ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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2極のルールから抜けていく
2025/08/14

そもそも思い通りにいかないのが人生。だから起きることに抵抗することなく、それを受け入れて、そこでのやれることをやっていく。

というのと、

人生は自分が創造していくもの。自分の選択し、決めた意思に沿う言動をし続けることでそれは現実化していく。自分の人生を自分で創る、というもの。

これって言っていることが相反しています。じゃあ、どっちが正しいのか?と思うかも。この相反している2つは、両方とも必要なものなんです。

まず、人にはいろんな事が起こります。そのときにすぐにそれが辛くてどうにかしようと抵抗するのではなくそれを受け入れます。受け入れるというのは今をそのまま認めるということです。だって起きちゃっているんだから、逃れられない。

そこで「それは(ただ)今までの自分の結果である、その出来事が自分に何かを教えようとしている、全てよきほうへ動いている、宇宙がやってごらんと言っている」などのマインドを持ちます。どうしよう、いやだな、またか、もうだめかも、ではこのマインドは消えてしまいますが、違うマインドを持つことで、起きていることを受け入れることになります(パターンは嫌がるのでそれはワーク。でも「私」は受け入れることが自然と思っている)

そして、ここで受け入れっぱなしにしておいてどうにかなるまで待つではなく(時にはそれも意識的にありだけど)それに対して自分がやるべきこと、これを機に自分が進んでいきたい方向性などへ目を向け、強く自分の意思に沿う言動をする(し続ける)ことがその次にくるものです。この2つで1セットと言えます。

で、この2つのように、相反する事象は2つで1セットになっています。このようなことについて「これは理解しにくい1つである」と中村天風さんは言っています。なぜならば「そこにはこの2つのバランスを要求されるからだ…」と。要求されているバランスをとったときに2つで1セットということが理解できるのだと思う。

先ほどの件も、その他の相反する事象も、2つのバランスをとる(両方使う)ことでそれは新なものが出来上がるのです。この2つのバランスをとる力をつけていくことが精神性の成長と言うのだと思います。このバランスをとる力はそれを求め続け、やるべきことを日々やっていくことで、きっと気づいていかれるものだと思います(という法則も自分で創ればいいわけで)この相反する(と思われている)事象をいかに自分でうまく使い分けていくか、どんな匙加減でいくか、というところです。

陽だからプラスだからいいではなく、陰だからマイナスだからだめではなく、在るものをすべて上手く使っていくということです。

この2極の世界に生まれてきて、そこでのルールに従ってきた私たちですが、少しずつ少しずつ少しずつ(…くどい。そのくらいここを歩むのはゆっくりがいいと思うから)2極のルールから抜けていくことを学んでいきます。

気分はイタリア、ナポリ。
2025/08/12

8月の岩手クラスも無事に終了。

今回は1日だけのセミナーでした。そして2日目は個人カウンセリングだったので、集まれる人たちでランチに行きました(いや、連れていっていただきました。ありがとうございました)大好きなお蕎麦、そして素敵なカフェでのお茶&ケーキ。盛岡は本当に美味しいお店や雰囲気のあるお店がたくさんあって羨ましいです。

今回のクラスで話したこと。

語りかけは、カラッとおこなってくださいということ。語りかけはパターンへの共感、パターンの言いたいことを代弁している、というところから、ちょっとウェットになりやすいです。そちら気味になる場合は「私」よりもパターンのほうがまだ勝っているという目安になります。共感は大事ですが、共感ってパターンと同じ気持ちになることではないし、ずっとそれを考えることでもないです(これはカウンセリングにおいての共感もそうです)

あくまでも「あなたはそう思うんだね、「私」は思ってないけど」のスタンスです(カウンセリングにおいても同じ。あなたはそう思うんだね、私とは違うけれど)

王である「私」は知恵があるのでパターンの思いを理解していますが、一緒になって悲しんだり、悔しがったり、そこへひたったりはしません。じゃあ、どんな感じ?というとカラッとした感じです。最後まで語り終えたら、もうそのパターンについてあれこれ考えたり、そのパターンに心を寄せたり、ひたったりとかはしないんです。終わったら、そこでハイ終わり。日常の業務に戻ります。

「語りかけは、イタリアの太陽のように(実際にイタリアに行ったことはありませんが)明るく、強く、カラッとした語りかけをしてください。オー・ソレ・ミオの感じ!」とまたわからないことを言いましたが、そうなんです。「王」ってウェットな「王」よりもカラッとしていて、そこで終わらせることのできる、明るい「王」のほうがよくないですか?

イメージとして、感覚として、オー・ソレ・ミオ(私の太陽)そう、「私」はまさに太陽だから。

素敵なカフェからの帰り道。ホテルまで車で送っていただきました。車内にはカーオーディオから男性テノールの「誰も寝てはならぬ」が聞こえていました。その時に見た広く青い空はとてもきれいでした。サングラス越しに見た空でしたが、レンズの色と空の色が混じっていたせいか、どこか外国の海辺の街にいるような気分になりました。

そして、もう少しでホテル、というときに聞こえてきたのは「オー・ソレ・ミオ」。イタリア、ナポリ民謡です。この曲は男性テノールが最もいいと思う。音楽は一瞬にして人の意識を動かす(上げる)ということがよくわかりました。この、静かな静かな、安堵感につつまれた高揚感が全く違うところへ私を連れていく。語りかけはカラッと。イタリアの太陽のように。

暑い
2025/08/07

茅ケ崎もここのところ35度、36度の日が続いています。

温度だけではなく、湿度も高い暑さは身にこたえます。

去年までは、この時季も、ほぼエアコンを使わずに過ごしていました。窓をあけておけば風が通っていたので、お会いしている方がいらっしゃる時だけエアコンを使っていました。夜眠るときも、部屋のドアを開け、リビングの小窓を開けておけば風が通るのでエアコンを使うことはありませんでした。

しかし、今年は、も―――暑くて暑くて、1日中エアコンをつけている状態です。眠るときにも、ほぼ一晩中つけています。

昭和生まれの私は「エアコンは身体に悪い。身体がだるくなる、浮腫む、冷える。だから夜眠る時には、エアコンは消して。もしくはタイマーで1時間くらい。」ということをずっと信じてきていました。それがエアコンの常識と思っていたんです。

しかし、よく考えてみれば、昔の夏とは違う今の夏。昔は30度になるとものすごく暑いと思っていましたが、今や、30度だと少し楽だね、という感じです。だから昔聞いた常識をそのまま信じていくのではなく、今がどんな時なのかを見て、それに合わせていかないとこれからはまずいと思いました。

これからを生き抜くためには、刻々と変わる現実をしっかり見て、柔軟に自分の信じてきていたものを変えていくということなんでしょう。柔軟さは大事です。

今日はこれから盛岡へ行ってきます。あちらはどうでしょうか。やはり暑いと思いますが、茅ヶ崎の暑さよりはスッキリしている気がします。皆さま、くれぐれも暑さにやられないようにお過ごしください。では、行ってまいります。

・昨日の広島平和記念式典で語られた、広島県 湯崎英彦知事のスピーチです。このように考えている方々がきっと世界中にいるはずです。よろしければご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=6UIi-DYLvlY

広島の日に思う
2025/08/06

今日は、原爆投下から80回目の広島「原爆の日」。その式典を見ました。犠牲になられた方々の御霊が安らぎの中にいられることを深く願います。

核なき世界を…戦争のない世界を…とほとんどの人は望んでいます。そのためには、お互いを理解し合う対話が必要だと言われています。

で、私は、そういう対話をするためには、まず、各自が自分の内の闘いをやめるべきだと思っています。自分の内を平和にする努力をしていく必要がある。それがあって初めて、他人を、他国を、それぞれに理解するということができるんじゃないかと思うからです。

ここがなくて、お互いを理解する対話はできないと思っています。そこでの対話では、いかに相手を納得させられるか、というところになるだろうと思っています。これでは結局はお互いに自分の言い分を押し通すことになり、今までと、変わりがないです。

だから、まずは自分の心に平和を自分で創るということです。時間はかかるし、大変な作業だとも思いますが、こういうことを、もうやっていく時に来ているのではないかとも思います(地球規模で)まずは自分が平和を感じられるように生きることが大事です。それは、どうしてかというと、人の感じていることはそのまま外に出ていくからです。それが善きものであっても、悪しきものであっても、他人に影響を与えるからです。

自分と他人を比べたり(これも他人を使っていることです)自他を評価したり、憎んだり、羨ましがったり、卑下したり、優越感にひたったり、恐怖と不安に突き動かされたり…。このような類のものは自分の内での闘いです。そのようなパターンを「私」は選ばない。野放しにしない。白パターンを選ぶ。そして毎日行動する。そしてそれを継続。こうして自分の心を平和な心に創りかえていかなくてはなりません。自他のために。

そういう人が増えていくことで世界は変わるだろうと思います。世界が変わる、というところまではかなりの時間がかかると思いますが、今、私たちが、世界に対してできることはこれだと思っています。自分の内を平和にする。

そして、これはこれからの時代を生きていく上で大切にされるべきものになっていくのではないかとも思っています。

厳しさ
2025/08/05

昨日の日記もそうですが、ひとつのことをやり続けるって大変なことだと思います。毎日、行うことって大変です。

しかし、それを勧めるのはそれにより、気付ける、体験できる、獲得できる、ものごとが必ずあり、結果、自分の成長になっているということだからです。私はそれを知っています。だから、今でも自分でもやるし、皆さんにもお勧めしています。

で、皆さんはすでにそれはやっているんです。年月かけて自分と向きあうことをやってきているうちに、きっと今は毎日、自分の感情や感覚に気づいていると思います。そしてワークをする。これ、もう、毎日やっているのではないでしょうか。初めのうちは面倒くさいとか、できないとか、思うような結果がでないとか、が、あったことと思いますが、それでもやめないでやり続けた結果、毎日行うことが出来る自分になったという結果を手にしました。

先日、私とトミーを知っている方に、トミーが毎朝、公園で立禅をしているという話をしました。雨の日も、暑い日も、朝早くに公園に出かけて行っています。出社する日は会社の近くで行っている。そんな話をしたんです。

するとその方から「トミーさんって自分に厳しい人なんですか?」と聞かれました。「そんなふうに自分に厳しいことは、私には無理です」とおっしゃる。そうか、こうして毎日続けていることって厳しいことだと思っているのかと思いました。

これを説明しても無理そうだったので「そうですねーーー」と言ってその話は終わりました。

毎日行うことは厳しいこと。という意味づけもあります。でも、それだけではそこには、苦痛しかありません。

毎日行うことが苦痛だけであったら、それはとてもつらい。そこに何か少しずつ手応えを感じたり、気付いてみたら、以前より何かが改善されていたり、自分の可能性を発見したりすることを繰り返していくうちに、それを行うことへの信頼とそれへの意味づけが広がります。

いずれにしても、楽しく、手軽に、やりたいときだけやって(それを自由、リラックス、自分らしく、と意味づけている人が多いです)何の努力もせず、思うように自分を成長させたいというのはどの分野においても無理なことだということです。

日記
2025/08/04

ここのところ、道場で学ばれている方達が、日記更新を続けてくれていることが嬉しいです。

「まずは1か月書く。体調が悪くても(よっぽどの時はもちろん休んでください)忙しくても、短くでもいいから、写真張り付けでもいいから、ネタがなくても、楽しくなくても、大変でもとにかく書く」ということを岩手のクラスで話しました。

このように自分を追い込んでひとつのことをやってみるという体験をしてほしかった。1か月続けられたら、自分の中に変化が起こるから…と。そしてきっと続けられた自分に「自分もやればできる」とひとつの自信になるから…と。そして、自分を知ることにもなるし、自分という人間を表明する場にもなります。

毎朝、拝見させていただいて、確実に文章力が上がっていることを実感しています。その人自身が伝わってくる、ということはとても楽しいです。

でーーー私は今年の自分の誕生日から1年計画で、続けていることがあります。それは、もともとは「人生、上手くいっている人がやっていること」的な情報を見て、それを自分用にしてみたものです。これを見たときに、1年かけて行う、1年継続する(毎日行う)というところにわくわく感を感じたのでやってみようと思いました。時間をかけることが好きなんだと思います。提示されていることは、実際は、ほぼ、今までやってきたことでしたので、それを「意識的」に毎日行うことを続けています。

それは10項目以上あるのですが、その中のひとつに「アウトプットする習慣」というのがあります。本当の成長はアウトプットからはじまる、アウトプットの質は量から生まれる、とあります。「アウトプット」についてはその必要性を多くの方が言っていますが、これって、毎日、日記を書くということもそれにあたります。

アウトプット。これは広い世界に向かって(宇宙にも届いている)自分を表明していく、表現していく作業です。そこでの表明や表現は道場以外の人たちに何か影響を静かに与えていたり、気付きを与えていたりすることもあります。…と言われてしまうと「書かなくちゃ」とプレッシャーを感じる方もいるかもしれませんがそれはパターン。その時には白パターンに選び変えて、自分の質を上げていくためのひとつの道具として、日記を書こうと思っていってください。1か月続いたら、また1か月。3ヶ月やってみよう、半年、1年…と自分で考えて自分をリードしていってください。これにより、リーダーシップ力も鍛えられますね。

オタマジャクシのような
2025/08/03

昨日は、茅ヶ崎花火大会の予定でしたが台風の影響を鑑みて、中止となりました。今年はなしです。

で、花火大会というと必ず思い出すのが、謎の物体を見たということです。10年位前だろうか(何度も聞いているよ、という方はスキップしてください)

その日も茅ヶ崎花火大会の日でした。ちょっと風が強い日でしたが開催することとなっていました。そして、開催の2時間ほど前のこと。

リビング(前のマンション)の窓から目の前に見える「烏帽子岩」の真上に何かが見えました。黒いオタマジャクシのような形をしたものが風にたなびいていました。

まず、思ったのは花火大会に向けて烏帽子岩からポールを伸ばして風の向きや強さを測定しているのかなと思いました(よく考えたらありえないし、今まで見たこともない)。当時、骨董師匠から預かっていた大型の双眼鏡があったので、それで見たところ、ポールらしきものはない。オタマジャクシは何かに支えられているのではなく、空中に浮かんでいることがわかりました。

トミーにも見てもらうと、確かに浮いていて、たなびいているということで、2人が見ているものは同じ。しばらく双眼鏡で見ていると、オタマジャクシが2つにぱかっと割れて、内部(?)の割れた方は白い色をしていました。黒と白のオタマジャクシがたなびいている。

何?何?…そしてまたしばらくすると元の黒いオタマジャクシに戻りました。それから1時間くらいはいたと思います。だんだんあたりが暗くなっていき、見えにくくなったころ、気付いたらいなくなっていました。

そして、次の日、どうしても解せぬ私は市役所に電話をしてしまいました。「昨日の夕方頃から烏帽子岩の上に吹き流しのようなものをたてましたか?」と聞きました。もちろん「そういうことはしていません」という返答。海には人が多くいたであろう開催前の時。目撃した人がいてもおかしくないと思うのですが「他からはそのようなお電話はありません」ということだった。

謎の物体。UFOというより妖怪?と思っています。私ひとりで見たわけではないので、私の錯覚かもというところで迷わなくてよかったことはよかったのですが。わからないものはきっとたくさん存在している。だからなんでも分かった気になっちゃいけないんだと思います。

創造の意味づけ
2025/08/02

人が楽に生きるためには、自分の全てを赦すこと、そして自分の個性に沿って自分の全てを創造することだと今の私は思っています(今の道場はここにいる。ここを担当分野としています)

自分の全てを赦すことは自分の内に存在している全てのパターンを赦すことであるのはわかると思います。どんなパターンも赦す。そこには、長い長い魂の旅路の中で持ち越してきてしまったものもあると思います。そして今世で書き込まれたり、作ったものも。それら全てを赦す(そのままでいい)ということです。もちろん黒パターンのやりたい放題にしておくということではありません。

ここは、皆さんできるようになっています。だから次へ…。で、創造なんです。

自分の全てを創造すること、というのが、最初のうちはわかりにくいと思います。創造なんて大それたことは自分には無理と思うと思います。創造と聞くと、神がこの世を創られたように、無から有を生み出すことが創造だと思うからだと思います。それもあります。

しかし、創造をその意味づけだけにしてしまうと、そのひとつだけになってしまうので、自分には無理と思うのです。どんな事象であってもたくさんの意味づけを生み出すことはできます。

そして、自分も実は毎日を創造して生きているんだということに気づけるといいです。今、何かに怒りを感じ、傷つき、悔しさや絶望感を感じて生きているとします。それは自分が創造しているものなんです。怒り、傷ついて、悔しさや絶望感を感じている…という現実を創造している。ということなんです。自分の意思で。

そんな嫌なこと、自分の意思で選ぶわけないと思うかもしれませんが、心の中でこの現状を選び(ここでも意味づけを1つにしています)それを現状として創造しているということなんです。

確かに怒りを感じるできごとはあったと思います。しかし、それはパターンが感じていることで「私」はそことは別にいます(「私」の領域でのそれについての意味づけがある)。その「私」がこの状況があるものとしてわかっていても、それはその領域に置いといて(あっていいものだから)何を選びたいのか、自分はどうありたいのか、を選択すれば怒りを感じたできごとは映画のスクリーンに映っているもののように感じます。

この時点ではこれを創造している。創造って一瞬一瞬に行われています。このように私たちはすでに自分自身と自分の日々の生活、しいては人生を創造し続けています。

で、自分の個性に沿って自分の全てを創造するということは、どんなものごとを創造すれば自分の個性は喜ぶのだろうか、自分らしくいられるのだろうか、ということです。ここには決して、何を創造すれば他人から認められるのか、とか、賞賛されるのか、とかは出てきません。それはすでに多くの人達がやっていること。ということは、それはわりと簡単にできるというものでもあるんです。他人優先でいけば、パターンの力強さを使えば、そこそこそれはできると思います。まずは、創造の意味づけをやってみるといいと思います。

それは、まるで…
2025/08/01

近頃は、海まで散歩をしています。この暑いのに…。熱中症になりやすい自分なのに…。そこへの対策グッズも持ちながら。そして、もし倒れたら誰かが助けてくれるだろうと思って(これが一番のお守り)

海へ向かう道は、海風のおかげで陽は強いものの、すがすがしさがあります。それが気持ちよくて歩くこと自体が楽しいと感じます。「歩くってたのしいーー」と身体が喜んでいる。だからそんな時にはそのたのしいーーを身体に味あわせてあげようと(この頃)思うようになりました。運動しなくちゃ、歩かなくちゃではないということを学びました。

これは食事も同じです。ご飯を食べて「おいしいーー」と身体が感じる。そういう時にはそれを十分に感じさせてあげようと思います。食べなくちゃ、これは栄養があるから、ではないということです。

ただ、ここでパターンが「もっともっと」となるとその繊細でストレートな感覚は消えてしまうんだという事もこの頃、わかるようになりました。

そして、海に到着。夕方の海。暑い砂浜を下りていくと、目の前に女性2人が見えました。2人とも黒の上下の服を着て、黒い日傘をさして、2人で海をみながら話をしています。海風が2人の服をたなびかせている。後ろ姿だけですが、中年の方達だと思います。きっと楽しい話ではない、何か真剣に話しているように見える2人。

夕方の海には人も少なく、空は雲におおわれ、どんよりとしたその風景はまるでフランス映画のワンシーンの様でした。存在感のある2人。ここだけを切り取れば、それはまさに絵になる、です。ここが茅ヶ崎の海岸であることを忘れるくらいな雰囲気を2人が創っているんだと思いました。人ってすごいです。この雰囲気を創っているのは人間であり、そこに海を入れて1つの絵を創ってしまうのだから。

近くに寄らず(近くにいけば話す様子なども目に入るでしょう。そうなればフランス映画のワンシーンではもうなくなります。それはもったいない)座って、しばし、その絵を見ました。茅ヶ崎の海岸でこんなに雰囲気のある風景(絵)を見ることがあるなんて…。

毎日、海に散歩に行っているわけではありませんが、こうして散歩をしながら、目につくものごとは多いです。海に向かう道は茅ヶ崎駅からまっすぐに伸びていて、海に近づいていくと、昔の茅ヶ崎の面影を感じられるような家々が並んでいます。そういう家を見るのもとても好きで、立ち止まって見てしまうこともあります。それぞれに住人の方の好みが現れている家。これはとてもおもしろいと思うんです(そういう意味ではマンションは、便利ですが味気ないです)

家の形や、庭に植えてある樹々や、そこにある道具や、全体に使われている色などを見て、こういう人が住んでいるのかな、と想像するのも楽しいです。これも私にとっては人生を楽しむ、お金のかからない趣味のようなもの。

今日も、どこかへ散歩に行くつもりです。しかし、歩いている途中で「歩くってたのしいーー」が湧き上がってこなければ、図書館で休むか、早々に帰ってこようと思っています。

忙しい7月だった
2025/07/30

脳の検査結果。「脳は大丈夫です。異常はありません」と言われました。よかった。

「初めてですか?自分の脳を見るのは」と聞かれ「はい」と答えると、ここが大脳で、小脳で、脳幹で、とひとつひとつ説明してくれました。その画像には首の部分もうつっているので、私の横顔と首のアウトラインに私の特徴が出ていると思いました。特に首。首には私が出ていると思った。

脳の輪切りの画像も見せてもらい、それを見ながら脳ってこんなに美しいんだと思いました(私の脳がということではなく)みっちりと頭蓋骨の中におさまっています。そのみっちりした存在が綺麗だと思ったのと同時にもっと脳を大切にしてあげようと思いました。

しかし、大切にというのは守りにまわることではなく、脳本来の在り方ができるようにしてあげることです。そのひとつとして、めまいが起きないように守ことではないと思った、めまい予防の体操がある。だから続けています。

今年に入り不調続きであったことで、初めてお会いした先生方、整体の先生方に私は助けていただいたと思いました。で、それぞれがご自分の専門の分野を担当し、その先生ひとりひとりの体験に基づいての考え方や信条を持って患者さんに向き合っているんだなということも感じました。患者の顔も見ずにPCに向かっているような人や、事務的な診察をしている人はひとりもいませんでした。それぞれの温かさを持って接していることがよくわかりました。

そして、診療中、施術中に発する先生の言葉の中にこれからの私が獲得していきたいものへのヒントがありました。全て「陰」と「陽」。これはもう一段階上から見ると何事も「陰」であり「陽」という事か…と新な意味づけを思いつく。

私としては、めまいは、今年1月からはじまった不眠によるものではないかと思っています。で、半年がたち、この頃は不眠を徐々に受け入れていっています。ここにくるまでの半年間は思い通りの睡眠をとるために闘っていました。どうすれば眠れるか、と。

不眠は確かに煩わしく、つらく、不安で、先も見えないものではあるのですが、これがあって、新な出会いがあり、今まで知らなかったことを知り、まだまだ自分自身に対しての、考え方への執着があるんだなということもわかりました。

そして何よりきっと初めてだと思う、自分の身体について心から目を向けたのは。「身体に向き合うときがやってきたんです」とは整体の先生のお言葉。心についてはずっとずっと向き合ってきたけれど、それと同じくらい身体に向き合ってきたかというとそこはやってこなかった、という事にも気づきました。向き合わなくてもすんでしまっていた、やれてこれてしまった、やれるように身体が頑張ってくれていたのだと思いました。

身体は物体です。元々は量子の集まりだけど。頭ではそうわかっているけれど、その体験が少ない私としてはそれ用の接し方が今は必要です。もっと精神性が上がっていけば身体も物体であることを超えて量子の集まりであることが自分のものになり、それをコントロールできるようになることはわかっていますが、私にはまだ無理です。だから今できることを、守りに入らず、やっていこうと思いやっています。

とっても忙しい7月でした。でも、新しい所へ歩き出した感もあり嬉しい月でもありました。

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