ponta日記

・主婦カウンセラーの日常・・・は?

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エネルギーチャージ
2024/08/01

思考するよりも感じることを勧めるのは、感じ得たよきものは自分の中にストレートに蓄積され心身を育て、自分を健全にし、元気にしていくからです(よきものを思考していくこともよいことだと思いますが、そこは脳内でとまってしまっているような気がします)

いつもよい気分でいる、とか、いつもいい感じでいる(「私」にとって)というのは、この蓄積を増やしていくことになります。ですからこれを続けていけばその蓄積されたエネルギーは増々大きくなっていきます。

逆に、いつもよくない気分でいる、とか、嫌な感じでいる、不安でいる、怖がっている、というのは、蓄積していたエネルギーが漏れていってしまいます。従って元気がなくなり、沈みがちになります。

例えば白黒ワークを自分で誘導するときに、黒パターンの部屋での言葉はどんどん出てきますが、白パターンの部屋での言葉は…う〜〜ん‥と考えてしまいがちです。ここでこそ自分の心身に響く言葉をふんだんに使い、それを心身で感じ、味わってください。1日1回、白パターンの部屋に入り(お風呂に入るように)そこでの言葉を深く味わうのもいいと思います。このワークはエネルギーチャージが行われているということです。

で、白の部屋の言葉です。ここが重要です。自分で誘導して、自分の心身を上げるような言葉。まだ今はそうではなくても、その言葉にどこか希望があり、光があり、そちらへ行ってみたいと思うような言葉。その言葉をどんなテンポで、どんな声で、どんな表現で心へ響かせるのか…。ここが白黒ワークの醍醐味と言えると思います。

そしてそれが自分に対してできるようになれば自然と他人に対しても行えるようになります。そうであればわざわざ他人を誘導するための練習をしようということは必要ではなくなります。まず自分で色々と試してみてください。それを繰り返しているうちにきっと、良いエネルギーが自分の中に蓄積していく感覚がわかるようになると思います。それはとても力強いものなので、それを絶やすことはもうやらない、ということをいつも選ぶようになっていくとも思います。

自分のパイプ
2024/07/31

自分のパイプは自分だけ。自分しかいません。

ひとりひと宇宙とか、人の数だけ宇宙があるとよく言われますが、これも同じことを言っています。

ですから、もともと、自分のパイプに他人ははいれないようにできています。そして、他人のパイプにもはいらない(でもそれは他人には一切関与しない、関心を持たないということではありません)こうして在ることで、人は初めて自分主体で生きることができます。

他人に合わせることや、他人の期待にこたえること、他人の常識や知識に自分をあてはめていくことは他人の人生を生きていることになります。自分のパイプの中にひとりでいることで自分はどう在りたいか、という、本質的な自分への問を持つことができます。

それは自分を大事にすることであり、そもそもの自分に戻ることです。そして、その体験があるから他人のことも大事にすることができます。

自分のパイプの周りをみると、家族や知り合いのそれぞれのパイプが見えます。その中では皆がそれぞれ生きているのが見えます。そう見えるということだけで勇気がわくし、応援もしたくなる。皆パイプの中で生きているという共通の条件の中にいるんです。もともとそういうふうに創られているのだから、幻の物質世界にいるよりも現実的でリアルな世界なんです。

そんな根拠もないこと、信じられないと思う人がほとんどです。しかし、自分に向き合うことを続けていけば、自然と、その感じがわかってくると思います。パイプは目には見えないし、手で触ることもできないけれど、なんか、それのほうがしっくりくる、とか、安心する、とか、心のカラクリから始まっていままで学んできたことの全体象が見える、とか、感じられてくるのではないかと思います。

仏陀の言った「自分を洲(しま)とし、それを拠り所にしなさい」というのもきっとこのことだと思います。これは人が生きていく上で最も大事なことです。

そして、その大事なことを土台にして生きることが正しく生きるということです。そして、その正しく生きる生き方が損か得かや、安全か危険かや、こうしていけば自分が変われる、変われば幸せになれる、というところではないところで在ることが純度が高いということです。純度が高いとは心がきれい、優しくなるということではないんです。その在り方をしているうちに気づけば心も澄んでいたというものです。これは語りかけや白黒ワークを正しく行っていくうちに自然とそうなっていきます。だから、正しく、純粋にと思わなくていいということです。

ひとりだけのパイプ。清々しく、どこにいるよりも安心できて、やすらぎのあるところ。実はその中で誰もが日々を生きています。

今になってわかる
2024/07/30

今思い返すと、なんであのときわからなかったのだろう、と思うことはたくさんあります。

そのときにわかっていれば、もっと早くに今のようになれていたのに、こんなに時間をかけて遠回りしなくてすんだのに、と思うときもあります。

でも、これでいいんじゃないのかと思います。あのときにわからなかったことが、今になってわかる、それで十分じゃないかと思います。いやいや、時間の無駄だったと思う方もいるかもしれませんが、全てがその人にとってちょうどいいときにわかるようにできている。だから、わかったときには、その自分を褒めてあげて、天にもお礼を言って、よかった、よかったと言ってください。

決して、何で今頃、何でもっと早くにわからなかったんだ、もっと早くにわかっていればこんな人生じゃなかったはず、もう、遅い…と言わないようにしてください。何故ならば…わかったということも自分ひとりの力で得たものではなく、天が与えてくれたものだからです。それも与えていいというちょうどいいときに。

ですから与えられているのに文句を言うということは、受け取らないということになります。それ、いりません、ということ。

お礼と感謝が大事なんです。そして、もちろん、そこに果敢に挑戦し続けた自分への誉め言葉、これも大事です。

魂が成長していくってこの繰り返しの気がします。わからないことがわかっていく、この繰り返し。そしてそれは永遠に続きます。魂の長い旅路は途切れることがないからです。ですから慌てなくていいし、焦らなくていいし、長期的な目、宇宙的な目をもって自分の人生をゆったりと、軽やかに生きていいと思います。

この夏必ずやる
2024/07/29

近頃、昔、他人が自分に言ったこと、それも身体的なことについての数々を思い出しています。

「洋子さんって、小さいから変」「洋子さんって足が短いよね」「体型が変だから歩き方が変」「顔が嫌い」「着ているものがおかしい」「よくその髪と肌で女性として恥ずかしくないよね」とかとか。

これは生まれついてのものだったり、仕方のないことだったり。こういう他人が言ったこと(本当にそう思っていたのでしょう)に対して、持ち前の負けん気でやってきていたのだと思います。

ただ、ここにきて色々と思い出しているのでその時に傷ついていた大人の自分が「私」を呼んでいるのだと思いました。まだ会いにいっていませんがそのときのひとりひとりに会いにいってみようと思います(ちなみに、大人になってからのインナーチャイルド?とは言わないですが(まだ、自分でケアすることを知らなった、以前の大人の自分)も、このようにいますので、思い出したら会いにいくといいです)

そして、もうひとつ思い出したこと。私は子供の頃、祖母や母から人の外見について(その人が身につけているものやその人の家、環境などについても)言ってはいけないと教わって育ちました。祖母いわく、そういうことは人間として品のない恥ずかしいことだから、と。それが正しいのかどうか、ということよりも、私はそう教えられそれを持って生きてこられたことをありがたく思いました。おかげさまで私はそういうことを言う側になることはなかったし、これからもないでしょう。なかなか、個性的は祖母と母でしたがこのあたりはきっちりとしていたんだなあとあらためて思います。

「私」を呼んでいる、20代、30代、40代、50代の自分は何を言うのでしょう。「私」が全てを受け止め「あなたにも可愛いところがあるよ」と励ますのではなく、当時の自分の「私」につながるところを話したいと思います。

今、こうして生きられているということはきっとその時の自分もどこかで「私」を追っていきたかったんじゃないかと思うんです。全くそういうことを知らなくても、気付いていなくても「私」は小さく息づいていたのではないか…と。この夏、これは必ずやろうと思いました。

アートな開会式
2024/07/28

「パリ2024オリンピック開会式」をTVで見る。

オリンピック史上初ではないだろうか、街の中で行われた開会式って。船に乗って選手が入場するなんて。今までは競技場で行われることがあたりまえでした。しかし、今回の開会式はそのあたりまえを覆しました。各種目の競技場も既存のもので使えるものは使うということなんだそうです。

で、パリの街の中での開会式。石造りの建物、そして雨模様のグレーの空、全体にくすんだ色の街。そうだからこそパフォーマーが身につけている色とりどりの衣装が鮮やかに楽し気に見えます。

街という額縁の中に次々といろんな絵が飾られていくような、街という舞台での作品を見ているような。そして、雨。雨により街全体ににじみ感がありそれが柔らかさを出しているようにも感じました。アート的。アートな開会式。

その様子を自宅のベランダから見て手を振る人々。そこに住む人達も普通に参加しているようで、オリンピックという特別感がないところが特別でした。

そして、最後はなんと、セリーヌ・ディオンが唄う「愛の賛歌」。しっとりと、力強い「愛の賛歌」でした。どう見てもこの曲はオリンピック向きではない、しかし、この曲以外無かった…と納得してしまうものでした。

オリンピックとはこういうもの、皆が楽しむとはこういうもの、皆に気にいってもらうってこういうもの、というものに、囚われてしまうと形式的で心に響くものが現れてこないのだと思いました。今回観た開会式も、人により良くなかったと言う人もいると思いますが、表現することに徹していた感じがして、そこにとても好感を持ちました。

パターンの特徴
2024/07/27

パターンは、自分の思い込みを信じています。そこに何も疑問を持つことなく、信じ切っています。ですから、それに対しての他の選択は「ない」と思っています。その思い込み自体が天のルールから離れているため、そのパターンから出てくる感情・感覚は苦しみや、憂鬱や、焦りや、不安や、怖さ…など多くのネガティブなものとなります。原因と結果です。

パターンはそれが苦しいのでより自分の信じていることを押し通そうとします。又は、いかに自分の望むものを手にいれるか、画策します。そのやり方しか知らないから仕方がないんです。

そして、パターンの特徴として、とにかくすぐに反応するということ。誰かが言った言葉に、行動に、自分の周りで起こる全てのものごとに、考える時間なく、反応します。反応の仕方も慣れたものなのでとにかく早い。そしてそれが正しいと信じ切っている。

これを変えていくのが「私」なのですが、そのためには、そういうパターンたちを納得させるのではなく、彼らの特徴や性格を熟知した上で、彼らはそのままにしておきつつ「私」が新なものを選んでいくということになります。「私」が選んでいくものはパターンたちと同じ領域にあるものではないので、それにより問題解決にも自然と繋がっていくということになります。

今世はこの一回きりです。「私」が選び続ける人生を生きるか、パターンの反応に従って生きるか、そこも自分で好きな方を選んでいいようにできています。ただ、あちらへかえったときに「今回もやらなかった」と後悔することになるんじゃないだろうかと思うのですが。

生きている間にできるだけ後悔しない生き方をしようと言われますが、死んだあとも、それは続くのだと思います。魂は死なないから。

防災無線放送
2024/07/26

暑い、暑いと言いながらも、今年は熱中症になることなく今のところ来られています。毎年、何回かプチ熱中症になっていたので、大変ありがたいです。

今年は何故?というと…あのお助け柑橘ジュース。そしてレモンやシークワーサー、梅干しなどがとても美味しく感じられていてよく食しているからじゃないかと思います。

詳しいことはわかりませんが、美味しく感じられるものって身体がバランスをとるために欲しているのだろうと思う。しかし、あくまでもバランスをとるためなので、美味しいからと食べ過ぎてしまうのはよくないので抑え気味にしてはいます。

それから、気付いたことが。茅ヶ崎市ではここの所、毎日のように、防災無線放送が流れます。内容は熱中症への注意喚起です。水分を補給する、必要以上に外に出ない、などなど言っています(実際は、響いてしまって聞きとりにくいんですが)。

もちろんご高齢の方や現在体調が良くない方や小さな子供などには注意は必要だと思うのですが、毎日、毎日、この放送で、過度に注意しすぎになってしまう気もしました。放送って、独特なネガティブな雰囲気を持っています。人はネガティブなほうへいきやすいため、特に不調ではない人も怖い熱中症にならないことに気を使い過ぎてしまうようにも思いました。

この酷暑でも、自分なりに、自分のやり方で元気にいられるといいと思います。この、短い夏を、暑い、暑いと言いながら楽しもう、というのもいいと思うんです。

日本には四季があり、日本に生まれたということはそれぞれの季節をそれなりに過ごせる身体を持っているということだと思います。個体により、得意な季節と苦手な季節はありながらも、まあまあ、過ごせるようにできています。だから、あまりに過敏にならないように、自分のいいあんばいで過ごしていきたいです。

タイムパフォーマンス
2024/07/25

「タイパ/タムパ…って何?」…タイムパフォーマンスの略だそうで「費やした時間に対する満足度を表す言葉です。費用対効果を指すコスパ(コストパフォーマンス)の時間版となります。時間あたりの密度を高めタイムパフォーマンス(タイパ、タムパと略す場合もあるが同じ意味)を重視する価値観は、Z世代と言われる若者を中心に広がっています。映画や動画などを倍速で視聴する人が増加しており、人々はますますタイパを求めるようになってきています。」(caroa用語集)

そうなのか…。私としては、映画や動画を倍速で?それは無いだろう…から始まり、色々と言いたくなりますが、これもまた自分のパターンなんだと思いました。このことに少しではありますが、違和感や不快感や抵抗感などがわいてくるからです。

これらを生み出しているパターンは? ●タイパには深さがない、あさはかだ、というものだと思う。パターンは深さがあることが良いことと思っているのだと思います。

しかし、これは自分の世界のこと。現実として、それはあり、若い人たちの間では、できるだけ効率的に多くのものを得ようとする傾向にあり、今後それは増々そうなっていく可能性もある。そこに、価値を感じているからです。

じゃあ、パターンは置いといて、私のこれに対する哲学は?と言えば、私は「費やした(又は努力した)時間に対する満足度」…というところでの価値観は今の自分にはない。しかし、使い方によっては便利なものかもしれない、使えそうな部分には使ってみてもいいかも、と思います。これが正解なのではなくて、私はそう思っているということです。

ここには感情が一切出てこないので、この、哲学としてという捉え方をしていくことですっきり整理されます。

そして、タイパ重視の人達が、そうではないという人達を攻撃しないように。そしてそうではないという人達がタイパ重視の人達を攻撃しないように。そのためには、それぞれの哲学というところでお互いに理解できるといいです。

人の数だけ宇宙があると言われていますが、そういうことです。ただ、自分の宇宙が正しいのではなくて、自分が選んだものが浮かび上がっているというだけです(良くも悪くも)

この文章が全て
2024/07/24

今、読み返している本より。

「人間は本来、愛情深く、受容的でゆるしに満ちたものです。私たちは愛を与え、または受けるように創られています。私たちは愛を与えているとき、あるいは受けているときに肉体も、情緒的にも、精神的にも、又は霊的にも最高の状態にあると言えます。つまり本来、機能するべきやりかたで機能しているからですが、これこそ私たちの自然の状態なのです。」(無条件の愛とゆるし E・R・スタウファー著)

この文章が全てなんだと思います。

天のルールとはそういうもの、そして、そのルールの中で生きるように創られている人間。だからそのように生きれば肉体的にも情緒的にも、精神的にも、霊的にも本来の在り方でいられるのでスムーズに生きられる。自分の心に天国を創れ、です。

そして、その土台になるものは「愛」だと説いています。本当にそのとおりだと思います。「愛」にまつわる体験をしていくことが勧められています。

頭では理解できる。そしてそうありたいと願う。では、どうしていくのか。私は自分で自分を愛することが最初ではないかと思います。そのために自分の内のパターンのことを愛する作業をしていきます。ここでの練習により自分を愛するということから、愛する感覚を身を持って体験します。

その体験は消えることなく、次のステップへ自分を導いてくれます。それは天を信頼するということです。自分で意識的に行うワークを通して、何か自分を支えてくれているものの存在を感じられるようになっていくと思います。「感じる」というよりも「そこのカラクリがわかる」というものかもしれません。こうなっていたのか、こうであったのか、とわかっていく。それが積み重なることで、信じざるを得ないという心に変化していきます。

そこへの信頼と感謝。根拠はないけれど信じることの強さが増していきます。そのときには自分はひとりではないという事にも気づく。そのときに心底ほっとする。

天はどんな生き方を自分に望んでいるのか、その意思もわかるようになります。こうしながら少しずつ自然に、本来の自分に向かうのだと思いました。向かうというよりも与えられるのだと思います。

そういうものなのだ
2024/07/23

人は絶対的なものが欲しいと思います。

これを持っていれば絶対大丈夫。ここに住んでいれば絶対大丈夫。この人についていけば絶体大丈夫。これがあれば、これを用意すれば絶対大丈夫。と思います。そうやってこれがあれば絶対大丈夫というものを見つけようとします。

これは自分の外側にあるものでもあるし、自分の内側にあるものでもあります。正しく生きていれば絶対大丈夫。神を信じていれば絶対大丈夫。「私」で生きれば絶対大丈夫。自分を成長させる努力をしていれば絶対大丈夫。宇宙のルールに乗っていれば絶対大丈夫というものです。

このときの大丈夫は、危険なことや死、もっと身近なネガティブなものごとから守られる、守ってもらえる、自分はこれでそういう目には合わない、というものです。

これを求めて多くの人は彷徨ってしまうのだと思います。もちろん、この時代、災害に備えて必要なものを用意することは大事ですが、そこを肥大化させてしまうのは恐怖と不安からきています。それにより、振り回され、落ち着かず、時には騙され、時には危ない道へ入っていってしまうこともあるし、心身を病むこともあります。そして、何より自分の人生を守ることだけのために使ってしまうようになります。これ、もったいないよーーー。

まず…絶対大丈夫なものはありません。どんなに正しく生きていても、又は、何かのときのためにあらゆる物を用意していても、絶対に大丈夫ということはありません。そこにはひとりひとりの過去世からの歴史、課題が関わっていたり、運や、そのときの状況やタイミングなど複雑にあります。

人は大変な目にあうときはあいます。そして死ぬときは死にます。このことが自分の中で普通になると、心には安心感が広がります。心に安心感があれば、絶対大丈夫を求めなくなります。これは不思議なことです。しかし、このよき感覚はそれでよい、ということだと感じます。そういうものなのだ、という視点。これもまた持っているといい視点だと思います。

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