっぱり楽しい。ピアノもバレエも楽しい(おうちでですが)この両方に共通してあるのは「音楽」で音楽に心身をゆだねるって本当に楽しい。これも自分だと思います。

楽しいって〇〇のために、〇〇を得るためにとしているときにはないもので(楽しいと思いこもうとしていたり、大人になると、思考で、楽しいってこういうこと、と思っている場合もある)本当は、自分が最も感じられるものなんだとも思います。それを大事にするといいと思う。楽しい、と思えること。そこにはその人が表現されていて、そうやって生きるってそれこそ楽しいことなんだと感じられると思います。

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